The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 7月号  毎月20日更新

–目次–
写真作家の写真史 金村修 × タカザワケンジ   ・・・・・・・・・ タカザワ ケンジ
百葉箱 Screen #04   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
写真作家の写真史 金村修 × タカザワケンジ
タカザワ ケンジ (評論家)
 第一回・第二回に続き、2012年に青山ブックセンター本店内の青山ブックスクールで行った写真史講座から一部を紹介する。
 今回は、今年五月に京都造形芸術大学の瓜生山キャンパス ギャルリ・オーブで開かれた展覧会「写真分離派展『日本』」(倉石信乃企画)でも展示されて話題になった春日昌昭。知る人ぞ知る、東京の写真家だ。
第三回:「モノがモノのまま散乱して写真に写っている」春日昌昭
◎追悼展が初個展だった「写真作家」
タカザワ  春日昌昭さんは鈴木清さんと同じ一九四三年生まれなんですね。
金 村 僕は春日さんに教わる予定だったんですよ。それが、その前年に春日さんが亡くなってしまった。それで代わりに鈴木先生になって。
タカザワ  一九九〇年に亡くなっているんですね。鈴木さんがなくなるちょうど十年前。四十六か七歳で亡くなったんですね。
金 村 昭和天皇が亡くなった翌年ですね。写真はすばらしいですよ。僕が通っていた東京綜合写真専門学校にオリジナルプリントが大量にあって、それをぜんぶ見ることができて、かっこいいなあ、と思ったんです。
タカザワ  春日さんは生前に一度も展覧会をやっていないんですよね。
金 村 そうなんですよ。興味なかったみたいですね。
タカザワ  東京都墨田区生まれで、家は八百屋さん。都立本所高校から東京綜合写真専門学校。卒業後作家養成の研究科に進んで、一九六六年に「浅草」という作品で第三回準太陽賞をもらっています。その後、「太陽」や「女性自身」などの雑誌でカメラマンとして仕事をした後、突然、行方不明になるんですよね。
東京綜合写真専門学校の設立者であり、当時校長だった重森弘淹さんが、ある日、テレビを見ていて春日さんを見つける。大阪で紙芝居屋をやっていて取材を受けていたんです。それからしばらくして重森さんのところに顔を出して結婚します、と。なぜ紙芝居屋をやっていたのかはわからないそうなんですが。
その後、一九七三年に重森さんが研究室長として春日さんを招き、先生として教え始めた。重森さんによれば熱心に学生とつきあう先生だったそうです。以上は春日昌昭さんが亡くなった後に作られた24ページ+表紙周りのリーフレット『街の軌跡』(一九九〇年)に掲載されている重森さんの序文と年譜に書かれていることです。
金 村 個展は亡くなった後の追悼展が初めて。教え子たちが協力してやったそうですね。
タカザワ  場所はFROGですね。リーフレットはその図録なんでしょう。同じタイトル(『街の軌跡』)なので。FROGは自主ギャラリー。のちのMoleの前身です。
金 村 春日さんが展覧会をやったことがないというのは、無理もないところもあるんですよ。個展を中心に活動していく作家が出てくるのは八十年代以降でしょう。九十年代からは作家のほうも意識的になっているから、僕は個展中心が当たり前だと思っていたけど。
タカザワ  写真と言えば雑誌か本。印刷物が主要なメディアだった。実際、春日さんが亡くなった後に残されたプリントを元に、川本三郎さんが文章を書いて『オリンピックのころの東京 (岩波フォト絵本)』(二〇〇二年)という本になっています。それから、二〇〇六年には『40年前の東京―昭和38年から昭和41年 春日昌昭のトウキョウ』という写真集が出ました。こちらはFROG、Moleの津田基さんの編集ですね。津田さんも東京綜合写真学校の出身です。
金 村 春日さんは亡くなってから三回くらい展覧会をやったんじゃないですか? コニカでもやったし、六本木の富士フイルムフォトサロンでもやった。
タカザワ  僕は大西みつぐさんが企画したグループ展「Tokyo East Perspective『墨東写真』」で初めて見たんだと思います。大西さんは春日さんの助手を務めていたことがあって、撮影にも同行したとおっしゃっていましたね。
ところで、金村さんはモール・ユニットNo.4の「Crash landing:KANEMURA Osamu」に寄稿した文章のなかでこう書いているんですよね。
「春日昌昭の写真は街の情緒だとかノスタルジィだとか、人間の感情的な思い込みのイヤらしくベタベタした心理性がすべてそぎ落とされていて、ただモノがモノのまま散乱して写真に写っているだけだった。」
金 村 さっきも言いましたけど、東京綜合写真専門学校の4Fにオリジナルプリントがたくさんあったんですよ。箱に入って。たまたま春日さんのプリントを見てかっこいいなあ、と。そのとき、6×6判のローライで植物を撮っていたんだけど行き詰まっていて、何かないかなと思っていたんだけど、この撮り方ならかっこいいかなと思って、6×7のマキナにカメラを変えて東京を撮ることにしたんです。
当時、都会を撮るってまったく流行っていなかったんですね。街を撮る、東京を撮る、新宿を撮るってことは、第二の森山大道をめざしてるのかみたいな。時代遅れだと思われていたから。でも、春日さんの撮り方を見るとクールだし。こういう撮り方だったらいいんじゃないかと思ったんです。そのとき僕はルイス・ボルツを見ていたんだけど、春日さんはルイス・ボルツやフリードランダーと比べても遜色ないんじゃないかな。そう思って撮り始めたんですね。
◎都市の構造を明らかにする写真
タカザワ  春日さんに写真に金村さんが惹かれたのが、どんなところにですか?
