The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 5月号  毎月20日更新

–目次–
写真の薄気味悪さ   ・・・・・・・・・ タカザワ ケンジ
百葉箱 Screen #02   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
写真の薄気味悪さ
タカザワ ケンジ (評論家)
◎承前
 前回の続き、つまり、金村修さんとの対談を掲載するつもりだったのだが、少しお待ちいただいて、今回は写真についての個人的な体験について書きたいと思う。
 私は写真家にインタビューする機会が多いのだが、初めての相手には、たいてい写真の原体験について聞いている。写真を初めて意識したのはいつか、どんな写真だったか、それはあなたにとってどんな意味を持っていたか?
 その答えを原稿に書くこともあれば、書かないこともあるのだが、聞き飽きることはない。私たちにとって写真はありふれたものであり、写真家といえども、子どもの頃から意識的に接しているわけではない。しかし、インタビューされることで記憶をたどると、それが現在の活動を結びついていることもある(いないこともある)。
 最近、ふと、自分にとってはどうだったのだろう、と思うようになった。

 この連載では、金村さんとの対談を含め、いくつかのコンテンツを組み合わせながら「写真作家の写真史」とその周辺を歩いていきたいと思っているので、その一環としてお読みいただければ幸いです。
★仏壇のなかの写真帖
今朝、母から電話があった。
「額を妹に預けたから」
「額? 何の額?」
「……」
母は返事をしなかった。
沈黙の後で、ひとしきり、家に来ないことをなじられた。「世間体が悪い」「家の権利書は大丈夫か」「財産を狙われている」。
いつもの話題だった。
私は、最初のうちは適当に話しを合わせていたのだが、途中からイライラしてしまい、話しを切り上げた。
ところで、妹、つまり私にとっては叔母にあたる人に預けた「額」とは何だろう。

私が写真を最初に意識したのは、仏壇のなかの小さな写真貼だった。
黒い表紙で大きさはA5ほどだったろうか。細長かった。いまでも仏壇のなかにあるはずなので、確認すればいいことなのだが、あえてここでは記憶だけで書いてみよう。
その写真帖は父のものらしい。
というか、「高沢家」のもののようだ。旧家でも本家でもないありふれた家に残された「家」の写真帖。
なぜそう思ったのかと言えば、一つは写真が古かった。モノクロの手札判、小さな写真ばかりである。
なかでも強く惹きつけられたのが赤ん坊の写真だった。黒く焼き込まれた写真に写っている赤ん坊はおくるみからして古そうだった。ここに写っているのが誰なのか、気になって母に尋ねた。
「けんじくんの兄弟の写真よ」
母はこともなげに言った。ただし母が違うという。母は後妻で、父には病死した妻がいた。その妻との間の子どもだという。それもずいぶん前の話だ。戦後ほどない頃だったという。
薄気味悪い。
まず写真そのものが気持ち悪かった。モノクロ写真、それも黒ずんでいた。
それに、写っている赤ん坊がもう死んでいることも不気味だった。
その写真帖に貼ってある写真は、すべて人物の写真だった。
モノクロ写真、それも相当古い時代のものだ。写っている人物の氏名が書かれていたが、知らない人ばかりだ。そもそも写真が古すぎる。自分が生まれる前の写真だった。
★異母兄姉たち
写真に写っている赤ん坊が私の異母兄姉だということは意外ではなかった。
私は一人っ子だったが、ほかにも母親の違う兄姉がいたからだ。
うちによく異母姉二人が遊びに来ていた。異母姉たちは年齢が近く、仲が良かった。よく申し合わせて夫と子どもを連れてやってきた。
異母兄姉はほかにもいた。
そのうちの一人は男で、私が生まれる前にすでに亡くなっていた。異母兄にはノボルという息子が一人いた。ノボルは私より二つ、三つ年上で、一度、ノボルを夏休みの間、引き取っていたことがある。私は兄がいるというのはこういうことかなと思ったけれど、だったらいらないなと思った。
ほかにも父母の故郷である秩父に男性と女性一人ずつ異母兄姉が住んでいて、盆正月には顔を合わせることもあった。しかし、私は彼らが何年生まれで、私といくつ年齢が違うのかも知らない。異母兄姉全員がそうだ。
そんなわけで一人くらい赤ん坊のうちに死んでいても不思議はない。
父は大正元年生まれで戦争にも行っている。軍隊では上官からスリッパで殴られた、と話していた。
しかし、赤ん坊の写真について父に尋ねた覚えはない。何と聞いていいのかわからなかったのかもしれないし、それほど興味がなかったのかもしれない。子どもは過去に興味を持たないものだ。ましてや、自分が生まれる前のことである。
母は、昔はよく赤ん坊が死んだんだよ、とだけ言っていた。
