The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 2月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #11   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
『Noting was Delivered』。映像は写ったものだけではなく、写っていないもの、不在のものも写してしまうメディアなのかもしれない。被写体をカメラで映像に収め、モニターで再生すると、そこには確かにあった現実がもう一度リピートされる。写された映像は確かにあった現実で、けれどそれは、今はもう過ぎ去ってしまった、映像のなかにしか残っていない、過去という痕跡に変質させられている。“かつてあった、けれど今はもうどこにも無い”、そんな不在の影が、かつて確かにあった現実の背後で見え隠れする。かつてあった現実をモニターでリピートすることは、単純に過去が再生されるだけではなく、二重のレベルがそこに浮き上がってくるだろう。かつてあった現実と、もう今この瞬間に実体的には何も残っていない不在としての現実という、あったことと不在の二重のレベルが画面の中にあらわれる。
『Noting was Delivered』、“何も送ってこなかった”の意味は、不在の現前化であり、映像は写った過去の現実だけではなく、その不在も抱え込まなければ成立しない。“何も送ってこなかった”ということが分かるのは、“何も送ってこなかったと”いう遅滞的に現れた事実を了解したことで初めて現前化された現実であり、それは“何も送ってこなかった”という不在が現実の場に物質的に現れたことではないだろうか。不在は、不在のままでは不在であることすら誰にも分からない。“何も送ってこなかった”という遅滞的にあらわれた現実によって不在が現実にその姿をあらわすのではないだろうか。それは“何も送ってこなかった”のではなく、“不在が送られてきた”。『Noting was Delivered』は“何も送ってこなかった”のではなく、“不在が送られてきた”というように不在を肯定的に表出する。不在が現れ、不在が不在として立ち上がってくること。カメラに記録された映像は再生される度に、かつてあった現実が再現されるだけではなく、その現実は今ではすでに不在であり、不在そのものを含みながら映像はリピートされ続けるだろう。反復する映像は、過去の実体的な再現だけではなく、“今それはもう無い”という不在をもリピートする。映像において写っているということは、それは、“今はもう無い”という不在と隣り合わせなのだ。
写された過去はその時の全ての過去の現実を写しているのではなく、フレーミングされたある一部分だけが写されているのであり、映像はだから過去の一断片でしかなく、そしてその切り取られたフレーム外の現実は存在していたのに、映像においては不在のものとして了解される。フレーミングの外の写っていないもの、写ってはいないが確かにあった現実は、不在として撮られ、映像に収められる。フレーミングは、だからフレーミングされた現実をあるものと不在の二極化に分裂させ、その分裂を更に促進させるだろう。フレーミングは現実の世界に外部を持ち込む。存在に対して不在の影を浸透させる。フレーミングは不在を発生させる装置なのだ。
不在の現前性は遅滞的にあらわれる。何かことが起こった後に現れるものであり、それは“何も送ってこなかった”というような過去形の表現によってその存在をあらわす。不在は積極的にここにあるという風にあらわすことができないものであり、その現前化は過去形であらわすしかできないだろう。時制の操作によってあらわれる過去。過ぎて行ったものを過去として感知し、過去という時制法で振り返ることができるのは人間に先天的に備わった能力ではなく、言語の習得と操作によって発明された結果なのだ。過去はだから言語によって発見された存在であり、不在はその学習と操作によって構築された過去形の使用よってあらわれる。過去が言語の領域に所属するのなら、不在はその領域からはみ出る影のような存在であり、それは目に見える存在ではないにもかかわらず、そこに確かに存在する。不在とはだから言語の裏側に必ず存在してしまうものでありながら、言語では割り切れない、言語の領域には存在しない、言語があることで発生してしまう剰余的な存在なのかもしれない。
過去という時制法は、“不在を操作する”ために生まれた技法であり、ロラン・バルトの“言語活動が不在から生まれる”、“不在が能動的実践になる”ように、不在に耐えられない人間が過去という時制法を操作することで、不在を過ぎ去って行くものというロマンチックな時間観念として了解しようとするだろう。けれど映像の特性である反復の無限の可能性は、不在を過去形だけで表すのではなく、過去形ではない、つねにそこにあり続けるものとしての不在を表出しようとする。反復される“かつてあった、けれど今は無い”というその“今”は、現在を起点にしている“今”であり、不在があらわれるのはいつもその“今”現在にあらわれ続ける。だから不在とは過去の領域ではなく、現在の領域に存在する。
