The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 9月号  毎月20日更新

–目次–
書割効果 Cardboard Effect   ・・・・・・・・・ タカザワ ケンジ
百葉箱 Screen #06   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
書割効果 Cardboard Effect
タカザワ ケンジ (評論家)
◎都市の縮尺

 夏の終わりに、ある街を訪れた。ここに紹介する10枚の写真はそのときに撮影したものである。
 実際に行って、見た街の印象を書いておこう。
 まず、道が広い。とくに広く感じるのはクルマがあまり走っていないからだ。
 信号機は見当たらず、大きな交差点には警官が立ち、手旗を振っている。
 バスと、電線から電気をもらって走るトローリーバス地下鉄が主要交通機関であり、乗用車がほとんど走っていない。たまに走っているそれは、八、九割がスポーツ選手のものだそうだ。活躍した選手に対するほうびとして与えられるという。
 一方、市民が道を歩く姿はよく見られる。広い道を歩いて渡る人。歩道を歩く人たちの姿が妙に小さく見える。都市の縮尺に対して、人間が小さすぎるような気がする。
 思い出したのはこんな現象だ。

「3D映像を見ていると、立体感は確かにあるのだがなにかおかしい、という感じることがある。たとえば、映像に映っている人間が小人に見えるとか、異なる距離にいる人物がそれぞれ平面に描かれた「書き割り」が並んでいるみたいに見えたり、といったことが起こる場合がある。こういう現象はそれぞれ、「箱庭効果」、「書き割り効果」と呼ばれている。」
(kei_kei「あんだあどらいぶ」http://d.hatena.ne.jp/kei_kei/20100307/1267969837

 私はこの街を両目で見ていたのだから、まぎれもない立体画像だが、それでも縮尺が狂っているように感じた。一つしか目がないカメラで二次元にしたのがこれらの写真だが、やはり印象は変わらない。
 バス停に並ぶ人々。地下鉄の入り口に吸い込まれていく人々。その姿は無声映画のようだ。
 そう感じる理由は、この街のつくりが変わっているだけでなく、ガラス越しに見ているからでもあるだろう。
 というのも、私たちはこの街に自由に降りて、散策する自由を持っていなかったからだ。
 朝から晩まで観光スケジュールがびっしり組まれ、自由行動は許されない。夜、ホテルに帰ってきてから、個人で外出することもできない。脱出しようにも、ホテルは川の中州にあり、橋を渡らないと街へは行けない。夜、外出したいとガイドに訴えたら、カラオケパブに連れて行ってはくれたが、外国人専用の店だった。
 自由行動が許されない理由は「外国人の一人歩きは危険だから」。しかし、その一方で、「この街では、夜、女性が一人歩きをしても危険がない」と胸を張る。事実、この街には外灯があまりなく、夜は真っ暗になるが、バスのヘッドライトが当たった道端を女性が歩いていて驚かされた。

◎「見る」だけの観光

 バスの窓から見る街は整然とビルやマンション、集合住宅が立ち並んでいる。とても静かな印象だ。
 その理由は、道が広く、交通量が少ないほかに、視覚的には、ビルボードや、店名のロゴを書いた大きな看板がないからだ。ビルボードや大きな文字は政府の宣伝に使われているが、数は多くない。お店の名前が書かれていないわけではないが、ごくささやかもので、目立たない。写真をよく見るとそこここに文字が写っているが、印象は薄い。目立たせようという意欲を感じない。
 大きな市場やショッピングセンターは見当たらない。しかし、それは私たちが乗ったバスがその通りを通っていないからという可能性は大きい。
「また同じ道だ」
 そんなつぶやきがバスのなかから聞こえてきた。おそらく、走っていい道と悪い道があるのだろう。
 商店はあった。通り沿いのキオスクがそれだ。買い物する人たちを時折見かけた。

