ALTERNATIVE SPACE The White

Exhibition 展覧会情報

江間 柚貴子「Drawing」

金村修ワークショップ企画展

江間 柚貴子「Drawing」

2016年03月08日 〜2016年03月19日

13:00〜19:00 日・月曜 休み


金村修ワークショッップ企画展に寄せて/金村修
クスリが効きすぎてステージでまともに立つこともできないジョニー・サンダースを、観客は本当に楽しそうに見ていた。足元がふらつき、焦点が合わず、今にも倒れそうで、何を歌っているのか本人も分からないぐらいトリップしている状態を、観客はとても嬉しそうに享受していた。多分、このまま彼がステージで倒れて死んでしまっても、観客は拍手でその死を讃えただろう。そんな観客にとって、ジョニー・サンダースの存在は、音楽がどうのこうのと言うよりも、彼の存在そのものが享楽の対象だったのだ。言ってみればそれは片端の人間をステージに上げ、その不自由な身体を動かしたり、転んで起き上がれなかったりする様を見て楽しんでいるのと同じ構図だ。彼の音楽を楽しんでいるのではない。直ぐにでも死にそうな彼のジャンキーぶりが面白くてしょうがないのだ。
片端の芸人がもしステージに立ったとしたら、ジョニー・サンダースの観客は、その芸を見て楽しむのではなく、片端の芸人の存在そのものを享受しようとする。芸人が若手を指導する時によく言うセリフ、“笑われるのではなく、笑わせろ”と正反対のことを観客は望んでいる。笑わせられることを望んでいるのではなく、笑うこと、その洗練された芸を見て笑わせられるのではなく、どうしょうもなく無様な姿を見て観客は笑いたいのだ。足を引きずりながら、舞台の上をうろつきまわる彼に、歌の途中で血反吐でも吐いて死なないか。そんな音楽とは関係のないことで観客の視線を釘付けにするジョニー・サンダースには、ただそのクスリ漬けの身体を、観客の視線の前に晒し続けるしかなかったのかもしれない。
彼には自分を守るものなんて何もない。ギターも、歌も、彼を守るものではなかったし、そもそも誰も彼の歌やギターなんて聞きたくなかったのだ。彼の存在は観客の視線の前では、完璧なマテリアルとしてしか存在しない。マテリアルとしてその身体を観客に差し出した時、観客の視線は情け容赦なく彼の身体のすべてを、その視線で乱暴に切り取り、断片化して、解体するだろう。享楽対象として消費されるべく身体のマテリアル化を施されたミュージシャンは、最後にどんな無残な死を迎えようとも、それは常に喜劇でしかないのだ。彼らは喜劇的な死しか迎えられないだろうし、安全地帯で見ることに徹している観客の視線は、どんな悲惨な状態も喜劇として享受する。
“今日今夜ここで死ぬぜ”とMCで客に訴えるジョニー・サンダースに、観客は大喝采だった。“あの世行きでも構いはしない”と歌った時には、みんな本当にあの世に行って欲しそうだった。彼にはプログレのような高尚な音楽が求められていた訳ではなく、スリーコードしか掻き鳴らせないパンクな生き様が求められていた。彼の無残な人生を、観客の好奇な視線が骨の髄までしゃぶり尽くす。それは観客の暴力的な欲望の表れだったような気がする。ジョニー・サンダースはそんな凶暴な観客の欲望を十全に体現したと思う。そんな彼と観客の関係は、写真における“撮る/撮られる”の非対称的な関係によく似ているし、そのような残酷な関係を隠蔽しがちな写真家が多い最近に、江間柚貴子の写真はそんな関係を隠蔽せずに、むしろはっきりとその無残な非対称性を打ち出そうとする。
無様に死のうとするジョニー・サンダースの姿に惹きつけられた観客の視線は、カメラの特性そのものではないだろうか。対象をただ無関心に享受するのがカメラの特徴で、その対象がどんなに無様で無残でも、何の感情を込めることもなくそのまま写し続ける。対象の持つ人格や心が写るのではなく、対象の輪郭や動きだけしか写らないカメラのフォルマリズムな特性は、どんな無残なものでも喜劇に変えるだろう。オーバードーズで倒れたジョニー・サンダースのライブの映像には、十六歳からジャンキーだった彼の苦悩はどこにも写っていない。そのバタンと倒れる姿は、ほとんどバスター・キートンがコミカルに倒れる姿を見ているようで、そこでは死が喜劇に変質していく様が見える。カメラのレンズを通過した世界では、暴力や死の果てには悲劇ではなく、喜劇が表れるのだ。
映像の暴力性を肯定するところから江間柚貴子の写真が始まるだろう。無造作に切り取られた看板は意味の伝達を止め、何の工夫も無く撮られた会社の同僚ののっぺりとした顔は、記念写真として流通することを拒否する。ノーファインダーで撮られたストリートやイヴェント会場の人々を、どこにどんな興味を持ったのか分からないままただ撮影する。国会前のデモ写真は、まるで防犯カメラのように何の思い込みも無く撮られ、それをカラオケボックスの飲み会写真と根拠もなく並列させられる。
