The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 10月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #18   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
“撮る”という言葉が、英語では“shoot/撃つ”という意味だからでしょうか、撮影は銃や戦争と同じような意味で語られることが多いようです。“映画は戦場だ”という発言に、ピストルを撃つことで撮影のスタートを開始したというサミュエル・フラーのエピソードもまた、カメラや撮影のイメージを戦争のイメージにと近似させ、それらのイメージを更に促進させます。銃口を覗く兵士の姿と、ファインダーを覗く写真家の姿をシルエットで見てみれば、なんとなく共通な姿に見えてくる。けれど照準器から見える現実とファインダーから見える現実は同じように見えていても決定的に違います。実際の銃口の向こうに見える光景は、確かにそこに存在する実在の敵です。ファインダーの向こうに見える光景も、実在する光景なのですが、けれど実際にそこに実在しているとしても、ファインダーから覗いているその光景が、フィルムにそのまま定着されるでしょうか。銃口に備え付けられた照準器に見える光景は“現実の反映”だと思いますが、ファインダーに表われる光景ははたして本当に“現実の反映”なのでしょうか。照準器と違い、ファインダーが現実の世界に関与することで、対象が現実から切り離されていくような気がします。映画が光と影と色彩が織りなすスクリーン上のイメージでしかないように、ファインダーに写っている現実もまた、現実を四角く切り取ったフィクションの世界であり、写真はそんな現実をフォルムに還元して、それをフィルムや印画紙の上に転写するだけなのではないでしょうか。
古典的なドキュメンタリー映画やハリウッド映画を見ると、あたかもその場所にいたかのような臨場感をおぼえます。ある種のスペクタクルな感覚を見ている人間に与えるのです。60年代末期から70年代前半の一部の映像作家達に、そんなスペクタルな感覚を批判されてきましたが、けれどそのスペクタクルな要素というのは、最終的には映像は切り捨てることはできないでしょう。むしろ現代社会で生きていることは、スペクタクルな映像に囲まれている日常を日々おくり続けることであり、それにスペクタクル感覚は、リュミエールの頃から無意識の内に、映像に付随していたものではないでしょうか。『ラ・シオタ駅への列車の到着』でのホームに入って来る蒸気機関車の様子は、まさに一大スペクタクルです。列車のホームへの侵入なんて現実で見ればたいしたことではないのですが、一度それが映像に撮られるとなんだか妙に劇的に見えてしまう。どんなささいなことでも大仰に見せてしまうということが、映像の重要な本質なのではないでしょうか。例えば広角レンズでカメラを斜めに傾けて建物を仰視気味に撮ると、なんだかとても大仰な建物に写ります。大仰に写さないようにと思って撮っても、その角度で撮ると大仰に撮れてしまう。劇的に何でも写ってしまうというのは、カメラの特性なのかもしれません。そしてフレームの存在がその劇性を促進すると思うのです。フレームは現実を切り取るわけなのですから、切り取られた現実は、切り取られたというだけでとても特権的で選ばれたものに見える。とりあえずその現実は、いろいろな現実の中からそれだけが選ばれたわけですから、何か特別なものがあるのだろうと無意識に思ってしまう。そんな特権性がフレーミングされた映像に、劇的なスペクタクル性を促進させるのかもしれません。
スペクタクルな要素を排除し、映像が純粋に映像だけで成り立つこと。対象の手助けをかりないで、映像の自律を目指す運動がかってありました。映像は映像だけで成り立つ。臨場感を沸き立たせ、カタルシスとして映像を見ることへのアンチテーゼですね。映像は何も表象しないという理論ですから、それは映像をリュミエールの時代に戻すことであり、エイゼンシュタインのような編集を映像の物語への加担だと言って、排除することなのです。実際リュミエールの『ラ・シオタ駅への列車の到着』は充分にスペクトラムだと思うのですが、映像からスペクタクルを排除して、モンタージュという編集方法が生み出す物語という意味性も廃棄する。映像から何らかの意味を想起させることを徹底的に排除しようとします。
スペクタクルな要素や物語を排除しようとした70年代から80年代の実験的な映像、それは映像からシニフェを排除し、シニフェとの関係を断ち切った、ただそれだけで成立している、純粋なシニファンとしての映像を作り出そうとしましたが、どんな意味も持たない純粋な映像なんて、それはたんに美しいだけであって、ブルジョア社会の工芸製品と何ら変わらないものだと思います。何とも関係を持たない純粋映像は、ただ無時間的なだけの“ミケランジェロの微笑み”のようなものです。それはただ社会から逃避しているだけではないでしょうか。 問題はシニファンからシニフェを追放するのではなくて、シニファンとシニフェの関係を変えてしまうことです。例えばマルグリット・デュラスの『ヴェネツィア時代の彼女の名前』。『インディア・ソング』の台詞や音声をそのまま使用したその映画は、シニファンとシニフェの関係が完全に変えられた感じがしました。違う映画の音声をそのままそっくり使用するという『ヴェネツィア時代の彼女の名前』は、同じ音声でも映像が変わることで、同じでありながら違うものに聴こえるという不思議な聴覚の体験をおぼえます。音声をそのまま使うだけで、その音声が同じだけれど違うように聴こえる。そしてもし映像が同じでも、違う音声をつけたら、その映像は同じだけれど違うという感覚をおぼえるはずです。映像はいつまでも同一な意味を維持し続けるものではないのです。見る度に意味が違って見えるのが映像です。
アラン・レネの『ヒロシマ・モナムール』の主演女優エマニュエル・リヴァの写真集『HIROSHIMA1958』があります。彼女が『ヒロシマ・モナムール』の撮影で広島に滞在したときの写真集なのですが、どこまでがロケ現場の写真なのかオフの日に普通の街を撮っている写真なのかよく分からない編集です。その編集方法は、映画の冒頭の“あなたはヒロシマを見た、見ていない”というデュラスの書いた台詞に呼応しているのでしょう。“見た、見ていない”という現実に対する認識の問題を『ヒロシマ・モナムール』はテーマにしていると思うのですが、認識自体は主観性がどうしても関与してくるので、現実を正しく普遍的に認識することができません。認識に客観性はないのです。主観性が強制的に関与してくる認識は、現実に対して正しい認識をすることができず、フィクションであり、ノンフィクションでもあるような認識を現実に対してせざるをえないのです。『HIROSHIMA1958』は、フィクションとノンフィクションが混乱している写真集ですし、映画自体もそのような区分けを無化しようとしているところがありました。撮影現場とオフの観光写真を一緒にして分からないように編集しているところがあるので、撮影現場のドキュメントはドキュメント、オフの日常は日常、観光は観光、そしてリヴァの撮ったストレートなスナップ写真はスナップというようなジャンルの区分けを無視しているので、見る人間にいろいろな意味や勘違いを生み出します。それこそ見る人の数で解釈が変わる。それは映像が本質的に無意味なのではなく、無限のシニフェを創出することが映像には、可能なのだと思いました。映像はある種の実験映画の人々が主張するような、どんなシニフェも生み出さない純粋なシニファンなのではなく、無限のシニフェを生み出すことが可能なのです。それは無限の解釈を許容し、揺らぎ続ける。シニフィエを一つのものとして、決定して同定化することのできないものが映像なのです。どんなシニフェも許容するのが映像です。映像は、そしてただの映像でしかないので写した対象の本質というものまで写ってない。そんな本質との関係から映像は自由なので、例えばその映像がどんな文脈で置かれるか、配置や再構成されることで、映像の意味が大きく変化するでしょう。
