The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 1月号  毎月20日更新

–目次–
写真展「CARDBORD CITY」についての覚え書き   ・・・・・・・・・ タカザワ ケンジ
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #10   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
写真展「CARDBORD CITY」についての覚え書き
タカザワ ケンジ (評論家)
◎写真展をやってみた
 2015年1月6日(火)から17日(土)まで、このウェブマガジンの発信元であるThe Whiteで写真展を開いた。タイトルは「CARDBORD CITY」だ。

 まず、会場写真をご覧いただきたい。4面の壁で構成した。
 私は写真評論やインタビューを書くことが仕事なので、写真展をやるという発想はもともと持っていない。2008年に「Road and River」という写真展を開いたことはあるが、写真についてのリサーチの一環という意識で行ったもので、展示した写真は15〜20年前に旅先で撮影した写真をスキャニングしトリミングし直して構成したものだった。人の写真を扱った「ファウンド・フォト」に近いものである。
 今回も同じくリサーチの一環だが、きっかけは9月にとある町に行ったことだ。三泊四日の短い旅行中、バスの窓から写真を撮ったことだった。そのときに考えたことについては、このウェブマガジンの2014年9月号に書いた(「書割効果 Cardboard Effect」)。
 記事でも写真10点を掲載したが、そのときにはもう写真展をやろうと思っていた。
 理由は二つある。一つは撮れた写真が面白かったこと。写っているものが興味深く、多くの人に見てほしいと思った。
 もう一つはホワイトキューブの空間で展示をしてみたかった。「Road and River」はギャラリー・バーの2階だったので、内装はログハウス風になっており、壁面は不規則だった。そのため、写真はA4サイズにプリントし、ランダムに展示した。直感的かつ無秩序な展示だったので、「考える」ことが少なかった。今回のThe Whiteは広くはないが白壁で囲まれた正方形に近い空間で、写真に没入することができる。展示のうえでも考えるべきことは多いと思った。そして、そこで写真を巨大に引き伸ばして展示してみたかった。
 主な理由は以上の二つだが、もう一つは展示のプロセスをきちんと見つめてみたいという気持ちもあった。2008年の展示ではまだ私自身が写真についてようやく考えるようになった頃で、見よう見まねの展示構成だった。その後、写真史の講座や、作家論を論じたり、評論を書くようになったので、果たしてそうした経験が展示にどう反映されるかに興味があったのである。
 展示がどうだったかは見ていただいた方に判断していただくしかないが、私自身いくつか気づいたことがあったので、メモ代わりに書いておきたい。
◎3つの気づき
  1. 写真は頼りないメディアである
     いきなりネガティブな感想だが、展示してみると本当にそう思う。
     写真はそれ自体はさまざまに読み取れるため、かなりの部分まで見る人にゆだねるほかはない。いや、それ以前に、実は写真を「見る」ことは難しい。意識しなければ、写真に写ったものの任意の部分をさっと見て「見た」と思ってしまう。「強い」イメージであっても、その写真の連なりで何かを伝えるということは本当に難しい。
     今回、写真点数はあまり多くない。壁一面の大きなプリント2点と、マトリックス状に壁に直貼りしたA3ノビサイズのプリント25点、ステートメントの横にA3ノビサイズのプリント1点の計28点。おそらく、さっと見るだけなら5分か10分だろう。また、それは点数が多かったからといってたいして違いはないような気もする。
     写真に興味を持ってもらい、そのディテールを見てもらうためには、写真だけではなく、DMなどのPR素材による導入と、空間における展示効果、ステートメントなどの「環境」づくりが欠かせない。むろん、いままでも見る側として写真以外の要素が展示や写真集などにとって重要なことはわかっているつもりだったが、自分でやってみるとその大切さが思いのほか心にしみた。むろん、その「環境」のなかには批評も含まれる。

  2. 見る側の「発見」する力は大きい
     こちらは「1」の「写真は頼りないメディアである」を裏切るような言葉だが、見る側が写真に集中したときにはいろいろなものを見つけてくれる、ということだ。
     今回の展示では画面の垂直平行を意識し、作者の視線をなるべく感じさせないような写真を選んでいる。それは写っているものをよく見てほしいという意図からだが、少なくとも、私が在廊しているときに来て下さった方は画面のなかからさまざまなものを見つけ出してくれた。
     たとえば、女性のファッションについては、とくに女性が敏感に反応していた。あるファッション誌の編集者が「この人のバッグと靴はシャネルですね。本物かどうかはわからないけど」と指摘したのには驚いた。写真の解像力には限界があるが、それでもわかるらしい。
     ただ、こうした「発見」は、私がその場にして、言葉による情報を補足したことで注意力を向けられたという側面もあるだろう。写真と言葉はやっかいな関係で、言葉で規定することで見えなくなることもあれば、注視するきっかけにもなる。また、実際に話しかけるのと、掲示された文章ではその吸引力も異なる。
     「写真は頼りないメディアである」と感じた理由は、写真を写真だけでじっくりと見てもらうことの難しさからだったが、一方で、見てもらったことで発見される可能性も大きいということだ。

  3. 「見せない」こと
     展示を構成する過程で意識していたのは、何を見せ、何を見せないか、ということだった。
     まず「とある町」と断っているため、この町がどこかがわかるような情報はなるべく少なくした。しかし、まったくゼロにして、隠すこともしなかった。私がこの町で感じた程度の情報量(展示全体に対するパーセンテージとして)にとどめた。それゆえ、じっくり見てもらえれば、どこかはわかったはずだ。
     次に、その「とある町」で撮影が不可とされたものは省いた。私はフォト・ジャーナリストではないので、その町の知られざる現実を伝えるために写真を撮っていたわけではない。むしろ、一人の外国人が許された範囲で撮影した写真からどのようなことが読み取れるかを提示したかった。
     具体的には、「工事現場」「国境」の撮影が禁じられていたため、その写真は展示しなかった。もともとツアーであり、写真に写してもかまわない場所だけを訪れていたのだろうが、それでも写真に写ったものからはさまざまなものが読み取れるはずだ。そのために写真の情報量については意識した。この過程で、写真は写っているものの何を見せ、何を見せないかが重要だということをあらためて感じた。

