The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 8月号  毎月20日更新

–目次–
写真作家の写真史 金村修 × タカザワケンジ   ・・・・・・・・・ タカザワ ケンジ
百葉箱 Screen #05   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
写真作家の写真史 金村修 × タカザワケンジ
タカザワ ケンジ (評論家)
前回に引き続き、2012年に青山ブックセンター本店内の青山ブックスクールで行った写真史講座から一部を紹介する。
今回のテーマはベッヒャー夫妻。ベルント(一九三一~二〇〇七)と、ヒラ(一九三四~)という夫婦の写真ユニットです。
給水塔、溶鉱炉、サイロ、倉庫などの写真で知られる写真家であり、アンドレアス・グルスキー、トーマス・ルフら「ベッヒャー・シューレ(ベッヒャー派、ベッヒャー・スクール)」と呼ばれる作家たちを輩出したデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授だったことでも名高い。
歴史的な位置づけとしては、現代美術の文脈で写真作品を発表した先駆者の一人だと言える。
給水塔の写真がなぜ、現代美術作品として評価されたのか。
第四回:「記録、フェティッシュな興味、と見えてそうじゃない」ベッヒャー夫妻
◎作家の感性を〝殺す〟タイポロジー
タカザワ  ベッヒャー夫妻といえば、給水塔や溶鉱炉といった、その当時、すでに取り壊されそうになっていた産業遺産を主な対象に、タイポロジー(類型学)という概念にしたがって撮影した写真家として知られています。その作品は、展覧会や写真集のかたちで発表されました。展示の仕方もグリッド上に3×3に並べるという手法が有名です。
金村さんはベッヒャーについてどんな印象を持っていますか?
金 村 ベッヒャーっていうと、正面から、少し高いところから撮った写真ばかりだと思われているけど、よく見ると斜めから撮ったり、横から撮ったり。ルイス・ボルツに近いような写真っていうのかな──そういうのもあるんですよ。
一点一点をあらためてちゃんと見ていくと、カタログを作るというタイポロジーの意識も感じるんだけど、ディテールが面白いと思いましたね。手前に写り込んだ水が面白かったり、背景にある山が面白かったり。
そういうディテールが見えるということは、カタログ的に完成された見せ方になっているからこそ。中心以外が浮かびあがってくる。中心になっているものを見ても面白いし、背景だけ見ても面白い。
タカザワ  それは何のためのタイポロジーか、ということでもありますよね。タイポロジーっていうと、すぐに連想されるのは図鑑で、写真だけ見ているとベッヒャー夫妻の写真も学術研究的な図鑑づくりのためなのかなあ、と思いますけど、どうやらそうじゃないらしい。じゃあ、いったい何のためのものなのか、という疑問が湧いてきます。
ベッヒャー夫妻が写真に持ち込んだタイポロジーについては先行者がいて、たとえばアウグスト・ザンダー。同じドイツの写真家ですけど、一九三十年代から、自ら考えた人間の分類を作り、その構想にしたがってポートレイト写真を撮影していきます。
一見、図鑑的な構想のようにも思えますけど、ザンダーは研究者ではなく、市井の写真家。個人的な表現のためのプロジェクトとしてやっていた。個人的な表現、つまり芸術ですよね。
ベッヒャー夫妻の場合はポートレートではなく、古い工場などの産業遺産。しかも、ザンダーよりもルールが厳格です。シリーズにもよりますが、基本的には曇りの日に撮ることで影が出ないようにし、いま金村さんが言ったみたいに、ちょっと高めの視点から、大型カメラのアオリ機能を使って建物の歪みをなくし、画面内の大きさがほかの写真と揃うように撮影する。
まずルールを作って、淡々と撮りためていくという方法が特徴的です。この厳密さが異色ですよね。写真家って、もっと気まぐれや直感で撮影している人が多いと思うんですよ。
金 村 そうですよね。ロバート・フランクみたいに、作家の感性でシャッターを切るっていうのかな。その人が見て、いいと思った瞬間を切り取っていく。ルールを作って撮るって、技術さえされば誰でもできるじゃない? って、少し下に見るようなところがあると思いますね。とくに日本では。
タカザワ  作家の感性にオリジナリティがある、という考え方はたしかにありますよね。いまも。写真に限らないかもしれないけど。
金 村 タイポロジーってことは、作家の感性を殺すってほどではないにせよ、見せないようにする。作家の感性が見えないところで、写真としてどうやって成立するのかっていう。「作者」を批判するっていうのかな。
タカザワ  それって、天才を称揚する「芸術」とはちょっと違うアプローチですよね。天才神話が終わった後の現代美術的な考え方っていうか。
実際、ベッヒャー夫妻は現代美術の文脈で認められていて、たとえば、一九九一年のヴェネチア・ビエンナーレでは彫刻部門で金獅子賞をもらっています。
ではなぜベッヒャーは現代美術の文脈で理解されたのか。
ベッヒャーの写真はカメラという機械の眼を使って、対象となるモノを実直に捉えている。こうした方法論は図鑑などの実用写真の分野では存在しましたが、芸術写真の分野には入らないものだった。
つまり、芸術写真は作家独特の視点や、身体性があってこそ、その作家固有の表現だと認められるわけで、ベッヒャー夫妻の場合は、その固有さをあえていったん捨てて、ルールを定めることとそれに徹底してしたがうことでそれまでの芸術写真に疑問を投げかけているとも言えるわけですね。
◎「工場萌え」とベッヒャー
金 村 ベッヒャーが撮っているもののなかにはナチス時代に作られた産業遺産があるわけですよね。
タカザワ  古いものを撮っていますからね。重工業化していくドイツの歴史を撮っているともいえる。ベッヒャー夫妻は戦後のドイツ写真を代表する作家ですが、そこでは戦前からの歴史の連続性を見て取ることもできますね。ナチスという否定された過去にあったものを撮ることで、政治的文脈とは別のドイツ近代史が見えてくる。
金 村 それに、類型化、統計化して、区別化していく発想というのは、ナチズムが得意としたことでもあるんですよね。同じような方法を使って、ナチズムを批判しているところが面白い。
「家」のシリーズ(「Framework Houses」一九七七)なんか見ていくと、その家の歴史は剥奪されて、家のフォルムだけが見えてくる。昔、パリでやっていた、ポルポト派の顔写真だけで構成した展覧会があるんですけど、それに近いものがありますよね。
タカザワ  同じルールで撮っていくと、一つ一つの個性が表面上にしかないことがひしひしと伝わってくる。
金 村 まったく生き生きしてない。ある意味、指名手配写真と同じだから。ベンヤミンがアッジェを指して言った「犯行現場」の写真がいまも続いているということなんでしょうか。
タカザワ  写真の内容についてなんですが、まず驚かされるのは写真が揃っていることですよね。ぜんぶ違う場所で、季節も違うはずなんですが、空の色が揃ってる。
金 村 きっちりとは揃ってないんですよ。撮っている位置の高さが微妙に違ったり。
タカザワ  たしかにそうですけど。まあ、でも、撮影条件がぜんぜん違うところで、よくぞここまで、と思いますよ(笑)。
