Exhibition 展覧会情報
片山菜緒子×小山千佳久「2つのソルフェージュ」

片山菜緒子×小山千佳「 2つのソルフェージュ 」
2015年3月3日(火) 〜 3月14日(土) 
13:00〜19:00 日・月曜 休み

作家ステートメント

無数の今日が頭の片隅で整列する。
今日をつかまえては、引き出しに突っ込み、寝ることにする。
寝て起きて今日が来て、寝て起きて今日が来て、何度も同じ今日を過ごしては、
何度も同じ失敗を繰り返す。
仕舞ったはずの今日たちは、どこか遠くへ行ってしまった。
朝起きると、また今日がやって来て、玄関のチャイムを鳴らす。
片山菜緒子

目と頭の大きい男の子は笑顔で近づいてきて、女の子はソファに隠れて少し吊り上った目でこちらを見ている。二人は兄妹だ。小さな世界で飛び回る彼らについてひたすらシャッターを切る。
二人を撮ればとるほど記憶の中のものとはずれていて、何かがすべり落ちていく。そしてその断片を掬いあげるようにまたシャッターを押す。
小山千佳


『Infinity Loop Error System』 金村修

写真は細部に宿るだろう。片山菜緒子のセレクトせずに時系列に並べた二千枚を超える大量の写真群は、日々の食べ物と地方の山の片隅に生えた苔のクローズアップに、久々に再会した田舎の家族との食事風景等々が脈絡もなく洪水のように現れる。実家の食卓の上に並ぶ秋刀魚に、すき焼き、唐揚げ、カレー等々の食べ物の写真と、猫や苔の写真が展示された壁面の中で等価的な関係を結び、フレームを超えて融合し合う家族と苔と食べ物という種別も所属する社会的階層も全く違う被写体達のあいだで、等価的で融合的な関係が何故成立するのだろうか。
片山は写真を大量に発表することで、写したモノから名前を奪う。モノと名前の繋がりは消去され、写された被写体は所属先を失い、猫と人間と食べ物は等価であるという、通常の社会的秩序は強制的に平等化され、かつて彼らが所属していた共同体や階級への回帰は棄却される。現実との関係が不明瞭になったこの写真に写された被写体の群れは、写真で日常を撮ることは、日常から日常を成立させている上位概念を揺さぶり続けることであり、有機的な日常の秩序を、無機的で脈絡の無い紊乱の文脈に転化させるだろう。
二千枚を超える写真の群れの中に、価値や捨象選択を決定する審級の座が放棄される。手ぶれやピンぼけで、露出アンダーやオーバーになった大量の手札サイズの同時プリントの色調が、特別な一枚を選択するという、選択の特権性を退け、写した被写体達に対して過剰なぐらいに平等を強要する。けばけばしい色彩を表象するこれらの写真から何故かフラットな印象を受けるのは、その行き過ぎた平等性のためだ。その平等性は平準化、標準化を志向する均等な平等性なのではなく、写真が本質的に持つあらゆる被写体を平等化する抑圧性の現れであり、平等性の過剰な要請が、写真の標準化を強制的に棄却させるだろう。抑圧され、強制された平等が被写体の固有名の断片化、分割化の促進を要請する。これらの写真は意味を誘発しない。意味の同定化が標準化の前提なら、断片化されることで同定化が破砕され、彼女の写真はいわゆる標準化からかけ離れていく。片山の写真は、意味の同定化に誘うのではなく、見ている人間をばらばらになった意味の、より細部に近づかせようとする誘惑に満ちた写真なのだ。苔とすき焼きと猫は、現実に存在した個別的存在ではなく、意味の輪郭を溶解した細部として、全体の構成部分を廃棄した何にも繋がらない細部として現れる。