映像のスペクタクル性が批判されていた時代がありました。映像のスペクタクル性を批判するそれらの人々の言うことは、要するに映像はリュミエールに戻れということでした。それは決してメリエスに戻ることではない。けれどゴダールが言うようにそれは、映像はリュミエールとメリエス両者を共に肯定し、共存し、ゴチャ混ぜにするところから始まるのではないでしょうか。『中国女』でジャン・ピエール・レネが、メリエスこそ最初のニュース映画だと台詞の中で喋っていましたが、ニュースという客観的なドキュメンタリー性とメリエス的なフィクショナルなスペクタクル性を区別するのではなく、両者を不可分な関係に変質させたのがゴダールの映像だと思います。日本だと小川紳介の『ニッポン国 古屋敷村』や『1000年刻みの日時計 牧野村物語』なんかが典型的にそうですよね。スペクタクルな要素の欠けたドキュメンタリーなんて考えられないように、ドキュメンタリー的要素の欠けたスペクタクルも考えられない。現に『中国女』や『ウィークエンド』はハリウッド映画に比べれば控え目ですが、充分スペクタクルに溢れています。スペクタクルな要素を最大限に切り詰めた『ヴェネツィア時代の彼女の名前』は、『インディア・ソング』の音声をそのまま使用することで新しいスペクタクルを創出したのです。デュラスの映画は、リュミエール的なカメラのフィックスだけで成立させるところがありますが、それは決して退屈なものではありません。彼女の映画は、例えばカメラがほとんどフィックスで撮られている『トラック』や『アガタ』でも充分にスペクタクルです。一部の映像作家が言うように、スペクタクルはたんに排除する対象ではなく、スペクタクルの意味を無限に解釈し直すことではないでしょうか。対象を現前化させて、まるで本当に体験しているかのような臨場感をおぼえることだけがスペクタクルなのではありません。フィックスのカメラの中で船が遠くでゆっくり動いていた『アガタ』の映像は、ただそれだけで充分にスペクタクルです。『ベネチァ時代の彼女の名前』のトップシーンのように、家の周りをただ移動撮影するだけでも、スペクタクルな感覚を打ち出すことができるのです。大島渚の『日本春歌考』の十分間近くにわたる、橋の移動撮影の退屈さもスペクタクルになりうるのです。幻影を本物だと勘違いする今までのスペクタクルは、虚構を本物だと信じさせる映像のリアルな再現性を利用した魔術なのですが、デュラス的なスペクタクルは、映像という幻影は“現実の反映”ではないもう一つの現実であり、それは幻灯のような魔術ではない。幻灯は嘘を本物のように見せる“現実の反映”としてのスペクタクルです。デュラス的なスペクタクルは、何かの反映や代替えではないもう一つの現実であって、映像という記号に表われるリアル性がわたし達に臨場感をおぼえさせるのです。
スペクタクルの意味を変えてしまうことです。劇的なものとして解釈されていた特権的なスペクタクルを、わたし達は居間のテレビや電車の車両に設置されているモニターで毎日見せ続けられている。スペクタクルはもはや日常の一部であり、それは退屈なものにまで成り下がりました。現代社会の日常を覆い尽くしている凡庸なスペクタクルを考えるとき、スペクタクルはもう魔法でもなんでもない。スペクタクルは、日常生活の食事のように退屈で平凡なものです。わたし達にとってそんなスペクタクルは、もうスペクタクルの残骸でしかない。スペクタクルがあらゆる場所に蔓延したことでハリウッド的なスペクタクルは、それを見ることで我を忘れてしまうような臨場感を失ってしまったのです。田舎の山奥でつぶれて、朽ちていくアミューズメントパークの残骸を見るような、そんなみじめな感慨を現代のスペクタクルは思わせます。そしてそんなハリウッド的なスペクタクルに今でもリアル性があるとしたら、それはその残骸としての無様さでしょう。今の時代で一番惨めで無様なものと言えば、スペクタクルではないでしょうか。電車の扉の上に設置された小さいモニターで流されるスペクタクルなCMを見ていると何だか白々しい気分になる。スペクタクル特有の臨場感溢れるCMが馬鹿のように見える。そんな映像に日々囲まれているのがわたし達の世界なのです。
スペクタクルの骨組みだけを利用したゴダールの『中国女』は、ほとんどスペクタクルのパロディであり、スペクタクルの廃墟です。そんなスペクタクルの廃墟感覚は、革命ごっこしかできなくなった70年代以降の革命を映像化したファスビンダーの『第三世代』にも通じるところがあるのではないでしょうか。『第三世代』は、革命は演じることでしか存在しないし、演じることの中でしかリアリティーを感じることができないことを証明しました。ラスト間近のほとんど茶番劇のようなスペクタクルな銃撃シーンは、革命がスペクタクルの残骸に変質したことを伝えます。謝肉祭の日に大企業の社長の誘拐を決行するテロリスト・グループが変装して会社に乗り込んで行くのですが、その変装が、付け鼻をしたり、海賊や悪魔、日本の芸者のような格好に扮装したりして、カーニバルのような格好で銃撃戦を敢行し、社長の誘拐を実行するスペクタクルです。けれど一体この弛緩しきった銃撃戦は何のメタファーなのでしょうか。面白くもつまらなくもないこの銃撃戦のスペクトラムは、スリルも娯楽も放棄した、何の役にも立たない廃墟のアミューズメントパークのようなスペクタクルです。68年当時のドイツの学生運動を嘲笑っていたファスビンダーにとって、革命運動は所詮スペクタクルを希求する運動でしかないと知っていたのでしょう。彼らは映像やマス・メディアの中でしか革命を実行しない。彼らにとっての革命は、現実の中ではなく、スペクタクルな映像の中でしか存在しない。けれどそのような腐敗したスペクタクルこそがリアルなものであり、そして70年代以降わたし達には、ファスビンダーの映像のように、弛緩した残骸にしかリアルなものが存在しないのです。
そんな腐臭の漂うスペクタクルは、70年代以降の革命運動と同期するでしょう。ミュンヘン・オリンピックでの襲撃事件によって世界はパレスチナの問題に初めて目を向けましたが、それはテレビの映像によって目を向けられたのです。そしてテレビの映像でパレスチナの主張に耳を傾ける視聴者は、そんな悲惨なパレスチナの真実を見て涙を流しますが、次の瞬間には違うチャンネルでやっているコメディを見て笑い転げるのです。マス・メディアを利用して見知らぬ他者の注目を集める運動は、テレビの中ですぐに消費物として認知され、それはコメディと同義の存在に変質するでしょう。コメディやCMという映像の一つのアイテムとしてそれは残骸化されるのです。けれどそんなアイテムの残骸物にしか革命の希望はないのかもしれない。
『中国女』で革命家を演じるレオが“カメラの前でだけ誠実になれる”という台詞を喋っていましたが、『第三世代』でも革命運動は演劇的に行なわれます。革命はもはやカメラの前で演ずる以外に機能しないでしょう。カメラの前で行なわれる事実こそが現実であり、現に黒い九月によるミュンヘン・オリンピック襲撃がリアリティーを持てたのは、テレビによる中継があったからではないでしょうか。テロリズムは常に不特定の他者の眼差しの中で行なわれますが、それが有効に働くのがテレビカメラの前なのです。“プロパガンダの最高形態は武装闘争である”と日本赤軍派が宣言しましたが、そのプロパガンダを世界中に映像として貫徹するのがテレビカメラです。『第三世代』でのラストは、誘拐された社長がカメラの前でリハーサルをしているところで終わりますが、もともとこの映画は、社長秘書が夜になるとテロリストに変身するというように、ブルジョワ対革命家という明確な構図がありません。革命家はブルジョワに密通しているし、ブルジョワも革命家に加担している。『中国女』での革命家達のアジトが、高級アパルトマンだったというのと似ていますね。ブルジョワと革命家の境界線が無効になったことは、現実の革命とテレビの中の映像としての革命の境界線が無効になったことを『第三世代』は証明します。ミュンヘン・オリンピック襲撃事件はカメラの前で行なわれたからこそスペクタクルになりえたし、それはブルジョワ社会に衝撃を与えながらも、最高のエンターテイメントとしてテレビの画面の中に消費されていくでしょう。あらゆる現実を映像は、映像の中に溶解するのです。そんな風に消費され続ける革命のスペクタクルは、最終的に『第三世代』のように喜劇的な残骸物に成り果ててしまうでしょう。そしてそんな残骸にこそリアリティーがあることをゴダールやファスビンダーは証明したのです。
