The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2014年 12月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #09   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
終わった、終わりだ、もう終わった、終わろうとしていると、ひたすら終わりを連呼する、ベケットの『勝負の終わり』は、終わりがいつまでも終わらず、曖昧なままいつまでも“もう終わった”を反復し続ける。終わりがいつまでも宙づりにされる、盲目の死ぬ寸前の病人ハムと介護人クロヴの勝負は、終わるというゴールが宙づりにされていることで、勝敗の基準が不明確で曖昧なまま決着をつけることができない。彼らは終わりを積極的に求めるのでも、諦めて受動的な立場で終わりを待っているのでもなく、終わることを永遠に引き延ばそうとしているのだ。クロヴが盲目のハムを殺さないのも、殺してしまうと倉庫の鍵番号が分からなくなるからという現実的かつ不真面目な理由であり、肉体が欲求する本能的欲望に命じられてクロヴは、ハムとの袋小路的な関係の中に積極的に閉じこもる。ハムが死ぬ事でしか逃れられない『勝負の終わり』のシステムは、終わりというゴールに向かって進んで行く勝敗のシステムそのものを脱臼化させるだろう。終わることを永遠に引き延ばすハムの、退屈な会話をクロヴといつまでも続けているその姿は、集中治療室のベッドでもう手の施しようもなく、終わる直前の生を持て余しながら、時間潰しのためにテレビを見続けその時が来るのを待っている末期の患者にそっくりだ。
終わる直前で終わることをいつまでも引き延ばす『勝負の終わり』の戦略は、勝負の帰結を早期決戦的に求める帝国主義者の決戦と終わりの欲望を止揚し、永久に敵の出血を強要する毛沢東の持久戦略論に近いのではないだろうか。毛沢東の持久戦略論の要諦は、ブルジョアの階級が設定した戦争の勝敗システムを無効にすることであり、つねに決戦を回避して、勝敗の決定を先延ばしにし、相手が押せば引き、相手が引けば押すというその出血を持続的に強要する決着の永久の宙づり化は、終わると叫びながら終わらない盲目の病人ハムの態度によく似ている。
早急な勝利を求めない毛沢東の戦略は、決戦という誰が見てもよく分かる勝敗基準のシステムを放棄することであり、勝負の終わり、勝負のシステムそのものを放棄する戦略だ。“原子力爆弾は帝国主義の張り子の虎だ”と豪語した毛沢東は原子力爆弾によって一撃で、相手の政治的、軍事的、経済的中枢部を壊滅させるというアメリカ帝国主義の決戦主義、殲滅主義に対して、首都という政治的中枢部の設定をあえて破棄し、中心を分散し続けることで、原子力爆弾の投下による中枢部の壊滅という帝国主義者の決戦強要を挫折させるだろう。アメリカは中国の何処に原子力爆弾を落とすのだと嘲笑うように、毛沢東は語った。人口が分散された中国で中枢部の原子力爆弾による殲滅が可能なのだろうか。相手の政治的中枢部の壊滅による勝利の獲得という分かり易い勝利の図式によって、一気に勝負の終わりを手に入れようとするアメリカ帝国主義に対して、毛沢東の持久戦略論は『勝負の終わり』のハムのように、帝国主義者の求める早急な終わりを無効にする。それは終わりの永遠の引き延ばしであり、終わることを終わらせない。終わることによって完結する勝負の結末はいつまでも引き延ばされ、宙づりにされた帝国主義者の軍隊は、永遠に戦争状態を強いられるだろう(赤軍派の70年安保闘争に向けた秋期決戦、蜂起貫徹戦争勝利というスローガンに代表される決戦主義は、決戦のタイムスケジュールを準備し、ブルジョワ階級に対して公然化する。ブルジョワの階級に何故、決戦の日程をわざわざ教えなくてはならなかったのだろう。ブルジョワの仕掛ける佐藤訪米、安保改定という政治的決戦に対して、プロレタリアート側が何故それを公然とスケジュール化して、ブルジョワの側に見える形で、総力を結集して、決戦で対抗しようとしたのだろうか。一点突破前面展開という社青同解放派のスローガンや、首相官邸占拠、前段階武装蜂起という赤軍派のスローガンを止揚する毛沢東系グループの遊撃的武装蜂起論は、ブルジョワ階級の政治的タイムスケジュールに合わせるのではなく、国家権力の暴力装置に対して予告無しにいつでもどこでも爆弾を破裂させ、銃撃戦を展開する。攻撃目標を象徴的な一点に絞るのではなく、同時多発的に脈絡なく行動を起こすことで、目標を複数化する。それは突破口の一点を探し、そこに向けて力の集中化を図る決戦主義者の戦略ではなく、攻勢地点を一点に絞らず、いたる所に攻撃を仕掛けるという、上海事変で帝国陸軍が発明した浸透戦術論に近いだろう)。決戦という中心の一点を無限に分割化することが毛沢東の言う遊撃戦争論であり、プロレタリアートの戦争は、中心=決戦の設定を放棄するだろう。プロレタリアートにとっての中心は一つではなく、すべてが中心であり、中心は細部化され、いたるところの細部に中心が宿るのだ。
中心と同一を要求するブルジョワの資本主義に対して、インターナショナルな存在である共産主義者は、中心と、設定されたその中心から派生する遠近法的な階層を廃棄する存在であり、“第二、第三の無数のベトナムを”という60年代のスローガンに表われているように、ベトナムを一つのベトナムとしてそこで限定的に戦争を遂行するのではなく、同時多発的に世界中に戦争を仕掛けることで、ベトナム戦争を分割細分化させ、全世界に浸透させる。帝国主義とプロレタリアートの決戦点としてベトナム戦争が中心化されるのではなく、帝国主義者の決戦要求に対して、プロレタリアートは無数のベトナム戦争で応えるだろう。