ベッヒャー夫妻は教師としても優秀で、夫がデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授で、しばしば自宅に学生たちを招いて夫妻で指導にあたったと言われていますが、教え子のアンドレアス・グルスキーやトーマス・ルフなどのプリントがことごとく大きい。いわゆるビッグ・ピクチャーであるのに対して、ベッヒャー夫妻のプリントは自宅の暗室でできる範囲のサイズですよね。
給水塔のような対象は、よく見かけるけど、見過ごしているものですよね。とくに価値があるとは思えない。機能だけで十分と思われているものだから、デザイン的なことにも関心が向かない。そこで彼らはそういう対象を「無名の彫刻(最初の写真集のタイトル『Anonymous Sculptures: A Typology of Technical Construction』一九七〇)」と呼んだ。
給水塔を彫刻に見立てる。つまり、無名のデザインとして発見した。
金 村 溶鉱炉なんか撮ると、おたくっぽくなったりするんですよね、「工場萌え」みたいな。ぜんぜんそういうのがないですよね。
タカザワ  とはいえ、給水塔や溶鉱炉に眼を向けさせたという点で、「工場萌え」ブームの元祖みたいなものでもありますけど。
実際、写真集『工場萌え』(写真=石井 哲、二〇〇七)の監修をやった大山顕さんにインタビューしたことがあるんですが、ベッヒャーが好きで、そのうえで、団地や高速道路のジャンクションを撮影したりしてる。だけど、大山さんの場合はアートではなくエンターテインメントで、という意識があって、被写体への関心を持つ人たちに向けて本を作っている。ベッヒャー夫妻は給水塔や溶鉱炉が好きな人たちに向けて撮っているわけではない。そこが大きな違いですよね。
で、写真として何が違うかというと、エンタメは臨場感、迫力があったほうがいいですよね。スペクタクルというか。ベッヒャー夫妻の写真にはそれがない。かといって、純粋な記録、実用写真かというと、そうではない。そこがベッヒャー夫妻の写真の面白いところであり、不思議なところです。
◎モノクロ写真に徹した理由
金 村 記録、フェティッシュな興味、と見えてそうじゃないようなんですよね。
タカザワ  一つは、撮影意図がはっきりしない。図鑑でもないし、エンタメでもない。それがベッヒャーの写真が芸術になっている理由の一つじゃないかと思います。
金 村 天気が良くて、影が出たり、質感が強調されたりするとまだ意図がわかるんだけど、曇天というところがね、曖昧なんですよね。たしかに曇天なら360度どこからでも撮れるから。太陽の位置に束縛されたいということはあるんだけど。
タカザワ  実際、一つの建物を360°撮ったりもしてますよね。ほかにも曇天に撮る理由は、ディテールまで出す、写真ごとのトーンの差を少なくするとか、いくつか考えられるわけですけど、それがベッヒャー夫妻の芸術にとってどんな意味があるのか、と思うんです。
金 村 そうなんですよ。意味はないっていうのかな。
タカザワ  図鑑のように、それらしさ。給水塔らしさ、溶鉱炉らしさを出すための方法論じゃないような気がするんですよね。もしも実用的な意味で情報量を増やすのなら、なんといってもカラーがいちばんなわけで、それをやらないということは、このモノクロ、白と黒で作った世界が重要だってことになる。
金 村 撮っているものの面白さを表現するならカラーにすべきだから。曇天で、コントラストの低いモノクロ写真にすることで、極端に面白いものでも、ヘンなものでも不思議なものにも見えない。
タカザワ  旦那さんは二〇〇七年に亡くなっていますが、奥さんはまだ健在で撮影も続けていると聞いています。ということは、いままでずっとモノクロ。
金 村 そうですよね。ベッヒャー・シューレの生徒たちはみんなカラーなわけじゃないですか。
タカザワ  ベッヒャーさんたちも、うんざりするくらい何度も「カラーはやらないんですか?」と聞かれたと思いますけど(笑)。おそらく、この白と黒で世界のある部分をできるだけ情報量多く再現していったときに起こることに関心があった。
金 村 たしかにトーンはぜんぶ出ているんですよね。でも、アンセル・アダムスみたいなゾーン・システムでもないし。
タカザワ  アンセル・アダムスはネガを楽譜、プリントを演奏にたとえたことで有名ですけど、それはつまり、最終的には演奏者の判断で一つの美学を完成させることが芸術だという考え方ですよね。ネガにたくさんの情報量があれば、プリントするときの可能性が広がる。そのときに、作家の意志を反映させることができるという。
しかし、ベッヒャーはアンセル・アダムス的な荘厳な音楽ではなくて、現代音楽的。味も素っ気もない音の連続のようでいて、盛り上がりのない、でも、深い意図がありそう、みたいな(笑)。アンセル・アダムスがベートーベンなら、ベッヒャーはジョン・ケージっていうか。
金 村 ぜんぜん盛り上がっていかないんですよ。ただただ音が続いてく。前に、ベッヒャーがグルスキーを批判している記事を読んだことがあって。何年前か忘れたけど。そのとき、ベッヒャーが言うには、グルスキーは対象に誠実ではないと。アーティストは対象に対して誠実であれ、と。
タカザワ  なるほど。グルスキーは一枚の大きな写真を作るために何カットもの写真をつなげて解像度を上げていますから、そのことを批判したということでしょうね。別々の瞬間をつないでいるわけだから。
金 村 ええ。ベッヒャーは誠実なのかあ、と驚いたんですね。
タカザワ  白黒にするってことは現実を虚構化する手段だとも思えますけど、ベッヒャーにとっては写真の持つ事実性、記録性もやはり重要だったということでしょうか。だから教え子のグルスキーに一言言いたかったのかなあ。グルスキーは、オークションで写真プリントとして最高額を記録したことでも話題になった、いまもっともイケイケな写真家ですけど。
金 村 グルスキーがデジタルで合成するのは早かったですね。一般化する前に始めていたから。当時、写真を見た人が合成されていることを知らずになんでこんなにピントがいいんだ、と言っていたくらいで。
タカザワ  絵画的というか。自分のイメージを作るために写真を利用している。写真の合成自体は写真が発明されてからまもなく始まっているし、珍しい方法ではないですが、それを最先端のテクニックで徹底してやっている。コマーシャルではあたりまえですが、アートフォームのなかでやったという点では先駆的です。
金 村 グルスキーの写真は、年代が最近になればなるほど、面白くなっちゃってますよね。こりゃベッヒャーも怒るだろうっていう(笑)。これ、面白いじゃない?(笑)みたいな。
タカザワ  エンターテインメント性が出てきてますよね。まあ、逆にいえばそれだけ一般性を獲得したとも言えますけど。
◎ベッヒャーを「更新」した教え子たち
タカザワ  そのほかのベッヒャーさんたちの教え子を紹介しておきましょう。
トーマス・ルフ(一九五八年生まれ)。初期は建築物や、白バックの証明写真みたいなポートレートをタイポロジーの手法で制作していましたけど、ポートレートの後半から写真を巨大にプリントするという展示の仕方を始めて、タイポロジーとは違う面白さが出てきた。ヒューマンスケールを超える顔の写真になって、誰かの写真という固有名詞付きの写真ではなく、抽象的な「人間」みたいなイメージになってるんですよね。それはルフ自身が発見だったと言ってるんですけど。
デュッセルドルフに大きなプリントをするラボがあって、ベッヒャー・シューレの人たちはたいがいここでプリントするらしいです。インクジェット以前から大きく出来たってことですよね。
