Exhibition 展覧会情報
金子泰久「Bitsa Maniac」

金子 泰久「 Bitsa Maniac 」
2014年4月15日(火)〜4月26日(土)
13:00〜19:00 日・月曜 休み


作家ステートメント

 細い路地の突き当たりに小さな一軒家が看板の微かな光に薄く照らされ、白く浮き上がっている。夜の路地は人影もなく静まり返っている。街灯は節電のため一本間隔で明かりが消されている。蛍光灯の丸い光が薄く足下を照らし、やがて光の輪郭がぼやけるとともに暗闇が現れる。歩みを進めると再びぼんやりとした光の輪郭が現れコンクリートの灰色が見えるようになる。タバコの吸い殻や落ち葉、多くの人に踏まれもとの姿を失った小さなタンボール箱、夕方まで降り続いた雨のせいか、コンクリートの灰色はくすみほとんど黒色をしている。等しい間隔で繰り返されるコンクリートのくすんだ黒色と暗闇がやがて混ざり合わさりお互いの判別が出来なくなる。看板の微かな光をたよりに歩みを進める。等間隔で並べられた街灯は小さな一軒家に辿り着く少し手前で最後の一本となる。その最後の街灯には光が灯っていない。電球を覆うガラスは埃に汚れ割れている。ガラスを装飾しているステンレスは幾何学模様に加工され洒落た風合いを醸し出しているが、既に本来の輝きを失っている。それらを支える木の柱にも幾何学模様が細かく彫り込まれているが、あまりに細か過ぎ神経症の人間にはかえって毒々しく、判然としない不安感を呼び起こす。その不穏な気配が細い路地全体を支配し、その気配から逃れようと歩みが自然と速くなる。近づくとその小さな一軒家には窓が無い事に気が付く。看板は不釣り合いに大きく乳白の板は裏側からの蛍光灯の光によって自身が白く発光しているようにも見える。白地に赤い文字で大きくホワイトハウスと書かれている。赤文字も半透明の素材で作られ、裏側の蛍光灯によって自身が発光している。ホワイトハウスが何を意味しているのかはわからない。看板の斜め右下に小さな蛇腹式の庇が見える。その庇の下に濃紺色の一枚板で仕上げられた扉がある。ドアノブはねじが緩み金属の部分が錆びに浸食されている。がたがたと音を立てながらドアノブを廻し扉を手前に引く。扉は外観から予想される程重くなく、すんなりと開く。しかし開いたすぐ眼の前に赤いカーテンが広がり行く手を阻んでいる。赤いカーテンの奥から音楽が聴こえてくる。カーテンは中央部分から左右に開くようになっている。合わせ目から微かに光が漏れる。真ん中に手を掛け、右半分を少し手前に開き、僅かな隙間から中を覗く。奥まったところにもうひとつ扉が見える。その扉の前にカウンターがあり、レジスターが配置されている。床部分はカーテンと同じ赤色の絨毯が敷いてあるのがわかる。レジスターの横に電気スタンドがありその小さな光がカーテンから次の扉までの狭い空間をほんのりと照らしている。電気スタンドのすぐ脇にガラス大きな灰皿が置かれ、火の着いた煙草の煙が天井に向かってまっすぐに伸びている。天井も赤い色で塗られ、細かい彫刻が施されている。彫刻の細かい凹凸に埃が溜まっているらしく、角の部分が白く、電気スタンドの光を反射している。薄明かりの小部屋はどことなく黴の匂いが感じられる。思い切ってカーテンを左右に大きく開き中へと足を踏み入れる。人の動きに合わせ、天井の埃が微かに舞い落ちる。電気スタンドの光を時折反射させながら埃はゆっくりと赤い絨毯を目指す。口と鼻を手で覆いながら足早に奥の扉を目指す。人の話し声が聞こえる。微かに煙草と食べ物の匂いがする。扉は引き戸になっていて中央左端に指をかけることの出来る窪みがある。