高度に発達した資本主義から社会主義への移行という、下部構造の経済法則に貫かれる歴史の鉄の必然性から導かれた先進国革命論は、第三世界や農民階級よりも先進国労働者階級の革命の先行と優先を語る。歴史の必然が歴史の中を鉄のような法則で貫くという先進国革命論は、歴史を法則の枠内に同一化する論理であり、歴史的進歩の最先端=先進国に革命の突破口の主軸を置くその戦略は、主軸=中心の設定と歴史の直線的進化というブルジョワの軍事理論と歴史観の劣悪なコピーでしかないだろう。都市というブルジョワ社会の中心に革命の主軸を設定するその戦略は、強固に防衛された中心部に、革命の突破口を切り開くために無駄な消耗をプロレタリアート側が強いられる、ブルジョワ達の戦略上にのった戦略でしかないのだ。毛沢東の農村から都市の包囲という戦略は、農村という中心の見えない領域にブルジョワ達を引きずり込み、ベルトコンベアのように直線的に流れるフォード・システム的な資本主義の時間を、農村という原生的な闇の時間の中で解体する。都市の中枢部を突破するのではなく、中枢部に浸透して、中枢部を浸食、腐食させる。首都という国家の象徴的存在を設定しなければならないブルジョワに対して、毛沢東達は首都の設定という象徴を最初から必要とせずに、農村のいたる所に分散して、自由に首都に対して攻勢をかけられる。
共産主義者にとって中心と同一は唾棄されるべき資本主義の残滓でしかないだろう。資本主義における中心は空っぽの中心でしかなく、空っぽであるがゆえにその空虚な孔に人々の欲望が写し出される。“欲望が欲望に欲望する”資本主義にとって、欲望が達成されない状態こそが欲望のピークであり、彼らは何かに欲望しているのではなく、欲望のための欲望という何も無い、空っぽの欲望に欲望しているのだ。実体のない欲望が、実体が無い故に人々を欲望させる。資本主義が必要とする中心は、王制社会のような肉体を持った実体的な裏付けとしての中心ではなく、空虚で空っぽな中心なのだ。空虚が中心を支配することで欲望が創出され、何も無い対象に欲望が意味も無く高揚するだろう。彼らは何かが欲しいのでもなければ、必要なものが欲しいのでもなく、何も無いものが欲しいのだ。
南極で冷蔵庫を売るのが資本主義の本質であり、それは必要な物を売るのではなく、不必要で意味の無い物、空っぽの物を売ることで、空虚で無意味な物を売るためには、空虚な中心が要求されるだろう。彼らは冷蔵庫の使用価値に対して貨幣を払うのではなく、冷蔵庫を持っているわたしという、人と違う差異を演出するために冷蔵庫を購入するのであり、冷蔵庫を持っている自分という、特別な価値を有していることを証明するために冷蔵庫を購入する。資本主義社会において自己の価値は他者によって表明されるのであり、わたしの価値を表明してくれるのが冷蔵庫なのだ。冷蔵庫によって価値を表明されるわたしは先天的にまったくの無価値で空っぽな存在であり、価値を表出する冷蔵庫も、使用価値を最初から捨象された無価値で無意味な物だ。非実体的で何も無い空っぽな物達がわたし達の空虚性を裏付ける。価値付けを行うものも、価値付けされるものも両者にまったく価値が存在しない。資本主義社会では、空虚がわたし達を支配する。
貨幣はそれ自体価値を持たない。実体的価値を持たない貨幣があらゆる商品の中心となり、マーケットに存在するすべてのものに対して、貨幣の下での徹底した同一と平等を要求する。何も無い、幽霊のように実体の無い者が中心に存在し、同一と平等を設定する資本主義の機能に対して、“原子力爆弾は張り子の虎だ”と語る毛沢東の中心的、象徴的存在の棄却を意図する戦略は、中心の無効、消滅ではなく、いたる所に中心を無限に生み出すことであり、空虚と幽霊が支配するブルジョワの中心は、原子力爆弾のように張り子の虎にすぎず、毛沢東に嘲笑われるしかないだろう。ブルジョワは張り子の虎に支配され、張り子の虎に価値を決定される無価値で無意味な存在でしかないのだ。
中心の設定が中心と非中心の支配—被支配の関係を生み出す。支配—被支配の関係に廃棄を迫るプロレタリアートにとって、中心は廃棄させるか、中心をひとつではなく無数に創出することが政治的任務として課せられる(階級や民族、国家や国境の存在を止揚することを目指すプロレタリアートにとって、ひとつの中心という概念は廃棄される。あらゆる階層の廃棄を語るプロレタリアートにひとつでしかない中心が廃棄された後に現れる現実は無数の中心であり、同一化できない差異の群れだ)。常に相手の中心を求める帝国主義者の決戦主義に対して、あらゆる場所を中心として創設することで早期決戦、中枢殲滅から持久戦略の消耗戦に引き摺りこむ。無数の中心の存在が、ブルジョワ的同一性を打破するだろう。
無数の中心を設定するというプロレタリアートの任務と、一般的価値形態=貨幣の存在は相容れない。一般的価値形態=貨幣の破棄を目指すのが共産主義者ならば、“全体的なまたは展開された価値形態”(x量の商品A=y量の商品B、またはx量の商品A=z量の商品C、またはx量の商品A=z量の商品D、または‥というような無限の併置)という中心を欠いた限界の無い等価関係を肯定する。共産主義者は無限の等価関係(“全体的なまたは展開された価値形態”)を肯定することで、貨幣という中心を設定し、そこに無限の未来があると語るブルジョワの欺瞞を暴露するのだ。貨幣という中心を設定することで、中心(貨幣)と非中心(商品)の関係を生み出し、その関係は階層化され、支配—被支配の関係として現れる。交換の最初の状態からすでにそれは等価交換ではなく、非等価の搾取のシステムが導入され、貨幣と商品の交換は等価交換ではなく、あらかじめ剰余価値が発生する非対称的関係として設定されている。