金 村 自分を出さなくていいんだ、と思ったんですよ。まだ学生だったから、作家になるには自分を出さなきゃいけないのかなと思ってたんですよ。でも出したい自分なんてないからどうしようかなと思ってたんだけど。
春日さんの撮り方なら、モノが勝手に語ってくれる。それはたぶん、ロバート・フランクの写真もそうだと思うんだけど。
そのときの僕の担任の先生は、森裕貴先生っていって、春日さんの友だちだったんですよ。一緒に仕事をしたりしているんですよね。
タカザワ  春日さんと森さんは一緒に東海道を歩いて、「東海道530キロメートル」って作品を合作しています。「カメラ毎日」一九七一年七月号に発表していますね。
金 村 そうなんですよ。けっこういいんですけどね、それ。
で、鈴木(清)先生からも都会でも撮ってみたらどうだって言われてね。じゃあ、っていうんで撮り始めたのかな。
タカザワ  東京を。
金 村 だから春日さんのプリントを見て勉強しましたよ。画面のなかで地面をどれくらいの割合で入れようとか。春日さんはけっこう地面を入れてるんですけど、俺はあんまり入れすぎるのもよくないなとか。春日さんとベレニス・アボットかな。参考にしたのは。
タカザワ  春日さんの写真はちょっと広角気味ですね。そこが金村さんとは違う。金村さんは標準レンズだから。
金 村 そうですね。35ミリくらいかな?
タカザワ  正解です。レンズは35ミリ。カロワイドというコンパクトな35ミリカメラを使っていたみたいですね。
春日さんの写真の特徴としては、一つは都市という対象。道、建物、看板、人……基本的に画面のなかすべてにピントが合っていて、画面のなかにヒエラルキーを作らない。モダニズム写真における都市写真の典型とも言えますけど、その都市の特徴を表現しようとしているのではなく、構造を明らかにしようとしているように見えます。
しかし、最終的にこの写真群をどうしようとしていたんでしょうね。いずれ展覧会をやろうとか、写真集にしようとか思っていたのかな。
金 村 それがわからない(笑)。
タカザワ  わからない(笑)。
金 村 そこがアウトサイダー的っていうのかな。
タカザワ  何を考えていたのか……。無口な人だったみたいですね。
金 村 らしいですね。話を聞くと、授業ではほぼ黙っていたみたいですよ。それでよく授業が成り立っていたなと思うけど。まあ、その後、学生たちと飲みに行くと多少はしゃべったみたいだけど。
◎「撮る行為」が重要だった
タカザワ  春日さんのことを人に紹介するとき、ざっくり言えば、アッジェ、ベレニス・アボット、ウォーカー・エヴァンスと続くモダニズム写真、アメリカン・ドキュメンタリーの流儀を吸収したうえで、戦後の日本の大きな転換点となった時代を撮影した写真家、とまとめることができると思うんですよね。ただ、春日さんがお手本にしたであろう写真家たちと春日さんとでは生きている時代と国が違う。アッジェはパリの街を撮影したポートフォリオを博物館や図書館に買い取ってもらった。エヴァンスはアメリカ政府の農業安定局がスポンサーだったり、グッゲンハイム奨学金をもらって撮影した。アボットもグッゲンハイム奨学金をもらっていた。潤沢とまでは言えなかったかも知れないけれど、公的機関がお金を出して、それらの写真は後世に伝えられるべきものとして撮影された。ところが、春日さんの場合は完全に自腹。個人的な仕事ですよね。これはカメラ先進国だけど、写真後進国の日本ならではって気もします。欧米のモダニズム写真の背景には、写真と社会とのつながりがあったけれど、日本ではそれが切断されている。春日さん自身はどう思っていたんでしょうね。いつかこの写真が記録として、あるいは表現として重要なものになると思っていたのか、それとも……。
金 村 春日さんにとっては「撮る行為」が重要だったんじゃないですかね。桑原甲子雄さんもそうだけど、積極的に発表していたわけじゃない。写真を撮るのが面白い、ということで撮っていたわけで。行為だけが突出してる。結果はどうでもよかったんじゃないかな。じゃあ何のために?って言われると……。この時代からでしょうね。「何のために?」という目的がなくてもやる写真家が出てきた。
タカザワ  なるほど。職業としての写真家じゃないんですよね。
これは「写真家」の定義に関わることですけど、一般に写真家というと写真で食べてる人、プロフェッショナル・フォトグラファーということになるけど、写真史を見ていくと、歴史を作ってきた写真家は必ずしも写真で食べている人ばかりではない。むしろ、新しい表現を作り出してきた人の中には、その作品では稼げなかった、あるいは稼いでいない人がたくさんいる。
十九世紀末から二十世紀にかけてのアマチュア写真家たちによる「ピクトリアリズム」がその端緒でしょうけど、写真で芸術をやろうとした人はアマチュアが多かった。アルフレッド・スティーグリッツなんかが典型ですよね。日本の場合も同じで、福原信三・路草兄弟や野島康三、安井仲治、少し後の植田正治さんもそうです。
ただ、断絶があって、ピクトリアリズムはサロン写真だと批判されて、戦中・戦後の日本では下火になる。VIVOもPROVOKEもカメラ雑誌で活躍する人たちが中心で、商業写真もやりながら、自分の作品を作っていた。でも、まあ、カメラ雑誌のスターたちだったわけで「プロ」だと認められていた。ところが、春日さんとその下の世代のmoleの作家たちは、そういうカメラ雑誌のスターたち、「プロ」の花形写真家ではなく、純粋に「作家」、つまり「写真作家」であろうとした。プロ、アマという二元論ではなく「作家」。ピクトリアリズムはアマチュアの写真倶楽部がその母体になりましたけど、この時代の「作家」たちはそういうグループを作るのではなく、自主ギャラリーのような発表の場を中心に集まってきた。
むろん、そこには先行世代、たとえばVIVOだった東松照明や、PROVOKEに参加していた森山大道たちの教えを受けた人たちが作った自主ギャラリーがあるので、先行世代と完全に断絶しているわけではないけれど、明らかに活動のベースが雑誌から自主ギャラリーに移って来ていた。