 以上3点のほか、大きく引き伸ばす写真をどう選んだか、マトリックス状の写真配置をどのように考えたかについて、言葉にできることはあるのだが、それは見る人にとってはあまり関係ないことだし、それが成功しているかどうかの判断がつかないので、書かない。一つだけ書いておけば、これもあたりまえのことだが、セレクトも配置もやはりロジックが必要であり、そのロジックは一つではないということだ。今回は現時点で考えられるオーソドックスなものにしたつもりだが、そうでない選びも並びもあるはずだ。一例をあげれば、大きく引き伸ばすプリントは、情報量が多いものから順に、という考え方もあったと思う。それは実際に大きく引き伸ばした写真を前にして気づいたことだった。

 こうして言葉にして見ると、写真展について、わざわざやってみなくても、うすうす気づいていたことのような気もする。というか、かなり当たり前のこと書いてますよね?(笑) だが、やってみたことで、写真と空間について文字通り立体的に意識することの意味がわかったような気もする。
 「見る」ことも難しいが、「わかる」ことも難しい。写真に関わっていると、そんなことをよく考える。

 今回、展覧会の機会を与えて下さったThe Whiteの澤田育久さんと田口芳正さん、展示にご協力いただいた金村修さんと小松浩子さんを始めとする金村修ワークショップのみなさん、ご来場いただいたみなさんにこの場を借りて感謝を申し上げます。

 最後に、展示に合わせて制作した動画作品を紹介したい。写真展の大部分の写真がバスからの撮影だったのだが(1点は地上、1点は学校の窓からの撮影)、動画作品もまた、バスから撮影したものである。iPadをバスのガラス窓にべったりつけ、Hyperlapseというアプリで撮影した。編集はWindowsムービーメーカーで行った。

超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
外部を切り捨て、写真を写真だけで成立させる。写真が写真だけを拠り所にして、純粋に内部的に完結することは可能なのだろうか。マラルメの言った、何の支えもなく宙に浮かぶ地球のように、余計な夾雑物を排除して、写真が写真だけを支えにして浮かび上がる“写真についての写真”。被写体の意味や、その写真が置かれている社会的、歴史的文脈を排除して、純粋に写真の内部だけで写真を形成する。写真だけを頼りに、外部の参照も無く立ち上がることが写真にできるのだろうか。写真だけを参照にした写真。自己が成立する根拠を自己にのみ由来する写真。写真は単独で自身の自己同一性を証明することができるのだろうか。
例えば人間の主体が成立するには、他者の視線が必要とされる。他者という外部の視線を抜きに主体の形成は考えられない。他者の目にどう映るのか。他者の視線を意識することから始まる主体の形成は、その根拠を他者に最初から投げ渡しているのであり、主体は形成の初期段階から外部的な存在が関わることを要請している。主体を形成する根拠は、他者の眼にどう映るかという、他者の地平、経験の中に転移され、主体の構築は必然的に他者の存在を呼び起こし、他者の領域の中で形成されるだろう。わたしの存在は他者にとってしか意味を持たない。主体の自己同一性を決定する根拠は他者の経験の中にあり、わたしという主体はわたしの中に存在するのではなく、他者の領域に存在するのだ。他者がわたしの自己同一性を確定する。主体という内部を形成するには、他者=外部が構造的に必要とされる。
内部が内部として成立するための条件として外部の存在が要請される。そのために内部的な完結は、外部の存在抜きには完結させることができない。内部を内部として成立させるその自己同一性の場所に、必ず外部の他者の存在の痕跡を確認するするだろう。写真を写真だけで、写真以外の外部的要素を切り捨て、純然たる内部だけで成立させようとする“写真についての写真”は、自らの主体の立ち位置を構築するために、排除した外部の要素をもう一度呼び戻さなければならない(排除とは夾雑物を消去するのではなく、外部に領域化することであり、外部の領域に排除された夾雑物は、内部の形成のためにいつでも呼びだされるための予備的存在に転化されるだろう。それは内面化された外部であり、意味や歴史や社会という外部を切り捨てる作業は外部の追放ではなく、外部を内部に手なずける、内部の形成に役立たせるための儀式なのだ)。
内部を成立させるためには、内部の領域を形式化し、それらを確定するための境界線が必要となる。境界線による内部の領域の確定は、外部の存在も確定し、内部の形式を確定する境界線の存在が、外部を同時に形成するだろう。写真が写真であるという領域を内部的に同定化したならば、同時に写真とは無関係な存在だと烙印を押された意味や社会や歴史という夾雑物が、領域の外部に現れる。それは内部が発見、形成されたことによって外部が見出されるという、内部=主体¬、外部=客体の主客の関係ではなく、内部の形成は必然的に外部の存在を要請するのであり、内部の確立は外部の存在なしには不可能なことを、それは入れ子状態のように主客の関係が逆転し、主客の位置が常に交換されるウロボロス的な構造に似ている。主客関係の同定化は一種のフィクションなのだ。わたしとは、主体であり、客体でもあり、内部でもあり、外部でもある存在だ。主体と客体の項は常に転移され続けている。
内部を確定するための境界線の存在が、必然的に外部の存在を呼び起こす。境界線という存在が内部と外部を決定する。領域を確定する境界線の存在は、つねに外部と触れ合っている。境界線は写真の内部に所属する境界線でありながら、外部の領域を形成する境界線に転化することもできる。境界線とは内部を確定するものでありながら、外部を規定するものでもあるという、曖昧にその所属先を反転させる存在であり、その曖昧さに規定された内部は、必ず外部的な要素を内部に引き入れてしまうだろう。見方を変えれば、“写真についての写真”が目指す内部的な構築は、内部で完結し、内部だけの根拠に支えられているのではなく、外部の領域や外部の境界線によってその領域を形成されているようにも見える(写真のフォーマットもそれが写真に所属している境界線なのか、フォーマットの外側の現実に所属している現実の境界線なのか、判断をあやふやにさせる存在だ。国境という境界線が最終的にどちらの国に所属しているのか結局は分からない。両国の間には、国境=境界線としか言いようのない、第三の存在として現れる。それは実体的に、目に見えるように現れるのではなく、国と国の間に、非実体的に、見えないのにあるという、痕跡のような存在として現れる)。
他者に触れるという能動性が、実は他者にわたしが触れられているという受動性に変換されるように、内部の主体的な構築は、実は外部によって構築されているという互換可能な事実によって、内部の成立の根拠を、完結した内部に求める行為はすでに破綻している。意味を捨象して成立しようとする“写真についての写真”は、だから捨象した意味に依ってその領域を形成する。内部の成立は、触れる/触れられるという互換的な触手関係のように、内部の成立が外部の要素に依って成立するという内部と外部の互換的な関係なのだから、意味を切り捨て、写真だけで成立することを要求する“写真についての写真”も、意味と無意味の互換の可能性によって、より意味を無意識の内に要請するだろう。意味の捨象=無意味の形成は、捨象した意味によって逆に形成される。歴史を捨象したポスト・モダン的な要素を持つ“写真についての写真”は、その捨象した歴史によって規定されるだろう。自身だけを由来に成立したいという写真の純粋な夢を志向すればするほど、写真は、現実、意味、社会的、歴史的文脈を抜きに成立することが不可能なメディアなのだということを逆に証明することになる。