貨幣にマーケットでの無限の請求権が保証されるという、その根拠はどこにあるのか。ブルジョワは未来をでっち上げているのであり、未来というのは誰にも見ることも知ることもできない絶対的他者としての存在なのだから、誰も未来を保証することはできない。保証された未来というのは、もうそれは未来ではないのだ。未来を語ることは未規定な未来を肯定することであり、それは不確実で不安定なことの肯定であり、未来に端点を置き、そこを中心化して現在を語ることはできないだろう。未来のどこにも中心を置くことができず、もしも未来に中心という杭を打つなら、それは無限に杭を打ち続けることであり、中心が無限に増殖され、中心は結局、無限の中心の出現によって駆逐される。無限の未来まで保証される貨幣という中心を想定するブルジョワの語り口は、架空の未来を捏造することで現在を支配下に置き、現在から利潤を搾取しようとする。それは未規定な存在を既知の存在に変えるための反動的な変換装置であり、存在しないものが存在するという詐術に、剰余価値を発生させるブルジョワの魔術が隠されている。
日本軍が盧溝橋事件から始めて、上海、南京と渡り歩き、最後の一撃=決戦というエンドマークを相手に強制しようとしながら大陸の泥沼に引きずり込まれたように、持久戦略論は終わりをいつまでも終わらせない、終わりを敵にちらつかせながら出血を強要する終わらない戦略なのだ。重工業が勃発し、近代的な兵器が量産できるようになった昭和初期の日本から見れば、中国は瀕死直前の病人でしかなかっただろう。最後の一撃で全てが終わるだろうという日本側の甘い期待は毛沢東の持久戦略論で打ち砕かれた。彼らは終わりを先延ばしにする。“プロレタリアートは最後に勝てば良い”というレーニンの言葉は、終わりという勝負のシステムを放棄し、世界に対して永久に出血を強要させるための終わりの否定なのだ(1917年のロシア革命で、レーニンは全世界が革命に勝利しなければロシア革命の勝利はないと言った。全世界の共産主義化という、ほとんど無限の時間を必要とするこの戦略は、勝つとか負けるとかの帝国主義の目に見える勝敗システムを放棄し、永遠に出血が強要する新しい戦争論としての永久革命だろう)。ベッドで体中管だらけになりながらも、なかなか息を引き取らない集中治療室の引き延ばされた無限に続くかと思われる終わりに、そんな場所へ毛沢東は日本の帝国主義者を引きずり込んだ。
ブルジョワの資本主義が、楽観的なゾンビのように死ぬことを忘却し、無限の生命と未来を夢見ているなら、プロレタリアートはそのような永遠の生命を放棄するだろう。プロレタリアートは終わりを宙づりにする者であり、ベケットのようにいつまでも終わりを宣告し続け、終わりを持続する。瀕死の状態をキープし続けるのがプロレタリアートの役目なのだ。ブラインド・ウィリー・ジョンソンの『Jesus Make Up My Dying Bed』の“僕が死ぬとき 誰にも悼んだり悲しんだりしてほしくない ひとつだけお願いしたいのは 僕の体を家に連れて帰ってもらうこと そうすれば安らかに死んでいける”、“イエス様ならなんとかやりとげて下さる 僕の死の床をこしらえてくださる”ように瀕死の状態を無限に反復し、永遠にいつまでも死の床づくりに熱中するような宙づりをプロレタリアートはブルース・マンのように肯定する。唄の主人公の彼らは、自分の瀕死の状態を価値付けされること(悼んだり、悲しんだり)に何の興味も持っていない。ただ静かに死にたいだけで、瀕死に意味は存在しない。そこにあるのはイエス様と僕という単純な二人称の関係だけで、イエス様を超越的な存在に見立て、それに対して救済の手を求めているのでもない。イエス様と僕の関係が成り立っているのは、僕が無力な存在であり、その無力さをイエス様が救ってくれるのではなく、僕の存在の無価値さに対してイエス様が単純な等価形態(20エレのリンネルは、上着一着に表示される)のように併置されることで、僕の存在は等価交換が可能な存在であることを証明する(等価形態としてのイエス様と相対的価値形態としての僕の関係は可変的であり、固着されることはない)。イエス様と僕は等価交換を結べるのであり、一般的等価形態のように関係が定着化しない。イエス様と僕の関係は貨幣のような第三項を媒介とした抽象的な関係ではなく、20エレのリンネル=上着一着の関係のように具体的で直接的な関係なのだ。価値形態としてのイエス様は決して一般的等価形態=貨幣として、あらゆる価値を表出する貨幣のようなイエス様ではなく、単純な価値形態としてのイエス様であり、超越的存在ではなく、路傍の石のようにどこにでもあるイエス様が、無力な僕の価値を決定する。相対的なイエス様が決定する僕の価値もまた、可変的でどこにでもある、その場しのぎの無責任な価値でしかない。この単純な価値形態に対して貨幣の出る幕はないだろう。
宗教がこの世で善行をつめば、あの世では天国に行けるという架空の未来を設定することで、この世から利潤を掠め取る。その意味では資本主義と共通するシステムなのだ。あの世を中心にすることで、この世を支配する。あの世とこの世の非対称的な関係は、神という超越的存在を捏造することで、非対称的な関係を支配—被支配の関係に転化しながらもその関係を隠蔽する。あの世のためにこの世があるという支配—被支配の差異体系が生み出す剰余価値を、お布施や寄付、寄進という名目で美学化するだろう。『Jesus Make Up My Dying Bed』のイエス様は、あの世とこの世の非対称的な関係を、利潤を生み出す差異体系として捉えるのではなく、死の床を作るイエス様と、僕の最後の場所のどちらかが中心になるのではなく、ただ非対称的関係として、そこに最期の時まで並行したまま存在する。このどちらかが支配—被支配の関係に陥らない並行関係は、例えばイエス様の価値を証明するのは僕だと言うことも可能なわけで、両者の場所は自由に交換できる。そういう意味でイエス様と僕は等価交換が可能なのだ。僕の死の床という、この世の最後の価値を表出する場所は、剰余価値を生み出す場所(死の床は、あの世とこの世の境界、差異的な場所として利潤を生み出す場所)なのではなく、単純な価値形態(20エレのリンネル=上着一着)のように、僕=イエス様として交換されるだけで、何の利潤も生み出さない。ブラインド・ウィリー・ジョンソンの唄は、だから宗教のように死者から剰余を発生させなければ、瀕死の人間からも剰余を発生させない。瀕死の僕は価値を超越的存在ではなく、二人称の神様に表示されることを願っているのであり、そして貨幣とは二人称的な具体性を持つことができない性格なのだ。貨幣は常に抽象的で超越的な存在だから、貨幣の入る隙間のない単純な価値形態が剰余価値を追放する。
