The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 11月号  毎月20日更新

–目次–
百葉箱 Screen #08   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
百葉箱 Screen #08
小松 浩子 (写真家)
サルモネラとは、グラム陰性通性嫌気性桿菌の腸内細菌科の一属に属する細菌のことでヒトや動物の消化管に生息する腸内細菌の一種であり、その一部はヒトや動物に感染して病原性を示す。1~2日間断餌・断水させた鶏にサルモネラを実験的に感染させると感染率が高まり排菌する量の増加と期間の延長が確認されている。鶏に断食は厳禁であり鶏の摂食には水が不可欠で常に必要量の餌と充分な飲み水を準備しておく必要がある為、担任教師により飼育動物の世話を命じられた児童は夏期休暇中も毎日欠かす事無く登校する事になる。鶏の品種であるチャボは江戸時代に輸入されたベトナム産の小型品種を改良して作出され日本の天然記念物に指定されている。「矮鶏」という漢字表記から見て取れるように他の品種に比べて小型で標準的な体重はオス730gメス610g程度であり足が非常に短く直立した尾羽を持ち性格は穏やかとされる。チャボの卵は鶏の卵より一回り小さく世話係の児童に持ち帰る権利がある。加熱しない食品を苦手とする為、新鮮で生食が可能なチャボの卵は家族が「たまごかけごはん」で食し、通常の鶏卵より味が濃厚で美味との感想をもらう。食品衛生の観点から卵の生食はサルモネラによる食中毒の可能性を考慮すべきであり、汚染経路として卵殻を通って菌が外部から侵入する「オンエッグ」と卵細胞そのものが菌で汚染されることで生じる「インエッグ」とがある。日本では販売する鶏卵に対しサルモネラ検査を実施している団体も一部あるが菌陰性か否かの表示は無い。アレルギーとは免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こることを指し、先進国で患者が急増しているがアレルギーが起こる原因は解明されていない。アレルギーを引き起こす環境由来抗原を特にアレルゲンと呼び、厚生労働科学研究事業「食物アレルギーの発症要因の解明および耐性化に関する研究」によると、全年齢において鶏卵・牛乳・小麦が3大アレルゲンとされる。鶏卵1個には約250mgのコレステロールが含まれているが、世界保健機関による生活習慣病予防に関する報告書では1日のコレステロールの摂取目標を300mg未満とし、高年齢などで心血管疾患の危険があるグループは習慣的な鶏卵の摂取は避けるべきとされる。鶏卵を1日1個摂取する場合、週に1個未満のものと比較すると糖尿病のリスクが2倍以上になるとの報告もある。肉・乳・卵等を摂取しない事を選択する生活を始めて食品購入時に必ず原材料名の表示を確認するようになると原材料に卵を含む食品の多さに驚かされる。古くから「卵は1日1個まで」と言われている事は知ってはいるが、知らずに多量の鶏卵を摂取している事になる。鶏卵の大量消費には安定供給が不可欠である。過密な群飼により嘴で突つき合い傷つく鶏が出るのを避ける為、日本の採卵養鶏の80%において嘴の切断が無麻酔で実施されている。また、95%において卵を衛生的かつ集約的に生産できるようバタリーケージと呼ばれるワイヤーでできた縦24cm×横53cm×高さ41xmサイズの飼育容器に鶏を2羽ずつ入れ何列かに並べた上に何段かに重ねて飼育する方式が採用されている。鶏は150日齢頃から産卵を開始し約1年が経過すると休産期に入る鶏が出てくる為、日本の採卵養鶏場の50%で強制換羽が行われる。強制換羽とは鶏の飼育上厳禁とされる絶食により鶏を飢餓状態に置き強制的に新しい羽に抜け変わらせることを指し、生き残った鶏は再度卵を生める状態に戻るという。自然な飼育下での鶏の寿命は約10年と言われているが、採卵養鶏の飼育下では殆どの鶏が約1年半で、強制換羽で生き残った鶏もその8ヶ月後に生産性の低下から殺される。鶏卵の過剰摂取により多くの鶏とヒトの寿命が短縮を強いられているが、飼育小屋のチャボ達は天寿を全うしたと聞く。