イデオロギーや歴史や意味を棄却することで、純粋を志向する“写真についての写真”は、意味や社会や歴史を逆により希求する。否定的判断の材料として外部の要素が集められ、集めた材料を否定することでしか“写真についての写真”は、自己の証明をすることができない。意味が捨象され、“否定判断”の中でしか現れない空無の中で構築を目論む“写真についての写真”は、所詮空っぽな存在であり、その空っぽであることを肯定し、空っぽである場所に依って立つ以外にどんな場所もない。純粋性を志向するということは、空無にならざるをえないのであり、写真を立ち上げるべきための主体の位置が空無であるという“写真についての写真”は、その空無な根拠を隠蔽するために、常に意味という外部を求め、その断罪に熱中せざるをえないだろう。“写真についての写真”は空無を根拠とし、その自己を成立させるための根拠を形成するのは、常に空無に呼び込まれ、断罪され続ける、意味という外部的存在であり、根拠を形成するためには意味とそれを表出する言葉の前提が必要になる(“写真についての写真”のジャンル内にコンセプト・フォトというのがあり、コンセプト・フォトというのは、写した被写体に頼るのではなく、対象の意味を断ち切って、写真そのものについて思考するきっかけとしてコンセプトが導入される。コンセプトは写真側から見れば外部的な存在であり、写真について思考することは外部の存在を必要とする。写真について思考するコンセプト・フォトは、最初の形成段階から外部の存在が必要となる。それは悪く言えばコンセプト・フォトは、無反省に外部の言葉に寄りかかったまま、その主体を形成していったのであり、“写真についての写真”に嫌悪感を隠さなかった鈴木清が、写真と言語の関係を写真集の中で、寄りかかるのではなく、常に闘争状態のまま維持し続けていたのとはかなりの違いだと思う)。
わたし達は写真の領域を確定できるのだろうか。領域の確定とは、本質の確定であり、写真の本質を“〜である”と“本質存在”的に言い切ることができるのだろうか。確定的に記述できないわたし達が、曖昧模糊のまま写真を領域化しようとすると、それは“否定判断”(〜ではない)としか記述することができない。“否定判断”は領域を最終的に確定することができずに、“〜ではない”という無限の否定を繰り返す。“否定判断”が示唆する写真の領域は、領域の実体ではなく、領域の影や痕跡しか提出することしかできないだろう。写真の領域を成立させるその本質は否定的にしか現れないものであり、その実体は空無なものでしかないのだ。写真は“〜である”という“本質存在”に回収されることに失敗し、そこに“ある”けれど、その本質は“否定判断”でしかその存在を証明できない。本質を永遠に持つことができない“ある”=“事実存在”が消極的な形で現れるだろう。
“写真についての写真”は言葉や意味を拒絶しながらも必要とする。コンセプトの説明という補佐的な手段として言葉を、“写真についての写真”の場所に召還し、内面化しようとする。けれど言葉を補佐的、二次的な役割として自己の内部に回収できるのだろうか。被写体を撮ることや被写体そのものに意味がなく、被写体は写真という抽象概念を表出するための手段として捉える“写真についての写真”は、主体の形成が他者の視線に回収されていったように、いつかその二次的な存在である被写体の内側に回収されるだろう。被写体や言葉はわたし達にとって先天的に外部的な存在であり、手段化されたり、内面化されたりすることはできない。“写真についての写真”はコンセプトの手段化に失敗し、そのコンセプトに飲み込まれるだろう。コンセプトとは外部の領域に所属するものであり、外部に飲み込まれた“写真についての写真”は、反対にコンセプトの手段として、説明補足の立場に成り下がる。それならば単純に言葉だけ展示すればいいだけではないのだろうか。 外部は操作可能なものではなく、操作不可能な存在であり、偶然性が突出する操作不可能性を選択したストリート・スナップを称揚する“写真についての写真”における、その偶発性を発生させる工程のシステムは、内面ではなく、写真の外側に存在するものであり、内面化されるものでも、内側にあったものでもない。ミニマル・アートのシステマテックな動きが美術の外部に存在し、それは作家という内部とシステムという外部のせめぎ合いとしての場所だったのに対して、“写真についての写真”は、コンセプトという外部とのせめぎ合いもなく、コンセプトの提示に写真を何の摩擦もなく使用するだけで、外部の領域との野合を無頓着に続ける。“写真についての写真”は、何の葛藤も無く主体の形成を外部に引き渡しながら、その事実を隠蔽する。 わたしの主体とは、他者によって決定された主体であり、わたしとは空っぽな存在なのだ。空っぽであるが故に他者の存在が入り込んでくることをだから止められない。わたしとは他者に転移された存在であり、他者もまたわたしが転移した存在だ。“わたしは空っぽだ”と、空無を自己の主体性の根拠にするゲイリー・ウィノグランドは、だから過剰なぐらいに外側に向けてシャッターを切る。外部にしかわたしの主体がないからだ。空無な状態は、酸欠の人間が空気を吸うように外部=他者を吸い込む。外部=他者を吸い込むことによって、わたしの主体が形成される。 ゲイリー・ウィノグランドを代表にしたストリート・スナップの特徴は、自己の観念を表出するという、自己を起点に出発するのではなく、街頭の見知らぬ複数の他人を起点に始める。ストリート・スナップを成立させる根本的な条件は作者という自分ではなく、街頭にいる他者という外部にその基礎を置く。ストリート・スナップは内部的に完結することを欲さない。知らない他者を写すということから始まるストリート・スナップは、決してその他者の内面を表現しようとすることを目的とするのではなく、カメラに一瞬にして捉えたら、またすぐ次の他者にレンズを向ける。レンズを向けた被写体の本質を知ろうとしているわけではない。本質を記述するということに無頓着なストリート・スナップの方法論は、そこに“ある”という“事実存在”をひたすら羅列し続ける。コンセプト・フォトのように細部を愛でるのでもなく、システマテックに作動する機械のように写真を生み出す。彼らに興味があるのは写真に何が写っているかではなく、被写体の動きに合わせてシステマテックに作動する淀みのないカメラの動きなのだ。被写体の動きに合わせてシステマテックにシャッターを切っていく行為は、内面の判断を基準にして撮るという表現における内面の特権化であるよりも、被写体を追い続ける写真家の肉体をシステム化することであり、無限に反復し続ける機械のような動きに同調して撮ることを選択する。ストリート・スナップとは、撮影現場から展示会場までをファクトリー化することだ。ファイン・フォトが職人の手で丁重に作られる手工業なら、ストリート・スナップは熟練した職人の存在を否定する大量生産であり、人間の外部としての大量生産式のファクトリーでは、手作りではなく、ベルトコンベアーで一気に生産されるため、そこに手の痕跡は消去される。ウィノグランドの写真の、人間性の消失すら感じさせる彼のストリート・スナップは、近代を代表するフォード工場よりも更に近代的であり、近代の極限を推進するフォード式ファクトリーのように精神を奪われたまま、ベルトコンベアーの流れ作業のような撮影行為に熱中する。発狂したファクトリー。それはフォード式のファクトリーのように、優秀な車を同一に作る工程ではなく、故障も粗悪品も含んだ、ぼろぼろの早く生産できることだけが取り柄の発狂した工程であり、ガラクタの山のような写真をウィノグランドは量産する。