今現在写しているその瞬間がテープやフィルムやデーターに過去の形として保存されながら、その保存された記録をリピートしたとき今度は、過去が今現在に現れ、現在形として過去が現れることになる。大森正藏的に言えばそれは、過去を想起するということは、今現在の時点において想起しているのだから、その過去とは常に今現在であるのだから過去は無い、過去はいつでも現在だというその説に従うのなら、映像は過去ではなく、上映の時点においてつねにあらわれる現在ということになるだろう。映像において撮ることは一回性の行為だが、その撮った映像を見ることは無限に反復可能であり、反復される度に新しい現在が追加され続ける。けれど反復可能な過去というのは本当に実体的な過去なのだろうか。それは想起されることであらわれ、その度に構築と変更を繰り返す、非実体的な幻影のようなものであり、過去はかつてあった昔の領域にではなく、現在の領域に所属する存在ではないだろうか。過去というのが一回性の経験であり、それは再現不可能な特権的な一回性なら、それが反復され続けるというのはどういうことなのだろう。過去というのは反復され続ける映像の中だけにあるのではなく、映像に写っていない不在の中にも過去があるのではないだろうか。過去が過ぎ去ったものであるなら、それは同定化できない川の流れのような存在であり、過去はだから確かにあった存在ではなく、無いもの、不在のものとしてしか存在できないだろう。
映像において不在は、菅木志雄の言う、“見えない、人間が必要としていない、でもそれがなくては表に出ている部分も見えないような領域がある”ように、映像は不在なしでは成り立たない。不在は映像を成立させる下部構造なのだ。過ぎ去ってすでにもう無いものの中でしか、過去のアイデンティティは存在しないのではないだろうか。または過去時制という文法機能の中でしか存在しないものなのか。過去を何度もリピートすることができる映像のアイデンティティは、自らが撮った過去ではなく、不在か再生システムの中にしか存在しないだろう。不在にアイデンティティを委ねる過去は、存在しないものであり、それは単純に不在なのだ。リピートされる度にあらわれる過去は過去ではなく現在であり、過去は実体的にはもうどこにも存在しない。映像は存在しないものに己のアイデンティティを求めるのだろうか。
過去を撮った、過去の堆積としての映像が自らのアイデンティティの根拠を求めるとき、その場所は自己の内部ではなく、不在という外部にその根拠を求めるだろう。けれど不在という何も無い場所がアイデンティティの根拠として機能することができるのだろうか。一度しか体験することのできない過去を写し、それを今現在に何度もリピートできるという背理を背負い続けなければならない映像の内部にあるのはアイデンティティの亀裂だけであり、映像はそれ自体では自己を意味付けられない。映像が自己の根拠を見出そうとすれば、それは不在にと行き当たりアイデンティティの存立を不可能にしてしまうのだから、不在の存在を隠蔽して、映像はその根拠を違う領域に求めなければならなくなる。映像が求める根拠は言葉の領域であり、時制法という文法によって発明された過去に根拠を委ねるだろう。それは映像が言語のシステムという、共同体が共有する学習システムに自己の根拠を求めることであり、映像を支えるものは記憶ではなくシステムなのだ。そこでは感情や主観が映像を支えるのではなく、システムという自動的な運動が過去や感傷やメッセージを生み出し続ける。映像はだから、決してわたしが操作できる手段にはならないだろうし、わたしの領域から遠い場所に存在するシステムが、わたしの記憶や過去、そしてわたし自身を作り出す。
映像の中で過去とその不在と現在という三つの視点のどれか一つが突出し、他の要素を支配するという階層的秩序を築くことができるのだろうか。三つのレベルは融和することも階層化されることもなく、並行しながら互いが互いの影のように存在し続ける。どれか一つを突出させることはできないだろうし、映像の反復可能性が過去の映像を何度もリピートすることで、フィルムやデーターに堆積された過去はつねに現在化され、それは思い出の中心となるような特権的な過去、過ぎ去って行った時間の領域に安住している過去を現在にさらし続ける。過去の現在化は堆積されたあらゆる過去のある部分をチョイスし、それを特権的に中心化するのではなく、等価交換可能な平等な存在にすべての過去を置き換える。それは現在と過去をウロボロスのように循環させ、過去と現在の領域を曖昧にするだろう。存在と不在、現在と過去というように、何か一つの領域に映像の根拠を求めることは不可能なのだ。
カメラという機械を使用することを前提とする映像は、同一性という、根拠を一つに決定することができないアイデンティティの複数性を肯定するものであり、元々何かを一つに絞るということが不可能なメディアだ。カメラは基本的に中心が欠落している機械であり、そんなカメラによって記録された映像を見ることで、見る人間の数だけ見るべき中心が無数にあらわれる。見る人間の数によって中心を無限に分割することができる映像は、だから一般化することができず、映像を見るという体験は、幽霊を見る体験と近似するだろう。幽霊が見える人間もいれば、見えない人間もいる。見える人間にとってはその幽霊はリアリティーのある存在であり、見えない人間にとっては、幽霊はたんなる枯れ尾花的な虚仮威しの存在でしかないように、映像もまた写っている樹の影を見る人もいれば、その樹の葉っぱに注目する人もいるだろうし、樹にまるで注目しない人もいるだろう。それは幽霊を見るのと同じように、映像は見る人間に固有の体験しか与えないのだ。映像の要約や一般化は不可能であり、見える人間には見えるし、見えない人間には何も見えない。映像はだから普遍化することができないメディアであり、わたしはわたしの見えるものにだけ拘るしかない。映像は何も集約しない。観客に孤独な、誰とも共有できない固有の体験を映像は強要する。