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
言いたいことや書きたいことが、頭にきちんと浮かんでから言葉を使用するべきなのだろうか。浮かんだ思考やイメージが頭の中で瞬時に日本語に翻訳され、その翻訳されたイメージを喋るという考え方が世の中で常識的に思われている事実は、言葉はつねにイメージを再現するための手段であり、言葉よりも先に言いたいことやイメージが存在しているという思い込みなのだろう。けれど言いたいことやイメージが言葉よりも先行しているのではなく、言葉の方が言いたいことやイメージよりも先行しているのではないだろうか。わたし達の思考やイメージは言葉によって規定された結果であり、それは言葉というシステムによって思考され、イメージさせられているのではないだろうか。
わたしの言いたいことと、思っていることは言葉によって規定された結果であり、言葉に先行して、わたしに言いたいことや思っていることが先天的に存在しているわけではない。わたし特有の思考や独自のイメージがあると世の中で思われているのは、わたし達が日本語という誰がつくったか不明のシステムを生まれたときから無意識に受け入れ、疑いもなく自明なこととして了解させられていた結果なのだ。日本語で思考する、喋っているすべての人間は日本語を積極的に選択して考えたり、喋ったりしているのではなく、主体的な選択以前の無意識的なレベルで日本語という言葉のシステムを刷り込まれ、浸食された結果なのだ。日本語を主体的に使用して考えたり、喋ったりしているのではなく、わたし達は日本語というシステムによって考えさせられ、喋らされている。そういった言語システムに束縛されたわたし達の思考に、何か言いたいとか、書きたいとか、考えているという主体的な選択がはたして可能なのだろうか。言葉をわたしという確立された主体の手段としてコントロールすることは本当に可能なのだろうか。言葉よりも先にわたしという主体を確立できるのだろうか。
マーケットでの交換過程を通過し、交換されるという事後的な売買の結果によって、ものが商品として初めて価値付けされるように、言語システムの学習過程を通ることによって、言葉の後から主体は形成される。交換過程の必要に応じて、ものは価値のある商品として振る舞うよう要請されるように、主体の確立は言語システムがシステムの必要に応じて、人間に主体の確立を要求する。先天的に価値や主体が存在していたわけではない。商品価値が相対的であるように、主体もまた相対的だ。喋る、書く、考える、選択するという主体の確立が要請されるその行為は、その主体を成立させたのは日本語というシステムとしての言葉なのであり、何かを喋り、書き、考えるわたしという主体の前に、手段だと思われていた言葉が先行的に存在している。価値がマーケットでの交換過程というシステムによって決定されるように、わたしという主体は言葉のシステムの結果でしかないだろう。システムと全体。それがわたしなのだ。先天的に存在するわたしはいない。システムと全体の結果によってわたしは存在させられる。
“思い出は 標準語でよみがえる”と三上寛が唄ったように、わたし達は標準語という言語のシステムによって過去を想起するだろう。個々の人間の過去や思い出は、言葉のシステムによって操作されている。言葉というシステムを通過しなければ記憶というのは成立しないのだ。記憶とは主体が意識的に選択した結果覚えていたものではなく、標準語というシステムによって風景や人物を認識し、そのシステムによって記憶を構成していたことが、映画『略称連続射殺魔』で証明される。ニュートラルで自然な風景はもはやどこにも存在しないし、純粋に風景を見ることもできない。わたし達の前には、日本語というシステムの言葉に浸食され、汚染された風景しか存在しないのだ。