『第三世代』にはタルコフスキーの『惑星ソラリス』についての言及がありましたが、『惑星ソラリス』の状況こそが、今の時代もっとも通底しているのではないでしょうか。本物だと思い込んでいた光景が実は映像だったという『惑星ソラリス』のストーリーは、今の時代とたいして違いがない。わたし達は日々電車の中に設置されているモニターやスマホから流れる映像で日々スペクタクルな幻影を見せ続けられているのです。ブルジョワ社会から送り続けられるそんなスペクタクルな映像が無意識にわたし達の脳にヴェールをかけ、現実をスペクタクルな映像のように見せるのです。わたし達は幻影の中で生きている。それも人が作った幻影の中で、です。誰もが高度資本主義社会の中で生きているかぎりでは、自前の映像なんて持つことができないでしょう。『惑星ソラリス』のように、ブルジョワ社会から与えられる映像しかわたし達は持つことができないのですから、テレビで中継される革命やテロリズムもスペクタクルなイメージをそこに重ねて見てしまうのです。それはブルジョワが作った幻影なのです。だからこそファスビンダーは『第三世代』の中でテロリスト達に祝祭日に着るような扮装をさせたのでしょう。わたし達はブルジョワ対プロレタリアという明解な境界線を持つことができないし、洪水のように日々流れ続けるスペクタクルな映像の影響で、毎日がハレの日として日常生活をおくることを強要されている。だったら革命もブルジョワ的なハレであり、スペクタクルであり、そんな革命には祝祭日のコスチュームがよく似合います。 黒沢清が『リアル』のラストで正体不明の恐竜の姿を、CGで合成してその全体像を表出しました。かってだったらその恐竜の姿を見せるのではなく、におわせる程度の演出で終わらせていたのでしょうが、におわせる程度どころか堂々と画面一杯に登場させてしまう。それはほとんどスペクトラムのパロディです。やりすぎて破壊されたスペクトラムです。この破壊された身も蓋もないスペクタクルにわたし達は、リアリティーを感じるのではないでしょうか。現実の描写とまったく釣り合わないCGの恐竜が、まったく本当らしくなく画面の中に表われたとき、映像は本当らしさというリアリズムを捨てたのです。映像は幻灯ではなく、もう一つ現実としての映像を強調するでしょう。映像は何かを表象することを止めたのです。革命のためのプロパガンダ映画や革命を主題とする映画ではなく、革命と等価を結ぶ映画なのです。革命という現実世界での破壊行為をスペクタクルに表現するのではありません、アジプロ映画のような、革命という観念による映画の所有が否定されたのです。革命とは映画のことなのです。映画はあらゆる所有関係を廃棄するように宣言したのです。『中国女』で革命を演じるレオと現実の六十八年フランス五月革命や若松孝二の『天使の恍惚』での十月組による無差別爆弾闘争と現実の四谷警察署追分派出所で爆破したクリスマスツリー爆弾は等価になったのです。
かつてのスペクタクルな劇性は、ブルジョワ社会のイデオロギーでした。それは現実をきちんと見せないための劇性であり、現実に何か事件が起こってもなんだかその状況は映画で見たことがあるといったような奇妙な既視感を与え続けていました(9・11なんかがいい例ですよね。あれはまるでハリウッド映画を見ているような気分になりました)。スペクタクルな劇性は、劇的に見せることで現実の細部を覆い隠すための方法だったのですが、日常生活の一部にまで浸透したスペクタクルは、現実の細部を覆い隠せるほどの魔術的な神通力をなくしました。スペクタクルは所詮スペクタクルでしかないという事実を表明したゴダールの『中国女』やファスビンダーの『第三世代』は、映像は映像でしかないという事実(映像は光の戯れを記録したフィルムの退屈で唯物的な表現でしかない)と同じように、スペクタクルが所詮スペクタクルでしかないという事実は、スペクタクルは今や、スペクタクルという技法の廃墟でしかないという退屈な事実を表明したのです。ディズニー・ランドの真っ暗なスペース・マウンテンの会場が機械の故障で明るく照らされたときに現れた安っぽい書き割りのようなジェットコースターの建築素材を見たときのような白けかたと似ています。映画はそんな退屈な素材を、カットバック等々の映画的技法で臨場感を演出していただけなのです。
スペクタクルはスペクタクルでしかない。映像は映像でしかない。『中国女』以降の映像のスペクタクルは、写された現実を再度現前化させるスペクタクルではなく、映像自身のスペクタクルと言うのでしょうか。それは映像という記号の現前です。現実の疑似体験としてのスペクタクルではなく、映像そのもののスペクタクルは、例えばそれはデュラスの映画の中に出てくるセーヌ川や車で移動撮影する明け方のパリの様子や夜の郊外の道路を走るトラックのライトの流れに表われます。映像を“現実の反映”ではなく、“それは正しい(ジュスト)イマージュではなく、ただの(ジュスト)イマージュだ”、“それは正しいイマージュだと言うことではもはやなく、ただのイマージュだと言うことだった。だからもう、それは馬にまたがった北軍の将校だと言うのではなく、それは馬と将校のイマージュだということだ”と言ったゴダールのように、イマージュそのものが表われるスペクタクル、イマージュそのものがスペクタクルなのです。 映像は何かを伝えるためではなく、何も伝えない、それそのものの現実なのです。表象=代行行為を放棄した媒体は、無限のシニフェを許容する媒体になったのです。マルクハーンが“メディアは現実だ”と言いました。そうなのです。メディアという媒体は、表象=代行として機能する透明な装置なのではなく、現実に対抗するもう一つの現実なのです。 映像は、かつては世界をクリアに見るための装置であり、映像そのものは透明な存在でした。けれど現実とわたしの間に映像がどんどん増殖されることで、現実は見えづらくなり、映像は現実をクリアに理解するための装置というよりも、よく見えなくさせるための、より不透明にさせるための装置なのではないでしょうか。映像がもう一つの現実なら、映像が増殖すればする程、現実が増えて行くわけですから、現実は何が本当の現実なのか同定できなくなる。映像は現実世界のアイデンティティを破壊するのです。映像は何も証明しないのです。映像が増えれば増える程、何が正しいのか分からなくなる。増え続ける映像の中から“正しいイマージュ”なんて選べるでしょうか。“ただのイマージュ”は、“ただ”ゆえに傑作という特権性と釣り合いが取れなくなる。イマージュは増え続けるだけです。 写真は“現実の反映”なのではなく、写真はたんに写真でしかないのではと思います。それはファインダーから見えた現実の正しい再現なのではなくて、それとは関係のない、もう一つの現実というのでしょうか。光と銀の粒子で構成されたもう一つの現実なのです。写真に写っているものは、決して本当の現実ではない。照準器の向こうを見るように、本当の現実を見ているわけではないし、リアルな何かを暴き出しているわけでもないのです。
撮影がだから撃つという言葉と同義なわけがない。撃つという行為が、敵という中心を目標に撃つのが目的なら、写真の場合はひたすら中心を逸れて撃っている。確かにファインダーの真ん中には、ピントを合わせる装置があり、その中心を覗いてピント合わせをしますが、中心だけを見ていてもカメラは勝手に中心以外のいろいろな対象を写してしまう。例えば画面の真ん中の人物にピントを合わせてそれを中心に画面を作ろうと思っても、その中心人物の背景が勝手にカメラに写り込んでしまうことで、中心が相対化されてしまいます。カメラは中心を抽出する機械ではなく、むしろ中心を無化してしまう機械なのです。そのような機械を操作することが前提とされる映像が、射撃という軍事的なイメージと折り合えることがあるとは思えません。映像がよくそのスナイパーの射撃のように、軍事的なイメージと重ね合わせて語られることがありますが、映像は敵という明確な中心を見出すことができないのです。それにゴダールも言っています。“カメラで人は死なない”と。
“写真は写真でしかない”という事実は、すごく政治的です。写真が何かを再現するわけではないという事実は、映像の代行=表象の役割を否定する意味ですから。現実の再現という映像、現実に支配された映像、映像はしょせん本物の代行でしかないという現実と映像の、本物と代行のヒエラルキー、そんな映像の支配-非支配の階級的関係を“写真は写真でしかない”という事実が破壊するわけです。“写真は写真でしかない”という、現実の再現を放棄してしまった写真の事実を前にすれば、かつてのスペクタクルはたちまち古びてジャンクなものに見えてしまうでしょう。写真はだからある意味ひじょうに退屈なものです。幻影や幻灯のような臨場感をなくした写真は、もう一つの現実という物質的な唯物性を獲得しましたが、それは現実であるだけに退屈です。写真の単純で退屈なイマージュの唯物性は、再現性特有の臨場感溢れる現前性を放棄しました。写真はカーニバルを生きるためにあるのではない。現実を生きるためにあるのであって、それはだからいつまでも退屈を維持し続けなければならないでしょう。