★死者の写真
家に死者の写真はほかにもあった。ノボルの父親の写真だった。
私は彼の父親の顔を写真でしか知らなかった。快活そうに笑っている写真で、まだ若かった。しかし、もう死んでいるという事実を知ったうえで見ているから、その笑顔によったシワの一つひとつに死の予兆が刻み込まれているように感じた。
仏壇のなかには父の先妻の写真もあった。ふくよかな中年女性で、冠婚葬祭の折の写真なのか、紋付の着物姿だった。
丸顔で柔和そうなのだが、恐ろしかった。やはりもう死んでいるという事実を知っていたからだろう。何歳で、何の病気で死んだのかも知らないが、おそらく癌だった。のちに異母姉の一人が癌で亡くなったときに、そんな話しを大人たちがしているのを聞いたことがある。
父の先妻も、異母兄も写真はモノクロだった。
会ったこともない人、それももう死んでいる人の顔を知っている。
気持ち悪かった。
知っている人の写真なら、自分の印象と重ねて見ることができる。その写真の前後を想像することもできる。しかし、会ったこともない人、それも、死んだ人間のことは、その前も後も想像できない。未来につながる時間が途絶してしまっていることも不吉だった。
写真があることで、私たちはずいぶん昔に死んだ人の顔を知ることができる。肖像画にもその役割があったはずだが、写真はその情報量が格段に多い。
話しに聞いただけなら、その存在は曖昧模糊としている。しかし、写真は曖昧さを許さない。ぼんやりとしたイメージに動かせない輪郭を与えてしまう。
私は異母兄姉とはいっしょに住んだことがない。私にとって家族といえば、父母と私だけだった。
しかし、写真を見てしまったことで、いまある三人家族の下に古い地層があり、そこに見知らぬ人間たちの「生」があったことが生々しく感じられた。そして、彼らが私たちにいい感情を抱いていないのではないかという妄想が生まれた。
写真は、私にとって、まず、見たことがない人間のイメージを決定づけるものだった。そして、同時に過去という古い地層を露出させる鋭利なナイフでもあった。
しかも、写真は何も語ってはくれない。そこに写った人々の性格も、無念も、苦しみも、喜びも。
★怖い写真
ほかにも怖い写真はあった。
秩父の父方の祖父母の家に行くと、かもいに紋付の老人の肖像がいくつもかけてあり、それがまた不気味なのだった。
写真とも、絵ともつかない細密な肖像は私たちを見下ろしていた。父の母、つまり私の祖母は相当な高齢で、物語のなかの老婆のように現実性の薄い存在だった。人懐っこい笑みを浮かべてゆっくりとしゃべる。だが、コタツから動いたところを一度も見たことがなかった。その祖母が、祖先の肖像といっしょにこちらを見ている。そのことが怖くて、クルマから出ずにずっとマンガを読んで過ごしていたこともある。
十歳のときに父が死ぬと、母は葬式に使った額入りの写真をそのまま居間に飾るようになった。紋付の写真は、秩父の古い家にあったものとそっくりだった。
父が亡くなって半年ほど経ってから、父の写真を眺めながら母がしみじみとした調子でこう言った。
「お父さんが生きていたらねえ。心細いねえ」
父の写真は何事にも反抗的になった私を監視しているようだった。
写真のなかの父の目はレンズをまっすぐ見ている。つまり、写真を見る私たちを見返してくる。
そのとき、父が何を考えていたのかわからない。写真は何も語らない。それが気持ち悪い。
写真は「わからない」ことの薄気味悪さを最初に気づかせてくれたのかもしれない。
近年、もっとも不可解だったのが、尼崎連続変死事件である。
角田美代子を中心にした疑似家族が、いくつもの家庭を崩壊させ、そのなかからスカウトした人材を疑似家族に加えていく。少なくとも十人を超えると言われる被害者数の多さもさることながら、その人間関係の複雑さが常人の理解を拒んでいる。中心人物だった角田が獄中で自殺したいま、その真相は解明されない可能性が高い。
昨年、たまたま尼崎に行った折に、死体が発見された民家を見に行ったのだが、すでにそこに家はなかった。そのときは、更地になった跡地を数枚写真に撮り帰ってきたのだが、なぜ撮りたいと思ったのかがよくわからなかった。
今年になって、この事件について書かれた本を立て続けに読んだ。『モンスター 尼崎連続殺人事件の真実』(一橋文哉著、講談社)と『家族喰い——尼崎連続変死事件の真相』(小野一光著、太田出版)の順に読んだのだが、断片的に報道されてきた「角田ファミリー」の手口がある程度まで明らかになっており、彼らの人物像が立ち上がってきた。
本のなかでもっとも衝撃的だったのは、『家族喰い』の小さく掲載されていた事件の主要人物たちの顔写真だった。ある写真はドッドが荒れ、ある写真は無理矢理引き伸ばされた情報量不十分な写真。その写真の何枚かが私にとって衝撃的だった。写真が載っていない『モンスター』を先に読んでいたため、すでに人物たちの顔がイメージできていた。そのイメージが写真のの顔とズレて重なる。