わたし達にとって革命を語る言葉は、だからつねにブルジョアの言葉でしかない。プロレタリアートの革命が国家の消滅、階級の消滅、民族の消滅という、消滅がキーポイントとして語られるのは、記憶とはブルジョアのものであり、記憶の反革命的なシステムに対抗するためにプロレタリアートは、国家、階級、民族という人類史の巨大な記憶に消滅、棄却、忘却を対峙させるだろう。 『略称連続射殺魔』で撮影された僻地のような青森の駅前の下品で野暮ったい看板がノスタルジアを想起させる。50年代の東京もこの青森のように似たような風景だったのが、わずか10年ぐらいの時間で東京は東北をノスタルジアの対象に変化させた。重点的かつ急激に進められた環太平洋側の産業近代化のスピードが、青森に代表される東北や、日本海側の裏日本を時間的に遠く離れた向こう側のように、まるで昔話に出てきそうな風景に感じさせる。環太平洋を中心とする都市や工業団地の重点的な近代化政策が各地域の不均衡な発展を呼び起こし、都市と農村の非対称的な関係とその固着化が促進される(東北や裏日本は生産の主体ではなく、安価に労働力を雇用できる植民地的プールとして、労働力を供給する生産の側からの客体的な存在として規定される。一度定着したその関係は多分永遠に崩れることがないだろう)。都市と農村の決定的に乗り越えることのできない時間的距離が決定され、その結果永遠に遅れること、追いつかないことを制定された農村や過疎地の遅滞化にわたし達はノスタルジアとエキゾチズムという価値を発見するだろう。
価値とは対等で等価的な関係からは発生しない。価値の発生する場所はつねに不均衡で非対称的な格差の中から生まれるのだ。『略称連続射殺魔』が物語を廃棄した理由は、映画において物語とはまだそこにはない未来を想像させ、不在の未来と現在のショットの非対称的で不均衡な比較から、どきどきさせ、はらはらさせ、ときには泣き、笑うといういわゆる面白いという価値を産出するシステムであり、価値を産出するためにはその不均衡で非対称的な関係を永久に同定化しなくてはならないから廃棄するのだ。物語はショット毎に価値を不断に産出するシステムであり、未来のショットCを劇的に価値づけるために、ショットAやショットBとショットCとの関係は不均衡な関係に置かれる。不在のショットCの価値を高めるための小道具としてショットAやショットBが使用される。それはショットCの中心化に対して、ショットAやショットBの中心が剥奪される非中心的な階層化の促進であり、ショットAやショットBとショットCの間には非対称的な関係を永遠に強要される。『略称連続射殺魔』が“連続した自動的な世界の投射”(スタンリー・カヴェル)という映画の原理に重点を置いたのは、編集なしの一見撮りっぱなしに見えるその方法が物語の剰余価値産出システムと敵対するからだろう。映画において面白いということはブルジョア的な反動であり、『略称連続射殺魔』は永山則夫の気持は結局のところ分からないといういさぎよい無責任で投げやりな態度で、映画についてまわる面白いという価値を、価値を必要とする欲望を、価値そのものを根絶やしにしようとする。カメラは価値の破壊者として現れた。編集が映像を再編成し、比較し、差異化することで価値を生み出そうとするなら、カメラの原理は等価であること、ずるずると何も考えず撮りっぱなしであること、価値を放棄するもの、世界を無価値なジャンクで一杯にするものとして現れる。
価値が格差の中に生まれるなら、格差を可能とする比較そのものを廃棄しなければならない。モンタージュの反動性は各ショットを比較可能なものとして、マーケットでの商品の交換過程のようにショットを交換可能なものとして提示したことであり、『略称連続射殺魔』は実在する連続射殺魔と映画という虚構性の非対称的な関係を、ゴダールの言う“比較不可能なものとを比較する”モンタージュとして提出する。『略称連続射殺魔』は剰余価値を産出することのない、写っているあらゆるものが中心であるという優劣のない均整を肯定するだろう。比較されるもの同士の優劣が価値をつくり出すのなら、物語が廃棄され、主人公のいないこの映画には優位や劣位を判断する基準が放棄されている。物語の廃棄されたこの映画には結末という物語の全体を規定する、先取りされた虚構の未来が存在しない。過去の映像の持続と残響の中で優劣のない画面が永遠に続く『略称連続射殺魔』は、過去と現在という境界線を放棄する。効率のいい経済的な物語の進行を廃棄するということは、時間の操作、時間の所有化、結末に向けて直線的に時間が流れるという時間の虚構化を棄却することであり、『略称連続射殺魔』は時間のブルジョア的所有制度から映像を解放する。