茶碗やパンや日々の食事が、執拗に撮られることで、それが何か意味を主張するシンボルに転化されるのではない。むしろシンボルとして機能しないように、何度も丁重に、執拗に撮り続けられる。それは一体何のために撮り続けるのだろうか。片山の写真は何のためという、ためが放棄され、何を撮るというよりも、撮るという動詞が被写体や作者よりも先行する。わたしは何かを撮るという具体性よりも、ただ撮るという、わたしという主語と撮るという述語の、主語と述語の関係を転倒させる。片山の写真は、撮影者が主語なのではなく、撮るという行為が主語として浮上するのだ。被写体を撮るのではなく、被写体を撮ることを撮る。被写体という客観的な存在よりも、撮るという動詞が先行的に存在する。撮ることで初めて主体と被写体が発見される。写真は被写体の意味に宿るのではなく、ウィノグランドが“写真を撮るように写真を撮る”と言ったように、主語の欠落した撮影の中に宿る。“わたしが写真を撮るようにわたしが撮る”のではなく、“わたし”が捨象され、“わたし”が主語の位置から追放されたまま、“わたし”が不在のうちに“写真を撮るように撮る、ように写真を撮る、ように写真を撮る、ように‥”という無限の連鎖に、わたしのいない(わたしが不在であることによって、それは閉じられた袋小路ではなく、開かれた)反復され続ける回路に写真は宿るだろう。
世界はすでに写真化されている。すでに撮られてしまったものばかりであり、世界は写真に埋め尽くされている。写真を撮るということは新しい発見ではなく、“写真を撮るように撮るという”、つねに再撮影でしかなく、片山にとって撮影は徒労の反復であり、徒労を肯定するところから始まる。原将人は『初国知所之天皇』で世界はすでに映画なのだと語り、ジャズ・トランぺッターの近藤等則は、音はすでに空中に充満していると語ったように、写真は近藤等則の言うように空中に充満しており、原将人の言うようにすでに世界は写真なのだ。壁面を写真で埋め尽くす片山のインスタレーションは、『初国知所之天皇』の“通り過ぎて行く街の粘着力によって私の視野は広がり、まるで360度超ワイドの大スペクタルを見ているようであった。まるで映画見ているようだ”のように世界はすでに写真であることを証明する。
世界がすでに写真であるということは、世界をわたしの内側に内面化させることの不可能性の証しであり、世界の風景は写真を見るようによそよそしい。それは肉眼で風景と無媒介に繋がることの棄却であり、風景とわたしの間には写真という不透明な物質が媒介している。写真は肉眼に所有された風景を強制的に外部化するだろう。どんな風景を見ても映画を見ているような、世界のすべてが映画であるという、映画の煉獄を肯定することから原将人が始めたように、片山の写真もまた、写す前から世界は写真だったことを肯定する。世界がすでに写真であるのに一体何故そこから数枚のものしか選ばなくてはいけないのか。撮影した写真から一枚の傑作を選ぶという選択の判断基準は、“写真を撮るように撮る”片山の世界で成り立つのだろうか。わたし達は写真に囲まれている。面白くもなければつまらなくもない写真に包囲されている。写真に囲まれたわたしは、写真をわたしの中に内面化することは決してできず、写真はつねに外部としてしか存在しない。写真は外部そのものだ。二千枚以上の写真が展示されることで露になる写真の外部性が内面に回収されることも没入することも拒む。見るのではなく、その場に立ち尽くすことだけがわたし達に要求される。片山菜緒子の写真は煉獄の肯定であり、何も面白くない日常の荒野で、どんな風景とも友好な関係を結ばずに、撮り続ける彼女の態度の表われなのだ。