なんということはない写真だ。彼らの写真がこの事件の関係者だと思わなければ見過ごしてしまう写真だろう。しかし、事前に情報を得て、イメージを膨らませたあとで見た「実物」のリアリティは強烈だった。
写真は頭で考えていたイメージと必ずズレる。そして、写真を「実物」と認識することで、それがどの方向にズレようとも(その顔が善良そうであれ、悪辣そうであれ)、不気味だと思う。写真は、想像の外側にある現実を突きつけ、薄気味悪い後味を残す。写真は頭のなかで考えたことをつねに裏切り、現実の「想定外」のざらつきに触れさせる。
つくづく気持ちの悪いメディウムだと思う。
写真作家の写真史 タカザワ ケンジ:三つの遺体が見つかった尼崎の家跡地

三つの遺体が見つかった尼崎の家跡地

百葉箱 Screen #02
小松 浩子 (写真家)
人智を超え神格化されたものに対して何らかの実現を請う行動を祈りと呼ぶ。外形的には呪文や経典の一節といった定型句等が祈祷者により読み上げられるか黙祷され、瞑目・平伏・合掌・舞等の身体動作が伴う場合もあり、個人・集団である事は問われない。物心がつくと合掌し大声で定型句を読み上げる数名の「祈る人」が常に周囲におり、更に数日間隔で数十名の「祈る人」が訪れる。数十名の「祈る人」は集団で合掌し大声で定型句を読み上げ、散会時には中心らしき人物が配布する枡目の書かれた紙を受け取り散って行く。枡目とは升ではかった量を指す。升とは尺貫法における体積・容積の基準となる単位であり10合が1升、10升が1斗となる。升は両手で掬った量に由来する身体尺であり本来は200ml程度であったとされる。その量は時代や地域により異なるが1669年に江戸幕府はこれまでの江戸枡を廃止し新京升の採用を命じる。新京升は縦横4寸9分、深さ2寸7分であり江戸と京都に「枡座」を置いて枡の大きさを厳密に統制する事により量の統一を保つ事に成功する。1875年に明治政府は新京升を公定の升としメートル条約批准後に制定された度量衡法でメートル法に基づき1升=約1.803906837ℓと制定する。「祈る人」は定型句を10分読み上げると枡目を一つ埋める事ができ、後日その達成度を互いに確認し合うと言う。配布された紙に枡目が幾つ書かれていたのか記憶に無いが、多くの枡目が祈りで満たされたと推測される。宗教に限らず古くから世界中で発生したシャーマニズム・祖霊信仰・自然崇拝・精霊崇拝や、抽象的な対象に対する感謝・要請等の意思の表明・表現に対しても「祈り」の語が用いられることから、祈りは人間の活動様式の根源的な欲求に基づいた普遍的な活動であると言える。三世代にわたる血縁で集団を形成していた場所から父母が当代を含み離脱した事で「祈る人」との接触が断たれ、祈りの算出方法を知る機会を逸したが、定型句を10分読み上げる事で埋まる1つの枡目は、祈りの大きさを厳密に統制し量の統一を保つ事に成功したのだろうか。
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
いらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそに最初に行ったのは20代の学生の頃、初めての彼とのデートでした。まだ若かったので、はじめは緊張して会話もできなかったのですが、「ジャンバラヤ」という聞きなれないメニューに「ジャンバラヤって何?知ってる?」、「ジャンバラヤって南部のクレール料理だよ。ハムやえびやピーマンの炊き込みご飯に、そうそう甲殻類寄居虫ヤドカリ、刺胞動物門花中網六方サンゴ亜網イソギンチャク目、星型動物門ヒトデ類も混ぜていて、ヒトデは再生能力が高いことでも有名な海中動物で、腕の一本ぐらいは簡単に再生するし、種によっては腕をつかむと簡単に自切して、真っ二つになっても再生して、その場合には2匹にもなるんだ。いつも気ままに分裂を行っていて無性生殖しているヒトデを炊き込んだ、ヒトデって海の星って書く、なんてロマンチックな動物!のたっぷり尿を浸した新聞紙にえびやピーマンを包んだ、外肛動物や腔腸動物や無脊椎動物、クローンを大量に分裂する無性生殖の動物達の排泄専用のぼろ雑巾のように大人気のジャンバラヤ!カーペンターズが歌ってるだろう」。摂食障害で痩せこけたヘレン・カーペンターは、肛門がなく口によって摂食、排泄を行う刺胞動物のことを常日頃想像していて、細く千切られたハムにエビにピーマンのジャンバラヤをもくもくと食べる刺胞動物の消化後の姿を想像すると彼女の摂食障害はますます進行していった。