◎撮影のルール

 ツアー客は誰も彼もカメラやビデオで熱心に撮影していた。
 「もうバッテリーが終わってしまった」とぼやいている人もいた。目の前の現実が珍しく、撮影しすぎたのだろう。マスコミ関係者はお断りだと聞いていたから、発表を前提にしていたわけではないはずだ。ただ、自分たちが暮らしている国との違いを記録しておきたかったのだろうと思う。
 撮影にはルールがあった。
 一つは工事現場を撮ってはいけない。ちょうど空港の新しい建物を建てているところで、カメラを向けると、さっそく工事現場の関係者が笛を吹いて注意してきた。
 また、銅像を撮るときには、手や足をカットせず全身をフレームに入れること。そしてその像と同じポーズをとって撮影することは厳禁とされた。
 上記以外の禁止事項はケース・バイ・ケースだが、過去にはゴミ箱やトイレを執拗に撮影して市民に通報された外国人がいたという。市内ではガイドの指示に従うことがルールだった。
 地下鉄に乗ったことをのぞけば、一般市民と接触する機会はなかった。この国の通貨に両替することは禁じられており、外貨が使える店以外では買い物ができない。
 したがって、街を「見る」ことも「撮る」ことも主にバスのガラス越しということになる。
 クルマやバス、列車などから撮影した写真はいままでにも数多く撮られてきている。ロバート・フランクは1968年に「From the bus」というシリーズを撮っているし、リー・フリードランダーは『AMERICA BY CAR』という集大成となる写真集を近年出したばかりだ。ポール・フスコがロバート・ケネディの棺を運ぶ葬送列車に乗って窓外を撮った『RFK』も有名である。日本では荒木経惟がタクシーの窓から撮影した「クルマド」や、高梨豊が列車から撮影した「WINDSCAPE」、バスから撮影した「Silver Passin'」がある。
 昨年のTOKYO PHOTOでテート・モダンの写真部長、サイモン・ベーカーがキュレーションした展覧会「車窓からの眺め」も、そのタイトルの通り、クルマの窓から撮影した写真をテーマにしていて、奈良原一高、ジョエル・マイエロウィッツ(近々、写真集にもまとまるようだ)、ジョン・ティヴォラの三人の作品が展示されていた。つい最近も、石井保子の『passive windows NRA124』という作品が東京のある電車の車窓からのイメージを編んだものだった。
 これらの作品に共通するのは、その時代の交通機関を表現する手段となっていること。交通機関から都市や風景がどう見えるかは興味深いし、文明が作り出した移動手段の「スピード」を写し取るということでも有効だろう。加えて、限られた条件でシャッターを切るというルールが写真を面白くする。
 ここに掲載した写真はそうした作家の写真とは違い、車窓から撮るほかはないという状況ゆえに生まれたのだが、外国人だけが乗っているツアーバスから撮影された写真、ということ自体に意味がある。また、撮影した写真は考えるうえでの手がかりになる。

◎車上から見た街

 表面だけ、それも、ほんのわずかな時間に表れたものを切断して提示するのが写真というメディアであり、そこには当然、そのほかの時間を選べないという限界がある。しかし、一瞬に限ったからこそ、そのフレームのなかを子細に検討することができる。ビデオの画像を静止させて画面を検討することと同じだが、その精度はいまのところ写真のほうが高い。
 目にする人々の格好は似通っている。軍人、警官、学生は制服。それ以外は作業着。女性は白いブラウスと黒のタイトスカートが多い。
 だが、それはそのときの印象で、写真を後から見ると、そのブラウス、スカートのディテールはそれぞれ違っており、おしゃれ心がうかがえる。また、女性の日傘はそれぞれに個性的だった。
 写真を撮るということは、おおむね、記録しておきたい、誰かに見せたい、という思いからという人が多いだろうが、私も同じだ。ただ、写真を専門にしているので、撮ってから、その写真を手がかりに受けた印象と照らし合わせたいと思っていた。
 というのも、記憶と写真がしばしば合っていないことが多いからだ。たとえば、「女性の服装がみな似通っている」という印象は、写真のディテールを見ると裏切られる。とはいえ、東京の路上を撮影した写真と比べると、その印象も間違っていないということになるのかもしれない。