金 村 人の顔に限らず、スケールが大きくなると違って見えるんですよね。安村崇さんの『日常らしさ』。ニューヨークでプリントを見たけど、みかんが人間の頭より大きいんですよ。それを見ているとヘンな感じになってくるんですよね。
タカザワ  その後、ルフは撮影そのものをやらなくなり、インターネットから画像をダウンロードして、画像処理して巨大なプリントにする「JPEG」シリーズや、NASAの画像データを使った土星のイメージ「cassini」などのシリーズを制作しています。
ほかにはトーマス・シュトゥルート(一九五四年生まれ)。世界各地の道を撮ったシリーズや、美術館、家族などをテーマにした作品を作っています。タイポロジーの作法に従った作品が多いですが、美術館シリーズのように、美術館で撮影した写真をさらに美術館に飾って撮影するという入れ子式の作品もあり、独自のアイディアが盛り込まれています。
金 村 山口県にも来ていましたよね。滞在して制作するっていう。
タカザワ  そうでしたね。日本のシリーズもあります。ドキュメンタリー写真としても楽しめる写真ですが。
金 村 大型カメラを持ち込んで撮ってるところがいわゆるドキュメンタリーとはちょっと違ってる。
タカザワ  この人のプリントも大きい。ベルリン郊外の廃工場を使ったギャラリーでとてつもなく大きなプリントを展示していました。
ベッヒャーが始めたことを教え子たちが受け継いでいくわけですが、それぞれのやり方で更新しているように見えますね。
金 村 ベッヒャーがどんな授業をやっていたのかについて詳しく書かれた日本語の資料がないから、彼らがどれくらい影響を受けているのかよくわからないけど。ベッヒャーの写真にはある貧しさがあるっていうのかな。教え子たちの作品とは違いますよね。プリントがデカいっていうのともまた違うんだけど。
タカザワ  一つ言えるのは、ベッヒャーが登場した時代は、写真は写真で、現代美術のなかには入っていなかった。ところが、ベッヒャーの作品が現代美術に受け入れられていくのと平行して、現代美術のメディウムとして写真が重要な位置を占めるようになっていく。教え子たちはその後の世代ですから、ベッヒャーたちが作った文脈のなかでどうやっていくか、ということを考えていたと思う。その意識の違いは大きいんじゃないでしょうか。
金 村 最初から美術館で展示しようという発想があったんでしょうね。それでプリントも大きくなっていった。ヨーロッパの美術館はどこも天井が高くて広いから。大全紙とかロール紙くらいのサイズだと小さく感じるんですよ。壁面が埋まらない。美術館で展示することを考えている作家が、九十年代以降、たくさん出てきたんじゃないかなあ。
韓国の写真家なんかはビッグサイズのプリントをよく作っているし、日本では北島(敬三)さんとか。一時期すごく大きくしていた。
タカザワ  ハコが内容にも影響している。
金 村 そういう会場でどういうふうにやるかっていうね。日本だと小さいギャラリーがほとんどだから。僕が写真を四段掛けで展示するようになったのも、ヨーロッパで展示したとき、一列だとどうしても余白がおおきくなっちゃうから。じゃあ、四段で埋めよう。いちばん多かったときで八段ってことがあったけど。
タカザワ  金村さんの写真は原則横位置ですから、壁がタイル状にびっしり写真で埋まる。グリッド状とも言えますが、ベッヒャー夫妻のグリッドとは印象が違う。
金 村 僕の場合は写真をたくさん並べることで一枚の写真を特権化しない。一枚の写真が持っている面白さってあると思うんですよね。ビルが写っていたり、看板が写っていたり。それが壁一面に貼っちゃうと、そういう面白さが消えちゃうっていうのかな。たとえばちょっと情感あふれる写真を入れても、そう見えてこないんですよ。
タカザワ  ベッヒャー夫妻の場合はグリッド状にすることで、比較検討するような見方へと誘っているんだと思いますけど、金村さんの場合はそれをむしろ拒絶するというか、カオスにしている。
金 村 ベッヒャーは額装してますからね。僕はしない。そこも違いますね。
◎手作業を放棄しないベッヒャー
タカザワ  歴史的なことを確認しておくと、夫のベルントさんは一九三一年生まれ。妻のヒラさんは三歳年下の一九三四年生まれ。アンディ・ウォーホルがベルントさんより三つ上の一九二八年生まれ。ウォーホルとウィノングランドは同じ年生まれなんです。ニューヨークの戦後のアート・シーンの中核になる世代ですね。ニューヨークは戦後、世界の美術界をリードしていたし、かつ、写真の国でもあった。ウォーホルも写真を撮っていますからね。ベッヒャー夫妻はその少し下の世代で、戦争に負けたドイツで多感な時代をすごしている。
日本だと、東松照明さんが一九三〇年生まれで、VIVO世代ですね。彼らに共通しているのは、写真といえば報道写真、広告写真などの実用品だったところから、そういう表現に対する批評精神を持った表現としての写真が登場してくる。政治的なことを背景に置きつつ、ドキュメンタリーではなく、アートとしての写真作品を制作していった。
金 村 ベッヒャーは自分でプリントしていたんですか?
タカザワ  していましたね。だからサイズがそれほど大きくないんでしょう。
金 村 自分の手が入るっていうのかな。ウォーホルもけっこう自分の手を入れてるんですよね。手放さないんですね。
タカザワ  二十世紀のモダニズム写真の価値観に従っているというか、「写真」の伝統に忠実だったということかもしれません。それも教え子の世代とはちょっと違いますね。教え子たちはラボで巨大なプリントを作るわけですから。現代美術だと、アイディアや設計はするけど、制作は外注するというのは普通ですから。
金 村 教え子たちは手作業を手放していった。最終的には撮らなくていいんだという人もいるわけだから。コンセプトに従うならそのほうが正しいんですね、きっと。
ウォーホルも完全には人任せにしなかった。自分で手を動かしていた。コンセプトアートをやらなかったのはそのためかもしれないし。どっちが良い悪いではなく、どっちが新しいでもないんだけど。その人の決意がそこにあるっていうのかな。
タカザワ  決意。美しいですね。大変だったと思いますけど。そんなにプリントがすぐに売れたわけではないだろうし。
金 村 そんなに儲かるわけではないだろうし。いろんなことやってるしね。給水塔だけじゃなく。
タカザワ  モノマニアックなところと、積み重ね。それは時を超えて、いまでも見る人の心を打ちますね。
それと、「工場萌え」的なフォトジェニックな魅力を先駆けて発見したところも重要だと思いますね。一九三〇年代のノイエ・フォトあたりのモダニズム写真にその根っこがあると思いますが、アルベルト・レンガー=パッチュらが自分たちのフレーミングによって「世界は美しい」と歌い上げたのに対して、ベッヒャーは、それこそ「対象に誠実に」産業遺産を淡々と撮った。写っているものの魅力にシビれた人たちがたくさんいるということもベッヒャー人気が衰えない理由の一つだと思います。
百葉箱 Screen #05
小松 浩子 (写真家)