被写体の兄妹が醸し出す雰囲気に、物語が発動しそうになる。小山千佳の写真は、観客の欲望で物語が発動しそうになるその瞬間に、写真の細部が物語の誘発を挫折させるだろう。小山の撮る写真に現れる大量の毳立つ細部が、安易な物語的読解を拒絶するのだ。子供がサングラスをかけている微笑ましい姿や、譜面を横目に一生懸命ピアノを弾く姿に、葬式でふざけ合っている兄妹の記念写真。小山の写真にとって日常は奇蹟の連続であり、奇蹟のような瞬間が何度も撮影されることで、写真が本質的に抱えている物質的な死を露呈させる。奇蹟とは再現不可能な生の瞬間的な高揚であり、それを写真に定着することは、再現不可能な奇蹟を何度も再現可能な存在に転化し、そのことで瞬間の奇蹟を、反復可能な腐らない死体に変質させるのだ。写真は被写体をゾンビ化し、ゾンビのような死を画面の中に定着し、物質化するだろう。被写体は印画紙に定着されたことで、二度とそこから消えることができないという消滅の権利を取り上げられる。生まれて死んで消えていくという人間の自然のプロセスが写真によって無理矢理に捩じ曲げられる。印画紙に像を定着させることは、被写体に永遠の生命を与えるのではなく、消えるべき権利を持った被写体からその権利を奪い、彼らを幽霊のようにこの世界に留まり続けることを強要するだろう。
小山にとって写真を撮ることは再現できないたった一度の瞬間を印画紙に奇跡的に定着化させることであり、そのような撮影の奇蹟に対して写真の物質性は、印画紙に定着されたことで、瞬間の奇蹟を思い出という内面化された過去に捏造するのではなく、手に届くことのない過去、物質としての過去、絶対的な外部の他者=死としての完全な過去に転化し、それは生の奇跡的瞬間を死の領域に追放する。写真は生きているものをいきなり過去形の存在に転化させる。ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』は、どんちゃん騒ぎの卒業パーティーが終わった高校生達、一人一人の名前が字幕に登場して、その後ベトナム戦争で戦死した日付が名前と共に画面に流れる。この反物質的で、メロドラマ的な人間の死をジョージ・ルーカスがフィルムという物質に要請したことに対して、そのメロドラマ的なラストにビーチ・ボーイズの“君のブラウスをコークでビシャビシャにしたね”、“僕らの夏は終わらない”と曲かかる。ビーチ・ボーイズの永遠に生きるかのような楽天的な、人間の生命を超えた終わりを知らない生の讃歌は、ほとんどゾンビの生と同じものであり、メロドラマ的なルーカスの終わりに対して、ビーチ・ボーイズの終わらない夏は、終わらない死というフィルムの物質性と通底する。フィルムの物質性はつねに反復可能な死を欲求するだろう。彼らを死の姿に変えるフィルムの反復性は、そこで終わりを与えるのではなく、被写体に何度も“僕らの夏は終わらない”ような、いつまでも反復される死を与える。
カメラは現在を瞬間的に過去に送り込む。それは被写体を時間の際に追い込む装置であり、小山の写真は、写真が後戻りのできない時間の崖っ縁につねに立たされ続けていることを喚起させる。そこに未来は無く、過去も思い出として捏造できる操作可能な領域の過去ではなく、現在がつねに強制的に過去形にされて死の領域へ自動的に送り込まれるベルトコンベア工場としての写真であり、そのことが小山の写真に後戻りできない感覚を与える。
後戻りができないという時間の不可逆性が、戻りたいというノスタルジアな感情を要請する。ノスタルジアを要請する感情は、時間の崖っ縁の、その先端に立てば立つ程、その欲求が強く喚起されるだろう。断片化された写真の細部から、失った全体=意味を希求するノスタルジアが、全体=意味を希求すればするほど、全体=意味が更に断片化、細分化される。細部から全体=意味を読み取ろうとするノスタルジアの運動は、過去の細部の記憶を執拗に喚起させようとすることで、更に細部に拘泥し、細部は細部を呼び起こし、細部の無限の細分化を要請するだろう。小山の写真がセレクションをせずに大量に展示されるのは、写真はつねに現在をリアルタイムに写せない、つねに取りこぼし続けることの肯定であり、細部にこだわることでノスタルジアがそうであるように、更に細部を提出しなければいけないという強迫観念が写真を大量に産出させる。細部に拘るノスタルジアは更に対象を細分化することで、対象から意味を剥奪する。細部への拘泥は、被写体をゴミ捨て場に捨てられた意味の無い、今では何の役に立っていたのか分からない廃品のような機械の残骸に変化させるだろう。小山にとってノスタルジアは世界をそのまま愛するのではなく、残骸のように愛するのだ。 断片化された小山の写真はあらゆる欲望を無造作に放置する。午腸茂雄のように小児性愛的に読解することも可能であり、ある兄妹のドキュメンタリーとして解読することも可能だろう。物質化された写真は、あらゆる解釈を許容するだろうし、けれどどんな解釈もこの細部の集積の前ではジャンクな言説にならざるをえない。おかっぱの女の子がバービー人形と遊ぶ姿を、小山の写真はバービー人形と生身の女の子を等価的な存在のように変質させる。バービー人形と女の子が等価的な関係として現れる彼女の写真は、たんに可愛いという小児愛的欲望を超えるだろう。それはエロスを排除した人間の物質化であり、眼鏡をかけた男の子の放心したような表情と、つるりとした肌の質感はまるでプラスチックでできた玩具の表面を想起させる。これは人間のエロスなのではなく、物質のエロスなのだ。フェテッシュな欲望すら喚起させる彼女の写真を見ていると、フェテシズムは対象を解体するというある暴力の中でしか存在しない。フェテシズムは意味を追放する。小山の写真のフェテシズムは対象への愛や所有欲ではなく、または断片化することで架空の全体化されたヴィジョンを勝手につくりあげ、幻視することでもなく、プラスチックでコーティングされたカラーペーパーに被写体が同化していくことであり、ぺらぺらで奥行きを欠いた人間もどきが魅力的に見える不穏な事態を肯定することなのだ。
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