 肉眼で、両目で見る。そして、その場にいるということで得られる五感が受けとめる情報量の多さは、写真よりも圧倒的に多い。写真に写っているものはごくわずかな情報だが、それだけに、想像力を駆使して読み解く甲斐がある。ましてや、今回のツアーのようにガラス越しに見ることしかかなわない街の姿を検討するうえで、写真が持つ力は大きい。
 その場で感じてはいることは確かなことだとしても、間違っていることもある。あるいは、感じたことの理由がわからないまま、時は流れる。写真はその時間をせき止め、流れていったものの細部を検討することができるツールだと言えるだろう。
百葉箱 Screen #06
小松 浩子 (写真家)
ダックスフント(独: Dachshund)はアナグマを表すダックスと猟犬を表すフントの2単語を合わせた呼称を持つドイツ原産の犬種であり主にアナグマ猟に用いられてきた。当犬種の最も顕著な特徴は胴長短足の体型であり気性は友好的で穏やかとされる。ダックスフントは大きさによりスタンダード・ミニチュア・カニンヘンの3種に分かれる。スタンダード・ダックスフントは地面から頭の上までの高さが約60cmであり、平均的な5歳児の身長である約110cmの人間が屈むとほぼ目の高さが同じになる。祖母はスタンダード・ダックスフントを所有しており夕刻の散歩に連れ立って出かけると、前方からスタンダード・ダックスフントより一回り大きい犬が飼主と共に来て私の顔のすぐ横にある祖母の犬の鼻に鼻先を近づける。穏やかな性格の祖母の犬は尻尾を振り友好を示すが、一回り大きい犬に頸部を咬まれその場に倒れる。祖母の犬の頸部から路肩の排水溝に血が流れ落ちるのを眺めていると祖母も含め数名の大人が集まり犬を引き離して運んで行く。血液重量が体重に占める割合は動物によって異なり、ヒトとイヌは同じく7.7%、ネコ5.5%、ウサギ5.4%、ラット5.0%、ニワトリは10%になるという。スタンダード・ダックスフントの体重は約10kgで1ℓに充たない循環血液量のうち約1/3の損失で死亡するが、それよりも多くの血が流れたように見受けられる。動物の飼主の責任については動物愛護法7条1項に「動物の所有者又は占有者は、命あるものである動物の所有者又は占有者としての責任を十分に自覚して、その動物を適正に飼養し、又は保管することにより、動物の健康及び安全を保持するように努めるとともに、動物が人の生命、身体若しくは財産に害を加え、又は人に迷惑を及ぼすことのないように努めなければならない。」とある。動揺した大人に存在を忘れられたため一人で帰路に就き、祖母の家に帰り着くと動物病院で犬が失血死したと知らされる。犬の咬殺は法律上物損事故として扱われ民法第718条1項の「動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。」を元に1.犬の種類・雌雄・年齢、2.犬の性質・性癖・病気、3.犬の加害前歴、4.占有者に保管の熟練度、加害時の措置態度、5.保管の態様、6.被害者の警戒心・被害誘発の有無から犬の飼主と被害者との間の過失割合が判断されるが、法的措置に訴える事も無く謝罪を持って示談が成立したと聞く。コミュニケーションとは人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達のみならず意志の疎通・心や気持ちの通い合い・互いに理解し合うことではじめて成立するとされる。書店では犬の気持ちがわかる本や犬の言葉を理解する本が多数販売されており、犬は愛玩動物ではなく家族でありコミュニケーションが可能であるという。十数センチの距離の差であったのに私の頸部ではなく祖母の犬の頸部を選んだ理由を聞いてもらえないだろうか。
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
ライダース・ジャケットを着てバイクに跨がったヨハネ黙示録の騎士のような『乱暴者』のマーロン・ブランド。体重が120㎏になってフランシス・ベーコンの絵みたいに輪郭が肉で破裂しそうな晩年のマーロン・ブランド。『ハウンド・ドッグ』を唄っていた80㎏のエルビスが、晩年は“天にまします我らの父よ”と150㎏の体を揺すりながらゴスペルを熱唱する。一人の人間の歴史とは思えない彼らの、この両極端な人生のどこに通時的な同一性を感じるだろうか。