かくれんぼとは国を問わず存在する伝統的な子供の遊びを指す。明確なルールは規定されていないが一般に2人以上によって行われる。1人の鬼と残りの子に分かれ、鬼は何らかの方法で視覚を遮り事前に決められた数を発声して数え、子は鬼が数え終わる前に場所を探し隠れる必要がある。数を数え終えた鬼は子が全員隠れ終えたか問いかけにより確認した後、捜索開始の宣言し、隠れている子を発見するたびに発見宣言をする。最終的に子が全員発見されると最初に発見された子が新たな鬼となり次回を開始する。隠れるのに良い場所が見つからないまま捜索開始が宣言され、茂みの影に身を隠す。鬼との距離が50cm程になり息を殺して鬼の発見宣言を待つが為されない。鬼と差し向かい近距離から鬼の目を覗き込むと焦点が自分を通り越して背後の茂みに合っている様子で、鬼は暫く目を凝らしてから方向転換して新たな捜索の為に走り去る。目は光を受容する感覚器であり光の情報は目で受容され中枢神経系の働きによって視覚が生じる。ヒトは出生時には明暗の判別のみで殆ど視力が無いが、生後1ヶ月で物の形状を識別でき、2ヶ月で色を認識できるが外眼筋が未発達のため目は動かせない。4ヶ月で外眼筋の発達により動体を目で追えるようになり、1歳で両目を使って物を見る両眼視が機能し立体感・遠近感を認識でき、6歳で視力がほぼ完成する。6歳で視力が完成する以前の眼球は小さく短いため遠視の状態にあるという。鬼が茂みの影に居るだけの人物を発見出来ない理由として若年性の遠視であり本来見るべき地点より焦点が後方にずれたとの推測が成立する。また、暗順応とは可視光量の多い環境から少ない環境へ急激に変化した場合に一時視力が低下し時間経過と共に徐々に視力が確保される自律機能を指すが、光量の少ない茂みにおいて鬼が暗順応を待たずに移動したとの推測も成立する。ラップ現象とは超常現象・心霊現象の一つで、誰の関与もなく無人もしくは無人に見える空間から音が発生する現象を指す。フォックス姉妹は1848年アメリカでラップ現象に遭遇した際に、Yesで1回、Noで2回音を鳴らすルールを規定し殺された行商人の霊と交信することで事件を解明したとされる。隠れている状況や何らかの視力低下が推測出来る状況に限らず他者が自分を発見出来ない事態が頻繁に発生し、結果として他者の独白や奇行を目にする事になり図らずもプライバシーを侵害する事になる。肉体を持ってはいるが霊と同様にラップ現象で存在を知らしめる為に他者に近づく際には音を発生させるルールを自身に規定する。
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
ブルースの円環的なAA’Bの12小節反復構造は、17世紀に西洋で発明された時計に表象される直線的な時間概念とはかなりの部分で相反するだろう。円環構造としてのブルース・ミュージックは、自然の循環運動に対応する農耕民族の時間感覚と共通するところがあり、両者の共通する構造は基本的には同じことを繰り返し、反復する。西洋の時計に表象される直線的に流れる時間やコーダに向かって進行する時間感覚、分数や秒数に細かく厳密に区分けされる数値化した時間を基礎に置いた西洋音楽とブルースの円環構造とは相容れることがない。ブルースマンは音楽の進行を前方、未来にむけて起承転結的に進むことや、テンポの統一、小節線を導入することで音楽を数量化して捉えるのではなく、同じことの繰り返し、反復という農耕民族の円環時間に寄り添う。彼らの12小節の反復構造は、時間の揮発化、時間の渾然化であり、曖昧で区切ることのできないただ無限につづいているような進行しない、同じ場所に留まりつづける原時間というような原始的な時間感覚に回帰するだろう。
レッドベリーのゴールの見えない、だらだらとつづくだけの未来のない音楽は、未来に見放されただけではなく、現在にも過去にもレッドベリーは見放されるだろう。“月曜日に警察に捕まり、火曜日に調書を取られ、水曜日に判事から判決を言い渡され、木曜日には誰も保釈に来てくれないからそのまま収監される”と唄うレッドベリーにとって、未来は袋小路であり“誰も保釈に来てくれない”とその場で嘆きつづけているしかない。時間が進行することを止めてしまい、最悪の現場に留まることしか知らないレッドベリーのブルースは、そもそも時間が未来に向かって進んで行き、その進んだ先の未来に自分がいることが理解できないだろう。“Death Letter Blues”のように未来は突然終わりを告げる存在だと思っているレッドベリーにとって、未来が実現する現実は“あの娘は死にました 冷たい土の上で 春になるまでここで 埋葬しないで 横たわっています”。レッドベリーの未来は“Death Letter Blues”のような手の施しようのない一方的な宣告なのだ。手紙があの娘は死んだことを伝えてくれる。冬で土が凍ってしまい、凍った土が溶け出す春まで遺体を凍土の上に置いておかなければならないと書いてある手紙を読んで、もしかしたらあの娘は審判を受けるその日までこの土の上に寝かされているのだろうかと諦めるように唄う。死んでもまともに埋葬してくれることもなく、審判の日からは除外され、永遠に復活することのないレッドベリーの煉獄の未来。“地獄の番犬が追いかけてくる 地獄の番犬が追いかけてくる 地獄の番犬が追いかけてくる”のに彼らはそれでもそこから逃げ出そうともせずに同じところで廻りつづける。彼らの音楽は、時間から追放された音楽なのだ。時間の蝶番が外れて、“地獄の番犬”のような原生の時間が忍び込んでくる。原生の時間は、マディ・ウォーターズが唄う“いつまでも木綿畑を歩いている”ようにそれはどこまで行っても同じ風景の、行き場のない時間であり、行き場のない時間の前で立ち尽くす。ブルースは未来のない壁の前でいつまでも立ち尽くすだろう。
具体的に経験する人間の時間感覚を言葉はつくりだす。過去形や現在進行形、未来形という時制を使って言葉は文法を形成する。文法によって形成された言葉を文章として読むことで、時間がまるでまっすぐ進むような感覚をおぼえ、過去・現在・未来というふうに時間が直線的に進んで行くように思える。言葉によって、わたし達は、なんの違和感も感じさせないまま過去・現在・未来という直線進行の時間感覚を受け入れるだろう。ブルースマンが歌詞の結末をつねに曖昧にして唄うのは、歌詞が、文として形成され、形成された文によって過去・現在・未来にと無意識に進んで行ってしまう、つくられた外部としての文法の構造に規定された時間感覚を、自己の内部に先天的にあったかのように置き換えさせられる嘘の時間感覚に対しての違和感なのだ。具体的に生きてきた自己の経験としての先天的な時間を、直線的に進行する外部の時間感覚に無意識に委ねてしまうことに対する錯覚と反発。外部でつくられたものを先天的にあった内部性だと思い込まされる錯覚に、ブルースは違和感を唱える。例えば西洋音楽の長調や短調の制度的な区分けに対して、ブルースはその区分けの不可能を説くだろう。三度と六度と七度がフラットすると自動的に悲しい気持ちになる西洋音楽に対して、三度はフラットしないで六度と七度だけがフラットするというブルースの曖昧なコードは、悲しいとか楽しいとかという感情を抱かせない。感情を自動的に喚起させる西洋の調性の制度に対し、ブルースは悲しくもなければ嬉しくもない、抑揚のない、感情を放棄した調性法を西洋音楽の世界に差し出すだろう。