ブルジョアの社会は意識的に時間の格差を導入するだろう。ブルジョア社会において剰余価値は時間の偏差、時間の独占によって生まれるからだ。例えば技術革新という生産手段の近代化は、高い技術水準が生産性の能率を向上させ、同一時間内で生産物の量を増産させることで他社の生産量を凌駕し独占的に利潤を得ることを目指す。技術革新とは他社との時間の偏差を拡大し、時間を独占することであり、時間を能率的に操作できる者だけが剰余価値を独占的に獲得することができる。
植民地貿易という地理的、空間的距離によって利潤を得ていた19世紀の資本主義は、20世紀に入ると今度は時間の格差の中に利潤が生まれることを発見した。流通時間の短縮を目的とした高速道路や鉄道の重点的なインフラ整備が、資本主義社会の大動脈というべき流通網の強化を促進する。鉄道や道路の整備で空間的な距離が近くなればなるほど都市と農村の非対称的な関係は修正不能なまま固着化される。環太平洋側の工業化のスピードが加速すればするほど、安価な労働力の供給場として時間的な停滞を農村は強要されるだろう。空間的な距離の縮小と時間的な距離の拡大によって、資本主義はいたるところに国内植民地を形成する。ノスタルジアとエキゾチシズムはブルジョアによって独占された時間の不均衡な発展の結果によって生まれた文化であり、時間から利潤を得ようとするブルジョアの遠隔操作の結果から生み出された植民地主義のイデオロギーとして機能するのだ。
ブルジョアは時間の不均衡発展をより強固に進めるために、存在しない未来の時間を捏造し、いまここにないものを、いまここに結びつけようとする。貨幣は未来永劫、貨幣が貨幣としての価値を維持し続けるという根拠のない信用を謳うことで貨幣の獲得を煽動し、株式投資は、将来必ず儲かるという誰も見ることも保証することもできない虚構の未来を信用させようとする。商品Xに商品△Xという剰余価値△を付随させるには、時間の操作が要求される。未来には必ず商品Xが値上がりするという不在の非実体的な時間を設定し、不在の場所から現在とのフィクションの距離を捏造することで剰余価値△を追求する株式投資とは未来という時間操作された虚構の時間に投資することだ。ブルジョアは虚構の距離をつくり出す。未来という虚構の一点から見られた現在や過去という距離は、ノスタルジアとエキゾチシズムを呼び込むだろう。それは距離の捏造であり、虚構の時間に立って、いまここにないものを、いまここに結びつける詐術がノスタルジアとエキゾチシズムなのだ。
『略称連続射殺魔』での網走番外地の木造の掘建て小屋の後を走る機関車の姿に郷愁感をおぼえるその視線は、都市に棲息するプチ・ブルジョアのディスカバー・ジャパン的な好奇心とノスタルジアにすでに汚染されている視線だ。その視線は資本主義によって恣意的に強制された植民地化によって利潤を得るブルジョア階級の視点であり、技術革新の進歩を背景にした虚構の未来を信じているプチ・ブルジョアの視点なのだ。技術革新の進歩が虚構の未来を不断に創造し続ける。都市と農村という時間の偏差を一方的に拡げ続ける都市は、目についたあらゆるものをノスタルジアとエキゾチシズムの対象にするだろう。産業革命の近代的な産物であるカメラが『略称連続射殺魔』では、永山則夫が忌み嫌った網走の番外地でさえも美しく撮る。風景を撮影するということは、つねに植民地的意識によって汚染されているのだ。
70年代国鉄(現JR)のディスカバー・ジャパンに代表されるプチ・ブルジョアの遠くを求める空間的な差異の欲望は、どんな僻地や悲惨な場所でも、癒しとノスタルジアとエキゾチックな好奇心を満足させるためのテーマパーク的な風景にと転化させるだろう。彼らはケンタッキー・フライドチキンを食べながら動物虐待について語り、目の前のホームレスを胡散臭い目で見ながら、遠いフィリピンやアフリカあたりの悲惨な光景には涙を流して、募金すら厭わない階級だ。産業の近代化によって遠隔操作された時間と空間がノスタルジアとエキゾチシズムを発明し、その結果彼らは時間的に遠いものしか愛せなくなった。帝国主義によってつくられた時間と空間の中でしか、プチ・ブルジョアは世界についての愛やシンパシーを語れない。悲惨とは遠い異国の出来事であり、目前の悲惨な現実は彼らにとって汚らしいシミのような存在でしかなく、それは倫理の問題ではなく衛生観念の問題に置き換えられる。時間的、空間的操作を施されていない、偏差のない世界を彼らは見ることができないのだ。