窪みに指を掛け、ゆっくりと扉を開く。タバコと食べ物の匂いが体にまとわりつく。足下に階段が見える。階段に気が付かず足を踏み出せばそのまま下まで転がり落ちてしまう。そのアンバランスな構造に少し不安を抱きながらも、煙草と食べ物の匂いのする階下へと進む。階段を下りきると階上の天井まで繋がる大きな壁にぶつかる。右も同じように大きな壁に阻まれ左へと進む事しか出来ない。左へ折れると大勢の男たちがテーブルに向かい食事をしている姿が見える。いくつかの丸いテーブルが部屋中にいくつも点在し、それぞれのテーブルに男たちが幾つかのグループに分かれ、食事をしたり、酒を飲んだりしている。煙草を吸っている者も大勢おり、煙がもうもうと立ちこめ部屋中が白く霞んでいる。四方は壁に囲まれ窓は無い。出入り口もおそらくはここ一カ所だけであろう。窓が無い代わりに壁には絵画が飾り付けてある。そしていちばん奥まった壁にはその壁と同じ程の大きさの巨大な絵画が飾られている。その絵にはいくつかの島が描かれている。青い海の水平線が絵画の真ん中を左右に縦断して前から奥にそれぞれの島が重なり合いながら奥へいくほど島は小さくなり、輪郭もぼやけている。いちばん手前の島は港町や漁船、働く人々、学校、郵便局、車等々、山も木々の細かい枝までがはっきりと描かれている。いちばん奥の島は、島というよりは緑色の塊として扱われている。漁船も郵便局も学校も何も無い。島々より上半分は青く丁寧に塗り込まれ、さらに雲が白く細かく執拗に描き込まれている。雲のうねりは緑の島々と重なり、海の青と波の白に溶けている。その白に男たちの吸う煙草の煙が重なり部屋中が白く霞んでいる。男しかいないと思われた部屋に長い黒髪を後ろで束ねた給仕女の姿が見え隠れする。割烹着姿に白い前掛けをしている。男たちのほとんどは爪の先から鼻の頭まで薄汚れているが、割烹着の給仕女だけは身綺麗にしている。口数少なくそれぞれ勝って気ままにくつろいでいる男たちの合間をふわりと軽快な足取りで動きまわっている。声を掛けられると返事をする事も無く、ふわりと近づき用事と聞きつけ、また他所へと姿を消す。そして再びふわりと姿を現し用事を片付け姿を消す。男と眼を合わせるでも無く会話をする事も無く、用事だけを聞きつけ、片付ける。やがてバンドの演奏も一段落し、テーブルの上の食器の音と椅子を引く音と、たまに微かな会話の音が聴こえるだけになる。まだ部屋の入り口付近から奥に進めずにいる一人の男に向かって、部屋のいちばん奥の、大きな絵画の前のテーブルに座る男が大仰な身振りでこちらに来るようにと合図を送る。入り口の男はしばらくはその合図に気が付かずにいたが、やがて給仕女がふわりと近づき絵画の前の男の合図を知らせる。入り口の男は少し慌て、躊躇しながらもテーブルと薄汚れた男たちの間を突っかかりながら進む。
『無事にここまで辿り着けましたね』絵画の男は少し草臥れた表情を隠さず、やや目線を外しながらささやいた。そしてテーブルに置いてある小さな箱を入り口の男に渡そうとする。
『これは』入り口の男はためらいながら箱を見つめている。
『この箱を渡してほしいのです』絵画の男が入り口の男の眼を見つめながら箱を差し出す。小さな箱は白く塗られ、ゴムバンドでしっかりと括られている。そしてその表面には幾何学模様が細かく彫り込まれているが、あまりに細か過ぎ、神経症の人間にはかえって毒々しく、判然としない不安感を呼び起こす。
『誰に渡せば良いのですか』入り口の男は不安な表情のまま絵画の男を見つめる。
『島に行けば分かります』絵画の男はそう答える。
『島とは』入り口の男は繰り返す。幾何学模様が更なる強迫観念を呼び起こす。軽い目眩を感じながら入り口の男は箱を絵画の男に返そうと試みる。