『地獄の黙示録』での川から浮かび上がる巨大な肉塊になったマーロン・ブランドは、マーロン・ブランドの痕跡や片鱗をまったく感じさせない。ほとんど光の当たらない真っ黒な森のなかで、部分的に照明を当てられ、マーロン・ブランドの顔が断片的に浮かび上がる。照明で断片化された彼の顔や肉体から、かつてのマーロン・ブランドを類推することは難しいだろう。その姿はマーロン・ブランドではない別の生き物で、彼の顔や肉体は切断された肉の塊のように、もう元の姿を思い浮かべることができない。彼は自分の体に大量にこびりついた脂肪で自分を消滅させたかったのだろうか。
『ラストタンゴ・イン・パリ』の土砂崩れを起こした肉の山が混ざり合う吐瀉物みたいな性交は、肉体の輪郭が崩壊していくような感じをうける。『ゴッドファーザー』では歯を抜き、口のなかに綿を詰めて自分の顔を歪ませ、しわがれ声で喋ったのはマーロン・ブランド自身による自己の肉体の積極的な変調または瓦解であり、『ラストタンゴ・イン・パリ』で紳士淑女がタンゴを踊る会場で踊りながらズボンを脱ぎ、尻を見せながら踊るその醜悪さは、決して露悪主義で脱いだのではなく、みっともない肉体=尻を曝けだすことで自己を消滅させるために脱いだのだ。“わたしにお尻があるのは恥ずかしい”と『ある指導者の幼年時代』でサルトルが書いたように、肉体の一番恥ずかしい部分の尻を公衆の面前に突出させることで自己を殺す。わたしという自己を、尻をさらけだすという恥辱のまっただなかで抹消しようとする。
洋服をきちんと着こなし、教えられたステップを忠実に守ることで社会から承認される自己のアイデンティティを、マーロン・ブランドは尻を出すことでそんなくだらない承認を反故にしようとする。同定化されようとする自分のイメージを、尻を曝け出すことで破砕させたい。『ゴッドファーザー』に出演することと同時期に『ラストタンゴ・イン・パリ』に出演したのは、『ゴッドファーザー』で同定化されたイメージを『ラスト・タンゴ・イン・パリ』で破砕/切断/分裂したかったのだ。
“ここでは名前を言うな、ただの男と女になるんだ”『ラストタンゴ・イン・パリ』のマーロン・ブランドは名前も社会的立場も捨て、跡形もない匿名の動物になることで、マリア・シュナイダーと肉欲的な性交を試みようとするが、それは肉欲を満たすことを目的とした性交というよりも、性交のための性交を、肉欲のない性交を試みようとしたように感じる。だからそれは動物的な性交というよりも、DNAの壊れた動物が間違った刺激と信号を脳に与えられて狂ったように懸命に性交しているようにみえる。彼は性交を恥辱だと思っているのだろうか。その恥辱で自己のアイデンティティを破壊しようとしているのだろうか。
マーロン・ブランドはアイデンティティや尊厳なんて欲しくなかったのだ。でなければなぜ『ゴッドファーザー』で名声を獲得した人間が同時期に、“あの映画に出演したことで、その後の人生がすべて狂った”と主演女優のマリア・シュナイダーに言われるような映画に出なければならなかったのか。マリア・シュナイダーに、アナルに指を入れるように懇願するマーロン・ブランドの姿は、『ゴッドファーザー』で獲得した尊厳を破壊するのに充分なインパクトがあった。アナルに指を入れられることでマーロン・ブランドは、今までのマーロン・ブランドを跡形もなく粉砕したのだ。
『地獄の黙示録』での、太りすぎてなにもできないマーロン・ブランドは、太ること、大量の脂肪に囲まれることで自分と脂肪を等価なもの、マーロン・ブランド=脂肪として、最終的には自分の脂肪のなかに融解していくことを選択するだろう。マーロン・ブランドは甲殻類の節足動物ではなく、全身脂肪の養殖マグロになるのだ。彼がダイエットに取り組んだり、運動を試みたり、生活を節制したりしないのは、そんなことを試みたら骨格を強化して甲殻類的な人間になってしまうからだ。マーロン・ブランドはこの世になにも残したくないために脂肪まみれになった。脂肪はなにも残さない。脂肪はわたしの存在証明を強制的に取り消すだろう。強化された骨格はわたしの存在を死後も証明してしまうなら、全身脂肪の養殖マグロは燃えたらなにもなくなる。骨格はその人の痕跡であり証拠であり、養殖マグロにはこの世に残すなにものも存在しない。燃えたあとで最後まで残る物質が骨ならば、脂肪はなにも残さない。脂肪に痕跡は存在しない。
