Exhibition 展覧会情報
金村修「System Crash for Hi-Fi」

企画展
金村 修「 System Crash for Hi-Fi 」
2015年6月23日(火)〜7月4日(土)
13:00〜19:00 日・月曜 休み


展示内容

16×20インチのRCペーパーを120枚。
ヴィデオ 『ケンタッキー・プライド・ベンヤミン』 上映時間15分。


作家ステートメント

4kカメラが被写体の顔の毛穴までリアルに写してしまう時代に、銀塩写真のリアリティーというのはどこに求めればいいのでしょうか。4kカメラのリアルな描写性に比べれば、銀塩写真の再現性なんて、たかが知れています。大きく伸ばしたときに現れる粒子の存在が、4kに比べれば粒子の存在があまりにもノイズ的で、写したイメージが見えにくくなる。現実を再現するには、銀塩写真の粒状性は、今では邪魔で鬱陶しいものでしかなくなったと思います。フィルムで撮影された映画を映画館で見るとすごく汚くて見苦しいという人が普通にいる時代です。銀塩写真はもうノイズでしかない。現実をリアルに再現するという銀塩写真の役割はもう終わったのだと思います。
露出アンダーでプリントできない暗部でも、デジタルの出力は再現してしまう。写らないものはないのではないかと思わせるぐらい写り過ぎる。銀塩写真だったらプリントできないものまで再現してしまうデジタルの性能に対して、写ることで対抗することはできません。フィルムや印画紙の使用を前提とする銀塩写真は被写体を写すのではなく、被写体に対してマスキングをかける。被写体をよく見えなくさせる。写すのではなく、写さない、写らないというのが薬品や感光材料を使用する銀塩写真の役割なのかなと思います。
写実性なんてもうどうでもいいのです。ピクトリアリズム的なきれいさだって、4kカメラのリアルな美しさには負けてしまいます。美しさを競い合うなら、銀塩写真は骨董品のような美学に退行するしかないと思います。写真は写実性や美学の神話から解放されて、晴れてノイズとして生きていく自由を手に入れたのだと思います。汚くなる自由と言うのでしょうか。繁華街で浮浪者の存在が許されない今の時代で、汚くなる自由の権利を堂々と行使できるというのは奇跡的なことだと思います。写真の希望は今や、ゴミやカスやクズという、ジャンクでトラッシュな存在に成り果てることが唯一の希望になったのかもしれません。
腐食したネガや黴だらけになった印画紙。露出アンダーや露光オーバー。現像ムラに定着不足。そんな失敗が堂々と行使できる時代がきたのだと思います。デジタルは失敗ができない。失敗したらそのイメージは消えるだけで腐食して、黴だらけになることができません。デジタル写真にできなくて、銀塩写真にできることというのは、汚くなったり失敗したりすることぐらいでしょうか。世間的にはなかなかマイナスな要素ですが、銀塩写真にできることはそんなマイナスな要素を引き受けることぐらいだと思います。ジョニー・サンダースの“Born to Loose/打ちのめされるために生まれてきた”のように、銀塩写真もとうとう打ちのめされたのです。ピクトリアリズムみたいにきれいにドレス・アップもできない。汚くなってどこにも行く所がない。“チャイナ・ホワイトのドブの中で生きている”とジョニー・サンダースが歌いました。銀塩写真は今や、彼のようなヤケッパチな心境で生きていくしかないようです。
腐食して現像ムラを起こした印画紙が、写ったイメージをきれいに再現することを妨害する。現像ムラや水洗不足による印画紙の黄ばみに黴の存在は、写したイメージを邪魔するものとしてNG的な存在でしたけど、むしろそれだけではなく、銀塩写真を成立させていた粒子の存在自体がノイズだったのだと思います。現実を粒子で再現する銀塩写真にとって、粒子はあくまでも透明で見えないものとして処理されてきました。けれど高名な写真家はみんな“写真は細部だ”と言っていますので、透明な存在だった粒子のことも、このテーゼに沿って、もっと突き詰めてみなければいけないのではと思います。写真の細部を徹底的に追求していったら、最終的には粒子を見せることに行き着くのではないでしょうか。粒子の粒状性が美しいというのも写真的な美学の要素でした。だけど本当に粒子は美しかったのでしょうか。バケツ現像でいい加減に処理された中平卓馬の写真を見ると、粒子の存在というのはけっこう醜い。なんでこんなものがきれいなものだと思われていたのか不思議です。沸騰したお湯でカラー・ネガを煮込んだ鈴木清の『夢の走り』を見ると、粒子というのはほとんど砂嵐のように被写体を覆ってしまっていて、イメージを粒子の中に埋没させたい欲望が見え隠れします。写真家というのは昔から対象をきっちりと撮るのではなくて、対象を銀の粒子でドロドロに溶かしたかったのではないかという感じもします。
粒子で現実をなぞることで、現実を高画質で再現するのではなくて、現実を粒子化しようとしたのではないでしょうか。50℃の高温現像でフィルムを処理すると、ノーマル現像で現れる粒のそろった丸い粒子が、いびつな楕円形みたいに奇形的に変化して、まるで見るのを邪魔するようにイメージの上に大きくその存在を現します。イメージを見ているのか、粒子を見ているのか分からなくなります。銀塩写真を見るということは、写したイメージを見ると共に、フィルムの粒子や印画紙に含まれている銀の成分をみることなのかもしれないと思わせます。イメージの高画質アップに敗北した銀塩写真は、フィルムや印画紙という支持体の物質性を見せることにこれからは賭けるべきなのではないでしょうか。
現実を粒子でなぞる。何度も、何度も執拗になぞることで、現実を粒子で変調させる喜びが公然と肯定されるのです。マイルスのバック・バンドにいたときのチック・コリアがフィルモアでのライヴのときに鳴らしていた、初期のシンセサイザーのリング・モジュレィターで変調された音の暴力的な響き。あの音階を鳴らすことを放棄した無目的な機械そのものみたいな音。あらゆる楽器音を合成可能することを目的にしたシンセサイザーの用途が、その忠実な音の再現という役割を放棄したことについて喜びに溢れているようでした。リング・モジュレィターの調性を無視したノイズ音は、まるで発狂して暴走する機械が目の前に現れたようです。銀塩の印画紙とポリエステルのフィルムで変調された現実を強調することは、写真が発狂する権利を有したことの喜びの現れだと思います。
写真に写ったイメージは、肉眼の延長としてのイメージではもうないのです。イメージを支えるために黙々と下働きをしていた印画紙という工業製品が、その凶暴な物質性をあらわにし始めたのです。腐食して現像ムラを起こして、どろどろになったトーンと奇形化した粒子に覆われたイメージは、再現の奴隷だった昔の印画紙ではもうないのです。人間の見た現実を変調させて、肉眼の領域を無謀に突破する権利を有した工業製品としての印画紙が、ジョン・カーペンターズの『クリスチーヌ』のキャデラックのみたいに、機械独自の意識で勝手に暴走し始める。そんな凶悪な物質的側面がフィルムや印画紙の中から公然と現れ始めたのです。


関連イベント

トークショー
金村修(写真家) + 澤田育久(写真家/The White主催)
2015年6月27日(土) 18:00~19:30
定員20名 要予約 ¥1,000
予約先:mail@sawadaikuhisa.com
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