金 村 そうでしょうね。僕が東京綜合(写真専門学校)に入った頃の指導もそういう感じだったから。ようするに、「君たちは一生不遇だ」と。経済的には。スターカメラマンになれるわけではないし、ずーっと不遇だけど「それでもやれ」と。「見返りはない」と。そう言われて本科と、卒業してから入る研究科と、合わせて四年くらい仕込まれると、だんだんそういう人間になっていくんですね。
タカザワ  アメリカを見ると、ダイアン・アーバス、ロバート・フランク、ゲイリー・ウィノグランド、リー・フリードランダーたち一九二十~三十年代生まれの写真家たちは、キャリアの前半は雑誌カメラマンをやっているんですけど、途中から作品中心にシフトを変える。いわゆるシリアス・フォトグラファー(写真作家)になる。金銭的には大変だったと思いますけど、奨学金をもらったり、多少はプリントを売ったり、大学の先生をやったり、ワークショップをやったりして、商業写真からは距離を置く。
同じ世代の日本の写真家はVIVO世代およびその少し上の戦後第一世代の写真家たちですけど、アメリカに比べると、商業写真と平行して作家活動をする人たちが多いし、その時代が長かった。日本の場合、アメリカに比べて写真家の好きに撮らせてくれるカメラ雑誌やグラフ雑誌がわりとたくさんあったし、ニコンサロンのようなメーカー系ギャラリーが作品発表の場を用意したり、金銭的な支援も多少はあったという事情の違いがあるにせよ、商業写真から距離を置くことは森山さん、中平さんたち一九三十年代後半生まれ以降の話。春日さんたち団塊の世代周辺になって、商業写真はほとんどやらない、という人たちが増えてくる。ただ、プリントが売れないし、先生の仕事も少ないから、ほかの仕事をしながら、ということになるわけですけど。
金 村 当時、作家活動だけで生活できるといえば、大学の先生くらいでしょう。でも、アメリカと違って日本の大学に写真学科なんてあんまりなかったし、写真の授業もないから先生の仕事もない。だから見返りなんか期待せずにやれよ、ということでしょう。
タカザワ  専門学校の先生になって、作品作りに専念する人たちが出てくる。春日さん、鈴木清さんは東京綜合写真専門学校で教えていたし、森山さんも東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)で教えていた。
金 村 そこから十年くらいすると、プリントが海外で売れるようになるんだけど。
◎個性を消さないと写真は始まらない
タカザワ  八十年代には景気がよくなって広告写真が盛り上がる。そして九十年代に写真ブームが来る。しかしmole周辺の写真作家たちにとってはそのトレンドは無関係だった。
プリントを売る、ということでいえば、一九七八年に写真のプリントを展示・販売するコマーシャル・ギャラリー、ツァイト・フォトサロン、翌七九年にはP.G.I.(フォト・ギャラリー・インターナショナル)ができた。そして、それから十年経った一九八八年に公立美術館として初めて写真部門を持った川崎市民ミュージアムが開館し、翌年の八九年に写真部門のある横浜美術館、そして、九〇年には専門図書館である東京都写真美術館がプレ開館します(総合会館は九五年)。写真作家の作品の受け皿がようやくできた。とはいえ、作品を売るだけで食べていける人はなかなか出てこない。
春日さんも職業写真家として雑誌の仕事をしたりしていたみたいですが、それもあまりうまくいかず、大阪で紙芝居屋をやっていたようです。鈴木清さんの場合はどうだったんですか?
金 村 鈴木先生は看板の絵を描くと東京綜合写専で先生をやって食べていたから。写真だけでは食べていなかったですね。その姿に、僕なんかはかっこいいな、と思ってね。一度、授業が終わってクラスメイトたちと横浜で飲んだ帰りに、なんと鈴木先生が看板を描いているところに出くわしたんですよ。感動しましたね。カメラマンになるよりもこっちのほうがかっこいいな、と。
タカザワ  そっちのほうがカッコイイ、という価値観。一つの文化ですよ、それは。写真家は星の数ほどいますけど、この対談で明らかにしようとしているのは写真作家の歴史。写真作品だけで勝負しようとした写真作家たちの苦闘の歴史を論じてみようと。
一九七十年代の鈴木さん、春日さんたちはその言葉通りに生きた。で、彼らのその生き方のルーツはロバート・フランクなんじゃないかと思うんですよね。写真作家の見本として鈴木さんたち日本の写真作家たちに大きな影響を与えたんじゃないでしょうか。
金 村 当時はね、写真作家という言葉はなかったらしいですね。それも当然で、写真は芸術じゃなかったわけだから。でも、商売ではやっていない。となると、行き場がないんですよね。何のために撮っているんだ? と言われると。趣味でもないし、発表する予定があるわけでもないし。そんな宙ぶらりんな状態の中で続けていたってことは尊敬に値しますよね。何者でもないってことに耐えるってすごいことだから。
久しぶりに春日さんの写真見ましたけど、いいですね。このクルマのシルエットがかっこいい──写真ってそういうものだと思うんですよ。
タカザワ  「1WAY」の標識がかっこいいとか。
金 村 そういうことですよ。東京オリンピックの頃の東京の写真だから、ノスタルジックに感じる人もいるのかもしれない。僕のように春日昌昭もルイス・ボルツも好きだ、という見方もユニークだったのかも知れないけど、解釈を変えるっていうのかな。ルールを変更させるっていうか。ノスタルジックに見てもいいけど、違う見方もできるんだっていうね。写真の読み取り方は、いろいろできるわけだから。
タカザワ  ルールを変更させるための方法の一つが、写真の選び方、並べ方、写真集で言えば編集とデザイン、展覧会で言えばキュレーションと会場の空間の使い方だと思うんですよね。たとえば春日さんの『オリンピックのころの東京』と『40年前の東京』はどちらも東京オリンピックがあった年の写真という枠組みで春日さんの写真を紹介しているけど、そうじゃない見せ方をすれば違うものとして受け取られると思う。
