The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2016年 2月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #22   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
アナコンダ 第1回   ・・・・・・・・・ 大山 純平
confession
〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
松田政男の風景論が指摘するように、風景はそこに客観的に存在しているものでも、自然として先天的に存在しているものでもない。風景とは制度であり、一つのイデオロギーとして機能する。風景はイデオロギーを形成する環境であり、イデオロギーを決定させ、支え続ける重要なファクターでありながらも、決してイデオロギーのメタ・レベル的な存在ではなく、それは人間によって作り直され、解釈され続けられたものでもある。風景は人間に対して自らの意味を問わせ、解釈の更新をつねに強要する。風景は人間に従属しているものではなく、人間がそこに従属しているものでありながら、人間がこのように風景を見たいという欲望通りにその姿を現す。風景は風景として独立して個的に存在するのではなく、社会的関係の中で初めて発見され、見出されるだろう。風景はそこにはないにもかかわらず、そこに現れる。
わたし達にとって風景とは決して主体的に発見できるものではない。長い年月をかけて風景によって制度化されたわたし達の視線は、風景を“見る”のではなく、“見せられている”のであり、つねに風景によってこのように見ろと強制させられた結果が、わたし達の視線を作り上げる。実際の観光名所を見て、そこが観光写真とまったく同じ風景に見えてしまうのは、視線が写真によって訓練と教育を受けた結果であり、とらえどころのない現実を構図の中に収まっているかのように秩序化する写真は、どこに行くのか分からない視線のアナーキーな志向を構図の中に収斂させようと秩序と規律のための訓練を施すだろう。
構図的にまとまった観光写真のように現実を受け止めさせるということは、実際の細部を忘却させる。視線は細部が見えているにもかかわらず、目前の細部を無視するようになる。細部とはノイズであり、細部に視線の注目が集まると、全体を形成する構図的まとまりが崩壊し、細部の存在を志向する視線の不定形な動きは、フレームという秩序から逸脱してしまうだろう。見るということは、そこに存在する細部を見ることではなく、視線の秩序を構成する見えないフレームを見ることなのだ。たとえ細部が見えていても見ない。フレームによって訓練された視線は、現実は写真のように美しいというイデオロギーの誘導によって、見たいと思うものしか見なくなる。本来無秩序であるべき現実に対して、秩序を持ち込むのが写真による規律と訓練であり、手のつけようのない現実を小さくコンパクトにまとめる写真の機能によって、視線に秩序と規律を教え続けるだろう。
神話的言説を下敷きに国土の一部を賞賛することで、その風景が特権的な美しさを持った風景であるかのように見せるナショナリストの手口のように、ある風景が美しいという学習の刷り込みと反復が本来なんでもなかった風景を美しいものに変質させる。パースペクティブな構図を学習することで子供が現実を三次元として把握するように、風景には近代ブルジョワ社会の学習効果があちこちに刷り込まれている。ナショナリストが風景を称揚するのは、風景がイデオロギーと記憶を製造するための重要なファクターだと知っているからで、“一木一草まで天皇制”(竹内好)のように風景はシステムであり制度なのだ。民族的記憶がたんなる視線だけではなく、言説の存在が介入することで初めて記憶が成立するように、風景とは社会的エクリチュールの総体であり、そのような風景によって決定された視線はどこまでいってもブルジョワ的制度から逃れることができないだろう。
風景に対して一定の正しい見方を強要するのがブルジョワ社会であり、彼らは誰もがその風景を見ると機械的に美しいと呟かざるをえなくなるまで同一の身振りを強要する。一定の正しい見方とは要するに反動の身振りであり、プロレタリア階級にとって風景に対して一定の正しい見方というは存在しない。それはかつての京浜地区地帯を、下層労働者と売春婦とごろつき、アルコールやクスリの依存患者の溜まり場として見るか、地平線と海の境界がガスで曇って曖昧なグラデーションを表出するウォーターフロント的な湾岸風景として見るかは、見ている人間の階級的立ち位置で決定されるように、風景の裏側にはつねに所有関係が隠されている。誰もが普遍的に詠嘆する風景というのは、美は階級的関係を超越して存在するというブルジョワ社会のデマゴギーなのだ。階級を超越して普遍的な統合を目指す運動を棄却するプロレタリア階級にとって、普遍的な風景というのはありえない。風景はいつも所有関係を前提として成立しているのであり、その見え方はつねに階級的だ。