彼らは自らの好奇心と癒しの欲望を得るために、僻地や時代遅れのものという遠くの未知を、自分達の了解の範囲内の既知にと内面化するだろう。それはすでに知っているものの繰り返しであり、鏡の中に映っている自分の姿を確認し合っているだけでしかない。リチャード・ヘルが『ブランク・ジェネレーション』で唄っていたように、“鏡に中の俺 いつも退屈”なことを、ブルジョア階級はリッキー・ジェームスの唄う“鏡の中の俺 最高にKooooooool”な存在として愛するのだ。ノスタルジアとエキゾチシズムは操作された結果によって生み出された退屈でうんざりするぐらい平坦な観念でしかないのに、ブルジョアの階級はそれを何故熱烈に欲求するのだろう。彼らはノスタルジアとエキゾチシズムに存在する細部を見るのではなく、そのシステムと全体を愛しているのではないだろうか。ノスタルジアとエキゾチシズムは、時間的、空間的な差異によって利潤を得る資本主義のシステムがつくりだした幻想であり、その美しい幻想はそれをつくりだしたシステムと機能にそっくりだ。システムに細部は存在せず(システムに存在するものは規則だけだ)、美に細部は存在しないように、彼らのノスタルジアとエキゾチズムにも細部は存在しない(ファシズムに細部が存在しないのは、彼らが政治に美を求めているからだ。全体はつねに統御されていなければならないのだから、細部という統御不能なものはノイズとして消去される)。ノスタルジアとエキゾチシズムというのは、見たことのない外部や混沌としての外部を了解可能な遠さに矯正するための学習手段であり、そのために細部を消去し、既知のものとして内面化する。それは結局みんな同じものでしかなく、地名や番地の違う風景が単純に反復されているだけだ。ブルジョア階級のノスタルジアとエキゾチシズムは、資本主義下の「わたし」の存在と同じように、個々の差異を発見する細部は消去され、そこにはシステムと全体しか存在しないだろう。
遠隔操作された時間と空間の距離は世界を内面化する。世界はすでに知っているものばかりを寄せ集めたジャンクの山だ。ポール・モーリア楽団やマーティン・デニーの音楽はブルジョア階級の、細部を消去して何もかも同一化しようとする熱狂的な欲望に対して、細部を追放され同一化された世界の中から新しい細部を発見するための方法としてのノスタルジアとエキゾチシズムを導入するだろう。遠くを近くに、不定形で不気味なものを親密で愛らしいものに感じさせるブルジョアのノスタルジアとエキゾチシズムに対して、ポール・モーリア楽団やマーティン・デニー、デューク・エリントンはそのあからさまに嘘くさいエキゾチシズムによって、それがフィクションであるということをあからさまにし、何もかも既知の中に内面化しようとするノスタルジアとエキゾチシズムのシステムを嘲笑する。デューク・エリントンの『Adlib on nippon』の胡麻臭くいかがわしい、どこの国ともいえない存在しない国としての外国趣味や、鈴木清順の映画『カポネ大いに泣く』の横浜港の映像にサンフランシスコ湾と字幕を入れることで横浜港を外国にしてしまう喜劇的な詐術は、ブルジョアのノスタルジアな思い込みを愚弄する。ノスタルジアが風景を内面化させるブルジョアのシステムなら、喜劇はよく見知っている既知の風景を理解不能の混沌として変質させ外部化するだろう。風景の内面化を拒絶する喜劇。それは遠隔操作によって生み出された距離の心地よさを、乗り越えられない絶対的な距離の拡大、亀裂に転化するのだ。そのためにはジェリー・ルイスの爆笑よりも北野武の『監督ばんざい』のような面白くもなんともない退屈な喜劇を選択するべきだ。