『これは命令です』絵画の男は眼の前の巨大な絵画の中の港町を見ながら、そう言い放つ。しばらくの沈黙の後、絵画の男が椅子を少しずらす。その軋んだ音に入り口の男は我を取り戻す。
『しかし』
『これは命令です』絵画の男が繰り返し言い放つ。
『しかし』 唐突にバンドの演奏が始まり、絵画の男が腰を浮かす。
『島に行けば分かります』絵画の男は再びそう語りかけるが、バンドの演奏に声はかき消され入り口の男には届かない。絵画の男は完全に立ち上がり、箱を見つめながら、何かをささやく。しかし全てはバンドの演奏によってかき消される。
細い路地の突き当たりに小さな一軒家が看板の微かな光に薄く照らされ、白く浮き上がっている。夜の路地は人影もなく静まり返っている。街灯は節電のため一本間隔で明かりが消されている。蛍光灯の丸い光が薄く足下を照らし、やがて光の輪郭がぼやけるとともに暗闇が現れる。歩みを進めると再びぼんやりとした光の輪郭が現れコンクリートの灰色が見えるようになる。タバコの吸い殻や落ち葉、多くの人に踏まれもとの姿を失った小さなタンボール箱、夕方まで降り続いた雨のせいか、コンクリートの灰色はくすみほとんど黒色をしている。等しい間隔で繰り返されるコンクリートのくすんだ黒色と暗闇がやがて混ざり合わさりお互いの判別が出来なくなる。もうすぐ夜が明ける。雨が再び降り始める。細密な幾何学模様の彫り込まれた小さな箱を小脇に抱えながら歩みを進める。突き当たりの小さな一軒家の看板には渡し船の文字が大きく書かれている。夜が明ければ船が出るであろう。疲れ切った体を少し休ませたい。絵画の男はいつのまにか姿を消し、手元に白い箱が残る。命令の言葉が頭から離れない。島に行けば分かる。あと少しで夜が終わり、朝になる。白い箱を小脇に抱えながら歩みを進める。看板の斜め右下に小さな蛇腹式の庇が見える。その庇の下に濃紺色の一枚板で仕上げられた扉がある。ドアノブはねじが緩み金属の部分が錆びに浸食されている。がたがたと音を立てながらドアノブを廻し扉を手前に引く。扉は外観から予想される程重くなく、すんなりと開く。しかし開いたすぐ眼の前に赤いカーテンが広がり行く手を阻んでいる。カーテンは中央部分から左右に開くようになっている。合わせ目から微かに光が漏れる。真ん中に手を掛け、右半分を少し手前に開き、僅かな隙間から中を覗く。奥まったところにもうひとつ扉が見える。その扉の前にカウンターがあり、レジスターが配置されている。床部分はカーテンと同じ赤色の絨毯が敷いてあるのがわかる。レジスターの横に電気スタンドがありその小さな光がカーテンから次の扉までの狭い空間をほんのりと照らしている。電気スタンドのすぐ脇にガラス大きな灰皿が置かれ火の着いた煙草が置き忘れられ、煙が天井に向かってまっすぐに伸びている。天井も赤い色で塗られ、細かい彫刻が施されている。彫刻の細かい凹凸に埃が溜まっているらしく、角の部分が白く、電気スタンドの光を反射している。薄明かりの小部屋はどことなく黴の匂いが感じられる。思い切ってカーテンを左右に大きく開き中へと足を踏み入れる。足下に階段が見える。階段に気が付かず足を踏み出せばそのまま下まで転がり落ちてしまう。そのアンバランスな構造に少し不安を抱きながらも、ゆっくりと階段を下りる。少し先に絵画の男の背中が見える。小走りに追いつき、大きく右手を振り上げ絵画の男の背中を押す。無防備なまま背中を押された絵画の男はバランスを崩し両手を大きく広げ必死に宙をつかむ。斜めに体をひねりなんとか持ちこたえようとするが、やがて前のめりになり頭から階段を落ちる。