京浜地区を山の手あたりから俯瞰で眺めれば、街の細部は風景の中に埋もれ、俯瞰された風景を構成するある点のような要素に変質する。カメラのようなクリアな視覚を持たない人間の肉眼にとって、それは海のようなグラデーションを彩る抽象的な一点にしか見えないだろう。現実の細部を抽象化するブルジョアの美学は、森崎東が『喜劇・男は度胸』で引用したゲーテの“涙と共にパンを食べたことのない人間”のように、現実はつねに抽象的な風景でしかなく、パンと涙が結びつかざるをえない現実を彼らは知らないかあえて無視する。“涙と共にパンを食べたことのない人間”にとって、労働力商品という具体性を持ったパンのシニフェには一瞥の価値も与えない。彼らにとって食事は必要のために要求されるのではなく、ゲームの一種でしかないのだ。彼らは食事という日常的な具体性や必要性を、視覚の快楽に奉仕させる。彼らにとって食事は生理的必要性と肉体の保持のためではなく、それは記号の消費でしかない。有名な産地で生産された食材を食べることは、このような高い食材を手に入れられる自分は他人とは違う上の階級に所属しているという確認であり、ネットで行われているグルマンぶりは、上の階級に少しでも近づきたいという日々の努力と主張であり、食事は必要だから食べるのではなく、他者との差異を確認するために行われるようになる。ブルジョア階級は食べ物から具体的な必要性を消失させたのだ。
具体的な必要性を捨象することで、そのような抽象的な美学を発生させる風景が生まれる。山の手から京浜地区の風景を“眺める”ブルジョワの視線は、風景から具体的細部を取り除くことで、“眺める/眺められる”という不均衡な関係を同定化することを前提とする視線だ。それは生きるための視線ではなく、消費と享楽に奉仕するための視線なのだ。かつての京浜蒲田や京浜鶴見でよく見られた、街中の電柱に貼られたチラシを見続ける視線は、その日その日をどのような労働でしのぐかという生きるための重要な情報活動を行う視線だった。派手で目のつく食堂や風俗店の看板群は、空腹という生理的欲求や飢餓状態に近い性的欲望を誘惑するための情報で溢れていた。情報の洪水をさまよう視線は刺激され誘惑されながらもそれらを選り分け、吟味し、何かを決定しようとする。それは眺める対象ではなく、生きるためのテクストとして日々読解され、誤読される。風景とは読む対象であり、視線につねに決定を迫りながらも、それはつねに疑われ、その裏の意味を読もうとするか、より希望的に楽観的に解釈され直される。
プロレタリア階級にとって風景はまず読む対象であって、ブルジョワ的な審美的感覚で目前の風景を享受しているのではない。そこにはつねに隠された意味が存在し、その隠蔽された意味を直感と類推によって確定しようとする。“片付け。ねこ使用。でずら五千”と書かれた暗号のような求職募集チラシに“おぼこ娘のきのこ狩り”といった風俗店の扇情を誘う看板。電線柱に貼られた左右の党派の政治的ビラが互いの主張を打ち消すかのように重ね貼られている。中が見えないぐらい風俗案内のチラシが貼られた電話ボックス。道路を占拠するかのように立てかけられた看板。街頭に貼られていたあらゆるチラシや看板の裏に隠されたシニフェは、つねに搾取しか意味しない。京浜地区の風景は、風景がすでに人間を搾取している。労働の対価に交換した賃金を一日で消費せよと風景は命令する。扇情的な看板群と放置自転車に囲まれて向こう側の見えない閉鎖空間に閉じ込められた風景の中では、誰でもここで浪費する以外に生きる術を見つけることは難しいだろう。風景はつねに強制する。視線の位置を決定し、欲望を同一化し、あらゆる身振りを同一の身振りとして振り付けし直す。ブルジョワが示唆するものだけを欲望し消費するための同一の身振りが強制される。風景とは規律であり秩序であり命令なのだ。同じように風景を見て、その風景から同じような欲望を感じる。近代的主体というのはそのような風景の中で生産されるがゆえに、互いの主体は交換可能な同一性を持つ部品であり、わたし達の主体は工場で大量生産される部品と何ら変わらない。風景は教育であり工場システムであり制度なのだ。
広告というブルジョアのエクリチュールは密室ではなく、群衆と街頭の中で読解される。あちこちにまるで障害物のように配置された自転車や看板が渦巻く街頭でエクリチュールの意味は、プロレタリア的に曲解されるだろう。街頭の風景を構成する要素として看板が現れるとき、それは意味ではなく書体や現実の汚れや配置された場所等々の関係の中でそれらのエクリチュールは再解釈される。近代的主体が溶解した場所としての街頭での読解は、エクリチュールは私的な領域のみで解釈されるのではなく、群衆という匿名の渦の中で再度解釈される。ブルジョアが生み出した命令と強要を基盤としたエクリチュールをその意図から遠い場所で解釈し直すこと。命令と強要に溢れたそれらの文言を喜劇として読み替えるのがプロレタリア階級の読解なのだ。プロレタリアは心という私的領域でブルジョアのエクリチュールを解釈するのではなく、階級という心無い場所で彼らのエクリチュールを解釈するだろう。心はすでに風景によって作られたブルジョアの装置でしかないからだ。
