Exhibition 展覧会情報
森谷雅人「KAWASAKI」
森谷雅人「KAWASAKI」


石井保子「KAWAGOE」
石井保子「KAWAGOE」


金村修ワークショップ企画展「Repeat After Me vol.03」
森谷 雅人 × 石井 保子「 KAWASAKI / KAWAGOE 」
2015年4月14日(火) 〜 4月25日(土) 
13:00〜19:00 日・月曜 休み

金村修ワークショッップ企画展に寄せて/金村修

森谷雅人の撮る川崎は、“川崎”、“工業地帯”という地名や場所名が想起させる公害や汚染や騒音という一般的なイメージから逸脱し、それはまるでアジェのパリの写真を想起させるような静寂が森谷の写真の全体を支配する。この静寂は川崎の街の雰囲気を再現したのでも、川崎を美しく撮ろうというのでもなく、川崎は森谷に撮られることで現実の細部が人間の手から写真の側に回収され、人間の手垢がついた物質的細部が写真的物質で転化されることで現れる静寂なのだ。アジェの写真が犯罪現場=痕跡であると言われたように、写真は画面から人間を追放し、すべてを痕跡化するだろう。写真は実在の人間を排除する。森谷の写真の静寂は、画面からすべての人間を追放するという写真の非人間的な本質に忠実に従った結果としての静寂なのだ。
テーマや動機があって森谷は川崎を撮っているのではない。川崎の工業地帯に露呈する資本と労働の諸矛盾を写すというドキュメンタリー的な使命感があるのでもない。それはアジェのように徹頭徹尾、無目的で何の動機もテーマも存在しない。資本の洪水に飲み込まれる直前のベルエポックなパリの姿を写真の中に永久に保存することを目的としたのではなく、ただ撮っているとしか言いようのないアジェの無目的さと通底している森谷の写真は、目的や説明という理解するための装置を放棄しているのであり、そこでは写真は何かの手段というよりも写真それ自身が問題になるだろう。
写真は印画紙の中にも、フィルムの中にも存在するわけではない。写真はどこという具体的な領域に存在するものではなく、印画紙や被写体やフィルムとの関係の隙間に、またはその裏側に見えないものとして存在する。それはだから実在しない存在であり、定義もできない、実在もしない幽霊のようなもののために、あらゆる現実の細部がその幽霊のために存在するようになる。写真のために川崎があり、作者も含めてすべての要素を写真のために奉仕することをこの幽霊は要求する。意味も無く、目的も無く撮るということは、写真の非実在的な幽霊性を肯定することであり、意味や目的を設定することは写真を実在として存在させてしまい、写真の幽霊性を消去してしまう。理解や定義は非実在の実在化につながるなら、無意味にただ写真のためにだけ撮ることだけが写真の幽霊性を見えない形で具現化させるだろう。森谷の写真は川崎の忠実な再現ではなく、降霊術であり、幽霊の痕跡化、物質化なのだ。
実在しない写真に向けて写真を撮る森谷は、川崎という実体のあるものを写真という非実在的なものに還元させる。森谷の写真の静寂は実在が非実在的なものに移行するときに発生する静寂であり、彼の写真の特徴としての無駄の無いフォルマチックな美しさは、ノイズ的要素を排除し、美的に洗練される抽象的な美しさなのではなく、実体的な対象物にこびり付く人間的な要素が追放された後の、フォルムに解体された世界の静寂であり、人間の実体物が破棄され、すべてが写真化されたときの美しさなのだ。