他者の内面に迫りたいという凡庸なドキュメンタリー写真家の方法は、他者の内面をわたしは理解できるという、自己と他者の間に等価の関係を強要することであり、他者をもう一人の自己の現前化として捉える反動的な方法だ。本来は理解できるはずのない他者の内面を、微かにでも写すことができるという旧いドキュメンタリーのイデオロギーは、他者の自己の領域への囲い込みでしかないのだ。わたしと他者は等価の関係ではない。わたしと他者は常に非対称的な関係でしかなく、わたしの内面のルールを他者も当然共有しているだろうという一方的なコードの共有化は、わたしは他者と等価関係であるという欺瞞の強要であり、それは無意識的な傲慢でしかないだろう。被写体の内面を捉えることが可能であるというドキュメンタリーのイデオロギーは被写体に対して、非対称的な関係を隠蔽する。それは商品の非対称的な関係を隠蔽し、等価的関係を強要することで利潤を産出する資本主義の搾取と同じものでしかないのだ。ストリート・スナップは他者を自己の内に囲い込む表現方法ではない。ストリート・スナップは撮影者と被写体の非対称的な関係を公然と露にし続ける。ゲイリー・ウィノグランドの『Woman is Beautiful』のタイトルが表す、ほとんど差別ぎりぎりの非対称的なタイトルは、撮影とは写真家と被写体のコミュニケーションであるという等価的な欺瞞を唾棄する。
ストリート・スナップという形式を支える根拠は他者という外部であり、撮影者本人ではない。他者の存在がストリート・スナップを支える根拠であり、ストリート・スナップを選択する写真家の主体性は、その成立の根拠を他者に委ねていると公然と宣言する。それは猟師が獲物を見つけて銃の狙いを定めるとき、猟師がイニシアチブを握り、猟師という主体が動物を獲物という客体に転化させるという図式ではなく、獲物や照準機が猟師という主体を形成することと似ている。狩りは照準機から獲物を見るのではなく、獲物に照準機から見られていることであり、それは常に主客の位置が変わり続けるだろう。猟師にとって主体を形成する要素はわたしではなく、猟銃の照準機と獲物がわたしを形成するのだ。照準機の穴は猟師に所属するものでもあり、獲物に所属するものであり、覗くことは覗かれることだ。猟師の主体は獲物の中や、照準機の中に存在する。
猟師にとって獲物は他者であり、わたしの内面的な要素として獲物を囲い込むことはできないだろう。わたしを外部から形成する他者=獲物を、内面化することができるのだろうか。わたしと他者=獲物との間の亀裂を隠蔽することはできない。わたしの外部に存在する他者=獲物を、内面化という形で自己同一化することはできないのだ。わたしの外部にあるものをわたしの体験の内部に、例えば死という体験不可能なものを内面化することができないように。内面化できないという死の体験不可能性は、絶対的な他者としてわたしの外部に現れる。絶対的他者とは、決して実体として現れることのない他者であり、それは不在という形で現れる他者なのだ。死が絶対的な他者としてわたしの前に現れるように、獲物もまた猟師の経験値の範囲の外側に存在するものであり、それは猟師の内部に絶対的な他者=不在のものとして現れる。
“死ぬのはいつも他人ばかり”だと死ぬことの体験の不可能性について語ったデュシャンは、体験できない死とは絶対的な他者のことを指すのであり、それは決して現れることのない不在としての他者、不在とは常に他者のことだということを知っていたのだろう。不在としてしか現れない他者が、わたしという主体を構成する。ロラン・バルトの“不在とは他者についてのみ言えることなのだ。出発するのは相手の方であり、わたしはとどまる。あの人はたえず出発し、旅立とうとしている。本来が移動するもの、逃げ去るものなのだ”のように、写真家が対象を追いかけ続けるのは、対象を撮り切ることができないということが、写真家の存在証明であり、逃げ去る対象を追い続け、撮り続ける、その過程の中でのみ写真家の主体性は存在するからだ。他者は永遠に“逃げ去るもの”であり、わたし達はそれを捕まえることができず、その“逃げ去るもの”の中でしかわたし達は存在しない。
何かを志向するというのは、その何かに光を当てることであり、光を当てることで予期していなかった影の存在が露にしてしまうように、何かを存在させようとすれば、存在の影と言うべき不在が現れる。『BEGINNING TO SEE THE LIGHT』で、“愛されるって どんな気分?”と、ブライアン・フェリーは去ってしまった彼女について唄う。ブライアン・フェリーにとってわたしという主体は、最初から去って行く運命の彼女に委ねられている。わたしの存在の根拠は去って行った彼女なのだ。不在の他者がわたしの主体性を決定する。
ストリート・スナップがいつも被写体を撮り切ることができずに、ウィノグランドのように永遠に撮り続けるのは、ストリート・スナップは撮り切れないことを前提にした方法論であり、撮り続けることでしか自己の主体を形成することができない彼らの根拠は、常に空っぽだからだろう。撮られるのはいつも相手の方であり、わたしを撮ることでわたしの主体性を形成するのではなく、相手を撮ることでわたしの主体性を形成する。被写体が写されることで、わたしという主体が立ち上がる。わたしの存在が外部=他者によって形成されるのなら、ウィノグランドはわたしを消去することで、わたしの主体性を形成する方法を選ぶ。
主体の根源にはわたしではなく、他者がいる。そして他者とはわたしの経験値の埒外に存在している存在であり、埒外の他者はわたしの中では不在の存在としてしか現れないだろう。何故なら埒外の存在をわたしは内面化することができず、不在としてしか把握することができないからだ。内面化に成功した存在は他者ではない。永遠に内面化しない存在としての他者。いつまでも違和感や齟齬感を与え続け、その亀裂を埋めようともしない存在。それは死という絶対的な不在なのだ。究極の他者とは、死のことであり、他者の中に主体を形成するわたし達の存在は、最終的に死=不在の中に自らの主体性を明け渡す。
主体は他者を志向することでその形成を行う。主体形成のために他者=死を志向するわたしは、経験の埒外にある他者=死を実体的に捉えることができない。死という絶対的な他者は、痕跡としてしか存在しないだろう。わたし達の主体の底には他者=死の痕跡が書き記されている。