しかし幾何学模様の白い箱は相変わらず、入り口の男の手元に残る。ゆっくりと階段を下りながら、船着き場を探す。船着き場から一本道を山に向かって歩き始める。灰色に覆われていた空がだんだんと明るくなる。細い一本道は昨晩の雨で所々ぬかるんでいる。足下の悪い中、白い箱を小脇に抱え日差しが徐々に強くなってきている事に気が付く。睡眠不足の体は疲労感に苛まされる。道は海岸沿いに山へと続く。右手に断崖絶壁を見下ろしながら、疲労に悩まされる頭は時折絶壁の下に吸い込まれそうになる。白い波と打ち返す大きな音の繰り返しが付かず離れず追いかけてくる。向かいのテーブルからこちらに酒が廻ってくる。給仕女がふわりと酒を差し出す。そのとき、昨日から私の姉さんが家に戻らないの、耳元でそう囁く。今まで一度だって無断で外泊をした事は無かったわ。どうしたのかしら。島では評判の良い娘である。しかし昨日の朝から誰も娘の姿を見た者はいない。彼女は毎朝、夜が明ける少し前に、飼っているヤギを連れて海岸沿いに散歩に出掛ける。海岸から少し山に近い緑の多いところでヤギを放し、ヤギが草を食べている間に海岸まで戻り、海に潜り魚や貝を採ってくる。その日食べる分が確保できると、海から上がりヤギを連れて家に帰る。この散歩を長い間続けている。彼女の母親の話では、朝、夜の明ける少し前にヤギを連れて出掛けたが、昼頃に戻ってきたのはヤギだけであった、ということである。白い箱を持ったまましばらく海岸沿いに歩いてはいたが、君の姉さんのような人には出会わなかった。そう伝える。嘘は言っていないはずである。船を降りた後、夜明け前の一本道を歩く。海岸線に沿いながら山に向かって歩き続ける。まだ暗いうちにヤギの姿を見かけた覚えはある。しかし君の姉さんはいなかった。給仕女に再びそう伝える。私は嘘を言っていない。とにかく今は白い箱を誰に渡せば良いのか、その事を解決する事が先決である。白い箱を小脇に抱え日差しがさらに強くなってきている事に気が付く。睡眠不足の体は疲労感に苛まされる。道は海岸沿いに山へと続く。右手に断崖絶壁を見下ろしながら、疲労に悩まされる頭は時折絶壁の下に吸い込まれそうになる。白い波と打ち返す大きな音の繰り返しが付かず離れず追いかけてくる。途中の村で少し休もう。このまま歩き続けても娘を捜し出す事はできない。まずは疲れ切った体を少し休ませなければならない。白い箱を持ったまま、村へと歩みを進める。蛇腹の大きな庇の向こうに一枚板の立派な扉がある。表面には彫刻が施され大小さまざまな菱形の紋様が彫り込まれている。村はずれに住む、呪術の才もある老婆から教わった魔除けの紋様で、この扉がこの家に来てからこのかた、一度の不幸も無いという曰く付きの紋様である。呪術を得意とするこの老婆は自分の身長程もある大きな鉈を大きく振り下ろし、庭に植えられた大小様々な木の幹をふたつに伐り倒していく。そしてその切り口から娘の行方を占う。しかしどの切り口からも特異な紋様は見つからず、老婆にも娘の行方は分からないという。
『ひょっとすると、あの娘は私の呪術の影響がとどかないどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない』老婆はそうつぶやく。白い箱を持ったまま暫くはぼんやりとしていたが、
『出来る事ならば、もう一度やってもらえないだろうか』
『何度試しても同じ事』誰に言うでも無く、小さくつぶやくとそのまま鉈を振りかざしながら木々をふたつに伐っていく。