退屈を維持し続けることは、最悪の場所に居続けることです。それはうんざりして退屈な状況を見続けることですから、そんなうんざりした状況の中で生きて行くなんて、すごく政治的なことだと思います。浮かれている人間を見て、一緒に浮かれているなんて馬鹿だと思いますが、退屈でうんざりした状況を見て暗くなっているのもどうしようもないことだと思います。世界中の名所で中指を立てるというアイ・ウェイウェイの退屈な反復を続けることが、芸術家にとっての政治的な態度なのではないでしょうか。わたし達は退屈でうんざりするような世界で生きているのです。そんなうんざりした世界を、かつてのハリウッド的なスペクタクルのように面白可笑しく見せるのではなく、さらに退屈でうんざりしたものに見せる。面白可笑しいものなんて、今や何のリアリティーもない。世界中の名所で中指を立てるというアイ・ウェイウェイのうんざりした退屈なジャンクにこそリアリティーがあるのです。
映像の中には、いたるところに政治が侵入しています。アイ・ウェイウェイが“Everything is political”、“Everything is art”と言いましたが、日常はすでに政治的現実に貫徹されているのであり、政治的な現実以外の現実でわたし達は生きていけるでしょうか。『惑星ソラリス』のような現実を強要されているわたし達には、政治的な幻影以外見ることができません。国家や貨幣は、元々は幻影でしかなかったのですが、そんな幻影を実在だと信じるのがブルジョワ社会の本質です。だからわたし達は、そんな幻影の中でしか生きる以外に方法がないという最悪な締念しか持つことができません。幻影を実在だと積極的に錯覚しているというブルジョワ。幻影としての国家や貨幣や資本主義社会を実在だと感じている彼らの感性は、古典的なスペクタクルの世界に生きているのではないでしょうか。ありもしない臨場感をリアルな現前性だと信じ込んでいるブルジョワ社会は、ゴダールの“ただのイマージュだ”という映像は映像でしかないという唯物的な現実を受け止めることができないのでしょう。幻影と現実の関係は、この社会では支配と非支配の関係なのです。幻影が現実を支配しているというブルジョワ社会の現実は、『中国女』や『第三世代』に出演している革命家とまったく変わらない。ブルジョワ階級は腐ったスペクトラムを今でも信用している。虚構の中でしかリアルのものが存在しないという『中国女』や『第三世代』の革命家達の悲痛な締念に対して、ブルジョワ社会のスペクタクルへの楽天的な信仰はまさに滑稽なだけでしょう。
政治的なシステムに支配されている現実を撮ることは、ゴダールの言うように、“政治的現実を政治的に撮る”ということなのではないでしょうか。それは政治的題材を映像の主題にするのではなく、政治的題材をどのように撮るかということだと思います。政治的な題材を、例えばユナボマーの住んでいた山奥の小屋を撮ったジェームス・ベニングの『ステンプル・パス』は、カメラを百二十三分間フィックスで撮ったその方法が面白いわけで、古典的なドキュメンタリー技法で撮ってしまったら、それは何の意味もありません。ユナボマーの小屋をどのように撮るかで、ユナボマーの意味と作家の立ち位置が変わります。ユナボマーが住んでいない家を、高い位置から俯瞰して四季を通じて撮ることで、それはユナボマーの記録なのか、それともすでにユナボマーがいない家を撮り、そこにユナボマーの手記を朗読し、それを映像に被せることはすでにフィクションの方法なので、それはドキュメンタリーと言えるのかという、ドキュメンタリーとフィクションの境界が渾然とした映像です。高い位置から四季を通じて撮るということは、四季の変化が記録されます。さらに俯瞰という位置が、スペクトラムを構成する上では重要な撮影位置なので(俯瞰の視点は権力的な視点と重なります。権力的な視点でユナボマーの家を撮る。そういう意味では、この映画もまた大変政治的な映画だと思います)、スペクタクルな要素が当然入ってくるのですが、固定されたカメラの退屈と言ってもいい撮影がそのスペクタクルな高揚を抑制します。スペクタクルの肯定と否定が同時に表われるベニングの映像は、それはメリエスとリュミエールの階級的な闘いだと言ってもいい映画だと思います。
ゴダールの『男性・女性』で突然画面にインサートされる“マルクスとコカコーラの子供”という字幕がありますが、それはコカコーラ=アメリカ帝国主義、マルクス=左翼の立ち位置を変えてしまう台詞だと思います。ジェリー・ルービンの『この本を盗め』にも、“俺はアメリカの子供だから、電気椅子に座る直前には、コカコーラとハンバーガーを要求してやる”と書いてあるのと同じ意味です。それはシニフェとシニファンの関係を変えてしまう。例えばアメリカ帝国主義の産物であるコカコーラの瓶に、ガソリンを入れ直して、瓶の口に布切れをつっこんで火をつけることで、たちまちコーラの瓶が火炎瓶に変身する。アメリカ帝国主義の象徴が、モロトフ・カクテルという名の抵抗の武器に変身するのです。コカコーラとマルクスを等価な価値としてつなげることで、コカコーラとマルクスの意味が変質する。コカコーラとマルクスの境界を彼らは、そこで溶解してしまったのです。コカコーラとマルクスが地続きのものとして表われる。
“Everything is political”であり“Everything is art”なら、政治や芸術は、日常的に存在しているのではないでしょうか。それはどんな言説の中にも忍び込んでいる。例えば写真は記録なのか、表現なのかという言説がありますが、どちらの言説も写真は記録か表現のどちらかの領域に所有されなければいけないということが前提とされている。その意味では、写真はつねに記録か表現のどちらかに所有される対象であり、それは写真がいつまでも記録か表現の支配を受け入れなければいけないという“所有する-される”という政治性を内包しています。ゴダールの“政治の映画ではなく、映画の政治”は、そのような映像の内部に無意識に沈殿し、なおかつその無意識の沈殿物がわたし達の意識をコントロールしている現実を問題にしているのではないでしょうか。政治的題材を写せば、それが政治的な映像だと思っている人間は今でも多い。そんな現実を見れば、政治は意識や生活のあらゆる細部にまで侵入しているでしょう。世界はだから“Everything is political”であり、そのような政治性を内包している映像を、映像を使って表現しなければならない映像作家は、“政治的な映画を政治的に撮る”のでなければならないのです。
そして“Everything is art”ならわざわざ素材を芸術的に加工することもない。素材を何かに加工させるのではなく、それは素材同士の関係を変えてしまえばいいのではないでしょうか。コカコーラの代わりにガソリンを入れることで、飲料としてのコーラ瓶を火炎瓶に変質させたように、芸術は素材が置かれる場所や使用方法を変えることなのだと思います。デュシャンが美術館に便器を持ち込んでそれを芸術だと宣言したように、撮影は対象を違う場所に配置し直すことなのではないでしょうか。撮影はだから転写と言っても、移動、移行と言ってもいい。要するに撮影は対象の文脈を変えてしまうことなのであり、対象をどこかに移動、移すことなのではないでしょうか。字義的にも写すと移すは似ていますし。写真はだからゼロから何かを生み出す芸術ではなく、配置と移動の芸術なのだと思います。フレーミングは作者の美意識によって構図を決定する作業ではなく、ある現実を切り取って、違う現実の中に再配置することがフレーミングの役割なのではないでしょうか。
“Everything is art”は日常の配置を移動させ、変えてしまうことで芸術を創出することです。芸術は発見されたり加工されたりするものではなく、移動と配置転換によって生まれてくる。政治と芸術は特権的な人間や特権的な場所で行なわれるというブルジョワ社会の幻想が、政治と芸術をスペクトラム化しましたが、今やスペクタクルはジャンク化され、スペクトラムの廃墟しか残っていない。“Everything is political”、“Everything is art”は政治と芸術の特権性を剥奪するのです。わたし達は空虚で何もない、廃墟のアミューズメントの世界で生きていかなければならないのなら、そのスペクタクルな魔法で彩られた政治と芸術を、廃墟の視点からもう一度見直すことです。それはアイ・ウェイウェイの『Provisional Landscapes』の繁栄で浮かれ騒ぐ北京を、何もない空虚な荒野のように見る視点なのだと思います。