わたしという存在がウィノグランドの言うように空っぽなら、他者の存在もまた不在であり、空っぽなのだ。そのわたしや他者の不在性は端的に不在なのではなく、 “あの人はたえず出発し、旅立とうとしている。本来が移動するもの、逃げ去るものなのだ”のような、志向から常に逃走するが故に不在の他者であり続け、その痕跡を追いかけることでしか現れない不在性なのだ。現れないがそこにあるという痕跡のような他者。撮影はわたしという存在を起点として始めるのではない。わたしという存在は被写体によって決定されるのであり、わたしの主体性は被写体の視線によって対象化される。自己同一性の根拠に他者が忍び込むことを肯定するのがストリート・スナップという表現形態なのだ。わたしという存在の根拠は、他者にすでに奪われており、他者の経験的な領域の中でしか存在しないだろう。写真家の存在証明は、他者的な形でしか表明することができない。写真家とはだから内部的に完結できる存在ではなく、最初から外部的存在なのだ。写真はわたしのものではない。外部=他者=死の側に存在する。
街頭で見知らぬ他者を撮影するという、その能動性を起動させる根拠は、わたしではなく被写体の他者や、この写真を見るであろう不特定多数の他者であり、わたしの能動性は複数の他者の経験の中に現れる。わたしは他者にそのまま内面化されるのだろうか。わたしを内面化しようとする他者は、結局違和感を永遠に維持し続けるだろう。わたしが他者を決して内面化できないように、他者もわたしという他者性が違和感となっていつまでも解消できないのだ。複数の他者的存在を抱えた写真は、撮った写真家と親和的な関係になることはできない。被写体を捉え、定着化した写真は、写真家にとって主体を形成する存在でありながら、写真はいつまでもよそよそしい。写真家というわたしの同一性の根拠に複数の他者が入り込んでいるという事実は、主体を形成する過程で抑圧し、消去しなければならないだろう。わたしとは他者だという事実は、同一性を前提にする主体にとって禍々しいことであり、抹消しなければならない事実なのだ。だから写真は撮った作者に対して、いつまでもよそよそしい。ダイアン・アーバスが自殺したのは、自分の撮った写真のよそよそしさに耐えられなかったからだ。写真家にとって自分の撮った写真が一番違和感を感じるだろう。写真には親和的関係になることを拒絶する絶対的他者性が存在する。
わたしがわたしであるという同一性の根拠をわたしが決定することができない。過去も現在も未来もいつまでも同じわたしであるという、同一性を前提にする内部の形成条件に、同一性を揺るがす外部の存在が、内部の形成にとって必要なのだ。過去も現在も未来もわたしがわたしであるという同一性の根拠は、多数の他者が決定するだろう。同一性を形成するために、複数の外部を呼び込まなければならない同一性の矛盾。
被写体を撮影することは、相手を何かの要素に確定することではなく、相手を事実的存在に変更させる。被写体はこれこれこうであるという述語的な確定=本質は廃棄され、“事実存在”=“Xはある”という単純な存在に変化させる。被写体を“これはXである”という風に確定的に記述することは、対象をわたしの内部に定立化することであり、ストリート・スナップは被写体を“である”という確定記述の束から解放するだろう。“である”という本質を記述することで、いったい何が捉えられるのか。他者は“である”という確定記述ではなく、“Xはある”という“事実存在”によって肯定される。
百葉箱 Screen #10
小松 浩子 (写真家)
庭は住宅などの施設の敷地内に設けられた建造物の無い広場を指し、樹木・植物・草花を植える、石・池を配する等、住民の安らぎや慰みとして利用されることが多く、住宅敷地の小さな空間に設けられる庭を「坪庭」と、また本格的で規模の大きいものを「庭園」と呼ぶ事もある。所有意識が希薄な時代に於いて猫と子供は他人の庭を横断しても咎められず、生垣や門柱の隙間に頭さえ入れば通り抜ける事が出来るため公道・私道に限らず勝手に往来する。私的な空間である庭園や公共的な空間である公園等の緑地・緑空間を土木的な基盤整備・意匠・植物の栽培管理・石等の鉱物資源などにより造る事を造園と言い、庭師とは庭を一つの造形空間として設計施工・製作・維持管理する専門家を指す。刈込鋏を操る訓練された庭師の仕事を生垣の隙間に納まり眺める事は舞踏や演劇の鑑賞同様に良質の娯楽である。剪定とは樹木の枝を切り整形する事で風通しを良くし養分を効率よく吸収させ生長を促進し病害虫の繁殖を予防する効果がある。ヒト・家畜・ペット・農産物・財産等に有害な作用をもたらす昆虫類などの節足動物類を指して害虫と呼ぶ場合がある。庭木に生息する虫を庭師が一カ所に集めているのは作業に支障が無いよう一時的に避難させているのであり、作業終了時には庭木の枝に戻されると予想して眺めていると、意外にも庭師は刈込鋏で虫を一匹ずつ刺して行く。ナミアゲハはチョウ目アゲハチョウ科に分類されるチョウの一種で単にアゲハ若しくはアゲハチョウと呼ばれ日本では北海道から南西諸島まで全国に分布する。成虫の前翅長は約4〜6cmで翅は黒地に黄白色の斑紋や線が多数入り後翅には水色や橙色の斑紋がある。尾状突起の内側には眼状紋の役割を持つ橙色の円形の斑点があり外敵から頭を守る役割があるとされる。成虫は3〜10月の間で2〜5回発生し蛹で越冬する。ナミアゲハはミカン科植物を幼虫の食草とし交尾が終わったメスの成虫はミカン・カラタチ・サンショウなどに産卵する。卵から孵化した一齢幼虫は4回の脱皮を経て終齢幼虫である五齢幼虫となる。生垣の隙間から庭師を制止するが聞き入れられず、体長約5cmの緑色の芋虫は緑色の体液を流し徐々に動かなくなる。図鑑を閲覧する事で刺殺されたのはナミアゲハの五齢幼虫と知るが、ミカン科植物のヒトの利用法は一部例外があるものの殆どが実を食用にする事であり、ミカン科植物の葉を常食するナミアゲハの幼虫が死をもって補う程の有害な作用をヒトの農産物・財産等にもたらすとは考えにくい。ナミアゲハは四齢幼虫まで鳥の糞を模した白黒模様であるが五齢幼虫になると緑色に変化し胸部に黒白の眼状紋が出来る。小さな緑色のヘビのような風貌と頭部と胸部の間に隠されている悪臭を放つ黄色の臭角だけが生存のための武器であるが庭師を撃退するには至らない。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
2015/1/1 今日は元日です。今までのセックスにこだわらず、新しいことに挑戦してみましょう。相手もきっと喜んで応じてくれるはずです。穏やかな気持ちで迎えた新年は、のんびり過ごせるでしょう。親戚の子供たちにはお年玉をはずんで下さい。初詣のお賽銭は、いつもの倍、投げ入れて下さい。気分もすっきりするでしょうし、良いことがありそうな予感も得られます。体調はあまり良くありません。いつもなら気にならないことまで気になってしまうこともありそうです。刺激の強いものはさけ、睡眠不足にならないように注意して下さい。体調の悪さが顔に出て、無愛想に見られそうです。つとめて明るくふるまうように、心がけましょう。この世は全てが舞台 男も女もみなただの役者だ 舞台に出てきて、そしていなくなる 人は生きていくうちにたくさんの役を演じることになる 1/2 親戚の子供たちにはお年玉をはずんであげて下さい。自分がひとまわり大きくなった気がし、それが金運を上昇させます。2人の性欲が同じように高まりそうです。相手と同じリズムで、いつもとは違った場所で思う存分楽しんで下さい。 1/3 人込みに出かけると心身ともに疲れそうです。お酒の飲みすぎで失態を演じる心配があります。勧められても口にしないで下さい。今日は1日中テレビの電源を切っておきましょう。頭の中の情報を整理することで、金銭感覚をより研ぎ澄ませることができるでしょう。今日はできるだけ1人で静かに過ごすようにしましょう。