ホワイトノイズをずうっと聴いていると、あるとき突然に静寂を感じるときがあるように、現実物を写真に転化することは、対象を抽象的に洗練させることで静寂を獲得するのではなく、ホワイトノイズのようにあらゆる周波数がアットランダムに溢れ出すことを肯定することで静寂が生まれる。無秩序に溢れ出す周波数を、楽音を構成する音階に回収するのではなく、無秩序なまま溢れ出させることでそれは突然静寂を喚起させる。森谷の写真もまた画面の中にバランス良く対象物を配置するのではなく、無秩序なまま画面の中に放置することで、静寂を発生させるだろう。静寂はあらゆる音が停止した状態なのではなく、すべての音が階層を無視して勝手に主張し始めるところから生まれる非実在的で聴こえないものなのだ。静寂はだからそこにあるのではなく、ノイズの中から聴き取ろうという能動的な意志によってその姿を現わすだろう。ジョン・ケージの『4,33』は音がすべて停止した状態の静かさではなく、その初演のレコードでは観客の怒声や、空調機のドローンのような音が会場の中で鳴り響き、決して音が停止している状態ではなかった。静寂はその鳴り止まないノイズの中から聴き取ろうとすることで現れる非実体的な存在であり、ジョン・ケージにとって静寂は実在ではなく非実体的な存在なのだ。静寂はだから無音ではなく、非実体として存在する聴こえない音であり、見えないにもかかわらずそこに存在するという非実在を本質とする写真と共通するだろう。写真によって非実在化された川崎が催し出す、どこにも存在しない静寂が森谷の写真の中に現れる。
汚い現実や悲惨な現実といった、“汚い”や“悲惨”という形容詞を写真は排除する。“汚い”や“悲惨”という価値区分の操作を無効にするのが写真であり、だからといってありのままの現実をそのまま表出するのでもない。写真は形容詞によって区別される美的区分にも、生の現実を再現しようとするドキュメンタリー的意識にも奉仕しないだろう。そんな何の役にも立たない写真には、無目的にただ目の前の光景を撮ることしかできないのかもしれない。
公害や労働争議や差別問題という資本主義社会の持つ様々な矛盾点がリアルに剥き出しにされる川崎という土地の歴史を写真は消去する。写真を撮るということは、現実の対象や、その歴史や記憶に対して抹消線を引くことだ。写真は世界から人間を追放する。人間的要素をすべて追放してしまう写真は、ヒューマニズムの立場から見ればそれは“善”やモラルの側ではなく、“悪”の領域に存在するのだ。写真は人間のモラルと必然的に対立してしまう。売春宿や貧民街と商店街のショーウインドウや、高級ホテルの一室を等価なものとして写真の中で提示するアジェのモラルが人間の側にはいないように、川崎の負の歴史を具体化した現実の細部を、非実在としての写真の領域に転化していく森谷の写真も人間の外側に存在する。歴史性を抱えた物質的細部に対して、無意味であることを宣告する写真家は、モラルの外に居続けるしかないのだ。
愚鈍な驢馬のように地道にドキュメンタリーを撮り続け、川崎の悲惨な現実を訴えるドキュメンタリー写真家には、写真が本来的に持っている“悪”を理解できないだろう。森谷の写真は正統的なドキュメンタリー写真ではない。小林多喜二の『蟹工船』が悲惨な労働現場を描写したら、エンターテイメントな快感を持ったホラー的文体に変質してしまったように、土門拳が戦争兵器も戦後のホームレスも皆同じように物質として撮ったように、それは“悪”であり、あらゆる現実の対象から意味を剥ぎ取り、それを別の文脈に変化させたり、まるで意味の無い物質に変質させたりすることで生じる快感に溺れる人間は“悪”の側の人間だ。撮ることは“悪”であり、だから快感なのだ。その快楽に溺れていく人間だけが写真家になるだろう。