百葉箱 Screen #18
小松 浩子 (写真家)
ペストとはヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病を指し、日本では感染症法により一類感染症に指定される。本来は齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気であり、ノミ(特にケオプスネズミノミ)がペストに感染したネズミの血を吸い、次いで人が血を吸われた結果その刺し口から菌が侵入、若しくは感染者との何らかの接触により菌が侵入し感染する。人間・齧歯類以外に猿・兎・猫等にも感染し、その高い致死性や罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、14世紀のヨーロッパではペストの大流行により全人口の約3割が命を落としたと言われる。近所の商店街にある家具屋は自宅の一部を倉庫として利用しており、大人が一人通れるくらいの通路を残し梱包された家具が天井まで積まれ、居住部分とは異なる出入り口がある。自宅の出入り口の直ぐ隣が家具屋の倉庫の出入り口で、家具屋の居住部分への出入り口からは死角となるため侵入が容易である。換気の問題か埃と黴の匂いのする倉庫に頻繁に侵入し通路の一番奥の角に設置されている機械式の捕鼠器を発見する。捕鼠器は檻状で中央部に餌が仕掛けられ罠に触れるとバネにより発動して扉が閉まり捕獲する仕組みで、頻繁に侵入して観察したところ長い間機能する事は無かったが、ある時頭胴長20cm程のクマネズミが捕獲される。農作業においては人間が自然の恵みにより間接的に自然から食料を得るという意識があり、自然の鳥獣が時折田畑から食物を得るのは自然な事であり殺して駆除すべきではなく追い払う対象としているが、収穫後の穀物は自然と切り離された人間の所有物であり、有史以前より世界的にネズミは人間が収穫した穀物を盗む害獣であるとされる。檻状の捕鼠器ではネズミを捕獲した状態で水没させ処分するのが一般的で繰り返しの利用が可能である。家具屋の従業員がクマネズミの入った捕鼠器を手に倉庫から出て来た為、クマネズミを人家から離れた場所で放つ提案をしてみたところ、家具屋の名前の書かれたトラックから針金を持って来て輪を作り捕鼠器の扉を開けクマネズミの頸に引っ掛けてフェンスに吊るしてしまう。小学生の身長では届かない高さに吊るされたクマネズミは暫くの間激しく手足を動かしてから動かなくなり、従業員は喫煙しながらクマネズミの様子と提案した子供の様子を交互に眺めてから倉庫に捕鼠器を戻しトラックで走り去る。絞首刑とは死刑の一種で、絞殺する刑罰である。1952年東京大学の古畑種基博士の絞首刑により受刑者は一瞬で意識を失うとの主張を裁判所も受け入れ、長年にわたり絞首刑は最も安楽に死をもたらす死刑の執行方法であると信じられてきた。後年オーストリアのヴァルテル・ラブル博士の研究成果により古畑博士の研究の誤りが指摘され絞首刑を非人道的な刑罰と考える傾向が強くなり世界でも絞首刑は減少傾向にあるという。現代英語では"pest"はハエ・ダニ・イエネズミ等人間に害を与える小動物一般を指す。また、ペストコントロール【pest control】とはネズミや衛生害虫を駆除・防除する事を指し、ウイルス等による動物由来感染症の蔓延を防ぐための消毒・感染動物の殺処分も含まれる。14世紀の大流行以降もペストは何度か流行しているが集権化に伴う防疫体制の整備と衛生状態の改善により現在でほぼ根絶されたという。日本でも1896年以降数回のペスト流行を記録し東京市がネズミ一匹あたり五銭で買い取る等駆除に力を入れたが、本来日本国内にはケオプスネズミノミは生息しない為、現在では日本にペストはなかったとされている。日本は現在でも絞首刑を採用している数少ない国に含まれるが、クマネズミに限らずペストコントロールが強く履行されている場所でもある。


愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
10/1 中途半端に協力を求めるくらいなら、1人で解決するつもりで作業を進めたほうが成果が上がるかもしれません。自分とは無関係なことに巻き込まれても、冷静に対応すれば大したことにはならないでしょう。恋人募集中の人は、友達と2人でにぎやかなところに出かけると良さそうです。周囲のことにもっと関心を持つようにしましょう。新しいことに挑戦すると、うまくいくかもしれません。歓迎会や飲み会などの集まりでは、和を乱さない態度でいると注目が集まりそうです。その場所で出会った異性とは、今後絆が深まるでしょう。自分のペースを維持することが、体力を消耗しない秘訣です。くれぐれも周囲の人たちに振り回されないようにして下さい。わたし、なぜこんなことをしてるんだろう?なぜパーティーなんかに向かっているんだろう、何を言えばいいかもわからず、自分をどうすればいいかも知らないというのに?手はグラスや煙草で簡単にふざける、でも身体の残りの部分は―恥ずかしくなるほど生々しく、制御不能で、溶けあって一滴の露になろうとは絶対にしない―そんなものと一体どう折りあえというのだ?椅子にすわらせたり、口を開かせて適切な音声を出させたり、ソファの端に寄りかからせたり、立ちあがらせて室内をつっきらせ、誰か見知らぬ相手の、ぎょっとするほど期待に満ちているか自己満足にあふれていながら全く近寄りがたい表情を浮かべている顔と向き合わせるための正しいタイミングなど、どうすればわかるというのだ? 10/2 勘が冴えているようです。良くないことにも敏感なので、行動を起こす前に不安を感じたらやめておいたほうが良さそうです。出かける前に余裕をもって時刻表や経路などをチェックしておくと、慌てないで済みそうです。家族で食事をとるなら、魚や貝をたっぷり使った鍋料理にすると、絆が強まるでしょう。「だいたいあなたはここにいるべきではなかったのよ」母親からのこの言葉にわたしは肝をつぶした。幼いながらも想像力をはたらかせて、今は忘れているけれど、自分は過去に罪を犯したのだと思った。その罰としてこれから先一生、従属的な立場に甘んじ、ほかの家族がいやがったり避けたりする仕事を片付けなければならないのだ、と。生活の匂いのせいで気が遠くなり、一瞬、目の前にいる人びとがぼやけて、ふたつの角張った黒い影と、そのあいだにはさまれた細長い影になり…典型的な活人画になった。見慣れた活人画が出来上がっている部屋に入ったとたん、わたしはほかの三人との距離を感じ、自分が部外者だと気づいた。つかのま、三人は無言のままわたしを見つめたが、微笑むことも温かな言葉をかけることもしなかった―実のところ、そんなことをされたら、わたしは喜ぶどころか、めんくらうだろう。わたしの前ではあたりまえの礼儀作法も守られないのだ。あなたが結論を出しかねている問題に、職場の同僚が的を得た助言をしてくれそうです。お互いの絆も深まるでしょう。今日は「自然体」を念頭に行動すると運が開けるでしょう。ファッションも年相応のものを選ぶようにしましょう。愛情は深まりますが、ちょっと肩に力が入っているかもしれません。あまり気負わず、リラックスして相手を愛してあげるようにしましょう。 10/3 三味線や琴などの新しい分野に興味を抱きそうです。知り合いが経験者なら話を聞いてみましょう。知識の幅が広がるかもしれません。買い物は駅ビルや駅のそばですると、探し物がすぐに見つかるでしょう。秋の風情ある花を楽しむと、感性が豊かになります。花屋の店先をのぞくだけでも気分が変わるはずです。スーパーやコンビニなど、何気なく買ったお菓子が、最高の出会いを運んでくれそうです。今日は惜しまず、みんなにプレゼントして下さい。今日はセックスはお休みして、相手と話し合いをすると実りがありそうです。この際、心にとどめていた不満をぶつけてみましょう。「恋人はたくさんいたの?」「いつでもここに来させるの?」「危険じゃないの?―部屋が別々だとは言ってもさ?ご主人に見つからないかって心配じゃないの?」「カーテンを閉めたほうが良いんじゃないかな?」「早すぎたかな?」「ときどきこうなることがあるんだよ、神経質になってるとね」「ご主人ってどんな人?」「どうしてこんなふうに君を放ったらかして出かけちゃうの?君が浮気してるって気がつかないのかな?それとも知ってて気にしてないの?」「どうしてご主人のことを話してくれないの?」「まだ愛しているってわけじゃないんだろ?」「もし愛しているんなら、ご主人を裏切ったりはしないよね?」「それに、彼が君を愛してるとも思えないな。君を放ったらかしにしてるだろ、ひとりぼっちで放ったらかしにして…。