瀕死とは死ぬことで完結しているのでもなく、生者のように誰かに期待され、価値を生み続ける存在でもない。誰からも売れることを期待されていないという烙印を押された存在が瀕死だ。交換は誰かに売り買いされるという根拠のない期待によって成り立つシステムであり、期待される可能性の無い瀕死にマーケットにいる資格はない。終わりを終わりのまま維持し、ただ死にそうにしている瀕死は、資本主義の不老不死のシステムに真っ向から対立するだろう。瀕死は死を物質化する。資本主義は終わることを隠蔽する制度であり、彼らにとって死は、いつまでも続く未来の時間に終わりを公然化させる存在であり、永遠の未来を捏造することで利潤を得るブルジョワ階級にとって、瀕死という死の公然化によって、その利潤を生み出し続ける不老不死というシステムが機能麻痺の状態に追い込まれるだろう。ブルジョワの階級は永遠の生命を求め続ける階級であり、瀕死は永遠の生命を持つ彼らのシステムの、生と死の支配—被支配の関係を暴き出し、永遠の生命を持つことは、人を搾取と被搾取の二極化に固定するという事実を露にするのだ。
瀕死という、死んでいるのか生きているのか境界の曖昧な場所に依って立つ者は何も生み出さない。瀕死という生死の境界の曖昧さは、非対称的な関係を対称的な関係に見せることを強制するブルジョワの資本主義にとって利潤を生み出すための差異が消失している。生と死の非対称的な関係から剰余価値を得ようとするならば、宗教のように生は死という絶対的他者、知ることも見ることもできない他者を抱え込むことが要求される。宗教にとって死は、自己を確立するための重要なアイテムであり、自身の価値を自身で証明できない資本主義社会に生きる人間は、死を相対化し、死を飼い馴らす、制御可能な死によって自己の価値を証明するシステムとしての宗教を必要とするだろう。あの世を実体化する宗教は、実体化したことで、この世とあの世の非対称的関係を対称的関係に捏造し、実定化したことで生と死の等価関係を結ぶことができる。わたしの生の存在証明は、死という他者によって証明される。わたしは飼い馴らされた死という相対的他者に支えられることでしか、自己のアイデンティティを証明できないのだ。生は生自身だけで価値を表出することができない。ブルジョワの社会におけるわたしの生は、死という絶対的な他者との非対称的関係を対象的な関係のように取り込み、既知化し、対称的な等価関係=交換過程に取り繕うことで、生がひとつの価値として存在できることを証明するだろう。
ブルジョワは生と死を等価の関係に持ち込むことで、生と死が交換可能なことによって剰余価値を派生させる。だから瀕死という存在に対しては、集中治療室という誰にも見えない場所に隔離されるのだ。瀕死は死の絶対的他者性の公然化であり、瀕死という状況は生と死の非対称的関係を非対称的関係として露にし、生と死の領域を確定させない。革命家が“休暇中の死者”なら、プロレタリアートはまだ死んではない死者になる直前の苦悶に喘いでいる者であり、プロレタリアートの戦略とは、集中治療室の引き延ばされた時間を肯定することであり、死を可視化し、前景化するための瀕死の戦略なのだ。ブルジョワの死の不過視化に対して、終わりの終わらなさを持続させ、死を物質化することで、彼らの時間を混沌とした未来も何もない原生的時間、集中治療室的な時間に引き摺り込む。虚構の未来を担保に入れることで現在の勝利を獲得したブルジョワに、プロレタリアートの瀕死の終わらない終わりの戦略はブルジョワ達の世界に、貨幣の無限の未来という担保の無効を宣告する。終わりはやってくるというその宣告は、貨幣の永遠の生命を紙屑化し、無根拠な信頼は放棄され(貨幣はすべての見知らぬ他者が、この貨幣を承認するだろうという無責任な根拠によって成立している)、貨幣に価値を持たなくなったハイパーインフレ状態を引き起こさせる。終わりの存在を否定し、いつまでも未来しかないことを謳うブルジョワの資本主義に、未来はもうやってこないと宣言したとき、未来を唯一の根拠にしていた貨幣はたんなる紙屑でしかなくなるのだ。終わりや死が公然化されたときブルジョワの資本主義はすべて機能しなくなる。
プロレタリアートにとって死は敗北でもなければ悲劇でもない。同時に、生きていることも無用に賛美したりしない。『勝負の終わり』でのハムがハンカチを自身でかける最後の姿は、生への執着ではなく、終わることの永遠の宙づりとしての瀕死に対する執着なのだ。ブルジョワの社会は、生の領域と死の領域という確定されたエリアを設定するだろう。生は勝利であり、死は敗北だと。それに対して、瀕死というハムが執着し続ける曖昧な生は、生と死の領域を確定化せず、集中治療室という誰の目にも触れない場所に隠蔽された瀕死をベケットはブルジョワ達の前に公然化するだろう。ベケットの『勝負の終わり』は、その集中治療室のような日々を肯定するのだ。瀕死は生死を確定するシステムの機能そのものを脱臼させ、どちらが勝ったのかという勝敗のシステムが廃棄され(生き残ったグロヴが勝利者とは思えない。食料の倉庫の鍵の番号はハムしか知らないので、彼が死んでしまえば、当然彼も飢え死にする)、生と死を勝敗システムのアナロジーに回帰させることが廃棄される。