『やはりだめじゃ』そう言い捨てると老婆は庭から離れ扉の中に消える。海岸線に沿いながら歩き続け、考えを巡らしていると遠くにちらりと動く人影が見える。夜の明け切らない薄明かりの中、人影が遠くを横切る。駄目だ、そのまま真っ直ぐに進むと絶壁から海へと転落してしまう。あの人影が娘だったのかもしれない。しかしその人影はヤギを連れてはいない。もうすぐ夜が明ける。再び雨が降り出す。何処かで雨宿りをしなければ。路地を見つけるため村に向かって歩みを早める。昨日からの睡眠不足のせいか、足下がふらつく。無防備な状態で背中を強い力で押される。上半身のバランスが崩れる。両手を大きく広げ、なんとか階段に留まろうとするが、既に頭は階下に向けて落下を始めている。頭、腕、背中、腰、あらゆるところをあらゆるところにぶつけながら、次の踊り場までごろごろと落ち続ける。しかし白い箱だけは手から離さない。鼻柱を強く打ち付け眼の前が真っ白になる。
赤いカーテンに囲まれ周りの様子は分からない。白い鉄のパイプがすぐ眼の前に見え、ベッドに横たわっている事は分かる。鉄製の堅いスプリングの上にマットレスが敷かれている。敷き布団も長く使い込んであるらしく、湿気を含み汚れている。頭の下には枕が置かれているが、その枕はスプリングと同じように堅く、不潔な匂いを発している。ぼってりとした厚手のカーテンがベッドの四方を囲みその厚みが外からの光を遮断している。天井が見える。あまり高くはない。天井もカーテンと同じ赤い色で塗られ、細かい彫刻が施されている。彫刻の細かい凹凸に埃が溜まっているらしく、角の部分が白く、枕元の電気スタンドの光を反射している。夜は明けたのか。まだ朝にならないのか。小脇に抱えたままの白い小さな箱を枕の下に隠しながら身を起こす。カーテンは中央部分から左右に開くようになっている。合わせ目から微かに光が漏れる。真ん中に手を掛け、右半分を少し手前に開き、僅かな隙間から中を覗く。奥まったところにもうひとつ扉が見える。その扉の前にカウンターがあり、レジスターが配置されている。床部分はカーテンと同じ赤色の絨毯が敷いてあるのがわかる。レジスターの横に電気スタンドがありその小さな光がカーテンから次の扉までの狭い空間をほんのりと照らしている。電気スタンドのすぐ脇にガラスの大きな灰皿が置かれ、火の着いた煙草の煙が天井に向かってまっすぐに伸びている。壁には窓が見える。正方形の窓枠の中にさらに木枠で区切られた小さな正方形が四個。その小さな正方形の中にさらに四個の正方形が見える。この繰り返しは小さな正方形が木の点になるまで続いている。幾重にも続く正方形はガラスで作られ、外の様子が歪んで見える。窓は横一列に壁の端から端へと並んでいる。外はまだ闇に包まれている。遠くから波が絶壁に打ち付ける音が聴こえる。同じ間隔で波が打ち付けられ、崩れ落ちる音が響く。繰り返し繰り返し波の崩れる音が響く。ぬかるんだ足下に注意を払いながら、ヤギを連れた娘の後を追う。娘は時折不安そうに後ろを振り返るが、その度に見つからないように姿勢を低くし、姿を隠す。娘がヤギを山裾に放し海に戻る時が最後の機会である。あの白い箱の事は娘に尋ねてみると良い、老婆は切り口の紋様を見ながらそうつぶやく。ただし誰にもその様子を知られてはならない。朝が明けるまでの僅かな時間の闇の中で娘に尋ねると良い。その姿は誰にも知られてはならない。老婆はもう一度念を押す。ふいに娘の肩を掴む。驚きに見開かれた娘の瞳を覗き込みながら、この白い小さな箱は誰に渡せば良いのか、尋ねる。暫くの沈黙の後、娘が口を開く。綺麗に整った、小さな白い歯が見える。
『わからないわ』小さな白い歯が答える。恐怖でカチカチと音を立てている。
『老婆が君に聞けと』
『私は知らないわ』暗闇の中で白い歯が光る。カチカチ音を立てる。