脂肪のつきすぎで首と顎の区別がつかなくなるように、脂肪は内蔵と脂肪の区別がつかない養殖マグロにマーロン・ブランドを転化させる。カフカの『変身』のグレーゴル・ザムザが節足動物に転化するなら、マーロン・ブランドは燃えてなくなる全身脂肪の養殖マグロを選択するだろう。なにも残さない、痕跡もなにもみんな残したくないための不摂生(アルコール依存症の人間は火葬場で遺体を燃やすと骨もみんな燃えてなにも残らない。不摂生を積極的に続けている人間は消滅の願望に憧れているのだろうか)。膨らみ脂肪で膨張しつづけるマーロン・ブランドの肉体のなかにマーロン・ブランドは過去のマーロン・ブランドの時間を廃棄する。彼は路傍のただの肉塊になることも辞さないだろう。みにくい脂肪の海のなかに、彼はあの美しかった固有名を捨てたのだ。
『地獄の黙示録』のなかでマーロン・ブランドは、マーロン・ブランドの痕跡を廃棄したのだ。彼は痕跡のないマーロン・ブランドをわたし達に送ってきた。なにもないマーロン・ブランド、固有名を無くしたたんなる肉のマーロン・ブランド、からっぽのマーロン・ブランド、マーロン・ブランドでないマーロン・ブランドが『地獄の黙示録』のジャングルの中から現れる。ベトナムのジャングルの奥で彼が王様になった。本国に何の連絡もしなかったのは、なにも連絡しないことで、なにもないこと、何者でもないことを連絡していたのだ。マーロン・ブランドでなくなった者が、マーロン・ブランドの“なに”について語れるのか。マーロン・ブランドはなにも連絡しない。マーロン・ブランドはなにも送ってこない。なにも送ってこなければ、送ってこないという事態も把握できないから、正確にはなにも送ってこないということをマーロン・ブランドが送ってきた。『地獄の黙示録』のカーツ大佐が示すものは、なにもないマーロン・ブランド。なにもないという消滅を具体化したマーロン・ブランドが現れる。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「ある時ある瞬間、そこに自分が存在したという感覚。記憶をたどって、どんな言葉や音楽を使ったとしてもそれを表すことはできない。」
映画”ラスベガスをやっつけろ”より

原作者のハンター・S・トンプソンはこのようにコミュニケーションの限界について言及しています。
写真も役割の一つに感覚や理解の共有(コミニュケーション)がありますが、ストーリーを伴う文章とは異なり、写真は指標性を伴いつつも指示性からは開放されているために単独では理解を提供することは出来ず、常に説明的補足を必要とします。それは多くの場合は言語的補足であり、言語とイメージは相互に干渉しつつそのどちらも優位性を主張することは出来ない様に思われます。
我々が目指しているものは規定されている意味の伝達や状況の説明ではない以上、私はこのある種の不完全性を利用し、それを操作することによって自身が見せたい世界を形作っていく作業をしている様に思います。写っている以上確かであると思われたものは常にフレーミングによって操作された構築されたイメージであり、現実に対しては何も担保していないということは、現実にある前提から自由であるということです。意味を解体し、コミュニケーションを放棄し、不完全なもの・不定形なものを積み重ねていくことによって自身の中に潜在的にある言語化され得ないイメージを顕在化し、それが現実に対し作用した時に初めて写真の優位性への道筋が切り開かれるように思います。
(参考文献:ジーン・フィッシャー著 〜マックイーンと危うい生のイメージとの対話〜)
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