マディ・ウォーターズは時制を無視し、過去形と現在形を意識的に混同させる。ガーシュインの黒人オペラ『Porgy and Bess』も文法の間違いを知りながら公然とそれを無視する。『Porgy and Bess』の一節、“I Loves Porgy”の動詞+Sの語法は、一人超と三人称の混同というブルースの流儀に従い、一人称を三人称で分裂、切断することで中心を廃棄しようとする。混合と分裂を繰り返すIとPorgyがいつまでもループするブルースの円環構造のなかで無限に細分化されシャッフルされる。わたしはあなたに細分化され、あなたはわたしに細分化され、細分化されたわたしやあなたの断片がシャッフルされて、無数のわたしでないわたし、あなたでないあなたが産み出されるだろう。“I Loves Porgy”のIとPorgyは、特定されたIとPorgyではなく、どこにも存在しない無数のシャッフルされたIとPorgyなのだ。特定されないIとPorgyは特定されないがゆえに、なんにでもなることができる。人間だろうが動物だろうが、なんにでもなることが可能なのだ。ブルースは類似によって世界のなかに浸食するだろう。チャーリー・パーカーがバードという鳥類に模され、キャノンボール・アダレイが大砲に模されるように“I Loves Porgy”は世界のすべてと類似する。分割できない原生時間に生きるブルースマンは、主客の区別のない渾然とした持続のなかで彼らは、ハウリング・ウルフ(狼)やレッドベリー(鉛の腹)、ジョン・リー・フッカー(ペテン師)、キャット・フイッシュ(なまず)、マディ・ウォーターズ(沼地)になることができる。
“あの娘が行ってしまった、あの娘が行ってしまった、あの娘が行ってしまった”と結論がつかないまま同じことを唄いつづけるブルースマンに音楽は時計の針のようには進まない。無限にループする12小節の繰り返しに、“あの娘”に付与され同定されていた意味が揺れ動く。“あの娘が行ってしまった”の特定された対象のあの娘が、いつのまにか特定の“あの娘”ではなくなり、いろんな記憶がパッチワークされた身元不明の“あの娘”に変質する。円環時間の構造を基礎土台にする反復ミュージックとしてのブルースはまず小節のあたまを曖昧にさせることで、小節線で区分けされる音楽の時間をあやふやにして、どこを演奏しているのか特定できなくさせ、歌詞は何度も繰り返すことで言葉の意味を消し、対象物の特定をできなくさせ、どこにも存在しない“あの娘”を現前させるだろう。反復は中枢神経を麻痺させ、具体的な記憶のディティールを溶解する。“俺の愛した女は四人だけ ママと妹と妻とあの娘”と唄うレッドベリーにとって世界は、この四人の個別性がなしくずしに崩れたまま渾然一体化したものとしてあらわれる。身内の女性だけで無数の世界の女性と通底させるレッドベリーにとって世界のディティールはどれも“ママと妹と妻とあの娘”の生き写しであり、ママと身内のみんなが生きていた幸福なあの頃の全能感が、三連のリズムにのった軋んだボトルネックの連続音のなかで想起される。
ブルースは象徴界を経由しない、想像界なかに留まりつづけ音楽であり、欠落、不在を体験したことのない(想像界には現前するものしかないので、想像界ではものの不在を経験することができない)想像界のなかで欠落と不在についてしか唄わないブルースマンが想像界で生きるということは、つねに“ここではない どこか”、不在なのにその不在を言語化できないため自分の生きている場所が分からない世界で生きている。ブルースマンにとって全能の想像界はバランスの悪い欠陥だらけの全能を感じられない全能感の世界であり、全能感の残骸としての想像界としてあらわれるだろう。ブルースには全能性としてのファルスを去勢しろという父の声が先天的に欠けている(彼らはママか恋人か神さまについてしか唄わない)。ブルースは父の名を必要としない音楽だ。彼らには父も抑圧も教育も規範もいらない。存在を全否定されて幽霊のように扱われている人間に父や抑圧や教育や規範が必要なのだろうか。彼らは父親を殺したのではなく、父親を必要としない、父親という存在を積極的に放棄するために全能のファルスを黒い蛇の王様だと擬人化して唄いつづける。
父に代わるものとして、神さまについて唄うときは、たいてい洪水という手のつけようのない自然現象に直面したときにあらわれる神さまであり、それは救済を祈る対象というよりも、どうしょうもない事態にお手上げで諦める、ぼやきを聴いてもらうための対象として神さまが存在する。それは主体的な個人を立ち上げ、基盤となるための、法としての父とは違う神さまだ。欠如や不在を対象化することで全能の想像界から主体を立ち上げるための象徴界へステップアップする近代的個人に対して、欠如や不在を対象化する必要のないブルースは、不在を嘆くだけであり、誰にも救済を頼まない。欠如と不在に取り憑かれたブルースマンは強迫観念のように“おれにはなにもない なにもない なにもない”とそのことだけを執拗に反復する。欠如と不在に言葉という代理を与えず、からっぽのまま、欠如と不在以外になにも入り込むことのないブルースマンが、彼らをブルースマンたらしめるために欠如と不在を強迫神経症的に反復すること以外なにもない。そのからっぽの孔をそのままからっぽにしつづけていることで主体の成立の不可能を唄うだろう。彼らの強迫神経症的な反復は、繰り返すことで同一性を獲得するための反復ではなく、反復を繰り返すことで同一性が分割、砕片化、複数化するための反復なのだ。過去形と現在形が曖昧に取り違えられ、主語の位置が何度も反転して誰が歌の主人公なのか分からなくなる。何度も唄われることで歌詞は放棄され、最後は唸り声しか唄わなくなるジョン・リー・フッカーはペテン師というペンネームのとおり複数の人間に化ける。騙されてこの国に連れてこられた彼らにとって存在はつねに分裂的であり、世界はペテンと同義語なのだ。 主体を成立させるには、まず想像界での欠如体験を言語化すること。その言語化され、対象化された欠如体験が主体を成立させる重要な条件として登場する。統一された主体を成立させるために欠如を主体の中心に置こうとする近代的自我は、絶対的欠如を主体の根拠とすることで、無目的に蠢く諸欲動のセリーをその絶対的欠如、からっぽの孔に閉じ込めようとするだろう。そのような欠如はすでに欠如ではなく、絶対的欠如の空間は言語によって対象化された欠如体験=言語で埋め尽くされている。ブルースマンにとって言語は唸り声や叫び声であり、オノマトペを唸るために、言葉にならないなにかを叫ぶために使用され、主体の統一性を獲得するために欠如と不在を対象化する言語の使用法をブルースマンは拒否するだろう。
抑圧、制御、教育、規範という父性的機能に対してブルースマンは、父という名の抑圧装置に回収されることを拒否する。彼らの唄う父は、たいがい泥棒かペテン師か竿師か人殺しで、家ではアルコール依存のドメスチック・バイオレンス(ブラインド・レモン・ジェファーソンは母親が間男といるのを目撃してしまったので、証拠隠滅を図った母親に目に塩酸をかけられて失明する)という統御を司る人間としては最悪な人物しか登場してこない。彼らの象徴界はブルースの悪のセリーでいっぱいなのだ。抑圧もされず、制御もされず、教育もされず、規範すべき対象もない。父性的機能の欠けたブルースマンにとって、選択と位置づけで構成される階層的秩序の成立は最初から廃棄されている。彼らには、証拠隠滅のために目に塩酸をかけた母親でさえ愛の対象になる。“あらゆるものが同時に起こる”(ボブ・ディラン)。なにが重要でなにが無価値なのか線引きするその基準を放棄する。なにもかもが対等であり、選択という境界を突破してあらわれる全能の無意識が、塩酸をかける母や、泥沼のなまずや、夜中に太鼓を叩きながら祈祷する神様もみんな同じものにするだろう。喪失と充実は同義な言葉としてブルースマンには理解される。過去時制と現在時制、あったとあるを混同しながら唄うブルースマンに想像界以外に住むべき場所はない。“この世に住む家とてなく”と唄う彼らには三界に家はないのだ。