金 村 そうなんですよ。
タカザワ  キャプションが写真に添えられているかどうかだけでも見え方が違ってくる。キャプションがあるとキャプションとマッチした写真の意味しか見えてこないけど、写真だけを見ていくと、写真の別の部分が見えてくる。春日さんがルールに則って撮っていることも。
金 村 距離感がはっきりしてますよね。
タカザワ  春日さんが街を撮るときのルールも見えてきますよね。順光で撮る。画面のなかに情報をどれくらい入れるか、地面と空の割合、文字の量、人のサイズをどれくらいにするとか。
金 村 「池田内閣打倒」と「三和銀行」が同じくらいの大きさで入るとかね。
タカザワ  ルールがある。でも、ルールに従っていることがわかってくると、不思議なことに写真家の個性をあまり意識しないで済むようになりますね。ある意味で機械的に撮っているというか。
金 村 作家の個性なんてつまらないことなんですよ。
タカザワ  作家性を見出そうと思って見るよりも写真のなかに写っているものをよく見ることができるような気がします。
金 村 映画もそうだと思うんですよ。ジョン・フォードやハワード・ホークスは映画作家だと思うけど、個性を強く打ち出してるわけじゃないと思うんですよ。
タカザワ  騎馬隊がインディアンを追いかけてドンパチやる。似たような話を繰り返してやってる。
金 村 個性なんてむしろ消す方向でやっていますよね。まず個性を消さないと写真は始まらないと思いますよ。
百葉箱 Screen #04
小松 浩子 (写真家)
義務教育とは日本国憲法で定められた規定に基づく教育で6〜15歳までの9年間を二段階構成(小学校6年・中学校3年)して義務教育期間とし、就学・学校設置・就学保障・避止の4つの義務によって成立するとされる。「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家および社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うこと」を目的とし、目的実現のための達成目標として七項目を掲げている。目標の「学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと」に沿って、自然体験活動の場としての花壇が学校から学級へ与えられ、担任教師から児童に菜の花の栽培が命じられる。また目標の「学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」に沿って担任教師により数名の児童からなる集団が形成され「菜の花の管理・育成」「給食の配膳・後片付け」等の任務が与えられる。学校給食とは義務教育諸学校において、その児童又は生徒に対し実施される給食を指し、学校給食法第1条で1.完全給食(パンか米飯・ミルク・おかず)、2.補食給食(ミルク・おかず)、3.ミルク給食(ミルク)の区分が定められる。学校給食法第2条で「食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと」を目標としており、「自然の恩恵」であるミルクを選り好みにより食さず結果として廃棄する事は「自然を尊重する精神」に反するため、担任教師にミルクの完食を命じられるが給食時間を大幅に越えても果たす事が出来ない。担任教師は帰宅時間が迫る頃に完食させる事を断念し、残ったミルクと水を合わせて菜の花に与えるよう「菜の花の管理・育成」担当者に命じる。エンドサイトーシス (Endocytosis) とは細胞が細胞以外の物質を取り込む過程の1つで取り込む物質の種類・機構の差異により食作用と飲作用とに区別される。生体防御機構としても機能しており、体内に病原微生物が侵入した際には好中球やマクロファージが食作用により病原微生物を貪食し排除する。当時、植物はセルロース等で構成された堅い構造の細胞壁を持つため分子構造の小さい無機質の取り込みは可能であるが、分子構造の大きい有機物は体内合成すると考えられており、ミルクを菜の花に与える際の「食物を無駄にしない」という担任教師の主張とは相反する。菜の花はアブラナ科アブラナ属の花を指し食・観賞・修景に用いられる。種蒔きから開花まで2〜3ヶ月であり開花時には茎の高さが1メートル以上になるが、ミルクを日常的に与えた菜の花は茎が極端に太く種蒔きから数週間を経て高さが約15cmの段階で開花してしまう。近年の研究では植物もエンドサイトーシスにより直接に有機物を取り込み養分とすることが確認されており、菜の花の早期開花は過剰な栄養摂取による可能性が否めない。ミルクは出生間もない牛の完全食で自然界において他の種が摂取する機会はあり得ない。ミルクの摂取が人体に与える影響については諸説あるが、学校給食法で定められた3区分全てに含まれており、給食から帰宅時間に至るミルク完食の強要は続く。
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
ミュージック・コンクレートについてブーレーズは、音楽の世界に“有害な無政府状態を生じさせた”と批判的に語った。録音テープの切り貼りで構成されるミュージック・コンクレートは、最終コーダの見えない、全体図を放棄した場当たり的な作曲法であり、イントロから最終コーダまで作曲者の頭のなかで鳴る音を譜面に採譜するのではなく、現場の音から発想される現場優先の作曲法は、失敗や偶発的に録れた音を作曲のなかに導入することを肯定し、最終的には作曲者のコントロールのきかない野放図な音楽に変質するとブーレーズは思ったのだろう。“セリーは選びとられる”と語った作曲のルールの構築とその厳密な適用を主張したブーレーズらしい官僚的で偏執狂性を持った意見だと思う。