相手との連絡はメールか電話にして、直接顔をあわせないほうが良さそうです。共同作業をするような機会があっても、うまく溶け込めずに不協和音を起こします。1人でやれることに専念しましょう。からっぽで薄暗くて冷たい まわりはからっぽで薄暗い 私はこの世でたった1人 ひとりぼっち 父はいない 母はいない 帰る家もない 私の思いを誰にも言えない 私の頭 頭 小さな頭 お前を休ませてやれない どこにも、もたせかけてやれない 可哀想な心 壊れた心 なぜ騒ぐのか、そんなに悲しんで なぜそんなに痛くなるまでたたくのか? 不吉なことが待ち受けている そして言いようのない胸騒ぎがする ああ、私の青春時代はなくなってしまった ああ、私の人生は破滅してしまった 出会った人から相談をもちかけられそうです。お金に関することや重大な責任を負うことは、うまくごまかして関わりを持たないようにしましょう。今日のセックスはあまりおすすめできません。どうしてもというなら、日差しが去り、外からほの暗い光が差し込んでくる頃がおすすめです。夕暮れ時の良い雰囲気の中なら、2人の気持ちも盛り上がるでしょう。 1/4 初詣に出かけるなら、お賽銭をはずんでおきましょう。幸運を呼んでくれます。恋人のいなかった人には、待望の相手が現れそうです。今後の人生を左右する人になる可能性があるので、期待して下さい。新春パーティーなどで、気になる年下の異性と接近する機会がありそうです。出身地や血液型、趣味など共通点が多ければ多いほど、うまくいく可能性は大きいでしょう。今日のセックスはいつもと違うことにも挑戦してみましょう。好奇心を存分に発揮して、思い切り楽しんで下さい。 1/5 これまで目上の人に言いにくかったことがあるなら、思い切って話してみて下さい。拍子抜けするほどすんなり理解してくれそうです。「私は他の学生たちと一緒にやってはいけない。そう思う。私は他の学生たちには心を閉ざしている。他の人からは、私の気持ちの表面的な、朗らかなところしか見えないだろう。しかし、深いところでは誰に対しても心を閉ざしたままだ。あのお子様たちに心を開くなんて無理に決まっている。」自分は学問に携わっていけるのだろうか。そのようなことができる健康状態なのだろうか。学問でなければ、ほかに何があるのだろうか。結婚だろうか。マッサージで緊張をほぐすと、出会い運が好調になるでしょう。柑橘系の香りが幸運を運んできそうです。ハーブティーで心を落ち着かせて下さい。お互いが安心感を得られるセックスを心がけることが一番のポイントです。体位などに凝ることによって新しい発見もありそうです。 1/6 友人を通して異性を紹介されるかもしれません。そこから付き合いが始まる可能性があります。新しい恋が芽生えそうです。気になる異性が、今までつき合った人とは全く違う性格でも、誘われたら思い切って受けてみましょう。純粋にセックスを楽しみたい気持ちでいっぱいなら、いつもと違った雰囲気にすると盛り上がりそうです。 1/7 たまには友人に食事をご馳走して太っ腹なところを見せましょう。損して得取れという言葉もあります。昨年とは違うあなたを演出してみましょう。将来の不安や恋の行方に心がかき乱される1日です。出会いを求めて右往左往するより、日記を書いて、気持ちを吐き出してしまいましょう。相手に物足りなさを感じてしまうかもしれません。そんなときはあなたがビデオや雑誌などでセックスの勉強をして、実践してみるのも手です。優しさや愛を与えられることは、誰しもあこがれる。そんなことがあれば、とても惨めな日常が違って見える。だけど、それは思い違いをしているだけだし、ほんのつかの間。それに、その間、自分を抑えているだけでもどんなに大変か。だけど、最初の情熱的な瞬間が過ぎ去ってしまったら、むなしさと退屈が残るだけなのだろうか。そんなのはいやだ。あの人は私がどう思うかなんて全然わかっていない。なにしろ、いつも私を両手で抱いたり、いつも私が愛情をはっきり見せないといけない、なんていう彼の態度が[私は不快だ]。命じられるから見せないといけない愛なんて(でも、そうしないと彼は侮辱されることになる)。愛どころか、いらいらと嫌悪感が高まるだけだ。人の意見に影響されやすい日です。手鏡を持っておくと、ここぞというところで自分の考えを貫くことができます。予定がいっぱいで自分のために時間がとれず、欲求不満がたまるかもしれません。優先順位が低いものは1つくらい後回しにしても大丈夫でしょう。友人への長電話は控えましょう。今日は周りの人の意見を参考にすると、かえって混乱を招きそうです。手鏡を持ちながらマスターベーションに没頭する。 1/8 短時間でも、友達のペットと一緒に過ごしてみましょう。心の迷いが晴れ、やるべきことが整理されてきそうです。何事にも筋を通そうとすると、融通の利かない態度に相手があきれてしまいそうです。放っておくと、こじれてしまうでしょう。仕事の相手先から苦情の電話が入ったりして、1日中振り回されそうです。じっとこらえて、感情的にならないようにしましょう。新しい出会いは期待できません。インターネットの掲示板などで知り合った人とは、実際に会わないほうが賢明です。相手の浮気が発覚しそうです。さらに、思ってもみなかった人からの誘いに困惑してしまいます。でも誘いには乗らないほうが賢明です。マスターベーションをしないと。 1/9 友人への誕生日プレゼントを考えているなら、奮発して下さい。人のためにお金を使うと、気分も良くなり、お金にも不自由しなくなるでしょう。待ち合わせをすると、すれ違いになる可能性がありますので、早めに出発しましょう。今日は2人で外出しても、なかなか楽しい気分になれないでしょう。そのうち険悪なムードになりかねませんので、早めに帰宅しましょう。心ときめく出会いは期待できそうにありません。こんな日はお風呂の時間を長めにとり、体をきれいに磨き上げましょう。仕事や勉強は、休憩を頻繁に取ることで能率が上がります。適度な休憩を入れるようにしましょう。無理をすると風邪をこじらせてしまいますので、早めに休むことです。今日は休息が必要かもしれません。明日に備えてゆっくり休んでおきましょう。体の手入れを怠らないこともセックスには重要です。 1/10 将来の生活や家族のことを考えると、引越しをしたくなるかもしれません。近所で昔から営業している不動産屋に、希望条件を伝えておきましょう。今の住所はブルクヘルツリ病院であり、自分は患者である。普段パソコンを使用している人は、ウイルス対策のソフトの購入を考えて下さい。小金を惜しんで大きな損害を受けてはあとの祭りです。セックスしたい気持ちが高まったら、押し殺すことなくパートナーに伝えましょう。パートナーの希望も聞いてあげるとより一層楽しめます。新しい出会いの予感があります。とくに気張る必要はありませんが、どんな出会いがあってもいいように心の準備をしておいて下さい。もうだめだ。本当に気分が悪い。私の人生で新しい時が始まるというのに、こんな最悪の状態だとは。明日から大学が始まる。でも、この幸福な瞬間が、なんだかとても陰鬱に感じる。頭痛がするし気分が悪いし、気力が失せている。私は本当に自信なんて全然ないのだから。彼が廊下を歩いてくる。もうすぐ私のところに入ってくる。このノートを隠さないと。私が何をしているか見せてはいけないから。どうしてかって。当たり前だ。相手からデートに誘ってくれそうです。