社会的に常に瀕死状態を強要され続け、ゲットーやスラムという集中治療室のような場所に隔離されていたブラインド・ウィリー・ジョンソンに代表されるブルース・マン達の唄には、死ぬことと生きることの境界の曖昧な瀕死が常に主題として登場する。ここが天国なのか地獄なのか分からない、自分が生きているのか死んでいるかもすら分からないサン・ハウスのブルース。宗教が生の価値を貨幣のような超越的存在に求めるなら、ベケットの『勝負の終わり』は、生にも死にも価値を求めない。生に特別の意味は無く、死にも何の意味もない。『勝負の終わり』にとって勝敗はすでに捨象され、生の際でこの世の執着について語るのは、それは敗北ではなく、アレン・ギンズバーグが『吠える』で、“犬がとぼとぼ町を行く‥するとそこには骨はなく、彼が吠えるべき、見るべき、舐めるべき、咬みつくべき、ありとあらゆる必要を秘めた、彼の現実がある”と書いたように、勝敗システムに回収できない現実があるのだ。
百葉箱 Screen #09
小松 浩子 (写真家)
音と同時に重力の向きと加速度を適刺激とする動物の感覚器官を耳と呼ぶ。一般に聴覚にとって重要な器官として広く認知されているが聴覚以外にも平衡覚と回転覚を感知しているため平衡聴覚器ともいう。発生源を方向・位置ともに確定出来ない小さな金属音が聞こえることがある。感知するまで金属音の存在を忘れている程度に音の発生頻度は稀であるが、音の発生に伴い何かしら不意の出来事が起こり、金属音に反応し立ち止まる等の行為により避けるべき事柄を回避出来るというような事例が多いため、金属音は危機回避体系として一般に存在するものとの認識をする。金属音に限らず内容までは聞き取れない話し声など雑多な音を感知する度に同席者があれば感知しているかを問うが、感知されていない事が次第に判明したため他者に金属音等について問う事は無くなる。ラップ現象とは誰の関与もなく何も存在しない空間からある種の音が発生し鳴り響く現象で、超常・心霊現象の一つであるとされるが、広義で原因不明の音声が鳴る現象を総称する場合もある。1848年にフォックス姉妹は「木を叩くような小さく虚ろな音」を感知し発生させている者との交信を試みる。姉妹が読み上げるアルファベットの必要箇所で音を発生させる事で文章を得るという方法で交信は成立し、音の発生者が殺害された証拠をも得ることになる。コミュニケーションは社会生活を営む人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合う事を指しヒトの場合は特に言語を用いて行われる。乳児にとって危険感知と親とのコミュニケーションの維持・学習は死活問題であるため、出生時に耳は既に成体に近い構造まで発達していると言われている。音波は耳介や外耳道で受容され蝸牛の中にある有毛細胞で電気信号に変換されて大脳の聴覚中枢へと送られるが、出生時には周波数別に分別し音を理解する側頭葉の発育が不十分であるため感知はするが認知は出来ない。金属音は発生させる者が伝達を欲する事柄がある場合に感知されると推測されるが、フォックス姉妹のように言語を介在させる方法を開発しないためコミュニケーションとして成立せず、そのため認知するには至らず、他者は感知しないため客観的・合理的検証も為されない。躍進か転落かという転換期が訪れる事があるが、その判断と結果は常に事後の検証を持って推し量るしか無い。同席者にも感知出来る程の周囲の物品の振動を伴う激しい金属音が起こると、金属音の存在を他者に知られる羞恥心が先行したため音を治めるよう強く念じ結果として音は鳴り止み、音の発生者の欲する伝達事項を考察する事も無く過ごす。事後の検証を持って推し量ると転換期に於けるその判断と結果により大きく転落し本道に戻すために多大な労力を必要とする事になる。黙殺された音の発生者は久しく金属音を発さないが、再開にあたり言語を介在させた交信の必要性を痛感する。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
2014/12/1 雑誌でファッション情報を入手。オシャレ小物の使い方を覚える。財布の中の五百円玉を貯金すると決意。使い道はセックスのとき映画の主人公になったつもりでロマンチックな雰囲気を演出するため。ソファーを用意しなければ。体力増強もしなければ。体操かウォーキングかトレーニングが必要だ。想像しただけで興奮する。そもそもクリスマスを一緒に過ごす相手がいないので「恋人募集中」と周囲に言いふらす。友人から恋愛相談を受ける。セックスのための貯金トレーニング公言の提案をすると友人は泣いてしまった。 自慰が捗る。 12/2 お歳暮を贈る相手のリストの住所変更などがないかチェックを強いられる。信頼していた人から自尊心を傷つけられる発言を聞かされるかもしれないと妄想に耽る。同僚の仕事ぶりを見てつい口や手を出したくなるが我慢。排便の始末を父親にしてもらうことを思い出す。賭け事で大儲けしたいしパーティーにも誘われていたが外食続きだったので夕食は自宅でと考えるも彼と一緒に外で食事することに。彼を自宅に招いてソファーに横たわり落ち着いた口調で「痛みがほしいのです。」とつぶやいても彼は理解してくれない。身体が熱いのでビタミンCのサプリメントを多めに飲んで早めに寝る。 12/3 足元に注意、ちょっとした段差に注意とのこと。段差で躓いて転倒して片足を引きずりながら歩くと足の外側が異常に敏感になる。おかげで電話の受け答えも彼とのデート中も上の空。寝不足で疲れているのに彼が求めてくる。彼の気持ちを汲んでつきあうかどうか試されているのか。足のせいでその気になれず。 12/4 後ろからくる自転車に気をつけよ。大事な荷物を壊されるぞ。コートの裾が自転車に巻き込まれるのではないか。ストールが、髪の毛が巻き込まれる。