ミュージック・コンクレートの作曲法は映画や写真の方法と似ている。映画というメディアを自分の作曲法と近似させて語った武満徹が、初期のピエール・シェフェールに賛同の意志を示したのも、ミュージック・コンクレートの方法に映画的な技法を感じたからだろう。どんなに現実離れしたストーリーも現実の世界と物質を使用してストーリーを展開しなければならない映画にとって、ロケ地の設定や俳優の人選、セットの建築という現実の具体性は無視することができない。映画や写真は現実のものを目前にして発想していかなければならないという不自由さ(小津安二郎がシナリオを書いているときが一番楽しい、いざ製作が始まり俳優の顔を見るとうんざりするというような不自由)。現実をとりあえず肯定しなければなにも始まらない。映画や写真の、現実の制限からくる不自由さに、現実をなんの感情も思い込みもなく、そのまま切り取れるカメラの即物性に20世紀の新しさを感じたピエール・シェフェールは、時代のアクチュアリティーに同期するために、録音機による作曲法を導入する。平均律での12音しか使えない作曲法に無限の想像力と熱情を込めてロマンチックに肯定する西洋音楽の楽天的な観念性を、録音機の即物的音圧が凌駕するだろう。ストラヴィンスキーがオーケストラのなかで実際の大砲の音を使う時代では、楽音のロマンチックな再編成よりも、楽音の唯物的な探索が要求される。映画や写真という、観念よりも物質が優先する20世紀のメディアにミュージック・コンクレートは呼応しようとしたのだ。
音楽は天才の頭から直感と霊感が溢れるようにこぼれ出るという19世紀的な音楽観に対して、厳密なルールの適用を音楽に要求したブーレーズはそんな個人の神話なんて信用していなかった。天才は制度によってつくられたものでしかなかった。神がかった天才と言われる人間の、けれどあきらかに制度によってつくらされた作品に誰もがあきあきしていたのだ。魔術でもないものを魔術だと詐称される苛立ち。調律され正しい音しか出せないピアノで作曲され、その正しい調律でつくられた調性和音を基盤にした、長調や短調という感情に訴えかける19世紀的音楽は、貴族階級の耳に訴えかけるには丁度いい心地よさであり、それに分析可能なものとしてつくられた調性和音の音楽には魔術が入る余地はない。あらゆるノイズを捨象した平均律の音階は、あらゆる調性にも、どんな民族の調性感にも合わせられる音階であり、それは近代合理主義に寄り添い、マス大衆に西洋音楽を帝国主義的に拡げていくためのテクノロジーの音楽なのだ。テクノロジーの音楽に、音楽の魔術化は不可能だろう。ブーレーズは12音の全面的使用とルールの厳密性を導入することで所詮調律によって形成された西洋音楽の感情的であり偽魔術的な側面を廃棄することを要求する。テクノロジーの極限的使用が、二分化された調性感を破壊する。ブーレーズの音楽は悲しくもなければ楽しくもない。調性の破棄された彼の音楽は、ほとんどブルースマンの音楽か、統合失調症の患者が独り言のように唄う発狂感たっぷりの音楽と紙一重だ。
スイッチを押せばとりあえず目前に鳴る音が即物的に録れる録音機は19世紀的な音楽観を破壊した。個人の美意識で取捨選択された音に対して、録音機で録られた音は取捨選択されず、秩序や順列の欠いたあらゆる音が無頓着なぐらい平等にテープのなかに取り込まれる。ミュージック・コンクレートは録音機に録音された音を音楽に変身させるために、楽音として再度設定しなおすという、ある抽象的な施しを拒否するだろう。録音された現実の音は、新しい楽器の音色のバリエーションとして機能するものでも、作曲家の書いた音符を目新しい音で再演されるのでもない。それは非調律の音によって構成される音楽、調律される過程でノイズとして扱われ消えていった音がもう一度復権することだ。非調律の音が、調律された音と等価になったとき、調律された音は選ばれた特権的な音ではなく、非調律の音のなかの一部分でしかないだろう。取捨選択する主体を日常の音の渦巻きのなかに巻き込み、選択の基準そのものを放棄するようミュージック・コンクレートは要求する。埃のように堆積してはすぐ消えていく日常の音にミュージック・コンクレートは舵を切り替えた。ミュージック・コンクレートはチューンアップされた音を放棄することで得るジャンクの無意味な堆積と発狂したアーカイブの道を切り開く。
幼女連続殺人犯の宮崎勤が逮捕される最後の一年間に録画したビデオの本数は四千本だった。宮崎は四台のビデオデッキを所有していて、一日中そのビデオデッキはフル稼働で番組を録画していた。日中は実家の印刷工場の手伝いをして、休日は犯罪現場の下見をつづけていた宮崎に録画していたビデオを見るひまがあったのだろうか。なにを録画したかを確認するためのセレクターをもっていなかった宮崎は一体なんのために録画をつづけていたのだろう。精神鑑定の医師には“集めるだけだ”と答えた宮崎は、見るのではなく集めるだけ、それも自分の趣味とかに関係なくただ集めることだけを目的に収集していた。『動物赤ちゃん大集合』、『はぐれ刑事純情派・ねらわれた幼女』、『刑事の妻の告白・罠にはまった二人の女』、『生中継、マイケル来日で大フィーバー』、『必殺仕事人・主水御用納めする』、『暮らしのなかのアメリカ憲法』、『怪奇!二つの顔を持つ男』、『真夜中の処刑ゲーム』、『ドラマ若き日のチャップリン』。ただなんでも録画していた宮崎はレコードの集め方には少し主張があるようだった。『さびしがりや』森昌子、『ねぇ!気づいてよ』桜田淳子、『やりなおそう』水谷豊、『夢中でいれば美しい』ダ・カーポ、『キミに決定』田原俊彦、『飛んで火にいる夏の令嬢』シブがき隊、『薔薇薔薇という感じ』田原俊彦。意味のないビデオの収集に対して、自らの犯罪をコメディ化するかのように収集されたレコードのタイトル。一体なんのためのコメディなのだろう。宮崎のコレクションは、なんの機能も果たさない無能で役立たずの白痴のアーカイブだ。テレビに写っていた宮崎の部屋の畳には、ロリコン雑誌が散乱し、本棚に入りきれなかったビデオが山積みにされ、そしてなぜそれがそこにあるのか分からない謎の某幼稚園の入学パンフレットが置かれていた。見も聴きもしないものを集めるという行為は、消費や快楽のための収集ではなく、集めるために集めたのであり、集めたものがいつか消えてなくなっても構わない、保存を拒否した宮崎のアーカイブ。それはいい加減な現像をして、いつか画像が消えていくのを知りながら撮りつづける写真家とそっくりだ。堆積のための堆積。記録されたものを見たいのではなく、記録されたものが堆積していくところが見たいのだ。堆積の山は、いつかネガやプリントをジャンクに変質させるだろう。むしろジャンクになることを心のどこかで望んでいるのが写真家でありミュージック・コンクレートだ。