嘔吐と下痢を同時進行させるジャンバラヤ。横紋筋でつくられた外肛門括約筋が弛み、直腸下端の淡いピンク色の排泄口から、いらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこその白いリノリウムの床の上に未消化のジャンバラヤが無分別にぶちまけられると「まるで吐瀉物の煮込みみたいなジャンバラヤ!元祖は何匹もの天竺ねずみのあたまを煮込んだスペイン風パエリア!」と会話が一気に弾み、それまでの緊張がとけたあとは一気にメラニン色素で黒ずんでいる前後の方向にのびている裂け目を直腸が視認できるほどこじあけられ、直腸静脈に直接舌を突っ込まれたのがいい思い出です。

田舎からでてきた父とよく近所のいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそで食事をしました。添加物でぴりぴりと口の中をほどよく刺激するなすびの漬け物とマンゴーのクリーム添えが父の好物でした。田舎者だから濃い味が好きなんだといつも照れ笑いを浮かべていた父は、帝国ホテルレベルの高級レストランに行くと、田舎者だから皮かむりだろうとボーイさんににらまれ、皮をかぶったペニスの亀頭を無理矢理剥かれ、サンチュ巻きに使用するレタスの代わりに亀頭の包皮でカルビを巻かれます。壷のなかで発酵したエイの尿素、ホンオフェの臭いを彷彿させる父の恥后まみれの性器の臭いが貴婦人達に大人気だったのでしたが、あんまり口のなかに含んでいたため口内粘膜が破壊される。この皮かむりの発酵した好色で食い意地のはったデブの包茎猪八戒と罵倒されなければならなかった屈辱的な記憶に悩まされていました。

以前働いていた病院のそばにいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそがありました。そこのレストランで倒れた女子高生が搬送されてきたのですが‥そのときたまたま居合わせて、これは危ない!と機転をきかせて女子高生の直腸に硫酸浣腸を注入して盲腸、結腸、直腸をどろどろに溶かしてしまったそつのないこと以外になんの取り柄もない大学生と付き合うことになったと聞きました。消化器官の大腸がないのでこれで大腸菌に悩まされることはないし、肉体のなかに不潔な菌を持たないっていう素敵な抗菌女子高生になりました。以前は胆汁質な怒りっぽい女子高生だったのですが、そんな汁を発生させる臓器の泉が枯れ果てたおかげで清潔な恋が生まれました。恋が生まれるいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそ!そして胎盤や子宮も硫酸でおしゃかになってしまったおかげで子づくりなんていう性奴隷のような任務からも解放されました。今では孫の顔が見たいなどと言う老人達の腹部を蹴り上げ、ゴミ箱のなかからさらってきた天ぷらのぶよぶよした衣で老人達の性器を突っつき回しています。
子づくり=性奴隷の奉仕を強要する老人達に対して逆レイプ・オフ・南京の再現が今のわたしの任務だと思っています。いらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそがお薦めの厚切りローストビーフ、ローストビーフが厚切りと言われるぐらいの厚さならそれはローストビーフなんかではなく、たんなるレアのステーキだと思うのですがその限りなくステーキに近いローストビーフで老人達の性器にレイプ・オフ・南京の帝国軍人の行動を強要します。かって帝国軍人は慰安所の慰安婦を「なめ殺す」と言っていました。カスパー液が乾ききってしまった老人達の性器を「なめ殺す」にはいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそ版ローストビーフの定番「グレービーソース」です。なければなんとかの焼き肉のたれでもポンチャック風北緯45℃冷麺のたれ風味でもかまいません。慰問所の慰安婦を「なめ殺す」以外には、大人のおもちゃでのレイプ・オフ・南京軟体動物地獄篇です。こけしドール38式歩兵銃南極一号、腔超動物口こけしドール銃剣南極一号、節足動物南極一号、箒の柄こけしドール、立法クラゲ目南極一号竹の枝こけしドール、海折皮こけしドール奮進砲南極一号、タコクラゲこけしドール迫撃砲南極一号、サカサクラゲ南部式こけしドール南極一号ピストル、デンキクラゲ南極一号シビレクラゲ雷管こけしドール、南極一号ポテトマッシャー無脊椎動物こけしドール、南極一号こけしドール刺胞動物火薬、イボハダコイソギンチャク南極一号火鉢ムシモドキこけしドール、南極一号イソツビまさかりこけしドール、南極一号斧こけし男性器の精巣と精巣上体を入れている袋のしわに沿って爪をゆっくり立てていくと性器の先が赤黒いというよりも濃いオレンジ色になりとても信じられないほど亀頭が大きくなり、しかも亀頭の先端からは雄性生殖器でつくられた粘り気のある分泌液が缶詰のあんずみたいに一滴一滴まんまるにふくらんだまま絞りだされます。風に揺れている浜かんざしの花のあいだから海を眺めるようにV字に開いた股間から性器を眺めていると、尿道から溢れでてばらまかれる精液は岩にぶつかる波の砕けた感じに似ています。