ノスタルジアとエキゾチシズムというのはデューク・エリントンにとってそれは笑いの対象であり、マーティン・デニーやレス・バックスやポール・モーリア楽団、彼ら特有のノスタルジックでエキゾチシズムな音楽が聴こえてくると、何もかも一緒くたの、異常なくらいに平坦なノスタルジア的風景に変質させられる。すべての風景をブルドーザーとローラーで真っ平らに舗装してしまうそれは、やっかいで手のつけられない凶暴な狂気なのだ。スロッピング・グリッスルがベスト盤のジャケットを何故マーティン・デニー風にしたのか。陽気なラウンジ・ミュージックが風景をノスタルジアとエキゾチシズムで舗装し、現実をパズルのような既知の風景の一要素にはめ込もうとする音楽は、結局荒廃した何もない風景と同じような場所に行き着くことを彼らは知っていたのだ。アウシュビッツのドイツ人がモーツアルトを好んだように、既知のジャンクで一杯の近代的な風景にはマーティン・デニーがよく似合う。彼らの音楽ではハワイとアフリカと日本は(美空ひばりの『りんご追分』をマーティン・デニーは演奏している)、ほとんど同じようなものとして演奏されている。あらゆる細部を消去して同一化させようとする欲望は、その後スロッピング・グリッスルの『20・ジャズ・ファンク・アンド・グレイト・ヒッツ』でアフロ・ミュージックと電子音楽を融合させ、ファーストアルバム『セカンド・マニュアル・レポート』でアウシュビッツと小児性愛とノイズとポップスを結合させ、それらの要素が音楽上では同一化されることが可能であることを証明するだろう。細部の消滅と同一化が、新たな細部を呼び込むのだ。彼らはレコードのインナースリーブに、アウシュビッツの焼却所に山積みされた頭蓋骨の写真と幼児が笑っている写真を同時に載せ、“チクロンB”に“ゾンビ”という単語を付け足す。それは生と死の対比というような図式的でヒューマニズムな批判ではなく、対比させることで互いの写真のより細部を発見させ、細部からもう一度全体を見直すための戦略的な方法なのだ。アウシュビッツという社会的文脈にゾンビや子供の笑顔というホラー的小道具を導入することで、アウシュビッツの細部をホラーの文脈がもう一度毛羽立たせるだろう。
細部が消去され、あらゆる異邦人を昔からの友人のように仕立てるマーティン・デニー達の音楽は、世界をチュートン民族化するというナチズムの偏執狂的な欲望とそっくりだ。世界を同一化しようとする欲望が、世界を断片、分裂化したいという正反対の欲望を無意識の場所から浮上させる。リズムボックスがたたき出すクラフトワークの正確無比なリズムが奇妙に揺れ始め、コンピューターの起動音で始まるスロッピング・グリッスルの『I.B.M』のミニマルな機械音の反復が、同じでありながらまったく違う音に聴こえてくるように、マーティン・デニーやポール・モーリア楽団の似たようなアレンジと、薄っぺらなシンセサイザーが奏でるようなストリングやビヴラフォンの舗装された道路のような平坦な音色が、同一化された彼らの音楽の最深部からクラフトワークやスロッピング・グリッスルの無意識の黒い細部が吹き上がってくる。
マーティン・デニーの漂白されたハワイを題材にした音楽は、ケネス・アンガーの『ルシファー・ライジング』のトップ・シーンの不穏なマウイ島の火山の爆発のBGMに適切だろうし、『地獄の黙示録』で使用されたドアーズの『The End』よりもレス・バクスターのアフリカをイメージした音楽の方がより似合っていただろう。ベトナムのジャングルをナパーム弾で焼き尽くすシーンやカーツ大佐の波乗りのシーンに似合うのは、ドアーズの図式的な黙示録のイメージではなく、能天気なサーフィン・ミュージックや、漂白されすぎて何もないエレベーター・ミュージックや、反動的なエキゾチック・ミュージックの方なのではないだろうか。60年代のヒッピー達から政治的な承認を得たドアーズは、ベトナムという未知を既知にしか転化させない。彼らの『名もなき兵士』という曲での銃殺を想起させる寸劇の導入が、典型的に既知化されたベトナム反戦という政治性なら、ジャン&ディーンの『サーフィン』は、カーツ大佐のサーフィンが誰も見たことのない非現実的で喜劇的なベトナムを創出させたように、ベトナムとカリフォルニアがイコールだという愉快で発狂した現実を表出させるだろう。