剥き出しの主張が街頭に溢れている。それらの主張に対して視線は、構図的まとまりを最優先するためにどれを中心にしてどれをその脇に置くかという階層秩序を決定することができるだろうか。具体的必要性が煽るように書かかれた広告郡に対して、ポストモダン的に意味がないと悠長に構えていられるだろうか。それは意味を伝えようとつねに叫ばれているのであり、命令と強要が繰り返され、誰もが中心的領域を獲得しようと交通妨害も考えずに路上の真ん中にまで立て看板が引き摺り出される。見通しのいいパースペクティブな風景だった風景が無数の自己主張する看板の群れによって、見通しがきかない無秩序な状態に変質する。都市の風景は許容を超えた読解を人間に要求するものであり、乱立する確定記述の束のような看板のコピーはまるで暗号のようで、誰にもかえってその意味を確定することができない。
看板が乱立する東京を撮った春日昌明の写真にノスタルジア性を感じないのは、彼が看板の存在をノスタルジアではなく、都市のテクストとして読み替えたからだろう。彼は東京を風景としてではなく、テクストとして再編成し直したのだ。映画の広告看板や大衆食堂のメニューという細部に対するこだわりの手つきはまるで文化人類学者のようであり、それはレヴィ・ストロースが書いた文化人類学は研究者の自我と国籍をまず破壊することなら、この人類学的アプローチのような撮影を続ける彼の写真は、自我と国籍を剥奪された人間が見る1964年の東京なのだろうか。オリンピックのポスターが表現する西洋文明に並ぶための民族の団結というイデオロギーが、飲食店の看板と何の差異もなく並べられると、そこにはオリンピックのイデオロギー的な特権性は、ポルノ映画の看板と何も変わらない滑稽な理念に見える。1964年を象徴するオリンピックロゴが道路に置かれた風景に、ブルジョワ側の進歩という理念によって抽象的に覆われたオリンピック開催時の日本という風景が現実の具体的な細部によって裏切られる。復興に向けて、脱戦後に向けて立ち上がる日本という抽象的な理念の裏に具体的な現実が現れる。
1964年の東京を春日昌明は風景としてではなく、読み直されるべきテクストとして撮っていたのだ。風景は美的対象として眺められるものではなく、入り組んで解くことのできないそれは暗号であり、英語表記の多い中野の駅前交差点や渋谷路地裏にひっそりと置かれたキャデラックの写真は、未だ占領下の日本の現実とアメリカ文化の日常的な浸透が見え、それは立ち直って主体性を取り戻した日本の姿というよりも植民地の姿に似ている。春日昌明の撮る都市の看板は、基本的にブルジョワ社会の命令に溢れている。快適な日常生活を送れ、アメリカ文明に生活を近づけろ、消費せよ、享楽せよと都市のエクリチュールはつねに階級的命令によって成り立っている。そのようなブルジョワのエクリチュールを無造作に画面いっぱいに写し込むことでその命令をフォルムに変質させるのだ。都市のエクリチュールからそのシニフェの意味を剥奪すること。ブルジョワ社会の同化を強要する都市のエクリチュールを大量に並列させることで、GNP倍増計画や車・冷蔵庫・テレビに代表される一億総中流化という同化の身振りを喜劇の身振りに転化させる。渋谷駅前交差点の看板だらけの風景は、そこにブルジョワの命令だけが見えるのではなく、“渋谷三千里薬局”の“三千里”という古典的イメージとオリンピックのイメージの非対称性がその類推と隣接の快楽に人々を誘惑し続けるだろう。理念と現実の不均衡は、理念という抽象性によっては隠蔽できない。写真はそのような現実の不均衡を暴き出す。オリンピックロゴの横に朽ち果てたようなビルが並置されるこの編集方法は、写真における隣接の可能性を拡げるだろう。ゼロからものを作れないクリエィティブな方法を持たない写真において並置と隣接という異質なもの同士を連結させる方法は写真にとって重要な方法だ。渋谷の交差点から様々なイメージが類推される。似ている点をもとにして他のことを推し量るという類推の方法も、ゼロから何かを想像することができない写真にとって世界を引き寄せる重要な方法だ。そこでは1964オリンピックの意味から遠く離れた世界が推し量られる。オリンピックの理念に支配された東京を撮りながら、その理念を最終的に消滅させるために、春日昌明は類推と隣接の方法を風景の中に持ち込む。
百葉箱 Screen #22
小松 浩子 (写真家)

監禁とは人を一定の区画などに閉じ込めそこから出る自由を奪うことを指す。一般に監禁の程度の低いものを軟禁と呼ぶ場合があるが日本の法律では区別されず一様に「監禁」に分類される。祖父母・両親・子どもが同居している木造一戸建の家をマンションに建替えることで祖父母と両親の居住空間を分離・独立させ、賃貸部分より収入も得る計画が立てられる。建替えの間は街道近くの古い一戸建を借り両親・三人の子ども・飼猫で一年間過ごす。街道近くの古い一戸建は以前にも増して猫の出入りが容易な作りで、掃き出し窓から、屋根を伝いベランダから、勝手口から、風呂場の換気窓から、気ままに出掛けては仲間の集会等に参加していたと推測される。マンションの完成でビルの4階に両親・三人の子ども・飼猫は引っ越しを果たすが、唯一の出入口であるドアは重い鉄製でこれまでの施錠していない引き戸と異なり猫には開閉が出来ず、外に出るための唯一の階段は1階から4階まで抜け道や身を隠す場所すら無く、新築の室内では柱に昇る・爪を研ぐ等も禁じられ、数ヶ月もしないうちに飼猫は出掛けたまま帰らなくなる。