録音機の発明が音楽にノイズを取り入れることを可能にした。それはカメラの発明が現実のノイズを取り入れることに成功したのと似ている。画家の中枢神経を通すことなしに目の前の現実を写し取ることができるということは、今まで画家の中枢神経によってせき止められていた現実のオブジェが画面のなかに無数に現れることに成功した。無数にあらわれたオブジェをわたし達はどうやって取捨選択することができるのだろうか。あれも良ければ、これもいい。これだけを見ていればいいという視線の官僚的な制約に対して、写った細部のすべてが洪水のように襲いかかる写真。撮っても、撮っても撮りきれないだろうし、一枚の写真をいくら見ても見終わることができない。写真において細部を見尽くことも、コントロールすることも不可能なことなのだ。画面から主題をなくすこと。細部とはノイズであり、近代の発明品が、今まで抑圧されていた細部を、ノイズとして見ることを拒否されていた細部を立ち上げた。
録音機やカメラは明解な使用目的をもった現実のものを、使用目的を捨象して、無目的という自由をものに与えることで、ものはノイズに変質するだろう。使用目的を捨象されたものは、オブジェとなって録音機やカメラの前にあらわれる。あらゆる価値に対して捨象物としての無目的な自由を与えること。オブジェ化されたものに対して録音機やカメラは、そのオブジェの来歴も、目的もテープやフィルムのなかで棄却する。リュック・フェラリーは録音された音がどんなものの音だったのか気に留めなかった。彼はインタビューでこう語る。“音は出所や来歴ではなく聴覚的な構造特性(形態・質量・輪郭等々)によって語られなければならない”
リュック・フェラリーは毎日なにかの音を録音しつづけていた。そういった彼の録音行為は、細部を追求する写真の行為との同一性を感じる。アジェの徒労のようなパリの撮影とリュック・フェラリーの行動はそっくりのように思う。変貌する近代化途中のパリや、近代化すれば消えていく運命にある町並みを保存していこうというドキュメント的意志ではなく、むやみやたらにただ街を撮りつづけるアジェの無目的なアーカイブスは、ノイズに取り憑かれた人間の末路だ。使用目的のはっきりしないオブジェの収集は取捨選択の基準が曖昧なまま続行される。ショーウィンドウのマネキン人形にガラスに反射した通行人の姿が重なり、さらにネガのムラや傷に埃が被さるようにしてプリントに定着される。それはものを写したいのではなく、ノイズのように秩序を失って散乱するその様子を写したかったのだ。カメラや録音機は中枢神経の制限を振り切って、写したもの、録音したものをすべてノイズに変える。
ピエール・シェフェールがミュージック・コンクレートの方法を説明したとき、楽音の音楽は抽象から具体に向かうなら、ミュージック・コンクレートは具体から抽象に向かうと言った。彼の言う抽象は、現実の音が採譜され、譜面化される音の記号化を抽象性と言っているのだろうか。音というのは触ることができないものでありながら、けれど物質的としか言いようのない触覚感を感じさせるものがある。抽象的でありながら、具体的な物質感を感じさせる音を追求することがミュージック・コンクレートの方法なのではないだろうか。映画や写真も具体的現実から始まり、最終的には映画的、写真的としか言いようのない抽象的、けれど具体的ななにかを産み出したように、ミュージック・コンクレートが現実の具体音を録音することで、その現実を再現するのではなく、参照した現実の対象音が現実の秩序から解放され溶解していくような抽象的であり具体的でもある音楽を産み出すだろう。
リュック・フェラリーの『ほとんどなにもないあるいは海岸の夜明け』は、海岸で録った音をただ再現したように思わせながら、巧妙に編集意図を隠蔽した編集で聴衆を最終コーダの鳥の鳴き声にまで連れて行く。この音楽は、どこという具体名をもった海岸の音の再現ではなく、どこにもない、どこでもない海岸の音を響かせる。テープに取り込んだ音を断片化させて編集したこの音楽は、なぜか断片としては響いてはこない。無数に貼付けられたテープの痕跡が、まるでなんの切り貼りもなかったかのように滑らかに進行していく。痕跡がまるでない、徹底的にフィクション化されたノンフィクションの海岸。やらせで唄わせた女性の歌声が途中で聴こえる。この手の音楽は演出というのは一切やらないものだと思われていたから、演出を導入したことにずいぶん驚きがあったらしい。普通の現実らしく、さりげなく演出して聴かせることで、よりフィクションとしての構成が完成される。現実の海岸の音を再現するのではなく、“聴覚的な特性構造”として波の音や女性の歌声を捉えることは、音の物質化であり音の形式化なのだ。音の鳴る位置が現実の三次元空間の位置から微妙にずれている気がする。三次元的秩序を無視したようなミックス。遠くのものは小さく聴こえ、近いものは大きく聴こえると聴覚の聴取構造は、三次元空間に支配された聴き方なのかもしれない。たとえば気功で長時間立っていると遠くの音が近くに聴こえ、近くの音が遠くに聴こえるときがある。それは耳の錯覚というよりも、三次元の制度から一瞬だけ離れた非三次元的な聴こえ方だったのかもしれない。聴覚は恣意的に音を拾っていく。制度の変更によって聴こえ方が変わるのが普通だろう。ミュージック・コンクレートは聴覚に三次元空間からの離脱を要求する。