追突される。前からも自転車が。歩きタバコでコートが焦げる。興奮が収まらない。早くトイレに行きたい。通販カタログを見ると必ずほしいものが目についてしまう厄介な病気になる。いい出会いは期待できない。言い寄ってくるのはセールス勧誘などの目的がある異性ばかり。朝起きたら顔がむくんでいたり肌の色が悪いのは暴飲暴食のせいと決め付けられた。彼からの連絡もないし温めたタオルで目の疲れをとる。 12/5 今日は大切な人とゆっくり2人の時間を楽しむこと。これまで年賀状に家族の写真を使っていた。幼少期の数々の折檻が想起されるのは明らかにこれが原因なので今年は絵を描いてみる。タイトルは「電気をかける」。寝台に寝かされた1人の女性。この女性の前には立ち姿の男。医者が太い電気ケーブルで女性に電気ショックを加えている。女性患者の足は上に向かってピンと突っ張り口と目は大きく開かれ彼女がとてつもない恐怖心に襲われていることがわかる。エドヴァルト・ムンクによって描かれた不安を表現した絵画と何とも似通っている。新鮮な発見がある、周囲からの好評を得ることができる、とは?施設での悪夢がよみがえるだけ。同時に父親の顔や手の記憶も。排便。手がつけられなくなる前にトイレに駆け込みマスターベーションを。落ち着かないと買い物も身の回りの片付けもできない。今日はビデオでも見ながら試したことのない体位に挑戦してみましょう。予想以上の快感を得られるかもしれません。 12/6 今までダイエットや禁煙などに踏み切れなかった人にチャンス到来です。わずかな時間でもよいので自分自身のための時間をもつようにして下さい。今まで気づかなかったことに目を向けさせてくれるはずです。入浴は半身浴がおすすめです。太いパイプ。冷水。熱水。あそこは治療などしなかった。友人から急な演奏会の誘いを受ける。入場料は自分で払うことになる。興味はないが応じる。会議の席で私の考えや意見を求められる。遠慮しないで思っていることをはっきりと言ったほうが良いでしょう。失望し打ちのめされ病状の改善すらないまま。野菜ジュースだけでも飲んでおこう。好奇心が旺盛になりそうです。店に買い物に行って相手と一緒に雰囲気を買える商品などを選んでみて下さい。新鮮な気持ちでセックスに臨まないと。 12/7 ダイエットや禁酒禁煙など何かに挑戦したけれど失敗したという人はもう一度挑戦してみてはいかがですか。今日決意すると成功するかもしれません。そろそろ年賀状の準備を始めましょう。凝った図案や面白みのある文句で来年の人気が上昇します。自分の写真を使っても受けが良いでしょう。自分には向いていないと思って敬遠していたことにも挑戦してみましょう。今までの努力を活かすことで新たな道が開けてくるでしょう。家族そろっての夕食は幸せを実感するはずです。 12/8 あなたはかつてベルク嬢に対して、社会主義者はただの泥棒だとおっしゃいましたね「誰かからは鎖を取り上げ、別の誰かからは時計を取り上げる」と。こんなことをあなたが本当にまじめにおっしゃったとは、私には信じられません。あなたは多分、熱心さゆえに「行き過ぎた」だけだったのでしょう。あなたにはよくあることです。あなたの中にある、快適さを求める欲望が、あなたが公正な人間であることを妨害しています。この欲望は、あなたがご自身のコンプレックスと関わりを持つこと全てに対して制約をかけようとする原因でもあります。全ての人々が平等だとか、仕事が誰にも同じように確保されるだとか、誰もが自分の好きなものを得ることができるだとか、そのように表現されるだけのものが社会主義であれば(予言者たちがよく言うようなことです)、これはもちろんユートピアでしかありません。しかし実際には、社会主義は、資本主義に反対する運動であり、高度な価値観に裏付けられています。あなたはこうおっしゃいます。財産を得るためには、ある程度の知性とエネルギーが必要だ。つまり、金持ちというものは、最も有能な人々でもあるのだ、と。しかし、そのようなことは、例外的事例にのみ当てはまることです。いかに財産が不公正に分配されているのか、ということを、私があなたに説明しなければならない、というのは何ともおかしな話です。あなたは、そのようなことを私よりもずっとよくわかっているはずです。資本が人間の価値や必要に応じて分配されていない、という事実をご覧になろうとしないのは。あなたが偏見をお持ちになっているからに過ぎません。精神的な疲れが態度に出てしまいそうです。相手も察知して気まずい空気になりかねませんので会わずに済むならそうしましょう。私はずっといくつかの強迫症状に悩まされ続けた。特に、人前で無理やり笑ってしまうことを、一番つらくて屈辱的に感じた。胃腸の疲れが影響してか、体調のほうも思わしくありません。不快な気分を引きずりそうなので対人関係には気をつけて下さい。体力が低下しています。特に呼吸器系の弱い人は風邪を引きやすいので、セックスは服を着たまま楽しんでみて下さい。 12/9 つき合っている人がいない人には理想のタイプの異性が現れそうです。一気に盛り上がりそうなので期待しましょう。気になる人がいて悩んでいるならタクシーの運転手さんとの会話からヒントをもらえそうです。幸運な色の車体ならさらに良いでしょう。非常に充実したひとときが過ごせそうです。新しい方法に挑戦するのも良いでしょう。幸運な色がさらに運気を高めてくれます。 12/10 今日出会う人は豊かさをもたらしてくれる人です。ただしそれは物質的なものに限られているため精神的な満足は得られないかもしれません。特に約束がないなら今日はまっすぐ帰宅しましょう。人といると訳もなく対立しそうなので家で大人しくしているのが賢明です。せっかく落ち着いた状態でベッドに横になっていたのに看護人が部屋に来た。