現代の日本の2人以上の世帯において48%の世帯がペットを飼っていると言われ、飼育ペットの割合は犬62%・猫29%・魚類11%・鳥類7%(複数回答)となっており、今日ペットは家族・パートナー・仲間として人の暮らしに密接に関わっている。動物を尊重する人々の中にはペットの性別を「オス」「メス」ではなく「男の子」「女の子」と呼び、「餌をやる」ではなく「食事をあげる」と表現するなど言葉の用法に人間との同一視が見られるケースもあり、ペットの家族化の進行に伴いペットに遺産を残したいと望む人も出て来たという。数週間後、飼猫は子どもの一人により街道近くの古い一戸建のそばで発見・捕獲されマンションに連れ戻される。逮捕・監禁罪とは刑法220条に規定されている罪を指し、不法に人を逮捕または監禁する行為を内容とする。逮捕とは人に直接的な強制作用を加えて場所的移動の自由を奪うことを言い、監禁とは人を一定の限られた場所から脱出することを不可能に或いは著しく困難にすることによって、場所的移動の自由を制限することを言う。部屋に閉じ込めるなどがその例であり、その中で限られた移動の自由が存在しても、そこから外に移動できない場合には、なお監禁罪の成立を肯定することができる。本罪は人の身体・行動の自由を侵害する罪であり、客体も単に人であるだけでは不十分で、場所的移動の(意思に基づく)能力を有する自然人に限られるとするのが通説的見解である。このような能力を有しない、生まれたばかりの嬰児や意識喪失状態の者などは客体から除外される。飼猫は大切な家族であるため暖かく清潔で安全な環境で、衛生的で滋養のある美味な食事を摂り、ゆたかな生活を送り天寿を全うしてもらいたい。家族の暖かい思いやりを受けて、飼猫は外に出ることも仲間に会うことも無く7年間生きて死んだ。

アナコンダ 第1回
大山 純平 (写真家)
終電間近のためJR渋谷駅に向けて四つん這いで走る祖父。道路のガードレールを乗り越えられず、テレビの前を占領する。終電を逃す祖父。口が半分開いている。「最低だ」不機嫌な様子で肩まで伸びた長髪を束ねているゴムを外すと髪が扇のように開く。祖父の髪は私が剃刀で剃って血だらけである。ついでに髭も剃った。鏡を見せると祖父は、泡と血の付いた頭を触りながら笑っている。息を切らしてガードレールにもたれかかり、笑いながら電話をする祖父。「もしもし、みどりちゃん?鉄平ですけど。あ、寝てた?ごめん、ごめんね。あのさあ、今からそっち行っていいかな?いやいやそうじゃなくて、いやほらあの、近ごろ顔を…おい、切っただろ。」祖母が母の軽自動車から降ろされる。走り去る軽自動車に片方のハイヒールを投げつける祖母。フェルガードを増量したのが効いているようである。祖母を見ながら携帯電話のアンテナをかじる祖父。片足で跳ねてハイヒールを取りに行き、駅の入口に向かう祖母に話しかける祖父。「大丈夫ですか?いくらけんか別れしたからってね、こんな駅前で落っことしてくなんて、ほら、普通、家まで送って帰るでしょ」振り返る祖母。祖父は笑っている。「あなたには関係ないでしょ」祖母は言い、母に介護用ベッドに乗せられて駅へ向かう。「あ、もう電車ないですよ」ため息をつく祖父。ため息をつく祖母。タバコを取り出し、くわえる祖父。祖母にタバコを勧める。「吸います?」祖父を見つめる祖母は無表情で、話しかけても反応がほとんど見られないか、話すことは可能だが内容が支離滅裂なFAST stage6の患者である。「サンキュー」ガードレールに腰かけてタバコをもらう祖母。ライターで祖母のタバコに火をつける四つん這いの祖父。むせる祖母。「はあ」駅舎に貼られた映画『アナコンダ』の“叫び声さえのみこまれる”と書かれたポスターを見ている。祖父が祖母に言う。「ねえ、どっかで会ったことない?」「いつもそうやって女引っ掛けるんだ」「いやいや、そ、そうじゃなくて」「はあ」「ねえ、これからさ、あの、よかったらカラオケ一緒に行かない?」「ダメ。あたし、どっか泊まるとこ探すの」「じゃあさ、ほらあの、時間気にしないでカラオケもできるし、あの、ほら雨降ってきたからホテル行こう」「ホテル?」口が半開きのまま頷く祖父。
紫色の部屋にいるふたり。「水着でフルスピード 松原ではすぐリキュール カニ食っていこう 酒飲んでいこ… あ、これ飲んでいい?」マイクを持ちながら冷蔵庫を漁りビールを取り出す祖母。「どうぞどうぞ。後でどうせ自分が払うんだから」「何か言った?」「何も言ってないっすよ」暴力的にベッドの天蓋の布を引っ張りながら祖父の隣に座る祖母。「長いハッピービーチ カニ食っていこう」祖父はカラオケのリモコンを取り出しボタンを押す。「ごめん、ごめん、音上げようとしたんだけど、あれ?、ごめん」「何で消すの?せっかく盛り上がってきたとこだったのに」「いや、さっきから歌いっぱなしだったからちょっと休憩したほうがいいって」「あたしはまだ歌いたいんだもーん」マイクでエコーを効かせ、おどける祖母。歌本を開き、ベッドに座り直す時、天蓋の布が体に触れて祖母をイラつかせる。「ちょっと…」祖母の瞳孔と鼻の穴が開く。「あの、あのさあ、明日ね、俺早いんだ、だからあの、早く寝たいなと思って」「コーヒールンバ、あ、そう、先寝たら?コーヒールンバ」「ここはさあ、ひとりで寝るところじゃないじゃん」「あ!」「何、どうしたの?」「何する気?