ノスダルジアとエキゾチシズムとは、誰もが納得する既知の世界を美しく見せるのではなく、それは誰も見たこともないフィクションの世界であり、内面化することができない不穏な何かを現出させる。遠くのものを近くて安全なグレーゾーンに置き換える変換装置としてのノスダルジアとエキゾチシズムを、フランク・ザッパ達はその装置の使用法を意識的に間違って使用するようになるだろう。変換は安全に変換されず、距離の測定器は間違った距離を差し示す。ノスダルジアとエキゾチシズムというブルジョアの変換装置が、正しく機能できなくなったことは、すでにマーティン・デニー達が証明しているように、ブルジョアの暴力的な距離の変換装置だったノスダルジアとエキゾチシズムが、フランク・ザッパの『ルービン&ジェンツ』での50 年代ドゥワップとストラヴィンスキーとサイケデリックが距離なしで出会うことが可能だという音楽的な事実を前にして、ノスダルジアとエキゾチシズムは距離の測定を無効化する装置として60年代以降わたし達の前に現れる。マーティン・デニーの『エキゾチック』をBGMにナパームで燃え尽くすベトナムのジャングルや、ジャン&ディーンの『サーフィン』で波乗りするカーツ大佐を見て、そんな喜劇を一体誰が内面化したいと思うだろうか。 風景とは対象を内面化させる変換装置が暴力的に機能した結果生まれたものだ。世界のあらゆる風景には、原初的蓄積としての暴力が刷り込まれている(時間の不均衡とは、原初的蓄積という資本主義の最初の暴力が行使された結果であり、例えばアメリカにおけるネイティブ・アメリカンと白人の不均衡で非対称的な関係は白人によるネイティブ・アメリカンの虐殺と収奪という資本主義の原始的蓄積によって構築されたものであり、暴力による収奪が富と時間の不均衡を構成する。ノスダルジアとエキゾチシズムとは資本主義の原初的蓄積を隠蔽するための反動的な文化なのだ)。風景のすべてを我がものにしようとするノスダルジアとエキゾチシズムに対して、デューク・エリントンは白人がイメージする風景化された黒人を喜劇的に演じるだろう。白人がイメージするアフリカ、メキシコ、プエルトリコと何でもリクエストに応えるデューク・エリントンは、あなた達支配階級の白人が思う外国というのはこんなものでしょうという侮蔑的な態度とは裏腹の、『女王陛下のニューオリンズ組曲』のような極めて音楽性の高い曲を創造する。デューク・エリントンには、知らない世界と情感的に一体化したいという偽善は放棄されているのだ。彼にとってノスダルジアとエキゾチシズムは暴力で断片化、破砕化された世界であり、郷愁感漂う夢の世界ではない。
戦前の日本の軍国主義によって植民地化されていた韓国人が、戦後ふっと故郷の韓国を思い出したとき、その思い出と共に日本の民謡、“兎追いし かの山”が頭の中で無意識に流れてきたことにぞっとしたという告白があった。記憶というのはつねに暴力的に操作されている。日本の80年代を青春として過ごした人間には、その30年後にブロンディの『恋の平行線』やマイケル・ジャクソンのMTVが過去の回想と共に無意識に浮かび上がってくるという、ブルジョアの文化によって捏造された、楽しくもないことを楽しいと思わせられた思い出に対して、韓国人のようにぞっとするのだろうか。薄いベースラインにきらきらしたストリングに、ギターの軽い16ビートのカッティング。ジェームス・ブラウンやファンカデリックのジョージ・クリントンに対して、ライオネル・リッチーやシックのナイル・ロジャースのにやにやした笑顔が取って代わる。ライオネル・リッチーやシックの『おしゃれフリーク』、アラベスクの『恋のハッピー・デート』に支配された思い出は、ハッピーで心躍る思い出のBGMとして機能するのか、それともうんざりするほど恥ずかしい思い出として機能するのだろうか。
その記憶は独占資本の暴力的な刷り込みの結果であり、その結果が記憶の全体を支配する過去としてわたし達のアイデンティティの基礎的な土台として機能し続けている。ベケットの言うように過去とはつねに災難であり、災難としての過去をつくりだすのが言葉なのだ。言葉の文法操作によって過去はつくり出される。プルーストの『失われた時を求めて』のように、過去を回想することは言葉による災難の検証であり、その執拗な検証がさらに災難を現在に呼び込むだろう。言葉は基本的に災難としてしか存在できないのであり、言葉によって形成されている記憶は災難以外の何者でもない。