過去時制と現在時制の無分別な混交は、記憶のなかの階層的秩序を無効にする。ブルースマンの記憶は自身の体験した事実と、どこかで耳にした噂話が混同され記憶される。それは無差別にシャッターを押して、目前の光景を無秩序に脈絡なしに蓄積して結局どんな場所を撮ったのか分からなくなる写真のアーカイブとそっくりだ。整理されないアーカイブ。物質と犬とママが一緒に同じ地平であらわれるアーカイブ。わたし達にとってアーカイブの欲望は口唇期性欲であり、区分けや種別は無化され、みんなまるで同じに見えるという整理されないアーカイブの幸せは、口唇性欲期の全能感溢れる欲求を肯定するだろう。
統一性を失った記憶から無分別に検証なしで掬いだされ唄われることを肯定するブルースでは、過去も未来も現在も一緒くたにあらわれるだろう。正しい時制で唄う必要がブルースマンにあるのだろうか。過去形で現在について唄うマディ・ウォーターズの唄い方がブルースの流儀であり、無理矢理連れてこられて好きでその土地にいるわけではない彼らにとって、つじつまを合わせなければならない理由なんてなにもない。自身がそこにいること自体がすでにつじつまの合わない事態なのだから。統一されなければならない人格を持ち合わせる必要もない。すでに半身を無理に切り離されてここに分裂的に存在させられているのだから。
行ってしまった“あの娘”と名指した過去形の“あの娘”が何度も歌のなかで反復されることで、過去からきた“あの娘”の意味が揺らぎつづける。無意識が意識上に浮上してくるには言語が必要だとフロイトの説に従うなら、ブルースマンも無意識を言語によって表現しようとしているのだろう。ただ彼らの言語の使用法は正しく意味を伝えるために使うのではなく、言語に何重も意味を重ねて、言語本来の意味を無効にしようとしている。ブルースマンの黒い無意識が“ロージー、綿摘みが終わったら裏の小屋に遊びに行こう”とロージーという名前で呼ばれる“あの娘”の裏側に無数の黒い無意識が張り付いて、“あの娘”は実体として存在していた“あの娘”ではなく、狼や鉛の腹、ペテン師、なまず、泥沼と共通する黒い無意識を示唆するものとしてのロージーがあらわれる。 人間に統合的人格を与えるために無意識下に集められた過去が言語化され、階層化され、統合されて浮上してくるという人格形成のプロセスに対して、ブルースの反復は言語にジョン・リー・フッカー的なブギの平手打ちや、オーネット・コールマンの『バージン・ビューティー』の全員のテンポがずれたまま進行する統合失調症的に無作為に行われる気まぐれなリンチを人格形成のプロセスに与えるだろう。自らの芸名にペテン師や罠、なまず、泥沼、泥棒という、市民社会では最低なことを差す言葉や反社会的人格を肯定的に名付けるブルースマンは、記憶の水面下から浮上する無意識に従い、統合された人格をデルタ地帯の泥沼のなかに廃棄する。ロバート・ジョンソンの泣きながら笑うような唄い方や左手の運指と右手の動きが分裂しながら進行する奏法のように“あらゆるものが同時に起こる”ために統合を司る中枢神経が放棄されるだろう。カメラが人間の中枢機能を破棄して統合を放棄したように、心臓が笑い出し内蔵が勝手に動きだすように、右手と左手のテンポがずれたまま進行し、右足と左足が違うリズムを刻む彼らの楽器演奏に中枢機能はただ邪魔なだけだ。
統合的人格を保証する根源的なアイデンティティに対して、“がらがら蛇をネクタイ代わりに 有刺鉄線の上を40マイルも歩く”と虚勢を示し、“のたうちまわる 黒い蛇 蛇の王様”と自らの性器を黒い蛇になぞり、“真夜中の路上で車の衝突した音が聴こえる おまえの家の裏口のドアに立ち 静かにドアを叩きつづける”と黒い性器となったブルースマンがプチ・ブルジョア達の家に侵入する。ブルースマンにとって家と路上の区別は最初から破壊されている。わたしと他者という存在の区別も、わたしのものとあなたのものという所有の区別も廃棄されている“がらがら蛇をネクタイ代わりに”した黒い蛇に、統合統一された人格や区分けが必要だろうか。黒い蛇のアイデンティティを保証するものは性的欲求だけで、そのあまりにも場当たり的で気まぐれなアィディンティティは、彼らの主体を規定する超越的な者が不在のまま生きていくだろう。彼らに命名権はない。客観的な存在として、動物的な存在として生きて行く。ブルースマンはつねに見られている存在であり、命名されるしかない存在なのだ。彼らは白人に命名された名前で生きていき、その期待に答えるように行動するだろう。おんなを一晩中のたうちまわらせることのできる黒光りした黒んぼのキング・スネーク、精力絶倫のフーチ・クーチ・マンとしての期待に応え、黒くて絶倫のキング・スネークが真夜中におまえの家の裏口からしのび込むかもしれないというプチ・ブルジョアの恐怖にも応える。ブルースマンは見られることを肯定して、見ている人間の想像に徹底的に答え、その期待や恐怖のリミットを超えることで彼らのイメージを凌駕する。彼らは命名することになんの価値も感じない。命名?むしろ命名され、その期待に応えること。見るのではなく、見られつづけること。圧倒的な男性的性機能を所持するという黒い神話が、命名した白人側の性意識を揺り動かす。男性的性機能の優位を想像させる名前が、白人側のアイデンティティを期待通り揺り動かす。彼らは彼らの根拠のない恐怖感をブルースマン達に勝手に投影しているだけなのだ。人格の成立に隠された性意識の抑圧がブルースによって剥き出しにされる。統一的な人格の隙間に、黒い性意識がしのび込むだろう。抑圧、制御、教育、規範によって形成された白人のアイデンティティを成立させている場所を真っ黒な性意識で埋め尽くす。“ブーン ブーン ブーン 誰でもいいぜ”と唄うジョン・リー・フッカーは性的対象を選ばない。無作為で無差別な欲望は、まるで洪水のようであり、彼らはこの世界に決壊をもたらすものだ。中産階級の妻、娘、家族を黒い性意識に寝取られるかもしれないという恐怖が彼らの人格の根拠を叩き潰すだろう。抑圧、制御、教育、規範という父性的機能を、快楽しか求めない黒い性意識が“ブーン ブーン ブーン あんたでもいいんだぜ”と嘲笑う。
象徴界を経由した性的欲求は、言葉を与えられたことで、男性機能と女性機能の安定した象徴化が成立して異性間の個別性を獲得する。想像界に留まりつづけるブルースマンは、自らの性的欲求に言葉を与えないために男性機能と女性機能の象徴化が成立せず、性的立場が混乱したまま“ママ ママ ママ あの男は誰だい 裏口から出てきた男は”とママと異性への欲求が意識的に取り違えられる。“俺はおまえとやりたいだけだ”というあからさまな欲求だけが突出し、“おれの女は おれの友達と 片っ端から寝る”社会的な関係を無視した無差別な性的欲望が公然と肯定される。“洗濯なんかしなくてもいい 料理なんかしなくてもいい 俺はおまえとやりたいだけだ”と唄うマディ・ウォーターズにとってアイデンティティの根源は性的欲求だけであり、性的欲求は食欲や睡眠という肉体の保存意識と対立し、肉体の死滅を要求する。食欲や睡眠欲という肉体の保存を二の次に考える彼の思考は、破壊的な性格としてあらわれるだろう。肉体という境界の廃棄。性的欲求とは自他を差異化する欲望ではなく、自他の境界線を無効にする欲望なのだ。口唇期の欲望に回帰しようとするブルースの欲望は、アイデンティティの放棄を呼びかけ、共同体によって規定された性的関係の廃棄を要求する。象徴界を経由していないブルースは、性的欲求に言葉を与えない。言葉を与えられない性的欲求は性別や種の違い、共同体のタブーという垣根を飛び越えて、あらゆるものに性的欲望を感じるだろう。