対象に対して心無く撮ること。むしろ写真にとって心は邪魔な存在であり、対象から心を強引に奪い取るのが写真だ。心の欠けた写真。けれどそれは対象の存在をそのまままるごと肯定する方法であり、肯定された対象は常に喜劇として写真の中に表れる。彼女が撮った処方箋と薬の山で埋もれたテーブルや、天井が抜けた部屋の光景が無残でありながらも、そのような光景が写真によって奇妙な明るさを持った喜劇に転化されたように、ここには無残を喜劇に変換させる装置としての写真の可能性がある。写真は常に喜劇だ。ジョニー・サンダースの生き方をジャンキーの悲劇として読み解くのではなく、喜劇として読み解くことで、物語に回収できない彼の存在の余剰を表すことができるように、喜劇とは対象を嘲笑うことではなく、対象を心という内面の制度から救い上げ、その存在を徹底的に肯定することだ。
心は“見られている”対象に対して意味を与える。憐憫や同情、憐れみ等々の心の動きは慈悲のヴェールを対象に与え、主-客関係の非対称性を隠蔽し、そのヴェールの中に閉じ込めようとする。憐れみを施された対象は、“施す/施される”関係に固定される。憐れみの対象は、いつまでも憐れみの対象のままなのだ。心の動きは、“見られている”対象を更に享受するために、その主-客の関係性を強化するだろう。“施す/施される”の関係は階級関係であり、憐れみを施すという、対象に対して上位レヴェルに立つことで生まれる優越な感情を再生産するために、“施す/施される”の関係をいつまでも維持し続ける。憐れみという優越感を享受するために、非対称の対象を享受するそれは搾取だ。
ジョニー・サンダースはクスリで死ぬことで、ロックンロールの英雄として祭り上げられた。彼を英雄視することで、わたし達の享楽心は隠蔽されたのだ。わたし達は彼の死を心の底から楽しんだ。それは彼の死を悼むという憐れみの感情をハレとして享受したことであり、死を悲劇という一つのエンターテイメントとして消費し尽くしたのだ。
無様な死に方を、無様な死に方として肯定すること。そのような関係の冷酷な非対称性こそがカメラの本性であり、その本性を公然と表すのが喜劇の役割ではないだろうか。ジョニー・サンダースの死は、決して美しい死ではない。彼の死をジャンキーの物語に回収するのではなく、平凡な死として死ぬこと。唯物的にきちんと死ぬためにこそ喜劇が必要になのだ。無様な死に対して手向けの花を添えるよりも、爆笑を引き出す喜劇だけが、そのような死を肯定するだろう。
江間柚貴子の写真は、世界のいたるところに喜劇を発見する。喜劇こそが関係の非対称性を露わにする存在の余剰性なのだ。喜劇は世界中の至る所に不均衡な関係を見出す。喜劇にとって、関係の均衡ではなく、関係の不均衡こそが重要な成立要素であるなら、彼女はあらゆる場所に不均衡を見出すだろう。そんな不均衡の追求は、画面に入りきれないほど肥満になった晩年のオーソン・ウェルズを思い出させる。画面にバランス良く収まるのが映画俳優の基本的な身体なら、画面に入りきれないという映画俳優の存在は、それ自身、映画に対する否定だ。映画を成立させるフレームの存在と肥満した身体の存在のアンバランスな関係は、調和的な関係としての構図を、対立する不均衡でバランスの取れない関係に変質させる。
映画俳優が、映画の基本的な成立要素を無視するというのは、映画の破壊であり、その肥満は映画俳優としてのアイデンティティーを打ち壊しかねないアンバランスな喜劇なのではないだろうか。フレームの限界を超えて肥満し続けるオーソン・ウェルズの存在そのものが喜劇だ。画面に入りきれないほど太り続けたオーソン・ウェルズの肥満は、画面に収まるというバランス感覚を前提にした映画的身体の否定であり、画面と身体の不均衡を志向することでその身体は、映画と身体の関係を破壊する喜劇的な身体として表れる。オーソン・ウェルズのその不均衡を志向する身体は十分に喜劇的であり、あらゆる場所にバランスの悪さを創出する彼女の写真に写る世界にもまたオーソン・ウェルズのように、釣り合いの取れない不均衡な喜劇が演じられている。
週刊誌のグラビアページに掲載された男女の痴態を、彼女自らスケッチして、そのドローイングを今度はカメラで再撮影する。ドローイングされた男女の痴態は、すでにそこでセクシャルな意味は失われ、それを再撮影することで、その痴態が持つ喜劇性を露わにする。読者の情欲を喚起させるモデルのポーズは、ドローイングと再撮のプロセスを通過したことで、扇情的なポーズで欲望を喚起させようとするメディアの性的操作を滑稽なものに変質させる。“写真を撮る、切る、加工する。並べる。これらの行為を繰り返していくと意味が無くなっていくような奇妙な感覚になった”と彼女のステートメントに書かれているように、反復はモデルから性的欲望を棄却させ、喜劇としての欲望に転化させるだろう。