とても良い雰囲気で、これからの2人の付き合いにプラスになる、充実した時間が過ごせるでしょう。 1/11 今まで見たことないスポーツを観戦して下さい。スピード感や駆け引きにひきつけられるはずです。パートナーとの時間を充実させるにはお金を惜しまないで下さい。値段ではなく内容重視でいくことが何より大切です。ネイルサロンでプロに爪のお手入れをしてもらいましょう。見えないところへの投資が出会い運を高めます。今日のセックスは雰囲気に凝ると良いかもしれません。まだ経験したことのない体位に挑戦すると、さらに気分が盛り上がるでしょう。 1/12 錬金術師になって自分から新しい生命を作り出そうと決心した。食事の時にはいつも、余った食べ物や飲み物を全部一緒にぶちまけ、その全部を懸命になって混ぜあわせ、大きな泥の固まりのようなものを作った。両親は激怒したが、私はそこから何が生成するかを見たかったのである。固まりの色が変化したり、これまで見たこともない形や固まりができあがると、うっとりして我を忘れてしまった。ある時、この実験で作ったひとかたまりの物質が、ある液体の未知の作用によって紙に変化したことがあり、この時私はうれしさと不安とが入り混じった感情にとらわれた。私はいくつもの小瓶の中に入れた「謎の」液体をたくさん持っていたし、「魔法の石」もそれに似かよったものもいろいろ持っていた。そういったものが、偉大なる「創造」を起こしてくれると考えていたからである。私はいつも、あらゆるものがどうして「作られる」のか、という質問をして両親を困らせた。さすがに人間を「作る」ことはできなかったが、オリーブや石けんなど、できるものは何でも熱心に作った。私はある時、母のように子供を作ることはできないのか、と祖母に聞いてみた。祖母は「それは無理ね。あなた、まだ小さすぎるから。子猫くらいは産めるかもしれないけどね」と言った。この冗談まじりの言葉を真に受けて、自分は子猫を産めるのだと期待したのだが、ちゃんと育てなければ、子猫は人間と同じように頭がよくならないのではないか、などと随分思い悩んだ。だが、そういうことを私はやってみたかったのだ。私は空想が現実のものになるとは思ってもいなかったが、それでも、空想を全く信じないよりも信じている方がずっと素晴らしいと思っていた。だからこんなことを考えていた。「アブラハム(すべてのユダヤ人家族の祖先)」が生きながらにして天国に行けるのなら、私にも同じ奇跡が起きるのではないか?誰からも知られない力を持ち、神から選ばれた者に違いないのだから、と。アブラハムのように飛んで、母なる大地から離れたかった。恩師や年上の人から、若い異性を紹介してもらえそうです。相手の好みを早めに調べ、思い切って勝負に出ましょう。交際を始めた人は、2人の関係が急速に進展していきそうです。あせることはありませんが、気持ちは決めておきましょう。普段は受身になりがちな人も、今夜は恥ずかしいなんて思わずに、自分からリードして相手を悦ばせてあげましょう。 1/13 幸運の色のペンを使うと能率が向上します。深夜放送の通信販売に夢中になりそうです。画面処理のうまさ、ナレーションの巧みさにひっかからないようにしましょう。ほしくないものでも、つい買ってしまいそうです。今日の出会いは「匂い」に注意したほうが良さそうです。香水やコロンのつけすぎ、口臭などがあっては、好印象も水の泡です。体調は今ひとつですが、本能のままに挑戦してみましょう。前戯では、愛情を持ってお互いの体温を感じあうことで快感が高まります。 1/14 大きな契約がとれたり、試験に合格したりと、これまでの頑張りが認められそうです。苦労しただけ、その喜びも大きいでしょう。趣味に関係した物で、どうしても欲しいものがあったら、家族にお金を借りてでも買ってしまいましょう。ただし、お金が入ったらすぐ精算して下さい。良い出会いが待っています。これという異性と出会ったら、躊躇せずに自分のほうから話しかけてみましょう。成果が期待できるでしょう。今日のセックスはたっぷりと時間をかけて下さい。部屋を綺麗に飾り、ロマンティックな雰囲気を楽しんで下さい。 1/15 受験を控えた家族がいても、神経を尖らせないようにしましょう。他の家族にもそれが伝わり、家にいても安らげなくなりそうです。外出するときは、全身が映る鏡で装いを点検しておきましょう。靴下などが古びていたら、迷わず取り替えて下さい。今日は、どんな時間があっても、通信販売のカタログなどに触れてはいけません。無駄な買い物、後悔する買い物になる可能性があります。無駄を省くことを最優先にして下さい。携帯のストラップをいくつもぶら下げていると、良い知らせが入ってこないでしょう。年齢的にふさわしくないような飾りなどは外して、すっきりさせて下さい。今日は思いどおりのセックスが楽しめないかもしれません。大胆な行動は控えて、ゆったりとした気持ちでマスターベーションを。 1/16 昼食は、玄米食などの自然食材にこだわる店へ行ってみて下さい。電車やバスの中で、10分間でもいいので眠りましょう。今やっていることに充実感を覚える日です。目の前にある作業から順番にこなしていけば、やることなすことうまくいきそうです。セックスを楽しむには最高の日でしょう。お互いが気持ちいいと思えることは何でも試して、思いっきり楽しんでしまいましょう。 1/17 1時間くらい歩いて、素敵な喫茶店があったら、そこに出会いのチャンスが見つかりそうです。周りの人にも協力を仰いで、清潔で居心地の良い自分の空間を保つようにして下さい。今日からでも構いませんから、今年は金銭出納帳をつけてはどうでしょう。無駄遣いがひと目でわかりますし、貯金も増やせるはずです。バーゲンで冬物を買い足すなら、上質なセーターを選びましょう。タバコを吸う人は本数を半分に減らしてください。今日のあなたはやる気に満ちていて、明るく前向きに行動できます。セックスの時は照明や香りなど雰囲気にこだわると良いかもしれません。枕や布団など家具を見直してみて下さい。 1/18 広告で催事を調べておきましょう。珍しい物産展なら行ってみる価値があります。大切な伝言を預かったことを忘れてしまわないよう、工夫して下さい。懐かしい人と偶然に再会するかもしれません。次に会う約束をしてから別れましょう。幸運を運んできてくれそうです。気分が良いからといって、調子に乗って物を買いすぎないことです。いつもと同じことをしても、満足できる日となりそうです。 1/19 新しいことや変わったことに挑戦しても思ったほどうまくいきません。あえて冒険を避け、いつもと同じセックスを楽しみましょう。納得しがたくても、多数決で決まった結果には素直に従って下さい。おかげで病気になった。グループでの集まりでは、間違ったリーダーシップを発揮して、反感を買いそうです。少し控えめな態度が出会い運をあげるこつです。 1/20 その場限りの楽しみに溺れる暗示です。受けを狙った失言や皮肉に注意しましょう。最後の詰めが甘くて、大きな仕事を取り逃してしまう可能性があります。今日は粘り強さが発揮できそうもありません。あなたが口にした言葉で相手は混乱し、ひいては信用を失うことになりそうです。あなたの頑固さが原因で、相手と口論になってしまいそうです。折れるところは折れないと、あなたから離れていってしまうでしょう。自律神経のバランスがおかしくなっているのか、体が火照ったり、動悸が激しくなったりするかもしれません。