五分で部屋から出ていきなさいと要求しても彼女は笑いながら「それはできません」「ベッドのところまで行きますよ」と告げたので私は「そうしたら私は自殺します」と言いカーテンのひもを引きちぎった。彼女がひもをもぎ取ろうとするので彼女の持っていた時計を床に投げつけレモネードを部屋中にまき散らし寝具を引きちぎり彼女をたたきそれから肘掛け椅子におかれていた毛布にくるまった。彼女を傷つけるようなことを言っていないだろうか?彼女にはやさしく話しかけただろうか?「たたく」という刺激語が私をまた興奮させる。 12/11 どんなに集中できるからといって食事を抜いてまで続けるのは感心できません。一旦手と頭を休めることも必要と心得てください。分かれたことを公開しているなら思い切ってその思いを伝えましょう。相手もあなたの電話を心待ちにしているはずです。最近恋人ができたばかりの人は相手との真剣な付き合いを考えましょう。相手も誠実な人なのできっとうまくいくはずです。元恋人や異性の友人から誘われることがあるかもしれません。まんざらでもないなら誘いに応じてみると相性の良さを実感できそうです。今年1年の頑張りを評価されてかあなたに対する信頼感は増しています。自分で勝ち取ったものですから自信を持ちましょう。私は働けないから自分の人生に意味なんてありません。 12/12 思わぬ臨時収入があり懐も豊かに。クリスマスプレゼントもう買いましたか?今年はお金を惜しまないで多少高価でも良いものを選びましょう大きな見返りが期待できます。今日はできるだけ高級なものを身につけて出かけて下さい。今日は臨時収入があるかもしれません。恋人にご飯でもご馳走した後は高級ホテルで贅沢に楽しんで。 12/13 年末のバーゲンに行け。街頭募金に応じるのはやめたほうが良いでしょう。安定した雲気で心地よいセックスを満喫。昨日楽しんだカップルは今日は延長戦のつもりで過ごすのもよいでしょう。 12/14 年下の異性からびっくりするような儲け話を聞かされますが相手になってはいけません。下手に手を出すととんでもないことになるおそれがあります。大切な人へのクリスマスプレゼントを買いに出かけて下さい。少し疲れが出てきそうです。体調を崩してセックスどころではないかもしれません。マスターベーションはします。 12/15 判断力も集中力も体力も低下しています。いつもと同じようにやっていると大失敗します。初対面の異性から電話番号を聞かれてもうまくごまかして教えないようにしましょう。なぜか気分が悪く初対面の人にまで当たり散らしてしまう。脚立を持ち出して廊下のあちこちにぶつけ、床にひっかき傷を作り、食事をとるのを拒否した。私はまた引きつりながら笑った表情をしているのを自分で察知して屈辱を感じる。私は不道徳で堕落している。マスターベーションの衝動を水を一気に飲んで紛らわす。これは死だ。ペストだ。 12/16 クリスマスが近づいていますので1人で出かけて相手へのプレゼントをいろいろ考えておくのがいいかもしれません。考えに詰まったら近くの公園を散歩してみてください。頭の中を空っぽにして景色を楽しむのがポイントです。わずかな時間でも気分転換が図れます。公園には人がいる。人を見る目が狂いがちです。男性。父親にぶたれる。手。四つんばい。私のむき出しの尻。弟たちがぶたれた。人に囲まれている。汗が止まらない。チック症状。人が集まる場所はできるだけ避けたいところです。 12/17 自分を変えようと考えているなら、その意思を周りに伝えてください。いらない物は思い切って捨ててしまいましょう。きれいになった部屋で新年を迎えれれば新しい出会いもどんどん取り込めます。今日はセックスに最適な日です。密着感の高い体勢でお互いの顔を見ながら気持ちを高めていきましょう。 12/18 クリスマスに外食するなら予約をしておきましょう。洋食なら会話もはずみそうです。雑誌の懸賞に応募するなら午前中にすると良いでしょう。人の好き嫌いが激しい人は、今日はいろいろな人と話してみて下さい。外見や職業で人を判断してはいけません。変わったセックスをしようとするより相手の気持ちをしっかり受け止めることのできる安心感のある雰囲気作りを心がけて下さい。 12/19 あなたの冷静なところに惹かれて接近してくる異性がいそうです。自分の直感を信じてつき合うかどうか決めましょう。全く眼中になかった異性から、ふいの告白があるかもしれません。悪い人ではないので前向きに考えてみて下さい。まずは友達からはじめるのが良いでしょう。パートナーに対しては完全に心を開いて接したいときです。温かな気持ちでセックスを楽しむことができます。相手の気持ちを思いやって下さい。 12/20 あなたの頑固さが災いして相手を怒らせてしまうかもしれません。物事を柔軟に考える姿勢を持って臨機応変に対応しましょう。あなたの杓子定規な対応が周りの人に愛想をつかされてしまいそうです。柔軟な考え方が功を奏することもあります。 12/21 頭を抱えていた家族の問題が解決しそうです。祖母と妹を失ったことで苦しみ続け、弟たちや両親に対して心を開くことはなかった。家族とコミュニケーションを全く取らなくなり、注目されたり話しかけられると支離滅裂な話をしたり、チックの症状が出たり、しかめつらをしたり、あるいは、両手を目の前ではたいたりした。母親をたたくようになった。家族からは離れられたが、ここは実験室であり、私はその生けにえであり、症例である。喜びは素直にあらわして下さい。片思いだと思って諦めていた相手に偶然出会い、告白されるかもしれません。思いがけず楽しい年末を過ごすことができそうです。今日のセックスは時間をかけてとことん楽しんで下さい。彼にむき出しの尻をたたいてもらう。 12/22 懐が温かいからといって、はしゃぎすぎないように注意しましょう。鞄のふたを開けたまま歩いてると、すりに遭うおそれもあります。鞄の中には私たちの全財産とママのブリリアントカットのダイヤもあったので、ママはとても混乱しました。