性的欲望を人間の先天的な属性として了解することが可能なのだろうか。それを愛の形態として呼ぶべきなのだろうか。それはヌード・グラビアという、性の商品化によって喚起される欲望でしかないのではないだろうか。それらの写真のほとんどは、グロテスクで滑稽な男女の非対称的な姿しか表さないのだ。性的欲望は男女の非対称な関係から生まれるのであり、それは人間の自然な本能の発露ではなく、階級関係によって規定された欲望、ブルジョワの制度によって生み出された欲望なのだ。ドローイングされ、更に再撮影され、コラージュされた彼女の写真は、そのような階級的な非対称性を露わにするだろう。
“見る/見られる”という不均衡で非対称的な男女間の性愛形式は、写真の構造とよく似ている。写真が欲情を喚起させることができるのは、そのような非対称のシステムを属性として先天的に持っているからであり、非対称の階級的構造が誘発するその性的欲望は、わたし達にとって本当に欲望と言えるものだろうか。システムによって欲情させられる欲望は、喜劇としてしか機能しないのではないだろうか。性的欲望とは、商品化された扇情のスタイルによって喚起される動物実験のような反応でしかないことが暴露され、性的欲望や愛の形態には、喜劇しかないことを彼女の写真とドローイングが証明する。
写真における非対称の暴力が行き着くところは、彼女のドローイングを再撮した写真のように、それは喜劇に行き着くだろう。アルコール依存と暴行事件の後遺症で言語障害のように呂律の回らなくなった横山やすしが、それでも笑いを取ろうと町内会の盆踊りのステージで喋る姿に、行き着いた笑いの荒涼とした感じを受けたように、暴力と無残の先には喜劇が待っている。そこには喜劇しかない荒野であり、それは笑いでしか表現できない無残さなのだ。呂律の回らない横山やすしをみんなが笑う。他人の不幸が笑いの種なら、それを見続けている私たちは更に不幸であり、不幸が更に自分よりも不幸な存在を探すという、不幸のドミノ倒しのように、不幸が連鎖し続ける非対称性なシステムの中でしか生きていけない私たちに、笑う以外どんな選択肢があるのだろう。
どんな悲劇もそれは喜劇にしかなり得ないという諦めから笑いが生まれるのであり、非対称の循環システムの中でしか生きていけないわたし達は、相手の不幸を“笑う/笑われる”ことでしか生きていけない。悲劇を喜劇としてしか受け止められず、そのような形でしか笑えない。悲劇を悲劇として、喜劇を喜劇として受け止める地平が存在しないのだ。対象と同一の地平に立つことは、もうできない。対象と同等の立場になることがありえないというところから写真は始まるのではないだろうか。
笑いとは相互のコミュニケーションの機能不全から発生するものであり、それは理解から来るものではなく、理解できないという諦めからやってくる。主体と対象の非対称性は結局分かり合うことができずに、いつまでも不均衡なまま、ただ笑うしかないだろう。
中近東での先進国によるエゴイズムによって線引きされた国境線。擬似植民地政策と工業化による大量生産の結果としての地球温暖化。それら様々な要因によって発生させられた大量の難民。彼らが転覆覚悟でボートに乗り、欧州へ脱出する。海流や天候の結果で転覆したボートから流れ出た子供の溺死体を撮影した写真に、ヒューマニズムを感じて、涙する先進国資本主義国家の人間に、写真の冷酷なその非対称性は、決して分からないだろう。自己の幸せが誰かの犠牲によって成り立つというその非対称性が理解できない人間が、暴力と無残を悲劇という美しい涙に変える時に、江間柚貴子の写真はその不釣り合いで不均衡な悲劇の世界を、哄笑の喜劇に読み替える。

Events

トークショー:江間柚貴子×タカザワケンジ
「対象に対して心無く撮ること」
2016年3月12日(土)18:00~19:00 

要予約 : mail@sawadaikuhisa.com
定員 : 20名 入場無料

Statement

とにかくスケッチをするように写真を撮った。
さらにその写真群の中から一部を選んで切り、ドローイングししたものに貼り付け
その上からまたドローイングしてコラージュを作る。
写真を撮る、切る、加工する、並べる。
これらの行為を繰り返していくと意味が無くなっていくような奇妙な感覚になった。
恐らく、それが単なる観察と記録の結果に過ぎないものであったからだと思う。