規則正しい生活を心がけて下さい。マスターベーションをしたいという抗いようのない衝動を感じた。私の左手をすごく痛くなるまで押していただけないでしょうか。 1/21 感情の起伏が激しく、泣いたり笑ったりと忙しい1日になりそうです。周囲の人はそんなあなたについていけないかもしれません。1人の時間を大切にして下さい。彼女が抱く尊厳や信頼に少しでもこたえられないと、彼女はすぐさま強い拒絶の態度をとることによって、そして、大小様々な意地悪い行為によって、裏切られたことに対して報復する。会話をすれば、何かが生じてくるとはいえ、薄氷を踏むような緊張感を味わうことになる。下半身のトラブルに悩まされるかもしれません。特に、きつめの靴は避けて下さい。症状が悪化しそうです。セックスは、気持ちを素直に言葉に表せば盛り上がれるでしょう。 1/22 介護士など、人の役にたてる福祉関係の資格に挑戦してみてはいかがですか。通信教育を利用して、自分のペースで勉強するのが良さそうです。お金に余裕がないけれども、どうしても欲しいものがあるなら、お金を借りて買っても良いかもしれません。今日起きた出来事は、すべて恋愛面での良い変化だと思って下さい。今日のセックスはとにかく雰囲気にこだわって下さい。相手が来る前に音楽と照明、そして香りの演出を準備しておくと長く楽しめるでしょう。 1/23 仕事の仲間としてつき合ってきた異性と私的な場面で同席し、それがきっかけとなって急接近するかもしれません。2人の将来について話し合ってみましょう。そろそろ結婚を考えても良い頃かもしれません。今日パーティーに誘われたら、どんなに忙しくても駆けつけて下さい。運命の人が、待っているかもしれません。服に気合を入れて下さい。 1/24 体をぶつけ合うような激しいセックスが気持ちの良い時期です。最近出会った人とは仲良くなれる暗示が出ています。以前から声をかけたくてもかけられずにいた人は、今日がチャンスです。昨年1年間に支払った医療費の領収書を整理しましょう。 1/25 外出には、履き慣れた歩きやすい靴を選びましょう。考えていたよりも長い時間、歩くことになりそうです。行く先々で、なぜかお金の情報を耳にしそうです。メモを取っておくと良いでしょう。態度にも不機嫌さが表れて、相手に不愉快な思いをさせてしまいそうです。冷えを感じる1日になりそうです。セックスをするなら一緒にお風呂に入り、相手にマッサージしてもらってからにしましょう。 1/26 今日のセックスは心に残るものになりそうです。お互いに相手を思いやり慈しむように、飽くことなく求め合いましょう。なかなか理想のタイプとめぐり会うことができなかった人は、ついにその時がやってきそうです。携帯のストラップを、幸運な色のものに買い替えてみて下さい。気分一新して、金運が上向くはずです。食卓に花を飾ると、運気は一層強くなるでしょう。 1/27 嫉妬に悩まされる1日でしょう。生き生きとしている人に出会い、うらやましく思うかもしれませんが、自信を失わないで下さい。自分らしく生きることが大切です。受けみな姿勢ばかりでは魅力が伝わらないばかりか、セックスも盛り上がりません。たまには違った一面を見せましょう。今日はみんなの輪の中に、なかなか入っていけないような日です。何でも費用をかけずにいればよいというわけではありません。気に入らないことがあっても、不満を口にしてはいけません。幸運な色のアイテムを身につけると、自分のペースを維持できます。 1/28 不本意なことは朝一番に手がけると、面白いようにはかどり、苦手意識を克服できそうです。食わず嫌いも昼食で克服できそうです。小さなことにこだわると、全体を見失うことになります。高級な食材を扱っている店に出かけてみて下さい。思っても見なかったお買い得商品に出会えそうです。即入手しましょう。連絡先のわからなくなっていた人から電話があって、付き合いが復活するかもしれません。さりげなく次に会う約束をとりつけましょう。今夜は時間をかけてお互いの体を確認してみて下さい。自分でも知らなかった感覚を発見できるかもしれません。 1/29 今なら憧れていた異性に、接近できる可能性が大いにあります。隣に座れるよう、幹事に根回しをして下さい。たまには贅沢なデートをして見ませんか。ホテルのロビーで待ち合わせて、夜景のきれいなレストランで食事なんてどうですか。 1/30 家族に対する愛おしさも増します。「遺伝要因」 父親:神経質。働きすぎ。神経衰弱。怒りの発作が起きると最後は正気を失う 母親:ヒステリック!神経質(患者と同様)、歯科医、子供じみたヒステリーによる失神あり 一番上の弟:ヒステリックかつ引きつけを起こしたように泣きじゃくることがある 二番目の弟:チックがあり、怒りの発作が強い 一番下の弟:精神的悩みを抱えている。極めてヒステリック。悪さもするが、やったあとで悩みを抱える。相手との気持ちがぴったりと一致するセックスで、体験したことがないような快感を得られそうです。密着度の高い体位がおすすめです。友人と映画を見るなら指定席を奮発して下さい。少々痛い出費でも相手の分も負担してあげると、明日からの3日間の金運の下降を防げます。 1/31 コーヒーが好きな人も今日は日本茶にしてみてはいかがでしょう。かすかなうまみを感じ取れ気持ちが少し和むはずです。手が荒れているかもしれません。恋人の浮気疑惑が浮上するかもしれません。相手を責める前に、自分の行動を少し反省してみましょう。今日のセックスは心をこめて下さい。寝起きの悪さが1日中尾を引きそうです。不快な気分を解消するには、香りの良い日本茶がおすすめです。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「独創的。ー何か新しいものをはじめて見ることではなくて、古いもの、旧知のもの、誰もがこれまでに見てきたもの、あるいは見過ごしてきたものを新しいものであるかのように見ることが、ほんとうに独創的な頭脳を特徴づける所以である。最初の発見者などは、通例、例の全くありふれた、そして才気のない空想家ーすなわち偶然である。」“人間的、あまりに人間的”より

“新しいこと”は無から創られる事では無く発見されるものであり、それに向かって我々に出来うることは観察することと記録することのみなのだと思います。独創性は自身の内部から発露されることはなく、カメラによって発見されるものであり、ファインダーを通してのみ我々は新しい視点を得、新しいものを知覚することが出来るのです。写真にとって“新しさ”は我々が 創造するものではなく、行為の果てに必然によって立ち上がってくるものである以上、我々は写真に斬新さを希求したり表面的な目新しさに取り込まれたりしないよう過剰な行為を繰り返し、見慣れたものや同一に見えるものを初めて見るかのように観察出来得るよう、自身の眼を自己と切り離した純粋な装置に保つことが重要なのだと思います。そのようにして撮影された写真は、一枚一枚では偶然に可視化されたものに過ぎないのかもしれませんが、集積されることにより必然性を帯び、やがて主体とも客体とも切り離された指向性に依って名称が与えられたときに漸く作品として独創性を持ち得るのだと思います。もし我々が独創的であり得るとするなら、一切をカメラに委ね、行為を反復し、それを継続することでのみ可能性があるのかもしれません。
PageTop