肌荒れが気になるかもしれません。ストレスが原因ですからイライラしないようにしましょう。とにかくビタミンをたくさん摂って下さい。今日は気持ちが乱れがちです。クリスマスを目前に喧嘩などしないようにしましょう。いつもの2人でいれば問題はありません。 12/23 クリスマスイブのデートに向けて体調を万全に保ちましょう。明日クリスマスイブのパーティーがあるなら今日のうちに何か買っておきましょう。クリスマスの予定が決まっていない人もがっかりしないで下さい。急な誘いがあるかもしれません。携帯電話の電源は常に入れておきましょう。夢見心地に慣れます。お酒が入って微妙に妖しげな雰囲気の中、人の目をはばからないキスが起爆剤になります。今まで友達だと思っていた異性が気になりませんか。インターネットで欲しかったものを検索してみて下さい。格安で手に入りそうです。 12/24 友人たちを家に招いてクリスマスイブを楽しむなら変装がおすすめです。せっかくのクリスマスイブ、下着は高級なものを身に着けて下さい。恋人と一緒に過ごすクリスマスイブなら男性も女性も幸運な色のものを身につけましょう。そのときまでにボルシチの作り方を覚えることができればいいのですが。 12/25 金銭に執着しすぎると、かえって財を失うことになります。つき合いの長いカップルは今夜が生涯の愛を誓うチャンスです。幸運な色のアイテムを身につけたら表情も引き立ちそうです。今日はお金を使わないよう自分自身に言い聞かせて下さい。高層ビルのレストランなどで贅沢な時間を過ごしてみて下さい。幸せなクリスマスが過ごせそうです。しみじみと幸福を感じて下さい。周囲の人やパートナーに照れずに愛を言葉にして伝えましょう。 12/26 パートナーに対して、そばにいて気楽な反面、物足りなさを感じる一瞬がありそうです。今日はお金を一銭も使わないという心構えで1日を過ごして下さい。自分に正直すぎると人間関係の幅を狭くし出会う機会も少なくなります。たっぷりと時間をかけて愛し合ってください。手抜きはすぐに気づかれてしまいます。手抜きなんてできない。 12/27 大掃除をしていてお金が見つかっても結局ほかの家族のものであることがわかるでしょう。判断力が鈍っています。判断力が鈍っています。たまっていた疲れが、心身ともに疲れが、体が重く感じて、気の抜けない、疲れる日です。 12/28 親愛なる教授 このようなしきたりは、病院にあるのでしょうか。私は博士から学習いたしましたけれど。私は先生に、こんな紙の切れはしに書かざるをえませんでした。紙を買い込むまでのエネルギーなどなかったものですから。私の物語はいまやほぼ終結に向かっています。私が今願うことは、この喜劇を終わらせるために大きな勇気を持ちたい、ということのみです。とはいえ、まだ終わっていないのだから利用できるわけです。 12/29 歯磨きを歯を白くする効果の高いものに替えてみましょう。年始早々、その効果を実感しそうです。年始の挨拶は着物姿が良いでしょう。今のうちに必要な小物がそろっているか確認しておいてはどうですか。お年玉の準備も忘れずに。ちょっと甘いお酒などを飲みながら寄り添えば、今日のセックスは始まったようなもの。 12/30 パートナーとのセックスは少し冒険してみましょう。今日出会う異性の中に好みのタイプの人がいそうです。話のきっかけをうまくつかめばお付き合いできるかもしれません。2人が一番安心できる環境の中でふんだんに時間をかけてセックスに没頭したいところです。愛情をたっぷり注ぎ込んでみましょう。 12/31 年末ジャンボ宝くじが当たったら家族にもおすそ分けをしましょう。除夜の鐘を聴きながら静かに1年を振り返りましょう。1年のしめくくりの日。好きな音楽を聴きながら、今年1年を振り返ってみて下さい。人間関係はあなたの心の中を映す鏡でもあるのです。私が今これを書いているのがどんなに苦しいかなんて誰もわからない。こんな屈辱的な言葉や文句を書いたり、それについてずっと思い悩んだりするのは、とんでもないストレスなのだ。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「お金は方向転換した/“富”は富そのものが目的になった/そうでない富はない/お金は物語性を失ったの/絵画と同じにね/お金は語りかけてこない」 “コズモポリス”より

この台詞の“お金”を写真と置き換え、“富”を芸術と置き換えることで、資本主義と写真のある種の共通項や類似性が浮かび上がってくるように思います。どちらも確からしいシステムに則りその上に構築されていながら実体を伴わない脆弱なものであり、資本主義が貨幣を媒介して価値の交換を行うように我々はカメラを媒介して対象の意味や関係性を置換していく作業を試みているのだと思います。しかし永遠に繰り返されると思われた拡張の結果として現されたものは“物語性”の喪失であり、次のさらに大きな物語の創出を試みながらも我々の欲望は既に物語に回収されないほど肥大化してしまい、袋小路に入ってしまったように思われます。
「アナーキストの論理を?/“破壊衝動は創造衝動”/資本主義の思想は同じ/“強制的破壊”/古い産業は容赦なく抹殺/新しい市場を強制的に生み/古い市場は再開発すべし/過去を破壊し/未来を築け」と、ここで示されたように高度に成熟化されてしまったものは再生するために破壊されざるを得ず、前提として確立されているものを疑い、破壊するべく粛々と行為を繰り返していくことだけが失った“物語性”を乗り越える唯一の方法でありながら、そこで現されるものはいずれ破壊されるための物語であり、その“物語性”の置換という無為な永続性を維持することこそが我々の衝動なのかもしれません。
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