彼は、夜どこに行ってるの?友だちのところ?パブのはしご?それともどこかな?」「見当もつかないわ」わたしは冷たく答えた。だがこの冷たさは彼には効き目がなかった。「でも、そんなに遅くまで留守にするときは、どこに行くか言うべきだろ―彼に聞かないの?」わたしは答えず、漠然として曖昧な、うんざりとした声を出しただけだった。「マイターまでは来ないよね?」「見当もつかないわ」わたしは冷たく繰り返した。この冷たさは何の効果もなく、彼には通じなかった。 10/4 人の話を最後まで聞かないと、後で笑われるようなことをしてしまいそうです。聞き逃したら誰かに確認して下さい。飲み会などに参加するなら、今日は引き立て役に徹しましょう。その方が結果的には良い印象を残せそうです。元気がなくても、それを周囲に悟られないようにして下さい。家族や恋人から「元気がないね」などと言われそうです。自分では気づかないかもしれませんが、相手に不快感を与えないように注意して下さい。わたしは懸命に正常な自分に戻ろうとした。正常な目で見て、正常な頭で考えようと。しかし、どんなに頑張っても、執拗につかみかかる目に見えない触手から逃れることができないのだ。蜘蛛の巣のようにやわらかく粘着性のある触手は、ひとつの感覚にとりつくや、こっそりと別の感覚をべたつく網に絡ませていく…すると、目の前の世界はかすんでいき、わたしとは無関係なものになっていくのだ。「ねえ、かまわないほうがいいですよ―この子がふてくされたいなら、そうさせておきましょう」彼らの声は遠くから聞こえる不愉快な雑音にすぎないので、それに対して何もする必要はない。 10/5 ささいなことでも気にかかり、落ち込んだり傷ついたりしていると、同僚や友人がこっそり解決してくれていそうです。さりげなく感謝の気持ちを伝えておいて下さい。心ひそかに立てた目標の実現は間近かもしれません。気力が満ちているので、思いっきり仕事や勉強に打ち込めるでしょう。自分の発想に自信を持ちましょう。そうすれば、異性からも同性からも注目を浴びるでしょう。出会いの機会も広がりそうです。そこは幻影がうごめく非現実の世界だ。妖しい魔女の小さな白い顔、冷ややかな目、威嚇するようにすぼめた口。先ほど煙のなかを不思議な緑の閃光が走り抜けるのを見た。今またしてもとぐろを巻いていた細く白い蛇のようなものが体を伸ばすと、エメラルドの光輝が熱く垂れこめる煙を突き破った。わたしはうっとりした。まるで本物の魔術を目撃したかのようだ。ふいにそれが母親だと気づき、わたしは自分の考えにぞっとした。母親を魔女だと思うなんて、とても信じられない―すぐさま恐ろしい考えを頭のなかから追い出した。しかし、潜在意識化ではいつも、魅惑的な光を放つ蛇のような腕、悪意に満ちた薄い唇を思い出すのだった。心の奥では真実を見たことがわかっていたのだ。 10/6 昔の恋人との偶然の再会などで、気持ちが揺れることがありそうです。しかし、それは一時の迷いに過ぎないでしょう。早まった行動をとらないようにしましょう。今まで読んだことのない分野の本に挑戦してみて下さい。ミステリーや冒険小説など、娯楽性の高いものなら楽しく読み進められて気分転換にもなるでしょう。10円玉がたった1枚足りないために、ほしいものが買えないという事態におちいるかもしれません。買い物は誰かと一緒に連れ立って行くのが良さそうです。あなたのいい加減な面が出てしまいそうです。デートに遅れたりするもの、たまにはしょうがないとしても、度重なると嫌われます。あっちにもこっちにも良い顔をしようとして、混乱を招きそうです。できないことはできないと、断れる自分を持ちましょう。今後長く付き合っていくような人との縁はなさそうです。逆に嫌いなタイプから迫られて困惑するかもしれません。早めに帰宅した方が良いでしょう。 10/7 テレビの情報番組などを見るときは筆記用具を用意しておきましょう。関心のある情報はすぐにメモを取るようにして下さい。後で役に立つかもしれません。体の発するサインを見落とさないようにしましょう。おかしいと思ったらすぐに病院に行って下さい。診断してもらった方が安心できます。一度、銀行などお金を預けている場所の残高確認をしてください。残高不足に気づいたら、すぐに補充しましょう。何事も信用が第一です。共通の趣味を持つ友人から、素敵な人を紹介されるかもしれません。恋に発展する可能性は低いかもしれませんが、何かと力になってくれる人でしょう。新しい体位を試そうとせず、今まで通りにセックスを楽しんだ方が良さそうです。今まで通りの方法でも、今日は一味違うと感じるかもしれません。 10/8 ちょっとした用事を頼まれることが多そうですが、どれも能率よくこなせ達成感も得られるでしょう。何か買い忘れていたものがある人は今日買っておきましょう。幸運な色の洋服を着ると気分が落ち着き周囲からの目があなたに集まります。町かど町かどの台座から、市長たちのいかめしい、非難の顔がわたしをにらめつけている。冷たい敵の目、矢の目が、先端に毒を塗った疑いでわたしを射る。まるで、わたしがどこから来たのか知っているようだ。申し込めばそれなりに得をする応募の締め切りが迫っていないかを確認して下さい。1円を笑うものは1円に泣くと言います。喫茶店などの静かな場所で心ときめく出会いがありそうです。時間や道を尋ねたりして、話しかけるきっかけはあなたが作って下さい。 10/9 朝起きたら手帳で予定を確認しておきましょう。しばらく会っていない恩師や先輩がいたら、葉書を出してみましょう。近いうちに嬉しい知らせが届きそうです。体調を崩すことはなさそうですが、暴飲暴食はしないよう気を付けて下さい。ずっとほしいと思っていたものが、信じられないような値段で売られていそうです。迷わず購入しましょう。計画していたことは、予定通りにはかどりそうです。同僚や後輩にも気配りして、もし困っている人がいたら手を貸してあげる余裕を見せましょう。良くも悪くも多大な影響を与えてくれる人に出会えそうです。どちらに転ぶかはあなた次第でしょう。まず気に入ってもらえるよう努力して下さい。人類以外の種のこの力強い肉体とこんなにも近づいていることで、わたしは名づけようのない楽しい気持ちを感じていました。わたしは彼に声をかけ、家にあった肉をやりました。彼が口をきいて、どうしてやって来たのか、わたしに何をしてほしいのか話してくれないかと期待したのです。しかし、彼は大きな輝く目で思案ありげにわたしを見つめ、わたしの言うことが分かっている様子でしたが、答えてはくれず、一日中無言のままでした。ひとつ強調しておかなければいけないのは、彼の沈黙には強情なところや敵意ある様子は少しもなかったということです。わたしは彼が何も言わないことに腹を立てたりはしませんでした。それどころか、その自制した態度を尊敬しました。 10/10 気分の上下が激しく、同僚や家族まで巻き込んでしまい、大ひんしゅくを買うことになりそうです。初対面の異性からの誘いには注意しましょう。後々、とんでもないトラブルに巻き込まれることになりかねません。今日は1人でできる仕事や趣味に没頭すると良いでしょう。嬉しい出来事の後に、信じられないような出会いが待ち受けていそうです。心の隙を狙われないように、気を付けましょう。トラブル発生の予感があります。性感的にもあまり良くありません。こんな時はセックスをするのではなく、ただ2人で一緒にいる方が良いでしょう。あの頃、彼はそれは魅力的だとわたしは得心した。今では、彼を見るとわたしは生理的な嫌悪感を抱く。わたしはなるべく彼を見ないようにしている。彼が重い腰を上げて顔を洗い、ひげをそるのは飲みに出かけるときだけなのだから。寝椅子に寝そべっているあの太った、不精でだらしのない人間が、わたしがほとんどひと目で恋に落ちた男性と同じ人物だなどと信じられないくらいだ。 10/11 どうしても気分が乗らなければ、仕事も家事も休んでみると良いでしょう。それほど体調は下降気味のようです。現金の紛失に注意して下さい。自分の財布はもちろんのこと、一時的に預かったお金の扱いも慎重にしましょう。どんなに魅力的な誘いがあっても今日は我慢した方が良さそうです。外出するときは手荷物を1つにまとめましょう。お金や持ち物の管理をしっかりしないと、大事なものを紛失してしまうおそれがあります。あなたが八方美人的な態度をとると、パートナーを怒らせてしまいそうです。誤解を解く努力をしないと、関係を修復するのは難しいでしょう。 10/12 誰の話を聞いても上の空という状態になっていそうです。大事な話を聞き漏らしてしまわないよう気を付けて下さい。