なんか変なことする気でしょ」「キスしようとしてるだけ」「やらしいこと考えちゃって、もう、コーヒールンバ」「ふたりでこういうとこ来てるから普通考えるでしょ、そういうこと」「コーヒールンバ、あたしそういうこと全然考えてないもん」「ちょっと待ってよ、それはないんじゃないの?普通さ、女の子がこういうとこ誘われちゃったらさ」「コーヒールンバ」「えー、こんな明るくちゃヤダーとかさ、どういう下着はいてたっけとか考えない?」「そんなにやりたい?それしかないの?頭に」「そういうふうに言われちゃったらさ…ない」はにかむ祖父。入れ歯である。はにかむ祖母。上の前歯が1本茶色くなっている。「シャワーでも浴びてきたら?」「そうこなくっちゃ、やっぱり、ね、うん、5分ね」白いTシャツを脱ぎながら四つん這いでバスルームへ入る祖父。あくびをして右手の薬指の指輪を見る祖母。「ギャル食っていこう」頭と下半身をタオルで覆いバスルームから四つん這いで出てくる祖父。「上乗っていこう」頭のタオルを取り後頭部を拭き、照明を消す。ベッドに近づき、長髪をかき上げる。「シャワー浴びなくていいの?いいよね?じゃあ、ひょっとしてもうこのベッドの中は」祖父は母を大声で呼び、ベッドに乗せてもらい、ベッドの棚に置かれたテッシュケースの下を確認する。「ないじゃん」気を取り直し、入れ歯を見せながら祖母の体に被された布団をめくると、祖母は黒い下着を着ている。「何着てんだよ、お前」いびきをかいている祖母の半開きの口にマイクを近づける祖父。はっきりとした口調で「うんうん、そうなの」と言っている。また同級生と話しているのだろうか。グラマリールだけだとダメか。セロクエルも試してみよう。「最悪だ」祖父が言いながら祖母の隣で寝る。翌朝、なぜかソファーで寝ている祖父。祖母はいない。ホテルのフロントからチェックアウトの電話が鳴る。祖母のメモ書きを見つける祖父。「おねぼーさん 遅刻したくないから先行くね OLってつらいわ ホテル代はカードでOK」「カードでOKって…」カーテンを開ける祖父。朝日が祖父の真っ白な干乾びたゾンビのような顔を照らす。目を見開き、口が歪んでいる。
祖父が異動先の職場で祖母に出会う。「どっかで会ったことなかったっけ?」「はじめまして」笑顔で挨拶する祖母。祖母は会議中に社員にお茶を配るが、祖父の分は用意していない。母が後でストロー付きのカップを持ってきてくれる。上司が言う。「あ、そうだ、忘れてた。今日から異動になった片桐だ。クリエイティブからはじき飛ばされてきたやつだから出社拒否症なんかにならないようにみんな心して扱ってやれよ」「あの、片桐です。よろしくお願いします」「ええと、お前の仕事は、まあとりあえず明日担当決めてやるから挨拶回り行ってこい」祖父が動き回れば、母が気づき軽自動車で回収するだろう。祖母が祖父に言う。「どうしたの?疲れた顔してるよ」「男には君みたいな女の子には分かんないことがいっぱいあんの」「ナイスバディな女の子ものにできなくて夜眠れないんじゃ…」「そういうことじゃねえだろ」机を叩く祖父。利用者様は神様ですか?介護職員への暴力・暴言は後を絶ちません…。「どうした」困惑する社員をごまかすため蚊を叩くふりをする祖父。「いや、蚊がいたんですけど」「捕りました。続けて下さい」祖父の額を祖母が平手で叩き事なきを得る。フェルガードが良い効果をもたらしてくれている。今日は一人で着替えをし、ゴミはきちんと捨て、洗濯は外に干すまでやり遂げ、新聞をちゃんと持ってきていた。
ゲームセンターでUFOキャッキャ―をする祖母。泣いている。話を聞くと、どうも恋人にフラれたらしい。恋人はもう亡くなっている。職場でハローキティのぬいぐるみを投げて遊ぶ祖母。「今晩はどこに遊びに行こうかしら」ハローキティーにセリフをあてる祖父。「片桐!何やってたんだこんな時間まで。外回りはとっくに終わってるだろ」「すいません」上司に怒られる祖父。「何だそれは」手に持ったハローキティーを指摘される。「お前は会社に遊びに来てるのか?ちょっとこっち来い」祖母が言う。「課長、すいません、あの、おばあちゃんのお見舞いなんでそろそろ失礼していいですか?」「ああ、いいよ、早く帰んなさい」「ありがとうございます。みなさんお先です。お疲れさまです」職場を後にする祖母。「片桐、いいか、お前はもう営業部なんだから、そろそろ営業部のやり方に慣れてもらわないとな。クリエイティブじゃないんだ。まず外回りは遊びじゃない。時間を守る…」上司の後ろの窓ガラス越しに祖母が「私の年金どこ行ったの!お前が姉に横流ししてるんだろ!」とベッドに横たわりながら怒っている。夜間せん妄が酷い。祖父はたまらず「ふざけんな!おい!」と祖母を指差して怒鳴る。「誰にものを言っているんだ!反省しろ、反省。片桐、いつまでも子供気分じゃないんだ」上司の逆鱗に触れてしまい、失禁してしまう祖父。「脱がして!」と大声で母を呼ぶ。母は暖房をつけて無言でおむつを交換する。