彼らは昼に対して夜を持ち込むことで統一的な世界に、ある分裂をしのび込ませる。統一的人格の昼に対して、もう一つの人格、真夜中を覚醒させるためにハウリング・ウルフは唄う。“誰もがぐっすりと眠り込んでいるときに おれはどこかで深夜の夜這いを仕掛けてる そう、朝が来て、鶏が鳴くときに 何かがおれに告げるのさ 行かなきゃならん、とね おれは裏口の男 バックドアマンだ そうよ、野郎どもにゃわかりゃしねえが 可愛い娘っこどもは理解してるぜ”ブルースは統一的な人格を維持しようとする彼ら白人の精神に侵入するための秘密の裏口のドアを発見するだろう。レッドベリーの『ブルジョアのブルース』は“二階に黒んぼは上がってくるな”と唄う。白人達の頭上にはいつか黒い蛇でいっぱいになり、天上を突き破って彼らが落ちてくる悪夢を見るのだ。人格の危機はいたるところにあらわれる。“今夜はあの娘のパーティー 友達はみんなバリウムを飲んで 病院のベッドに横になっている あの娘の無事を祈ってるよ 彼女は叫ぶ 人格の危機がやってくる”。人格のほころびをさらに拡げ、なにもかもが入ってくる準備をしなくてはならない。人格はいつも危機的な状況と隣り合わせで“このまま雨が降り続いたら 土手は決壊する 土手が決壊したら もう住むところがない”決壊の危機をブルースは、“おれは土手に腰をおろして 一晩中咽び泣いた”ようにその危機を肯定する。近代的人格を形成する超越的空間がいつもなにもないからっぽの孔ならば、ブルースマンはそのからっぽの空間を言語の代わりに黒い蛇でいっぱいにするだろう。彼らは蛇、なまず、鯉、ふくろう、もぐらとどんな動物になることもできる。ドゥルーズが言うように文学がヤマアラシの死で始まるなら、ブルースはデルタ地帯一帯で棲息する動物達の死から始まるのだ。ブルジョアが永遠の生命を信じているなら、死は“夜は暗く 土は冷たい”路上の上で埋葬もままならず、この世に痕跡を何一つ残さないブルースの側につく。永遠の繁栄を信じ、神に選ばれた民族だと思い上がった彼らの仮像と本質が一致した世界に、死んだ黒い蛇がミシェル・フーコーの『劇場の哲学』のように“戸口で模倣を試み大声で騒ぎたてているあの悪賢い連中たち全員に向かって、扉を開いてやろうではないか。するとそのとき仮像の洪水を呼び、仮像と本質との婚約を廃棄しながら門を入ってこようとするもの、それが事件なのである。物質の重さを追い払い、かたちをとらざるものが入ってくる。永遠を擬する円環を破壊しつつ、時間を超えた執拗さが入ってくる。純粋さとあらゆる混沌からおのれを浄化しつつ、透視しがたい差異性が入ってくる。偽りの類似の虚偽性に揺さぶりをかけつつ、摸像の類似性そのものが入ってくる”。
ブルースはアナロジーであり、星座のようにあらゆる意味を与え、世界を美しく摸像するその意義を語るだろう。その意義がその場しのぎでも、根拠のない嘘であってもブルースはその意義をいつまでも語りつづける。レッドベリーは憎しみについて唄うことと、この世界の美しさと共同体の道徳について唄うことを同義のように思っていたようだ。憎しみと嘘と愛が類似する関係だと思い、憎しみと嘘と愛がお互いを摸像し合う関係だと思っている。『グッドナイト・アイリーン』を作詞作曲したことで、当時の南部の知事を感激させて、懲役三十五年を一年に短縮させたレッドベリーは、釈放されて一年後にまた強盗容疑で収監される。『グッドナイト・アイリーン』という美しい曲をつくった人間のやる行為とは思えないような恩知らずな彼の行動は、世間を欺いたというよりも、もともとブルースマンは善意と悪意が矛盾することなく同居する人格であり、市民社会の人間から見れば彼らはつねに偽りと間違ったメッセージを世間に送りつける誤解と悪意に満ちた人間なのだ。“愛したおんなは四人だけ”と唄いながら、何十人もの子供を巡業先の女性に産ませているレッドベリー。彼には歌詞の意味はどうでもいいのだろう。“姪っ子を可愛がれ”と唄うのと、その可愛い“姪っ子”をぶちのめすことが彼にとっては同義なのだ。共同体の道徳を遵守することに対して、レッドベリーは“博打はやめろ 家族を大切に”と唄いながらも不実とペテンでそれに応えるだろう。レッドベリーは道徳を『グッドナイト・アイリーン』で摸像する。摸像することで道徳を残骸化するのだ。家族や親戚への共同体への愛がレッドベリーによって美しく摸像され、類似的な関係につらなることで、愛は嘲笑され、ぐちゃぐちゃに叩き壊される。
“折戸の人生には何の迷いもなかった。それはハイウェイのように一直線に真っ直ぐにのびていた。彼には人間の悲しみなどは一向にわからなかった。うすよごれた人間の悲しみ。ゴミ箱で野良猫が食べ物をあさり、病室ではまた老人が痛みに耐えかねて声をあげ、勝呂がそれを慰めながら、モルヒネしか打てぬ苦しみを噛みしめているような、人間の悲しみを彼は知らなかった”『グッドナイト・アイリーン』を唄うレッドベリーの“摸像の類似”は、悲しみと笑いを同じようなものとして捉えるだろう。ブルースは感情を正しく規定するなにかが欠けている音楽であり、“ゴミ箱で野良猫が食べ物を”あさることと“うすよごれた人間の悲しみ”が等価値であり、ありえないもの同士が結合するために感情を野良猫の食べ物のように物質化する。“野良猫の食べ物”と“人間の悲しみ”という交叉不能なものが交叉する。“平行線は交わる”という不可能な欲望をブルースマンは肯定するだろう。アナロジーとしてのブルースは“平行線は交わる”という定理を導入するために蛇やなまず、鯉になること=憑依を肯定するのだ。
どんな憑依も受け入れること。一人の人間のなかにあらゆる人格が交叉する憑依こそ“平行線は交わる”という定理の具体的なあらわれであり、身体のすべての孔を憑依のために用意すること。“ヤツらに医者のところに連れて行かれて 注射打たれて孔だらけ 看護婦が悲鳴を上げたぜ お願い、この魂を救ってあげて”。無差別な性行為を連想させる注射で“打たれて孔だらけ”の腕。あらゆる場所に注射で孔を貫通させるか、あらかじめある孔を無分別に埋めようとするハウリング・ウルフの欲望は孔に複数の人格が性行為=憑依することであり、複数の憑依を引き受ける身体の肯定が“平行線は交わる”ことを希求する不可能への欲望に転化する。身体のすべての孔を複数の人格の快楽のために使用すること。身体のあらゆる孔を性行為としても利用可能なものにすることで、性行為と憑依は限りなく似通ってくるだろう。性行為と悪魔を同一視するブルースは、性行為を憑依の儀式のように思っているから“孔だらけ”の腕を見て、魂と性的行為を同じものとして連想するのだ。“彼女は言った 私のおっぱいね、いつでもあいてるわよ ベイビー、疲れた頭を私の上で休ませてもいいのよ 駐車場にはいつでも空きがあるんだし コカインと同情が欲しい時にはいつでもどうぞ”。複数の人格が憑依するために“駐車場にはいつでも空きがある”と唄うブルースは、身体のあらゆる場所になにかが憑依することを肯定するだろう。人格は一人の人間に所有できるものではないのだ。人格は本来、脈絡もない断片であり、中心はなくつねに周縁的であり、統合できず分裂的に存在する複数的なものだ。人格はつねに憑依され、いつもなにかに乗り移られている場所であり、ロバート・ジョンソンの唄う十字路は、魂を悪魔に売り渡して、見知らぬ誰かに憑依されるために、“あたまを垂れて沈み込む”憑依の場所としての十字路を肯定する。