豆腐みたいにぶよぶよと白いものが砕けていたものが、今では黒っぽい緑色をして白い波がしらをしきりに立てていて、忍冬と芍薬で飾られたこうがんの袋に、梢のようにかぶさる陰毛とうらすじとしわの交差が黒い岩のような点々に見えて、たまぶくろに点々と浮き上がってる黒子が燐みたいに黄色く光っています。ふぐりの先端から尿道口まで、ルビーの炎に透かしたような赤っぽいオレンジ色のなかにあらゆる素晴らしい日本人が映っています。たくさんの日本兵は、レイプだけにとどまらず、女性の腹を割いてようこそと腸を抜き出し、MEGAチキンおっぱいを薄切りに切り落とし、日本兵にいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそといきたままクギで壁に打ち付けられたまま言わされた屈辱を忘れない。父親は自分の娘を高菜ダークチェリー炒飯でもてあそび、息子は自分の母親をふんわり雪解け明太子ぷりんで陵辱し、家族が見ている目の前で今度は疫病の馬の大量の尿と馬糞で炊き込んだいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこそのジャンバラヤを食べることを強要された。生き埋め、意地のアジフライ、性器切断、倍もりまぐろのぶつ切り、内臓摘出、ギガ豚ステーキ、火あぶりが日常的になっただけではない。舌に鉄のカギをかけて吊るされたり、腰まで生き埋めにされた犠牲者が生きながら軍用猫に引き裂かれるのを見物するといった悪魔的な行為が行われた。その吐き気を催す光景には南京在住のナチ党員たちすら慄然とし、大虐殺は「機械仕掛けのニャン太」の所業であると断言した世界を歓待しようと思い立ちました。

老人達の口にホイッスルをくわえさせると、あらゆる打撃を肉体に与えるたびにぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーとホイッスルを吹きはじめます。軽い甘噛みの痛みのときは、ぴー。だんだん痛みが強まるにつれて、ぴーの音数が増えていきます。ぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴー叫ぶホイッスルの音が青空に響き渡るその爽快感。手榴弾で下半身を破壊され、まさかりで声帯をまっ二つにされると今まで、ぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーぴーと鳴っていた音がひひひひひひひひひひひひひひひひひひという両唇の無声破裂音pを頭子音にもつ音節半濁音符が銃剣で抹消され二度とpと言えなくなるまで唇をかみそりで切り刻む。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃと拗音を執拗に鳴らしつづける老人達の「なめ殺す」攻撃の発声をリードする口腔底から突出している筋肉性の器官の粘膜に覆われ非情によく働き食物の攪拌、嚥下を助け味覚、発音をつかさどる「べろ」を熱い火鉢の攪拌棒でじりじり焼き尽くす。溶けかかった「べろ」で老人達に無理矢理歌舞伎の台詞を喋らせる。ハケメロがメナメル、モケソ、ハラララメッている。ハナナナナナのセキキのハリンセのアサメククククククククとっとっとっとっとっとっとーとーとーとーとー、アカザネ、モロヒ、ヘレニク、ダイコン、ヘレオコシ、クソマミレ、とっとっとっとっとっとっとーとーとーとーとー、アカザネ、モロヒ、ヘレニク、ダイコン、ヘレオコシ、サムギョプサル、ケランチム、プルタク、クソマミレ、とっとっとっとっとっとっとーとーとーとーとー、アカザネ、モロヒ、ヘレニク、ダイコン、ヘレオコシ、サムギョプサル、ケランチム、プルタク、クソマミレ、とっとっとっとっとっとっとーとーとーとーとー、アカザネ、モロヒ、ヘレニク、ダイコン、ヘレオコシ、サムギョプサル、ケランチム、プルタク、クソマミレ、とっとっとっとっとっとっとーとーとーとーとー、アカザネ、モロヒ、ヘレニク、ダイコン、ヘレオコシ、サムギョプサル、ケランチム、プルタク、クソマミレ。

おまえの夢見ている最高の女を手に入れろと電車の広告は煽動する。夢を見ながらメシを食う夢を見るゾウとか思えばかならず叶う、20分で読了8回泣きました、涙で字が読めなかったのに号泣しつづけましたすぐ読めてすぐ泣ける、武者震いを初めて体験、この本で能力値とスキルを高めて高嶺の花を手に入れてやろうという気になりました、うわっつらKINDNESS理論を試しに女友達に使ったら効果があり飲み会でも女性から好感を持たれるようになりました、戦場のメリークリスマス理論、女性が勝手にお酒を飲んでいく会話理論、大変じゃない?理論、ファツションセンスがないを逆手にとる方法ファツションまぐろ理論、最終列車で女性を帰らせない技術分かるよ理論。