ぼんやりと突っ立ってないで、何か覆いとなるものの下にはいれ、砲弾の破片が降ってくるぞ。その声がはらんでいた怒気が彼女を夢から外に吹き飛ばした。だが、巡視員の怒りは何の助けにもならなかったし、実のところお門違いと言ってもよかった。なぜならわたしは、ぼんやりする性癖を治すことはできないとわかっていたからだ。生まれてからずっと、わたしのなかであの力が働いているのだ。あの執拗な未知の力、それが彼女を駆り立ててたくさんのドアを開けさせ、たくさんの通路を歩かせ、せっかく慣れてきた安全な場所から立ち去らせてきた―勇ましい冒険心などというものではなく、恐れからだ。だがその恐怖は、確実に、夢のなかのものなのだ。その夢では冷酷非情な声が命じてもくる。次の場所へ行け、旅人よ。あちこちの、まだ探査されたことのないほかの場所へ、ほかの経験へ。それを説明することは不可能だ、それは明白だった。何もせずに1日を過ごしてしまうおそれがあります。朝起きたら1日の予定を立て、それに従って過ごすと良いでしょう。花を飾ると、気持ちが引き締まり体も動きやすくなりそうです。あまり知らない相手から、誘われるかもしれません。あなたにとっては良い人とは言えないので、丁重にお断りした方が良さそうです。勘が鈍っているようです。行く先々で会いたくなかった人と遭遇してしまうかもしれません。今日は、注意して周りを見ながら行動して下さい。 10/13 趣味を深めたり、技術を高めるための出費で迷っているなら、決断をして下さい。将来、大きな実になりそうなものには思い切って使って下さい。異性との出会いは多いので、きちんと相手を見分けましょう。まずは、話の合う友だちを増やすくらいの感覚で付き合うと良いでしょう。趣味や自己磨きのための出費は、今日のうちに来月分を支払ってしまいましょう。今月後半は臨時の出費が重なるかもしれません。周りの人に気を遣いすぎているかもしれません。もう少し自分をしっかり持って、周囲の意見に惑わされないようにしたほうが良いでしょう。ノーと言えないのは、非特異性の鬱病者の特徴。そういう昔ながらの心理学的分類にはうんざりだ。おまけにそれは私の場合にはあてはまらない。少なくとも、完全には。それは単に動作がのろいとか、道徳心が薄弱とか、そういうふうに言われるようなものではないのだ。そうではない別の力があるのだ、いつも人をたきつけてあらゆるドアを開けさせ、あらゆる橋を渡らさせ、あらゆる通路を歩かせるあの力が。 10/14 仕事が面白いようにはかどり、充実しそうです。そのままになっているお見合いや転職の話があったら、結論を出して下さい。迷いが生じても、自分の決断を信じることです。人を喜ばせることで運気は上昇します。親友や家族にちょっと贅沢な食事をご馳走しましょう。広告に「今なら入会費無料」などの文字を見つけたら、内容を確認してみましょう。前から興味のあったものなら入会を検討してみて下さい。いつも同じような場所で過ごさないで、新風を吹き込みましょう。あなたからの提案で、2人の絆も深まるでしょう。あなたと同じ色の服や小物を身に着けている初対面の人がいたら、異性、同性にかかわらず、その人との相性は良いでしょう。ぜひ、電話番号やメールアドレスを交換して下さい。 10/15 今日の行動は、後々にも大きく影響してきますので、セックスは相手の希望に沿ってしてあげると良いかもしれません。お買い得のDVDが見つかりそうです。迷わずに買っておいたほうが良さそうです。ただし、文房具は買わないほうが賢明です。 10/16 家庭内でもめごとが起きやすくなっています。何が起きても、右往左往しないことが解決への近道です。このところ不摂生をしすぎたなと感じたら、今日は規則正しく生活しましょう。交際期間の長い恋人とは、デートをしても新鮮味に欠けそうです。だからといって、いきなり冒険するのはやめて下さい。今日は話を聞くだけにとどめたほうが良さそうです。今日いろいろと考えても答えは出そうにないので、いつも通りに過ごしましょう。今日はどうしてもやらなければならないこと以外、手をつけないようにしましょう。無理をしても、良いことはありません。 10/17 しばらく連絡が途絶えていた異性から、突然誘いの電話がありそうです。家庭向きな人のようなので、気軽に会ってみるのも良いでしょう。かつてわたしたちはそれは親密で、お互いの心が読めるのではないかと思われるほどだった。今では、二人とも相手の考えていることがさっぱり分からない。彼の献身と優しさと、そして彼と一緒にいてどんなに幸せだったかということを思い出すと、わたしは、誰か他の人のことを、もう死んでしまったか、あるいはどこか遠くの大陸に永久に去ってしまった。まったく別の人のことを考えているような感じがする。店や電車などで隣り合わせた人に注目してみましょう。昔の恋人に似ているなど、心惹かれる人がいそうです。 10/18 食事などの誘いをことごとく断られ、寂しい思いをしそうです。ただ単に予定が合わないだけのようなので、落ち込んだり深く考えたりしないことです。どんなに長い付き合いだからといって、恋人にいきなり将来の約束を迫ったり別れ話を持ち出すと、面倒なことになりそうです。友人と一緒に買い物に行ったときは要注意です。自分の買い物にあまり時間を取らないで、友人の相談に親身に応じてあげるようにすれば、余計な買い物はしないで済みそうです。恋人との間にトラブルが発生しそうな気配が濃厚です。お互いに自分の都合ばかり考えていては破局に向かってしまうでしょう。メリハリをつけて仕事をしましょう。休憩時間や昼休みの時間まで割いてやっても、能率は上がらないでしょう。だらだらしないことです。飲み会やパーティーなどに出かけても収穫はなさそうです。自分でも不思議なくらいやる気が出ない日になりそうです。 10/19 倦怠期を迎えていたカップルは、将来について真剣に話し合ってみると良いでしょう。やり直すきっかけを作れば、愛が再燃するかもしれません。ソファーから少し離れた所に立ちながら、わたしは努力しなければ彼に話しかけられない。昼食を食べるかどうか私は尋ねる。返事なし。コーヒーは?返答なし。新聞は?沈黙。それじゃ、窓を少し開けて、煙を出しましょうか?この部屋はどんよりしていて息ができないわ。相変わらず彼はひと言もしゃべらず、こちらを見もしないで、まるでわたしがいないかのように無頓着にガウンのひだにまた灰を落とす。一瞬、わたしは本当に考えてしまう。これは同じ人間なのだろうか…。秘められた才能を開花させてくれるような、頼もしい上司や先生などが現れそうです。普段はあまり行かないような公共の施設などに出会いのチャンスがありそうです。いつ出会いがあっても恥ずかしくない服装で行くと良いでしょう。 10/20 頑張ってきたことの成果が現れそうです。自分へのご褒美を買うなら、品選びをしておきましょう。普段は質素にしていても、思いっきり品質の良い高価なものを選んでみてはいかがでしょう。それが新たな原動力になるはずです。お得な資産運用情報が得られるでしょう。参考程度に検討してみて下さい。自分へのご褒美はしっかり選んで下さい。財布の中に少しでも余裕があるなら、相手にあげる贈り物を選びましょう。びっくりされそうですが、相手の愛情が深まりそうです。体調は悪くなさそうです。食べ放題、飲み放題のお店での食事を楽しめるでしょう。 10/21 早起きして静かな空気の中で趣味に没頭すれば、集中できて気分転換になるでしょう。それが絵画や書など、芸術的なことなら良い作品になりそうです。夜が明けて以来ずっと、チャバラカッコウたちは大声で例の絶え間ない問いかけを続けている。おそらくその鳥たちが鳴いているのは別の次元なので、もしかしたら聞いている側はせん妄状態でそこに運ばれ…やがて究極の悪夢の頂点に達し…そのとき不意になにもかもがやんで… 10/22 魅力的だった人が突然、色あせて見えそうです。何か原因があるかもしれません。直接話してすっきりさせましょう。日々の疲れがたまっているのかもしれません。あまり大勢の前で過ごすことは避け、自分の時間をしっかり取りましょう。今日1日くらいはゆっくり休むのも悪くありません。健康のための出費なら、今日はお金を使いましょう。自分1人のためにお金を使い、自分を磨く努力をすると運気の上昇につながるかもしれません。調べなければいけないこと、点検すべきことがあれば、後回しにせずにすぐ実行しましょう。そのまま忘れてしまう可能性があります。今は誰もわたしが病気だというのを否定できないし、誰もこれ以上わたしに要求することはできない―やっと休むことができる。奇跡的に、少し前までは何があってもやり遂げなければならないと思っていたことから免れた。