石井保子の撮る川越の新興住宅地の生活感の無さ。人間が快適に生活を営むための住宅地から生活が排除され、つるつるの住宅が立ち並ぶそれはまるで、新品の廃墟のように見える。ベランダに干されている沢山の洗濯物や、家族が何人いても乗れるような大型のバンという生活感を象徴するようなアイテムがそこかしこに写っていながら、生活という人間の営みが徹底的に希薄化されている。周りは畑ばかりの環境に北欧風の家や、童話のお菓子の家のような可愛らしくデコレーションされた家が乱立する。ログハウス風に建てられた家の庭に置かれている大型のバンや、車体の異常に低い車が、北欧的可憐さと対をなすようにそのマッチョな雰囲気を誇示している。畑の中に突然現れた童話風の家に、工事用の資材やマッチョな車が置かれているその光景は、ほとんど調和というのを無視した、けれど特別に個性を感じさせるわけでもない、B級セール品の残り物を寄せ集めて慌ただしく建築したような、ちぐはぐさを感じさせる。
建設期間が二週間ぐらいで、アルバイトがホッチキスを使って簡単に建てたような玩具のような家。それなりに個性を出そうとしているのだろうが、それはセブンイレブンとファミリーマートの違い程度でしかない規範化された住宅が、畑や田圃の真ん中に何軒も立ち並ぶその様子は、自然と文明の対立や、自然界に浸食してくる人工物の脅威というニュートポ的なテーマを超えて、川越には最初から自然と対立する文明や人工物などというものは、無かったのではないか、自然の前でただ立ち尽くすしかない新興住宅地という名の残骸しか作れなかったのではないか、というような空虚なジャンク性に充ちている。新品の廃墟のよう新興住宅地は、けれど新品の廃墟という時間の経過を感じさせない廃墟なんてありえるのだろうか。時間の堆積を通過していない廃墟は、それは廃墟ではなく、たんなるガラクタでしかないだろう。石井保子の新興住宅地は、新興住宅地から時間を追放する。この写真の住宅地はいつまでもこのまま何も変わらずそこにあり続ける、時間の外に放置されたガラクタなのだ。
建築が時間を隠蔽するのなら、石井に撮られた川越の新興住宅地は時間が隠蔽されているのではなく、最初から時間が放棄されている。ディズニーランドの建築物を想起させるような住宅地は、見栄えが良いアミューズメント的な仮設住宅のようであり、そこには徹底的に歴史が消去されている。過去を欠落させ、今-現在しかない記憶喪失のようなこの新興住宅地は、例え百年経っても何も変わらずにこの姿のままそこにいるだろう。そこには時間の経過という、建物が廃墟に向かう間に経験する腐食と衰退の時間が欠落している。石井の撮るこの新興住宅地の建物は生活に根ざした住宅ではなく、地域のコミュニティーの歴史に背を向けた書き割りのような何の実体も無い住宅だ。その場しのぎの見栄えの良さと、近所や世間体に対するプライドさえ維持できれば、地域のことはどうでも良い的な住民の非歴史的で、非コミュニティー的な態度が見え隠れする。その土地に根を下ろすという、土地の歴史に参与することを徹底的に回避した結果が、このいつ壊れてもおかしくない張りぼての書き割りのような建物を肯定してしまったのだろう。
TVドラマ『岸辺のアルバム』での、洪水で家が流されそうになった時に、その家の母親が一番大切なものとして現金や貯金通帳ではなく、家族の写ったアルバムを手にして逃げるシーンがあった。家族というコミュニティーの記憶を物質化したアルバムの存在が、洪水でばらばらになりそうな家族をつなぎ止める。記憶の共有によって家族は成立するという共同体成立のための暗黙の了解をメッセージとしてこのシーンが演出されたのだろう。けれどこの新興住宅地のぺらぺらの家の集合に一体どんな記憶が共有されているのだろうか。既製品の寄せ集めで成り立ったような住宅に住む人間には、大量生産される既製品が与えるどうでもいい娯楽のような記憶しか共有できないのではないだろうか。ブルジョワ階級が与えるガラクタのような夢と希望しか共有できない新興住宅地。
石井の新興住宅地の写真を見ていると、記憶を共有することによって家族が成立するという成立基底としての記憶が空洞化し、家族というコミュニティーがもう成立しなくなったのではないかという気さえしてくる。『岸辺のアルバム』のような突然の洪水で、何もかもが無くなってしまってもたいして悲しくないのではと思わせるような書き割り化された新興住宅地。コミュニティー機能が欠落したこの光景は、バブルの時に古い町並が取り壊され、あちらこちらが空き地になっていった80年代のバブル勃興時の東京に似ている。バブル期の建設計画が人間を東京から追い出すための計画だったのなら、川越の新興住宅地の光景もそこに人間が住むための街計画ではなく、人間もこのプラモデルのような住宅のように、工場で大量生産された家のパーツの一つとして扱われ、玄関の前の体裁の良い置物のように、この光景の中で人間は存在し続けるだろう。この新興住宅地はぴかぴかのまま、永久に廃墟に向かっていかない。誰もいなくなっても新品のままそこにあり続けるのだ。ここには歴史が存在しない。石井が写真に撮った川越はまるで歴史の墓場のようだ。
廃墟には時間が必要であり、この川越の新興住宅地にそのような腐食や衰退の時間を経験することができるのだろうか。ここには時間が喪失している。過去もなければ未来も想像できない。写真が時間を棄却することで風景を成立させるメディアなら、すでに宙づりにされた無時間の領域に存在する川越の新興住宅地は、写真に撮られなくても最初から写真のように存在している。風景が書き割りのように見えるというのは、すでにその場所は写真のように成立している証拠であり、だから人間や生活がその場所から排除され、駆逐されたのだ。石井の写真は現実の新興住宅地を写真にしたのではなく、すでに写真として成立していた新興住宅地をさらに撮ることで、“写真を撮るように撮る”というゲイリー・ウィノグランド的な迷宮の反復を肯定する。“写真を撮るように撮る”こと、それは現実の対象を写真に転化するという現実の写真化ではなく、すでに写真になっているものを無限に複写し続ける。コピー、再コピー、再々コピー‥の永久運動システムは劣化もしなければ、新しい何かが生まれるわけでもない。そこには何もない空虚な新興住宅地を無限に反復する。
起伏の無い平坦な、どこまでも同じ光景が続くかのような川越の畑のあちこちに立ち並ぶ住宅地。日本全国どこにでもあるチエーン店の看板が点在し、無機質な高圧線の電線があちこちに延びていくその光景は、何のノスタルジアも感じさせない。住宅地の上をはしる高圧線の電線や、住宅地の向こうの広大な畑と地平線の光景が、突然中断されたかのように何の余韻もなくフレームの中で切断される。石井のフレーミングは一点として完結させるフレーミングではなく、現実をいきなり切断するような情容赦のないフレーミングであり、画面の消失点に向かう電線やいつまでも延びていく地平線が、いきなり切断されることで、電線や地平線が見えない未来や過去を想像させる隠喩として機能することを拒否される。電線や地平線を隠喩として成立させ、そこから派生していく情感共々を石井は非情なフレーミングで一気に切断するだろう。
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