ロネッツの『Be My Baby』が、手拍子の音がドラムよりもでかいという通常の三次元的聴覚秩序から解き放たれた録音方法を選んだことで、音の階層をひっくり返し、主役であるメロディーの背景を彩る役割の手拍子が、手拍子そのもとして曲のなかで自己主張しはじめる。三次元の秩序から解放された『Be My Baby』の手拍子は、メロディーを楽しむための添えものというよりも手拍子とカスタネットとスネアの響きを楽しむような、音楽というよりも音そのものの具体性としてあらわれる。メロディーに躍動感を与えるという役割としての打楽器ではなく、どんな階層にも位置づけられることのない具体性を持った音そのものとして聴こえるようになる。
ミュージック・コンクレートは音楽を旋律の展開という時間の束縛から解放する。コーダの最終章に向けての起承転結という時間の変化になんの関心も持たない。時間は進行しないで、音の響きが持続する。係留したまま揺れつづける時間。ジョン・ケージの無音室での実験報告のように、人間は無音を体験することができず、つねになにかの音の響きのなかで存在している。響きの持続は音階の連続的進行に先行するだろう。ミュージック・コンクレートは音符という点の連続ではなく、分割不能な音響の持続であり、音楽を日常の音のレベルにまで拡げるだろう。最終的にそれは“今”の永遠の持続なのだ。そしてその“今”は幾何学的に点表示されるものではなく、つねに行為の最中として聴かれ、点に還元することのできない持続として提示される。
点表示されることを拒否するミュージック・コンクレートはアナライズできない分析不能なものとして現れるだろう。リュック・フェラリーの『ほとんどなにもないあるいは海岸の夜明け』の慎重に躍動感を排除する姿勢は、パルスや小節を想起させることへの抵抗であり、音のなかにあるフィギュアを想像させることを拒否するものだ。ブラインド・レモン・ジェファーソンのボトルネック奏法がギターの平均律化された調律を提示することを目的にしたフレットの区分けを嘲笑うかのように音のあいだをくぐり抜ける。音が譜面上に小節線で分断され、記号化され、分析されることを拒否するように、ピッチの狂った音階がスライドするボトルネックで揺れ続ける。調律?いったいなんのためにそんなことを?とサン・ハウスならそう言うだろう。“ママ、ここは天国じゃない、地獄でもない、死んだらどこに行くのか誰も教えてくれない”と永遠に唸っているサン・ハウスにとって音楽は機能的に進行する音符の滑らかな連続ではなく、つまずいて立ち止まり、いつまでもそこに澱みつづけるノイズであり、平均律が排除したあらゆる音を含んだ音そのものの周りを無限に旋回する。つぶやき、ためいき、息継ぎ、舌打ちや舌なめずりする音や、弦を手で擦るというノイズと言われるような音がそのまま録音される。無作為に音を録音してしまう録音機の機能がブルースをノイズ発生装置として20世紀の音楽史に登場させたのだ。録音機の無作為性はメロディーよりもチャーリー・パットンの舌打ちやハウリング・ウルフの咆哮のほうが重要だということを発見した。メロディーよりもむしろノイズの方が重要だという発想は、音楽が心情に訴えるものから触覚的フェテシズムの対象としてあらわれる前兆だった。録音機は音を物質化することに成功したのだ。
“ブルースとは、心の状態であるとともに、その状態に声で表現を与える音楽である。ブルースは捨てられたもののすすり泣きであり、自立の叫びであり、はりきり屋の情熱であり、欲求不満に悩むものの怒りであり、運命論者の哄笑である”、“アメリカにいるアメリカ人が自分たちはアメリカを離れることなどないと気づいた瞬間からブルースは始まった”(ポール・オリバー)
“俺はブルースを手に入れた、一晩中ブルースを手に入れた、俺は独りぼっちなんかじゃない”、“お前の脳天にピストルで撃ち抜いてやろう、そうすればお前の顔を見なくてもすむ”、“俺がピストルを撃ったのは、あいつの死ぬ顔が見たかったからだ”、“この街を出て行くんだ、この街を出て行くんだ、だけどやっぱり出て行かない、幸せな家に戻りたいのに、俺のおんなは俺の友達を家にひっぱりこむ”とか解決不能の堂々巡りの循環から抜け出せないことをブルースマンは肯定する。どうせここは天国でも地獄でもない、無理矢理連れてこられたどこでもない場所、記憶するに値しない場所、“だって俺はブルースだから”といつまでも同じところで痴呆みたいに唄いつづける以外になにもできない。リュック・フェラリーやブラインド・レモン・ジェファーソンは音楽を具体音のなかで、音の鳴り続ける生活のなかで、音楽を相対化して音そのものに回帰するだろう。ブルースが“心の状態”や“捨てられたもののすすり泣き”の表現なら、“捨てられたもののすすり泣き”という“心の状態”を強制する社会や差別に満ちた日常生活のなかに音楽はもう一度帰っていく。アンビエント・ミュージックが環境に溶け込む音楽なのではなく、自分を囲んでいる環境を意識するための音楽だったように、ブルースやミュージック・コンクレートは娯楽のための音楽でも、嫌な現実を忘れるための音楽ではない(ブルースマンの唄う歌詞のほとんどがお金やセックスに悪魔と死という歌詞が多いのがその証左だろう)。“俺にはブルースがある”と唄いつづけるのは、わたしはわたしが産まれた環境を死ぬまで忘れないための宣言であり、ブルースは抽象的な平均律に決して対応することのない、音の塊に、チューンアップされて更地みたいにクリーンにされることを拒否する音の塊に、音を塊という物質として把握する方法なのだ。
ピエール・シェフェールやリュック・フェラリーの方法は、ドイツの写真家アウグスト・ザンダーの撮影態度とよく似ている。現実の音を片端から採集していくピエール・シェフェールは、採集した音を正弦音に還元して楽音として分析するのではなく、収集した音を音の種類に合わせて分類していくだけだ。音のなかになんらかの共通する基本形、普遍性を見つけて解析するのではなく、普遍的原理なしで分類を続けていく彼の作業は、現実に合わせていくだけのただの後追いであり、それは採集という名の垂れ流しにすぎないだろう。けれどミュージック・コンクレートはその垂れ流しを肯定する。美学を放棄して現実にそのまま対峙しようとするなら、映画のカメラが永遠に横移動をつづけるように、文筆家が目の前のものをいつまでも描写しつづけるように、そういう垂れ流し的方法しかとることができないのだ。ザンダーも現実のドイツ人を撮りつづけていただけで、そこに普遍的原理を持ち込むことでドイツ人を分析しようとしたわけではない。彼もまた普遍的原理を欠いたまま永遠に分類を続けていた種類の人間だ。彼らは百科全書的な妄想に取り憑かれていたのだ。理性の欠けた百科全書的な妄想に。世界を分類によって表象しようという欲望は、なんのための分類かという目的は捨象され、ただ意味もなく堆積したまま分類しつづける。