資本の原初的蓄積に似た言語の学習は、その学習自体が災難であり、わたし達にとって記憶とは災難の蓄積でしかないのだ。ベケットの言うように、一日生きることで、さらに一日分の災難を背負う。言語のシステムは災難と災いと不幸を呼び込む構造であり、そのシステムはぬるま湯につかったような幼少時代の幸福な一体感を切り裂き、わたし達を孤立した存在に変質させる。母親との一体感のなかで全能感たっぷりの生活をおくっていた幼児が、その幸福な関係を言葉によって切り裂かれることで初めて喪失の感覚を教えられる。鏡像段階において“ある”という経験しかしていなかった幼児は過去形の“あった”という言葉を教えられることで、欠如の感覚を発見するのだ。災難と災いと不幸は言語のシステムによって呼び込まれる。言葉は絶対的な他者として現れ、人格も感情も言葉によって形成される。絶対的な他者としての言語システム。それが根源的な災難なのだ。
カーペンターズの大ヒット曲『イエスタディ・ワンスモア』が収録された『ナウ&ゼン』のレコード・ジャケットの、どこにでもありそうなアメリカ郊外の中産階級的な町並みの路上に停まった車の中のカーペンターズの二人の顔が不自然な影で真っ黒に消えている。カーペンターズにとってオールディーズは楽しかった思い出の音楽ではなく、災難であり災いを及ぼす音楽でしかなかった。彼らにとって昨日が存在していたことが不幸なのだ。“あった”という過去形のシステムが、昨日を戻ることのできない喪失の日々に変える。もう一度昨日を、と唄う彼らにとっての昨日は、今現在をさらに不幸な光景に見せるための昨日であって、彼らは昨日という夢の世界に戻りたいのではなく、取り返しのつかない過去の中で生きていることを唄う。彼らの唄う『世界の果てまで連れてって』は、世界の果てとは煉獄でしかなく、それはオールディーズの煉獄、オールディーズしかない煉獄、すべてをオールディーズにしてしまう煉獄が世界の果てなのだ。過去についていつまでも懐かしむオールディーズは、現在をつねに郷愁の対象に更新する音楽であり、オールディーズにとっての現在は、ノスダルジアとエキゾチシズムに汚染され、支配されている逃げ場のない現在なのだ。レコードで最後にもう一度リピートされる『イエスタディ・ワンスモア』。もう一度昨日を、もう一度昨日をとつぶやき続けながらフェイドアウトされる『イエスタディ・ワンスモア』は、幸せな過去を呼び戻そうとしているのではなく、何度も、何度も災難を呼び戻すために、不幸で災いの過去を現在に降臨させるために永遠につぶやき反復される。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「お前は自己発見のために撃つ。俺は自己喪失のためだ」
映画”エル・トポ”より

台詞はこの後「自己を失ってこそ完璧だ」「完璧すぎるのも欠点だ」と続きます。写真を撮る行為は自己発見と自己喪失を同時に目指すものであり、自己が放棄された後に浮かび上がってくる普遍的なものを目指しながらも、その行為の中で作家自身の個に根ざした独自のものが滲み出し、それを積極的に受け入れることによって自己更新を繰り返していく作業だと思います。思考と行為は常にダブルバインドのような関係にあり、意識の上では匿名性や普遍性を指向しつつも作家自身の身体性や欲求、更には高揚感や快感などの抗いがたい固有の要素を完全に排除することは不可能であり、定形を想定して撮影していてもそれに近づくにつれて歪んだ形に変形し、完全な普遍性を求めれば求めるほど独自の性質が浮かび上がってくるのではないかと思います。我々が指向する完璧とは不定形な完璧であり、理想型としての”完璧なもの”には近づき過ぎないよう注意深く距離をとる必要があります。なぜならその”完璧なもの”の正体は作家の個とは無関係な通俗的な美意識に過ぎないかもしれないからです。 映画の冒頭の*「*モグラは穴を掘って太陽を探している。ときに地上へたどり着くが太陽を見た途端、眼は光を失う」にあるように、我々の活動は執拗に写真行為を繰り返しながらも目指す先には喪失があり、発見と喪失がただ無為に繰り返されるだけなのかもしれません。
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