『本当に知らないのかい』嘘を言っている。そう確信する。この娘は嘘を言っている。本当は知っている。もう一度尋ねる。
『この箱は誰に渡せば良いのか』
『知らないわ』娘は踵を返し、入り口の男に背中を向け歩き始める。暫くその後ろ姿を眺めているが、おもむろに大きく腕を伸ばし、手のひらで背中を強く押す。全身が前に大きく傾く。両腕で何かを掴むように宙を大きく掻きむしる。斜めに体をひねりなんとか持ちこたえようとするが、やがて前のめりになり頭から階段を落ちる。絵画の男は全身を強く打ち、そのまま息絶える。箱を誰に渡せば良いのか。
『ちょっと待ってくれ』娘の背中に声をかけるが、その声は波の音にかき消されてしまう。しかし今度はそれほど強く押さなくても大丈夫である。華奢な娘の身体は軽く、指先で静かに押すだけでバランスを崩す。全身が前に傾く。両腕で何かを掴むように宙を大きく掻きむしる。斜めに体をひねりなんとか持ちこたえようとするが、やがて前のめりになり頭から転がり落ちる。嘘を言っている。そう確信する。この娘は嘘を言っている。本当は知っている。確信は怒りに変わる。指先で静かに背中を押す。波の音が娘の声をかき消す。あたりは静まり返る。規則正しく繰り返される波の音だけが残る。灰色に覆われていた空がだんだんと明るくなる。細い一本道は昨晩の雨で所々ぬかるんでいる。足下の悪い中、白い箱を小脇に抱え日差しが徐々に強くなってきている事に気が付く。睡眠不足の体は疲労感に苛まされる。道は海岸沿いに山へと続く。山からの道と海からの道が重なり合うところで待ち合わせの約束をしている。海から山へ向かっているが、まだ山からの道には出会わない。道は正しいのか。そして待ち合わせの相手は誰なのか。何も知らされないまま船に乗り島に渡る。夜明け前の少しの時間、ベッドに横になり身体を休めるが疲れはとれていない。残金もあと僅かである。このまま約束の男と出会えず、仕事を得る事が出来なければ、全てを諦めるしかない。さっきまで軽かった白い箱がやけに重たい。道は一本しかないのだから間違えようがない。日差しに目眩を起こしながらも、山へ向かう。泥濘から立ち上がる湿気が空気を重くする。太陽が強い。日差しが肌を焼く。汗が体中から溢れる。木陰を探すが見つからない。重さを感じるようになった小さな白い箱を抱え、歩き続ける。地面の砂を見つめる。何処まで歩いても砂から逃れる事は出来ない。地面が砂で覆われている。残金もあと僅かである。このまま約束の男と出会えず、仕事を得る事が出来なければ、全てを諦めるしかない。睡眠不足の体は疲労感に苛まされる。あの絵の島は何処にあるのか。絵には港町が、働く人々が、郵便局が、学校が、描かれている。しかしここに見えるものは砂だけである。足が砂に取られる。一歩を踏み出すとぐずぐずと砂に埋まる。重い足取りのまま山を目指す。行く先に何かが見える。砂に埋まりかけている。人が倒れているようである。微動だにしない。近づき、様子を窺う。長い時間そこにうつ伏せているのか、身体の半分が砂に埋まっている。呼吸はしていない。絵画の男である。階段からもんどり打って転げ落ち、そのまま此処で息絶えたのであろう。額がぱっくり割れている。山にはまだたどり着かないがこのまま放っておく事も出来ない。白い箱を使って、墓を掘る。掘り続けるが、掘った先から穴が砂で埋まる。砂漠に穴を掘る事などできない。砂を掻きだす。しかしすぐに埋まる。それを幾度も幾度も繰り返す。砂漠に穴を掘る事などできない。
『おじさん、何をしているの』ヤギを連れた娘が声をかけてくる。
『わからない』
『でも、おばあさんが言っていたわ。おじさんに尋ねなさいと』