リュック・フェラリーは録音された音を楽音的に使ったりはしない。編集は採取した音を楽音的に響かせるために編集するのではない。彼の音楽は録音と再生という無限の反復のなかにしか存在しない。一切の抽象性を拒否して具体でありつづけようとするための無限の反復であり、編集は録音された音が垂れ流し的に響くように精密に編集される。彼の音の採集はアジェと同じくらいの無意味なアーカイブであり、その無意味さがアーカイブの帝国主義的側面を廃棄するだろう。なににも奉仕しないアーカイブ。それはアーカイブが持つ本質的な悪の側面を愉快な痴呆状態に変質させる。認知症の老人がゴミを拾ってきて家の庭に集めるのと似たような行為に近づいていくだろう。あらゆる記録保管所をゴミ屋敷に変質させること。記録に値するものと記録するに値しないジャンクの区別を希薄化していくこと。わたし達は記録に値するものを記録するのではなく、記録に値しないものしか記録しないだろう。たとえば中平卓馬の撮る信楽焼の狸の置物のように。わたし達は名もない雑草に名前を与えるために録音したり、写真を撮ったりするわけではない。記録は名前を棄却することであり、名前を剥奪することが記録なのだ。いつか記録が消滅と同義の言葉になるだろう。アーカイブは記憶の焼却所として、最終処分所として機能するべきだ。
名前を与えないこと。人間が対象をある一貫性のなかで存続させることができるのは、命名することができるからなのだ。命名することで対象を同定することができるなら、写真やミュージック・コンクレートは命名の権利を廃棄するだろう。撮る、録るということは、対象の同一性を保証するための行為なのではない。写した対象を同定しないこと。対象をさらに限りなく細分化すること。名前は廃棄されたことで、対象に対するわれわれの欲望がつねに不安定にしか同定できない。われわれの欲望は揺れつづけ、はっきりしないまま断片化されつづける。まるでブルースマンのように中途半端で解決できない欲望を抱え込むようになるだろう。長調か短調かはっきりしないコードを用いるブルースも同一性の運動とは相容れない音楽なのだ。“反対の一致”というパラドックスを肯定するブルースは、まるでシェークスピアのように“鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康”のようであり、“火を吐く氷、燃える雪”のような背反の骨頂であるブルースは“ドアの後に猟銃を隠し”ながら結局なにもできずに自分の彼女の浮気を黙って黙認する“滑稽で悲劇的な、冗漫で簡潔な”失調した悲劇を永久に繰り返す。揺れつづけ宙づりにされたブルースは最終的に“私のものであって私のものではない”自我の断片化、分裂化を肯定して、自我の同定さえも廃棄するだろう。背反のパラドックスは主体と対象にさらなる分裂を要求する。ロバート・ジョンソンの『クロスロード』は、そこでブルースの習得の代わりに魂を交換するのではなく、たった一つの魂を悪魔に向かって四方八方に引き裂くことで魂の同定を廃棄する。
ミュージック・コンクレートの使用する日常の具体音は、シンセサイザーの合成音のように音をアナライズして、珍しい響きをもつ楽音として再編成されるのではなく、楽音の破壊者として、“ドレミの外では何もできない”ことを肯定するなにもしない者として、音符という記号の外から、分析不可能な存在として現れる。ジョン・ケージのプリペイド・ピアノをブーレーズが肯定したのは、プリペイド・ピアノの音色を楽音のユニークなバリエーションとして理解したためであり、正しく調律すれば正確な音階が出るピアノという西洋を代表する楽器に対して、ピアノ線のあちらこちらに消しゴムやボルト、ナット、木片にヘアピンを仕掛けることで、音を音階という記号の列から逸脱させ、音を構成する粒子の段階にまで解体しょうとするケージの方法に、セリー主義者のブーレーズはプリペイド・ピアノ以降のケージをアナーキストと言って罵った。プリペイド・ピアノは音階として解析把握されるものではなく、音響の持続として、解析不可能な音として聴かれるべきだろう。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「俺が何人もいるような感覚」 映画”気狂いピエロ”より

「俺には見るための”目”がある。そして聞くための”耳”。話すための”口”がある。全部バラバラに動くような感覚にとらわれる。動かしているのは俺なのに。俺が何人もいるような感覚。」
ゴダールは劇中主人公の言葉を使って”分断”について上のように解説しています。”目や声のための映画がある。そして耳のための映画も。”(ジャン=ベルナール・プーイによる解説より)
写真に興味を持ち始めた当初、私にとって写真は”見る"ものでした。しかし作品として制作をするようになると表面的なイメージだけでは説明がつかなくなり、撮れば撮るほど写真の領域は拡張し、全ての器官を写真のために動員せざるを得なくなりました。また、自分が撮った写真を他人が撮った写真のように見、他人ごとの様に批評を試み、それを踏まえながらまた制作をしていくというように自身の分断と統合を繰り返す作業をしているうちに、作品を支配し制御しているのは何者なのか自分自身でもわからなくなってしまうような感覚さえ覚えます。その度にまたなぞるように撮影に出掛け、展示を繰り返すのです。私の場合は”写真”によって”自身”が分断されてしまったようです。
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