「ご案内いたしますは、わたくし上杉理子こと“理子ちゃん”でございます。それではほどよいところで“理子ちゃん”と合いの手をお願いいたします」「理子ちゃーん!」「ありがとうございます。それでは心ゆくまで空の旅をお楽しみくださいませ。アテンションプリーズ」「何やってんの」「あ」「あ、じゃねえよ。何でお前がここにいんだよ。だいたいお前スッチーでも何でもねえだろ」「なになになに哲平と理子ちゃん知り合いなの?」「哲平っていうの?変な名前」「うるっせえなお前。だいたい何でこれがスッチーと合コンなんだよ」「スッチーでしょ?」「あたし、現役のスッチーです。よろしく」「はい、わたしも現役のスッチー」ニヤニヤする祖父。「あ、私の制服ね、理子に貸してあげたの」「そうよこの人たちがね、制服姿が見たいって言うから私がこうしてサービスしてあげてるんじゃない。ねえ、そうだよねー」「ねー」「じゃなくてお前らこれ見て楽しいのか?」「すっごい楽しい」「俺も楽しい」「でしょでしょでしょ。ほらみんな楽しいって言ってるじゃないのよ」「無理やりっぽくすんなお前」「無理やりじゃないです」「だいたいおばあちゃんのお見舞いどうした」「うちのおばあちゃんはね、とっても優しいの。だから年寄りにかまってないで、あなたはあなたの春を楽しみなさいって言ってくれたの」「嘘つけ、嘘つけ。何なんだお前」「お前お前って言わないでよ」「何なんだよ」「理子ちゃん理子ちゃん」「はいはーい。ありがとう。かんぱーい」「理子とはね、学生時代、競馬場の馬券売り場で知りあったんだ。まああの頃はほんと競馬に凝っちゃってね、まあでもすぐ飽きちゃうの」「じゃあなに、同じバイト先でも片っぽはちゃんとスチュワーデスさんやってんのに片っぽは腰かけOLやってるんだ」「ううん、たいして違わないの。スチュワーデスなんてね、空の上にいるだけでやってることはお茶汲みにお弁当配り」「そういうこと言っちゃダメでしょ。せっかく選んでやってる仕事なんだから」「うん、まあこれでもね、迷ったり寄り道したくなる時もあるのよ。ふたりで外出ない?」「え?」「寄り道」現役スチュワーデスが祖父を外に連れ出す。「お先に。私たちこれからいいところー」「いいところー。明日会社行けないかもしれない。じゃ」笑顔で四つん這いでバーを出る祖父。「静かなバーに行こうか。それとも…」現役スチュワーデスに言われ真面目な表情の祖父。「パークハイアットのバーでも行く?あ、来た」タクシーを止めようとする現役スチュワーデス。「あの、ねえ」「うん?」「今日ね、実は、あのね、俺ね、えっと」「なに?」「アレの日なんだ」「アレの日?」笑う現役スチュワーデス。「好きな子いるんだ」「いや、高校時代にね、付き合ってた子についさっき会っちゃって、だからコンパにでも来て騒げば忘れるかなって思ったんだけど」「ほんと純情なのね」「こういうのヤバいかな」「ううん、男ってそういうもんなんじゃないの。今日の釣り堀にはお子ちゃましかいなかったか」「え、なに?え?」「ううん、帰ろうかな」
職場で祖母が祖父に話しかける。「出かけないの?何かやることなさそうだね。ねえ、やる気ある?あ、そうだ。昨日さ、あれから吉本君とめくるめく夜を過ごしちゃった」「仕事中に話しかけんな」「あたしたちの夜のこと知りたくない?」母が祖母の寝ている介護用ベッドを祖父に近づける。「あいつね、言っとくけど、知りあってすぐの女の子に手出すようなやつじゃないから」挑発に乗らない祖父を見て、前歯を突き出し、祖父をボールペンで刺すポーズをして悔しがる祖母。母が祖母の介護用ベッドを元の位置に戻す。「なあ、エリカちゃんだっけ、いいよな、色っぽいし大人だしさ、あれ、お前本当に友だちなの?信じられないんだけどさ、ちょっと聞いてくれる?あの後すっげー盛り上がっちゃって、今日さ、できたの、クマ、できたんだよ、ほら、なあ、な、ちょっとお前返せよ。仕事しろ」母は祖父の目のクマを祖母に見せるため祖父の介護用ベッドを祖母に近づける。祖母は祖父のシャツの胸ポケットの携帯電話を取り、エリカに電話する。「もしもし、エリカ?うん、私。昨日さ、あれからどうだった?へ?うっそ?ほんとう?そうなんだ。うん分かった。うんじゃあね。うん」「だから言ったろ」「なーんもなかったくせに見栄張っちゃって」「何お前俺がやったかどうか確認するために電話したの?ねえ、それってさ、結構俺に意識あるんじゃないの?」「高校時代の女に操通したんだって、顔に全然似合わないだよね。これからさ、操くんって読んであげようか。操くん、操くん、片桐操くん」「うるさい、はいもしもし」「もしもし、哲ちゃん?」「え?」「水原です。水原さなえ」「水原?あ、よく電話してくれたね。え?今日会社終わってから?全然大丈夫。何時にしよう、7時…いや8時にしよう。8時にじゃあ…」祖父に密着して電話の邪魔をする祖母に対し、祖父は祖母を突き飛ばす。ベッドのキャスターが少し動くが、母が元の位置に戻す。祖父は怒ってベッドの柵を引き抜いて床に転がり落ち、息を切らしながら四つん這いで移動する。
「ちょっと待って、うん、8時に財宝展の前ね。うん?たぶん電波悪いんだと思う、このビル。今、声小っちゃくなっちゃったでしょ。すぐ行くから、仕事終わったら。はい、それじゃ」「よかったじゃん、操くん」「うるせえ」上司が呼ぶ。「おい、片桐、仕事だ。ちょっとついて来い」「はい」「仕事、仕事して、仕事」祖父が席を立ち上司について行く途中で、排泄物と消臭スプレーの匂いが混ざった汚れた股引を祖母の顔にわざとぶつける。「あ、ごめん、大丈夫?ごめんね」祖父が四つん這いで職場を出ると、出口でデイサービスの職員が待ち構えていて、二人掛かりで車椅子に乗せ、リフトで送迎バスに格納される。