『そうかい、でもわからないんだ』
『嘘よ、おじさんは嘘を言っているわ』
おもむろに娘は強い力で背中を押す。突然の事に不意をつかれバランスを失う。掴むものを探して宙を掻きむしるが徒労に終わる。頭から踊り場に向かって落ちる。体中をあちこちに叩き付けられながら、大きく跳ね上がる。腕がちぎれ、腰が砕け、足が折れる。額を踊り場に強く打ち付け気を失う。
 部屋の入り口付近から奥に進めずにいる一人の男に向かって、部屋のいちばん奥の、大きな絵画の前のテーブルに座る男が大仰な身振りでこちらに来るようにと合図を送る。入り口の男はしばらくその合図に気が付かずにいたが、やがて給仕女がふわりと近づき絵画の前の男の合図を知らせる。入り口の男は少し慌て、躊躇しながらもテーブルと薄汚れた男たちの間を突っかかりながら進む。
『約束の時間にはまだ早い』絵画の男は鞄の中から書類を出しながらそう呟く。
『申し訳ありません。遅刻をするのが怖かったものですから』入り口の男は言い訳を口にする。
『なに、かまわないさ。仕事の内容については、ここに書いてある。身だしなみと言葉使いにだけは充分気をつけるように。どんなに理不尽な要求をされても決して怒らないこと。たいがいの客はおとなしく帰っていくが、ごく稀におかしな客がいる事も事実だ。馬鹿げた理屈でこちらをやり込めようとするが、所詮はたかが知れた金額の問題だ。ひたすら頭を下げて、謝り通すしかない。分かったね。クレームが上までいくとこちらも困ったことになるのだから、騒ぎは起こさないように。あと、勤務は二十四時間拘束になる。シャワーもベッドも全て用意してあるから、自由に使うと良いよ。朝出勤して翌朝帰る。つまりは、食って寝て帰る。簡単な事さ』
割れた額から血を流しながら、ぼんやりと絵画の男の言葉を聞いている。意識が薄れる。二十四時間勤務、その言葉が気にかかる。山にはまだたどり着けない。砂漠に墓も掘れていない。もっとも砂漠に墓を掘ることは不可能であろう。白い箱を渡す事も出来ていない。娘の姉の行方も分からない。私は一体何をしていたのであろうか。割れた額から血を流しながら、ぼんやりと意識が遠くなっていくのを感じる。せめて、墓だけでも完成させなければ。


 24時間勤務の明けに、彼らのためにもうひとつの世界の扉を開く。それは全人類の父親のための実り豊かな至福の瞬間である。ウォッカのボトルを頭に突き刺し、ハンマーで殴打する。チェスボードのマスは64ある。24時間勤務の明けに、チェスボードのマスに硬貨を置いていかなければならない。全人類のために。世界の平和のために。我々は新たな使命を授かり、きらきらと光り輝く硬貨を探し求める。チェスボードのマスは64ある。24時間勤務の明けに硬貨を並べる。至福は訪れない。ハンマーを握りしめ、叩き潰す感触が手のひらから離れない。墓を掘らなければならないのだが、月明かりではどこを歩いているのかさえ判然としない。月明かりでは役に立たない。ウオッカのボトルを頭に突き刺し、ハンマーを握る。暗闇の中、ハンマーで地面を叩き続ける。長い時間我を忘れ、叩き続ける。やがて穴が深くなり、水が溢れ出す。掘り出した土が水に流され穴が埋まる。水を搔き出し土が水に流され穴が埋まる。水を搔き出し水を搔き出し土が水に流され穴が埋まる。水を搔き出し水を搔き出し土が水に流され穴が埋まる。そして世界の扉を開く。至福は訪れない。夜が明けるまでに墓を掘らなくてはならない。全人類のために。世界の平和のために。
2014年4月15日 金子泰久

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