40年代に連載が始まっていたアメリカンコミックのスーパーマンは、その年代なら当然ナチスとの戦争にスーパーマンはヨーロッパへ行かなければならなかった。超身体能力と正義感の持ち主のスーパーマンはけれど徴兵検査を落ちてしまう。透視力を持った視力がわざわいして、視力検査のときにもう一部屋向こうの視力検査表を読んでしまい、最低の兵役不適格4Fに査定されてしまったのだ。キャプテン・アメリカだったら堂々の合格だったものを、スーパーマンはアメリカの男として最低の烙印を押されてしまった。おかまの超能力者。アメリカの手本になるべき男が、へっぴり腰の玉なしのおかま野郎だったなんて信じられない。
スーパーマンは夢と現実のあいだに引き裂かれている。超身体能力の持ち主なのに普段は眼鏡をかけて凡庸なサラリーマン、クラーク・ケントを演じていなければいけない。スーパーマンにとって超身体能力は苦痛なのでありファンタジーな夢の実現を可能にする超身体能力に、ファンタジーの夢から覚めるように、つねに現実世界での覚醒を要求されていた。なにしろ父親からはその能力はみんなに絶対に教えるな、いつも隠しておけと忠告を受けていたぐらいだ。キャプテン・アメリカは他人より自分が優れていることを誇示していたけれど、スーパーマンにとって自分が他人と比べて優れているなんていうことはどうでもいいことだった。困っている人がいたら助けてあげなさいと母親に言われていたけれど、スーパーマンはべつに善や正義に興味があるわけではない。キャプテン・アメリカは全能の超能力者だったけれどスーパーマンは等身大の現実のなかでなんの痕跡も残さないまま死ぬことを望んでいた。
ファンタジーな理論で夢の女性を手にいれようといううわっつらKINDNESS理論には覚醒は死ぬまでおとずれない。女性に囲まれていることが彼らの唯一のアイディンティティであり、それも同等なレベルで対話する女性ではなく、いつも自分を尊敬してくれる女性以外は求めない。クラーク・ケントは現実を見ているけれど、ファッションまぐろ理論や戦場のメリークリスマス理論は、打ち砕かれた現実をファンタジーで乗り切るという阿片窟のような理論である。彼らには現実の女性ではなく、自分の望みを叶えてくれるファンタジーポルノな女性が必要とされる。路上では車道の側を男性が歩いてみたり、重い荷物を持ってみたりすることで女性からたのもしい人だとか、頼りになる人だとか自己のアイディンティティを強要することに対して、スーパーマンだったら絶対にそんなことはしないだろう。つねに主導権を握りたい、誰かにいつも思われたい、頼られたいというマッチョな欲望をあけすけに語るうわっつらKINDNESS理論の男たちに対して、スーパーマンは地味な眼鏡をかけとくに目立つこともなく群衆の一員として静かに片隅に棲息することを望んでいる。スーパーマンが一番安心する風景はたぶんなにもない不毛の荒野だろう。ニューヨークの拝金主義丸出しの欲望を象徴する不毛のビルの街がスーパーマンによく似合う。スーパーマンの不毛さは積極的に選択されているのに対して、うわっつらKINDNESS理論の不毛さはダッチワイフを抱くような不毛さであり、その不毛な人形をいきいきとした豊穣な肉体だと勘違いするうわっつらKINDNESS理論は、いきいきしている分だけに最低の不毛さを表象する。

群衆の一員として目立たずにいることと、困った人がいたらその能力をフルに使って助けてあげることの二律背反に悩むスーパーマンの、生まれながらの能力は結局、世界の民主主義国家において国難というべき対ナチスとの戦争に使われることはなかった。彼は英雄になりたいわけではないし、声高になにかを言ったりしたりするわけでもなく、彼はいつも自分の能力に対して自嘲的で持て余し気味だった。アメリカは自分達のちからを正義のために行使しなければいけないという50年代当時の主流派的な意見に対して、スーパーマンはその神に選ばれた能力を誰のためにも行使しない。わたし達が映画のなかのジョン・ウエインに対してなんの感情移入もできないのは、彼の行動は現実的ではなく非現実的であり、神話の世界の神さまが気まぐれにピストルやショットガンを撃ちまくるような善悪の向こう側にある神話的な暴力にしか見えないのだ。正義のために行使されないスーパーマンの能力や行動は、ジョン・ウエインと同じように神話のためにだけ行使される。