「はいはーい」「お前なに人の携帯勝手に出てんだよ」「忘れてくほうが悪いんでしょ。デスクに置きっぱなしになってるから私が保管してあげてんじゃないの」「どうもありがとうございます。もうスイッチ切って出んな、な、明日会社に持ってきて。じゃ」「ヤダね」「何でヤダねとか言うの?」「ヤダ」祖父の部屋の玄関のチャイムが鳴る。「はい、ちょっと待って下さい」「な、だから明日さ、ちゃんと会社に持ってきてくれればそれでいいから」祖父がドアを開けると目の前に祖母が立っている。携帯を祖父に渡す祖母。祖母は自分の家が分からなくなってしまったようだ。「はい。ありがとうは?」「ありがとう」「どういたしまして」「さようなら」祖父はドアを閉めようとするが、祖母のベッドの角が挟まって閉められない。「何で?家まで持ってきてあげたのにさ、お茶でも飲んでく?っていうひと言が言えないかな?」「お茶でも飲んでく」母が素早くベッドを部屋に押し込む。「そんな気使わなくたっていい…スリッパは?スリッパ」「ないです」「スリッパ…買いな。スリッパ、スリッパ」祖母が裸の女性の銅像を見つける。「あ、おっきなおっぱい。何でピカピカなの?いやらしい」銅像の胸を手で触り、自分の胸と比較する祖母。祖母の腕は布団に収納されたまま動かない。祖母の顔だけが布団から出ている。顔も動かないが何かを見ている。「どうだったの?デート」「上々でした」「フラれたんだ。フラれて落ち込んでるんだ」「お前何がそんなにおかしいの?」祖父の卒業記念アルバムを見つける祖母。アルバムを取り上げる祖父。「何恥ずかしがってるの?女の子みたい。なに?もしかしてこんな太ってたとか?」アルバムから水原さなえと祖父が写った写真が落ちる。すぐに母が拾い、祖母の顔の前に差し出す。「うそ?これ?そんな変わってないじゃん。この子は?もしかしてさ、これ操通してたって、操くんの操通してた子…」祖父が写真を奪い返そうとするが、母が写真を破ってしまう。「ごめん」謝る祖母。「分かった分かった。もう帰れ」セロテープで破れた写真を貼り付ける祖父。自分の家が分からないので帰らずにアルバムを開く祖母。「何か恥ずかしいこと書いてあるね、これ。県大会の優勝を決めた…哲ちゃん?哲ちゃんのシュート、哲ちゃんの汗…」力づくでアルバムを奪い返す祖父。鼻息が荒く興奮して体が震えているが祖母と母が真顔で見つめているのに気づくと恥ずかしいのかニヤッと笑い入れ歯を見せる。「お前に関係ないだろ。いい加減にしろよ、な。人にはな大事に閉まっておきたい気持ちとか、他人に触られたくないものとか、捨てられないものとか、そういうものがいっぱいあるんだよ!一生懸命やってきて諦めたくても諦めきれないものとかそういうものがいっぱいあるんだよ、お前。何で分かんないんだよ、お前バカか」「分かるもん!分かるもん。あたしだって人にフラれたことぐらい…あるもん」涙目で言う祖母。無言でベッドでドアを押し開けて祖母を部屋から出す母。「ふざけんなよ、バカ野郎」部屋から外に出て祖母を追いかける祖父。デイサービスの送迎バスにベッドごと格納されている祖母を見つけ四つん這いで駆け寄る。祖母が言う「これなーんだ?」「婚約指輪」「未練捨てましょごっこしようか」「は?」「東京ってさ、空がピンク色なんだね」「あー、あれスモッグだよ」「ふーん。きれいだね。あたしさ、今夜もきれいだと思う」「何お前、生まれ東京じゃないの?」「長野。夜になるとね、真っ暗になって星が百万個くらい光ってるみたいな山奥で育ったの」「それなのに今、東京のスモッグの空の下で安月給でOLやってるってわけ」「そういうこと」「何で帰んないの?」「何でだろう?」「東京って何かありそうだから。まだ自分を諦めたくないんだ」「俺もそうかもな。俺もまだ自分のこと諦めたくない」「ここで捨てたかったんだ。ここでね、もらった指輪だから。バイバイ」海に向かって母が祖母の指輪を投げ捨てる。「本当にいいのか?」「うん、いいの」無表情で海を見つめる祖母。祖母の布団の中に指輪を隠す母。「何やってるの?何持ってるの?お前捨ててねーじゃねーかよ。なあ」「違う。儀式。儀式儀式。明日質屋に売っ払ってプラダのバッグとでも取り換えちゃおうかなと思って」「ちょっと貸せ、お前」「なになに?」「お前人のことからかうのもいい加減にしろ、な」指輪を海に投げ捨てる祖父。「何すんの、ふざけないでよ!」「お前の未練、俺が代わりに捨ててやったんだからありがたく思えよ」「ちょっと、人のものだと思って、いい加減にしてよ。プラダを…信じらんない」「仕方ないよね」「しょうがなくないよ…はあ…うそ…何笑ってんの?何がおかしいの?」「だって…」「だってじゃない」「フリだって。フリ。ね」祖父が左手を開く。そこには何もない。笑う祖母。「もう、いや、ポケットは?ポケット、ポケット。指にはめてるんだ?手、手」「落とした」夜が明ける。海に浸かり四つん這いで指輪をさがす祖父。「ねえ、もういいよ」「よくねえだろ」「いいって。あなたのおかげで、こうしてたら本当に未練捨てられた。ありがとう」四つん這いのまま砂浜に引き揚げる祖父。「ほんとごめんな。まだその人のこと好きなの?」「好きだったよ。でもさあ、その人が他の人のこと好きになっちゃたんだからしょうがないじゃん。諦める。諦めなきゃ前に進めないもん。人を本気で好きになるってさあ、そんなにあることじゃないんだよね」「でもまた、見つかると思うよ、本気で好きになれる人。だから、ダイヤ」「ダイヤ、そうかな」「努力すればね」「さ、今日もがんばろ」母が祖父の足に付いた砂を祖父の汚れた股引で叩きながら払う。「何時?」「おい、これ間に合うのか?これ…おい、ちょっと待てよ、おい!おい!」祖母と母を乗せた送迎バスが走り去る。四つん這いで追いかける祖父。