のんびりできそうだとなると、はやくも思考はどんどん離れていった。紐に繋がれた猟犬のようにじりじりしながら、狂乱の仲間と自由に競いあえる熱い世界へ逃げ出そうと懸命になっている。 10/23 集中力が低下しているようです。神経を使う仕事や慎重さが求められることは、今日はやめたほうが良いでしょう。動けないことは承知していた。すでに重苦しい倦怠感が体にのしかかっているのだ。目に見えない羽布団のような、途方もなく大きく、やわらかい、ずっしりとした感覚が、近ごろはちょっと気を緩めると、きまって襲いかかってくる―不愉快な鬱陶しいかたまりはわたしを麻痺させようと決意しているのだ。賭け事の誘いには応じないで下さい。たとえ少額でも無駄遣いに終わり、後悔することになりそうです。今日は1日、お金を使わないという心づもりでいて下さい。少しだけならという気持ちが、命取りになりそうです。貴重品の管理には気をつけましょう。今日、調子よく近づいてくる異性には、どんなに素敵な人でも気を許さないようにして下さい。トラブルに巻き込まれる可能性がありそうです。気のゆるみや注意力の欠如が原因でトラブルを起こすおそれがあります。 10/24 貴重品の置忘れに注意して下さい。パートナーのひと言に癒されそうです。そのひと言を、日記や手帳に書き留めておきましょう。外出先で昔の恋人にばったり再会するかもしれません。一瞬仲を戻したくなりそうですが、気の迷いに過ぎないようですので、冷静に対処して下さい。優柔不断な態度でいると、強引に接してくる異性がいるかもしれません。はっきり態度で示さないと、自分の意見を無視され後悔することになるでしょう。せっかく自分好みの人と知り合うことができても、優柔不断が災いして仲良くなる機会を逸してしまうおそれがあります。ここは大胆かつ冷静に接したほうが良さそうです。 10/25 外出前には忘れずに天気予報を見ておきましょう。少しでも雨が降りそうなら、傘を用意して下さい。今日は早めに帰宅して、夕食は自宅でとりましょう。家族と食卓を囲むだけで、普段気にしていなかったストレスから解放されるのを実感しそうです。精神的な充実感を味わえる日かもしれません。物欲しそうな目つきでベッドを見つめ、今すぐ横になれたらどんなにいいだろうと思いながらも、今、しなければならないのは着替えてて食事に行くことだと繰り返しつぶやいた。食べ物のことを考えたとたん吐き気をもよおした。けれど、行かなくてはならないことはわかっているし、言いつけに背くことなど考えもしなかった。何があっても頑張ってやり遂げなければならない。服を脱ぎ、別の服を着て、階下に行き、見知らぬ人々に囲まれ、家族の嘲るような、非難するような冷たい視線を浴びながら、無理に食べなければならないのだ。精神面でのゆとりが体調にも反映し、行動力も抜群でしょう。温かいめん類が、さらに活力を与えてくれそうです。 10/26 デートには、いつもとは印象の異なるファッションで行きましょう。新しい自分を発見することになりそうです。幸運な色を使うと良いでしょう。雑誌や新聞の広告でお買い得な情報を見つけそうです。割安感につられそうですが、流されず、確かな眼をもって購入しましょう。社交的な態度でいると、言い寄ってくる異性もたくさんいるかもしれません。なかには遊び相手を探している人もいるので、気をつけましょう。新しい出会いは運命の相手かもしれません。すぐにもセックスに応じてくれるかもしれませんが、遊び相手と割り切られてしまうこともあるので注意が必要です。 10/27 家族との会話に苛立ちを感じたり、簡単な作業が思うように進まなかったら、すぐに息抜きをしましょう。難しく考えず、なるべくさらっと受け流すことが大切です。デート中にぞんざいな態度をとってしまうと、後で後悔することになるでしょう。またもやあの絶望的なこころみ、やらなければならない困難な仕事のせいでうつろなむかつきを感じながら、心のなかで考える。本当にわたしはこれをやらなければならないのか?この不可能事をなしとげようとするのは、絶対に必要なのか?だがその一瞬はすぎ去り、頬に彼の吐息と軽いキスを感じるあいだに、それは終わった。わたしはガラスの独房のなかにいた。そこは静かに思え、まったく何も感じなかった。相手の立場に立って物事を考えましょう。ちょっと渋めの居酒屋や小料理店を訪れてみて下さい。懐かしい人との再会があるでしょう。人と人との縁を大切にして下さい。 10/28 予定外の出費には注意しましょう。どんなに親しい人の頼みでも、借金の申し入れは断って下さい。これまで築いてきた信頼や実績を、自分で粉々に壊してしまうような出来事があるかもしれません。どんなことがあっても、短絡的に行動してはいけません。良く考えてからにしましょう。相手の言うことが信じられなくなりそうです。不安な気持ちに襲われるかもしれませんが、きちんと話せば誤解も解けるでしょう。 10/29 何事にも積極的になれそうな1日です。朝起きてから新鮮な空気を取り込むと、運気はいっそう好調になるでしょう。家の裏手にあるタマリンドの木立では朝から晩まで、一羽の熱帯の鳥が三つの音からなる同じ問いを一本調子にずっと返している。しつこく繰り返される騒々しくて抑揚のない耳障りな甲高い鳴き声は、スイッチを切ることができない機械のような腹立たしいまでの粘り強さで、鼓膜に穴をうがつ。もう少し頑張らなければというときは鍋物を食べるのがおすすめです。野菜と魚介類がふんだんに入った鍋が、力を与えてくれるでしょう。 10/30 投げやりな態度がもとで、周りからの評価が急降下しそうです。いつでも誰かに見られていることを意識し、些細なことでも全力で当たるように心がけて下さい。あなたのいい加減な態度が災いして、相手が不満を爆発させてしまいそうです。原因はあなたの方にありそうなので、素直に謝って下さい。職場の上司や学校の先輩と意見の食い違いが生じて、口論にまで発展しそうな予感があります。相手の立場も考えて歩み寄るように努力しましょう。ダーツなど集中力を要するゲームが良い気分転換になるでしょう。 10/31 周りの人の視線を一身に集めることができそうです。少しくらい自意識過剰に振る舞っても大丈夫でしょう。わたしは突き出した輝く大きな目をテーブルからテーブルへと走らせながら、元気いっぱいのソプラノで食事中の人たちに対するコメントをとめどなくしゃべりつづけ、彼はわたしを叱責せざるをえなくなる。「おまえの振る舞いは行儀の悪い女学生以外の何ものでもない。個人的な意見を述べるのはおもしろいことでも何でもなくて、単に無作法なだけだということがわからないのか?」「だって、わたしたちが何を言っているか、あの人たちにはわからないもの―」

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「物語は物語の中にしか存在しない。」 〜ことの次第〜

写真それ自体は物語になり得ることは出来ず、物語の糸口を誘発はするものの物語を否定し撥ね付ける冷徹さのようなものが本質的にあるように思います。表面に現れた像は見る者の解釈によって様々な物語を喚起させ、理解や共感の手掛かりを提示しますが、視点をずらすことによって途端に物語は崩壊し別の物語が立ち上がり理解を拒んでしまうのです。しかし写真の中には現実の世界が写し込まれている以上鑑賞者はこのような絶対的な空虚さには耐えられず、何とかして理解し共感するために写真の中に物語の端緒を形成してコミュニケーションを図ろうとするのです。それによって現れる物語は鑑賞者の物語であり、鑑賞者の見たい世界を写真に投影して作り上げた鑑賞者の中にしか存在しない理解のための物語、写真とは無関係な妄想のようなものなのだと思います。「物語は物語の中にしか存在しない。だが僕の考えでは人生は物語を必要としない。人生は僕の考えでは人生はー物語を生んだり物語に転化することを必要としない。物語は語れるが残酷なことに物語が入ると生命が逃げていくんだよ。生命が全て映像に圧縮されるメカニズムだ。物語と共存できるのは死だけだ。物語というのは死の先ぶれさ。」写真を前にした時我々には最早語るべき物語は存在せず、そこに現れる物語は物語に対する欲求、いわばコミュニケーションを希求する欲望を具現化した形骸としての物語、不安定な自我の存立の確固たる意義を求める物語のための物語なのだと気づくのです。だからこそ既に失われてしまった過去の事物を定着した未来を持たない死体のような写真は自身が物語化することなく物語と共存していくことが可能なのではないでしょうか。
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