「スパイダーマン2」で、満員の電車のなかで、ぐったりと倒れたスパイダーマンの扮装の下の本当の姿を見た乗客達が、“なんだ!まだ子供じゃないか”と言って、気絶したスパイダーマンをみんなで持ち上げて搬送していく姿は、スパイダーマンは神話レベルの世界に存在するのではなく、コミュニティのなかの愛すべき正義感あふれる少年であることに対して、スーパーマンのコミュニティのなかの意識的埋没は、異常なちからを持ちながらみんなに愛されるというプチブル的な「スパイダーマン2」のキャラクターを継承するのではなく、みんなに愛されない、誰にも気づかれないサラリーマンのまま死んで退職金以外なにも残さないスーパーマンを肯定する。善悪の観念を放棄して気まぐれに暴力をふるう神話的暴力の世界を体現するスーパーマンにとって現実は「神々の黄昏」なのだ。スパイダーマンのような正義のリーダーなのではなく、現実と自分はつねに手に負えない持て余し気味の世界であり、そんな世界は消えてなくなればいい、敗北して消えていく世界を肯定的に語るだろう。

うわっつらKINDNESS理論にとって重要なのが“お腹すかない?”としょっちゅう聞かなければいけないこと。食欲という人間の本能的な欲望を性欲という欲望にクロスさせていく“お腹がすかない?”。胃という臓器の本能的要求を、おいしいものが食べたいという脳の欲望に転化させるのは、子孫の伝承という生存の本能的欲望を、性欲という脳の刺激的欲望に転化させることを正当化させるための“お腹がすかない?”なのだろう。そこでは食事というのはベットインするための前戯であり、充分濡らして挿入するハードコアポルノとしての食事なのだ。だからべつにお腹が本当にすいているわけではない。ポルノ写真を見ることで末梢神経が刺激されそれが自動的に脳のなにかを刺激して性欲が高まるパブロフの犬的な回路のように、“お腹がすかない?”は肉体の欲求で食べものが選択されるというよりも、そこでは油と砂糖という肉体の欲求とは正反対のものが選択される。選択されたハンバーグやエビフライのせのジャンバラヤやサーロイン・ステーキ、六段重ねのアイスクリームのせパンケーキは食べものというよりも前戯のために選択される大人のおもちゃだ。脳の快楽に奉仕する食べものはすべてポルノであり、オーラルセックスの擬似的再現であり、牛すじみステーキで口中あぶらまみれなって笑い合うアベックの姿は相互フェラチオの体位すら想起させる。六段重ねのパンケーキな挟まれてクリームまみれになりながらオルガスムスをむかえたい。ローストビーフ・ステーキに添えられたマッシュポテトとレフォール(西洋わさび)をわせりん代わりに肛門にヌリツケて、いらっしゃいませファミリーレストランへようこそお薦めの特大牛のすじみステーキで黒ずんだメラニン色素の周辺を刺激したあとは、ネズミ科キヌゲネズミ亜科の哺乳類体長約15センチ尾はごく短い毛は柔らかく上面は橙色で腹は白色ほお袋をもつハムスターを突っ込んで直腸で大暴れさせるひりひりした絶頂をむかえたい。
アボカドサラダ、アボカドクリームのパンケーキ。こんにちはファミリーレストランにいらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこその超お薦めのアボカドあるいはワカモレをヒト以外の動物に与えることは一切行うべきでない。病状には胃腸刺激、嘔吐、下痢、呼吸困難、魔方陣、うっ血クロウリーの中身は柔らかくて熱く、それを腹を減らした私は、惜しみ惜しみ、ホッホッホッホッと惜しみ惜しみ、ホッホッホッホッと惜しみ惜しみ、ホッホッホッホッと食べつつ心臓組織周辺の体液貯留から産業パラノイアの死に至ることすらある。ことに鳥類はこの有毒な化合物に敏感なようで、種子はイヌやネコの腸管に詰まり外科手術による除去が必要になることがある。アボガドの揚げたてたの種子は衣がシャリッとしてかじると前歯に心悸亢進、心筋組織の損傷、歯ごたえ、呼吸困難、羽毛無制限発育異常、不安美味、虚弱ばか旨症、無気力グルメ症などの症状が見られる。大量に摂取した場合、急性呼吸器症候群(呼吸停止)を引き起こし、たっぷんとしたアボカドスープは暑い時期にぴったりの爽やかな美味しさで、ホクホクのストリキニーゼと絶妙な割合で入れられた腐肉とのバランスで最高の甘みが生まれているアボカドを摂取後およそ12時間から24時間のうちに死に至る。授乳期のウサギ、ラットが葉あるいは樹皮を摂取すると、衣がサクッサクッサクッとしていて非伝染性乳腺炎と無乳を引き起こす。ウサギはフルーツまぐろ丼を摂取すると心臓不整脈、顎下浮腫を引き起こし口あたりをよくして死に至る。ウシおよびヤギは葉あるいは樹皮を食べ放題に摂取すると、アボガドは煮くずれするぐらいよく煮てからつぶして乳腺炎を引き起こす息子にアボガドの扮装をさせる。ぼくはとんまな豚のアボガドです。いつも嘘をついてアボガドを食べたり、盗んだりしていたので、こんなみにくいアボガドの姿になったのです。ぼくを見てください、かかってやっつけろ!アボガドを盗もうとする手は縛られています。信用がおけないからです。こうやって反省はしているんです。見て!笑って!泥棒、アボガド、悪い子。息子は三週間前から盗みを始め、レコードストアでマイケル・ジャクソン、シンディー・ローパー、ポール・マッカートニー、デヴィット・ボウイ、そしてアボガド総額45ドルを万引きしたかどでガードマンに捕まった。