“死んでもらおう こいつは人殺しだ、第一級殺人だよ 判事の女房が喚いたぜ この男を自由の身にしてあげて そこにいて とオマワリの女房が喚いたぜ 調書なんか取らないで 死んでもらったほうがいいわ 地面の下6フィートで 帰ってきたら、あんた、ポーク&ビーンズでも食うんだな おれは人が見たことがねえほど わんさといい女を食ってるぜ”。ブルースは取り憑き、取り憑かれる音楽だ。“判事の女房”も“オマワリの女房”もブルースにこころをからっぽにさせられ、性的欲求に取り憑かされている。性的欲求はどこか未知の世界からくる憑依の欲望であり、コントロールできないその欲望を肯定すること。未知の世界からくる性的欲求に突き動かされるように、“地面の下6フィート”の世界をブルースは肯定するだろう。“地面の下6フィート”という重力の支配を受けないブルース。西洋の音符は重力の法則によってつくられたものであり、三度と六度と七度がフラットすることで悲しみの感情が喚起させられるのは、地球の重力の法則に対応している。それに対して適当にフラットしたりしなかったり、クォーター分フラットしたりとかのブルースは、音階を成立させる重力を放棄して、重力に支配されている生活を唾棄するように呼びかける。“ポーク&ビーンズでも食うんだな”と下層階級の典型的なランチ定食“ポーク&ビーンズ”に対して性的欲求を対峙させ、黒い蛇となった男性性器の優位を説くブルースは生活を唾棄し、懸命に生きていくことを嘲笑う“死んでもらったほうがいい”音楽なのだ。
レッドベリーが南部の刑務所で“おまえの殺される顔が見たかった”と何度も反復して唄うのは、共同体が排除しょうとした記憶を何度も唄いつづけることでつねに現在進行形の事件として日々想起させることと、何度も繰り返すことで“おまえの顔”という特定の個人の、恋敵の顔に制約されていた殺意を全世界に無制限に解き放つためだ。レッドベリーは個人に特定された“おまえの殺される顔が見たかった”のではなく、無差別、無分別に“おまえの殺される顔が見たかった”のだ。ブルースの歌詞によく出てくる“ここでなければ どこでもいい”という定型句が、地上の世界を全否定する定型句であるように、“おまえの殺される顔が見たかった”というのは、おまえでなくても誰で構わない、誰でもいい“おまえの殺される顔が見たかった”という無制限の殺意を肯定する唄なのだ。 12小節を基本にしたブルース構造の音楽の便利なところは、小節のあたまがわからなくても演奏に参加できるところだ。12小節の繰り返しを基本にした音楽は、序章からテーマ、終章という直線的に解釈された音楽と違って、ひっくり返っても、ずれていてもなんの違和感も感じさせない。マイルス・ディビスの『オン・ザ・コーナー』のずれた演奏も2コードによる反復が基本なのでなんの問題もなくファンクに律動する。『オン・ザ・コーナー』の最後に聴こえるぎくしゃくとずれまくるリズムセクションをバックに従えたマイルスのむせび泣くようなトランペットを聴いていると、反復はこころを殺すのではないかと思う。ファンク・ミュージックは律動する機械の音楽であり、反復される律動が感情を高揚させるなら、その機械をずれるように使うということは、ダンス・ミュージックの律動に高揚させられたこころに敵対することなのだろうか。機械の変調を肯定し、変調してずれていく機械の律動に対して情感いっぱいのソロを吹くマイルスは、自分の情感溢れるトランペット・ソロを嘲笑っているかのようだ。バックのミュージシャンが演奏に没頭陶酔することを許さない『アガルタ』時代のマイルスは、ブルース的なクリシェを多用した、流れるようなソロ演奏に対して、オルガンのクラスター奏法で演奏を何度もストップさせる。クラスター奏法という脱臼的なブレイクを導入し何度もやり直させることで、ソロ演奏をストック・フレーズの消費からコーダを想像させる直線的に時間が流れる演奏に対して、終わることを拒否し、無限の反復を繰り返すというブルースの流儀にジャズを戻そうとしたのかもしれない。直線的に流れる演奏は所詮どこかに終わりを想定した演奏であるが、ブルースマンにとって演奏の終わりは存在するのだろうか。戦前に収録されたブルースを聴いていると、彼らブルースマンは終わりを想定して演奏しているとは思えない。彼らにとって演奏を収録するということは不可能なことなのだ。彼らは死ぬまでギターをパーカッションのように叩き、唸り声をあげていたいだけだ。そのある部分だけを収録して保存することにブルースマンはなんの感慨も抱かないだろう。
ブルースマンの欲望がデーターベース化されることは可能なのだろうか。過去・現在・未来というふうに一直線に時間が流れるのではなく、過去・現在・未来が互いに干渉しあい浸透しあう混濁した円環時間が、アーカイブという過去・現在・未来の区分けと同居できるのだろうか。ブルースは写真と同じように最初から消滅願望を持っている。永遠に残ることの永遠という概念が彼らには理解できないだろう。なぜ永遠に残らなくてはいけないのか。彼らは消えてなくなることを“なにもない なにもない ただ土手に立ち尽くし うなだれる”ように肯定している。ブルースにとって消滅と存在は等価的な関係として語られるだろう。60年代のアメリカ民俗音楽をアーカイブする運動の過程で見出されたサン・ハウスは、ブルースは孤独を唄うための音楽だと言った。サン・ハウスはべつにワシントンの国立図書館に保存されることで後世になにかを残したいわけでも、芸術の世界に永遠に名前を残したかったわけでもない。いつか消滅して跡形もなくなることを肯定するために孤独を唄う。そんなブルースがアーカイブが目的とする保存とは違うもう一つの側面、民族的アイデンティティの探求、確立にちからを貸すだろうか。彼らの音楽は写真と同じように、アイデンティティの確立ではなく、アイデンティティの破壊に手を貸すだろう。ブルースや写真は正しい身元の来歴ではなく、どこからきたのか分からない身元不明のものとしての自分を発見する。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「私は夢を見ている。蝶になった夢を見ている王の様な物語だ。」 映画”コッポラの胡蝶の夢”より

この台詞は文字通り荘周の”胡蝶の夢”を指しています。「夢の中で胡蝶としてひらひらと飛んでいた所目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか」という説話です。
物の変化とは表面に現れた現象面での変化に過ぎず、蝶と王が形の上においては大きな違いを持ちながら、共に己であることに変わりはない。万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのです。
現実も非現実も等価でありどちらの立場にたっても本質的には変わらないように、写真に写されたものの本質が、写真として指し示された時点で露わにされた別の性質によって変化することはありません。しかし、我々にとっては写真化されたものこそが本質であり、写真にすることによる対象の異化と、その異化を対象に投影することによる本質の同化を試みることが写真作品を作ることなのだと思います。とは言え時間の経過や構成によってさえ見え方が変わってしまう写真のもつ宙ぶらりんな曖昧さや不気味さは我々が把握した本質だと思われたものをも軽々と越えて行ってしまい、なかなか本質を現してはくれないのです。
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