「すいません、遅れました」「片桐、遅刻だぞ、何やってたんだ!」「ちょっと、海で」「海?」「さがしもの」「何を考えてるんだお前は。なんだその汚れた靴とズボンは。それで外回り行けると思ってんのか。お前、営業としてやっていくつもりはあるのか?」「はい、あります」「だったら態度を改めろ。だいたいこの髪だよ。お前いつになったら髪を切るつもりなんだ」「髪は切れません。これは俺のスタイルですから」「なに?」「いや、あの、俺この頭でずっとやってきてるんで、急に自分のこと変えろと言われても…」「片桐!」激怒する上司。「分かりましたって。徐々に自分のこと変えます。自分だって営業でき…」母が祖母のベッドを祖父の後頭部に近づけ、祖母が祖父のポニーテールの尻尾の部分を掴みハサミで切断する。「切っちゃった。あたしが、あなたの代わりに未練のもと捨ててあげたよ」「すいません。ちょっと出てきます」職場を出ていく祖父。四つん這いの祖父をデイサービスの職員が捕獲してトイレに誘導する。
職場の出口で待ち伏せる祖母と母。「あ!」「びっくりした」「はいはーい」祖母に舌打ちしながら送迎バスに格納される祖父」あ、ちょっと、ちょっと待って、待ってたんじゃないだけど、ここのパンおいしいから、ついでだからさ、明日の朝食に、ついで」デイサービスの職員にもらったパンを、母の軽自動車の窓から祖父に差し出す祖母。「それじゃ」「ちょうどよかったわ。ひと言言いたかったんだけどさ」「なーに?」「ありがとな」「は?」「お前のおかげで吹っ切れた」「あっそう。よかったじゃん」「俺こっちだから」「あたしこっち。ねえ、あたしもひと言だけ言い忘れてた」「何だよ」「かっこ悪い。似合ってないよ、その髪型」祖父が祖母に詰め寄ろうとすると、母の軽自動車が勢い良く走り去る。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
confession 〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
澤田 育久 (写真家)
そう言えば最近リチャード・イエーツのドキュメンタリーを見たのですが、その中でジョゼフ・コンラッドの言葉が引用されていてとても印象的でした。
どんな言葉ですか?
私は全くもって個性というものが希薄な人間でありまして、写真を撮る事によってカメラに私という人間を決定してもらいたいのです。対象に反応してファインダーを覗きフレームを決定する、この時に私は私が主 体性を発揮して表現しているような気分になっているのですが、実際は私は断片を切り取っているに過ぎず最終的な表出は写真によってなされているのです。私は自分が撮った写真の束によって発見され決定される事を期待しているのかもしれません。
それは自分自身の中には何も無いという事なのでしょうか?
彼は”自らの作品のいたるところに自分がいる”と言っていました。写真というのはとても私を混乱させるのです。私は私自身などというものを懐疑的に捉えていて、自分などを通さないで客観的に世界を観察したいと思い、それで機械に委ねて私の視線を定着させるのです。しかし写真はそのようには写らないのです。
写真に個性が出るのでしょうか?
それは否定できません。とてもお恥ずかしいのですが写真の中のあまねく所に私は入り込み、むしろ写真は個性を絶対的なイメージとして私に突き付けてくるのです。いくら機械が写真を生成していてもやはり操っているのは私です。勿論個性を最大限に希釈することは可能だと思いますが、否定することは不可能だと思います。まさにコンラッドの言うところの”自らの作品のいたるところに自分がいる”ということです。そもそも写す対象や反応する場所フレーミングなどは私の欲望や癖や執着などから切り離すことは出来ないのですし、対象の一つ一つ、その画面の中の質感、ツルツルの面やシャープな線の一つ一つが私の欲望を指し示すのです。
もし個性がなくなれば写真は完成するのでしょうか?
それはないように思います。ある意味で写真はジレンマを創生して増幅させるようなところがあります。自分が対象に興味がなくても写真は撮れるし、自分が執着して撮ったからと言って見ている人に私が何に反応しているのかは伝わらないのです。自分では個性を消しているつもりで個性がにじみ出ている状態が写真の面白い所なのだと思います。
更に言ってしまえば、私によって導き出されたイメージは私の感覚によって選ばれた私の要素の一つではありますが私ではなく過去に既に発見され確立された形式の私による解釈もしくは焼き直しなのです 。つまり言ってみれば私の個性だと思っているものは私が今まで見聞きしてきたものの中から選ばれた私の快楽の総体のようなものであり、それを個性と呼んで自身の主体を保っているだけなのかもしれません。

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