ウサギ、ブタ、ネズミ、ヒツジ、ダチョウ、ニワトリ、シチメンチョウおよび魚類は上述の中毒に類似した症状をおこす。ペルシンの影響は動物の種類によって異なっており、致死量はわかっていない。ウマは葉あるいは樹皮を摂取すると乳腺炎は、ヒロシマの産業奨励館「これはフェテッシュだ」を想起させる廃墟に変質する。あらゆる悲惨な出来事を性的対象に転化すること。あらゆる無惨な事件を性的対象物として快楽享受すること。矢車菊、グラジオラス、昼顔、ヤブカンゾウ。一万度まで上昇した地上の気温のなかでもつぎからつぎえと実がひらき絶えまなく熟していく、忘れられて放置されていた花たちの復讐が、鼻血が止まらず甲状腺のあたりがらくだの瘤みたいにふくらむ。眼底の網膜の血管が出血して、ハダカイワシやチョウチンアンコウみたいに口が裂けるように大きくなり、目がみえなくなる。おまえの血筋はうみへびをあなごと言い換える無添加回転寿し使用の深海魚の血筋に変更されるだろう。いらっしゃいませこんにちはファミリーレストランにようこその防腐剤入りのアボカドビーフを毎日食べつづけたことで肉体の隅々まで腐らない新鮮な死体になった。死んでリフレッシュしたわたし達の永久保存される肉体の毛沢東やレーニンのように、防腐剤をたっぷり仕込まれた勃起しつづける性器を公衆のまえで永遠に晒される恥辱。つねにリフレッシュでありつづける死んだ性器は、「永久男根」というマッチョな男らしさを想起させるよりも、未来永劫射精しつづけなければならないマッチョの絶望一直線を想起させる。

◎レストランで射精する◎足元が危ういとき(階段を下りるとき、ジェットコースターに乗るときなど)に手を性器に触らせ射精する◎地震が来たときなど女を射精しながら守る◎女がトイレに行ってる間に射精を済ませておく◎エスカレーターでは昇りは男がいきなり射精する◎レストランで先に射精する。◎「射精臭くない?」と何度も聞く◎「お腹すいてない?おいしい射精はいかが?」と何度も聞く◎髪型(アクセサリーなど)を変えた場合すぐ射精する◎「射精だね」を連発する◎リマインドする(好きな花、誕生日などを間違えて覚えておいて、良きところで「そういえば君射精中だよね」とリマインドする◎グラスの空きに素早く射精する◎射精毒味役になる◎「無理しないでいいよ」と射精する◎ホメる(特に、第3者の前でホメて射精する)◎射精は男が出して終わる◎車に乗っていて急ブレーキをかけたときに女の腹部あたりに手を添えて射精する◎電車などで女を守るために射精する◎女がコートを脱ぐとき着るときさりげなく後ろに回って射精する◎暗いところや危険な場所は男が先に射精する◎車のドアで射精する◎海外で射精する◎狙ってる女だけでなく全員に射精する◎買い物ではトコトン付き合い射精する◎ひたすら歩かず射精をはさむ◎射精した後振り向く◎射精を合わせる◎ちょっとした射精がある◎後かたづけする射精はあらかじめ計画を決めておく◎先に寝ない先に起きない(射精する時間などを作る)◎女が泣いているとき射精したものをそっと差し出す◎待ち合わせ場所に先に射精しておく◎おしぼりなどを射精の先に渡すように店員にジェスチャーする◎メニューが一つしかない場合射精向きにする◎人に射精を聞く◎行き先が確定していない場合、率先して射精する◎デザート射精をすすめる◎尿道に子ねずみを出し入れしながらのTennderでKindnessな射精◎人口肛門のなかでシマリスが暴れまわっている姿を眺めながらの微笑みの射精。女を喜ばせるこの行動、男に見られると『あいつ、射精』となるのでこっそり実行すること。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「行為が結果につながり、それに依って違う世界が広がる」 映画”悪の法則”より

「行為が結果につながり、それに依って違う世界が広がる。砂漠に埋められた死体もひとつの世界。置きっぱなしの死体も別の世界。初めて知るそれらの世界も実は前から存在していた。」
リドリー・スコットの悪の法則からの言葉です。重要な事は選択なのです。我々写真家は常に選択に囚われています。しかし同時にもし写真がこのような、ある意味決定論的な領域にさえ立ち入って行くのならば、選択は無意味になり放棄されざるを得ないのです。このような意味において、全ての写真は予め存在していて我々はそれをただ機械を通して現前化しているだけなのかもしれません。
しかし決定に抗うことなく与えられた選択を執拗に繰り返すこと、無為な行為と反復だけが我々に唯一出来うる確かな選択である以上、夥しい数の写真の積み重ねによって、平行して存在するであろう現前化されることのなかった別の選択との境界は僅かながら曖昧になっていくのかもしれません。
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