“それはそこにあった、にもかかわらず今は無い”というロラン・バルト的なテーゼは、映像のアイデンティティをあることと、無いことの二つの領域に引き裂く。あるということの根拠は不在によって支えられ、不在は不在そのものとして自己を打ち出すことができず、あるものの影のような形であらわれる。あったことと、その不在という映像の中の二重のレベルが、今この瞬間にリピートされることで“それはそこにあった、にもかかわらず今は無い”という、あったことと不在の間に今度は“今は無い”の、“今”=現在性が侵入する。映像はその反復可能という特性によって、過去とその不在と現在という三つの時間を獲得するだろう。それは映像のアイデンティティの複数化であり、映像はつねに自己の根拠を自分の内部ではなく、互いが互いの外部であるようなその外部性に求めるようになるだろう。過去を成立させる根拠が不在と現在の領域に求められ、不在の根拠は過去と不在があらわれる現在の領域に求められ、現在の根拠は過去とその不在に求めなければならないように、アイデンティティの根拠をつねに他者の領域に求めるしかない。映像とはだから実体ではなく、つねに影としてしかあらわれないのだ。それは映像の本質としてよく語られる幻影であり、幻影という言葉が想起させるロマンチズムが廃棄された、字句通りの実体の無い幻影が映像なのだ。
ある現実を記録するということは、その記録された現実をフィルムやデーターに残し、保存するだけではなく、現実がカメラによって記録された瞬間から被写体は、今この現実に帰属する存在から不在の向こう側に追放される。撮るというのはだから被写体の所有ではなく、被写体を不在の向こう側に無限に後退させることであり、映像化されたものは指示対象への安定的な帰属から追放され、戻ることのできない無限の後方に追いやられるだろう。撮影することによって不在の側に不断に追いつめられる被写体にとって、撮影とは被写体を利用した撮影者の内面を表出することではなく、被写体の更なる他者化、外部化を促進する行為なのだ。被写体のアイデンティティを剥ぎ取ること。被写体をフィルムやデーターに安定的に移行するのではなく、被写体に不在という外部の烙印を押すこと。不在の最高形態が死であるなら、映像は被写体に対してつねに死を与え続けるだろう。荒木経惟が“あらゆるポートレイトは遺影である”と言ったように、映像は世界の風景を遺影化する。
記録された瞬間にすでに現実では無くなるというカメラの機能は、現実の記録や保存という機能だけでなく、抹消や消去という機能をも同時に浮かび上がらせる。記録されたことで被写体がそこにあったという事実が、“それはかつてそこにあった”という不在に転化される。不在の刻印を押された被写体は、フィルムやデーターの中に拉致されることで帰属するべき本来の場所から、不在という死の領域へと移行させられる。記録されいつまでも保存されることを目的にしたカメラの機能が、被写体にこの現実から消えていくことを要求する。カメラは撮ることで撮影対象を記録しながら、その被写体に不在性を付加する。撮影は現実をもう一つの場所に保存するのではなく、この現実から消去することであり、現実が映像化され、映像化された現実が何度もリピートされることによって、消去もまた現前化するだろう。カメラで撮った現実は、“今はもう無い”。撮ったことでその現実が消えてしまったことが証明され、消去が物質的に現れる。愛する人物や宝物のように大切な物を愛でるように撮ることは、世界を一挙に消去することとイコールなのだ。撮り続けることは、世界を消去し続けることであり、この光景をいつまでも残しておきたいという人間のカメラに託した永遠への欲望が、不在や消去の欲望を更に加速させる。
ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』で書かれていた、“たえず現前するわたしというのは、たえず不在であるあなたの前でしか成立しない”の“たえず不在である”というこのつねに不在である“あなた”という存在は、死のことではないだろうか。わたしという存在は、死を前にすることでしか現前化できないのではだろうか。不在に直面し続ける映像は、最終的には死を自己の根拠にするだろう。そして死を根拠化することは不可能であり、映像はその不可能性の前でしか己を現前化することができない。映像はだから自己を自己で証明することができないのだ。映像のアイデンティティはロラン・バルトのように不在=死にそれを求めながら、それを獲得にすることができず、代わりにあらゆる外部の要素を自己の内部に引き寄せるだろう。言語や被写体の意味や、被写体そのものを引きずり込みながら、それらをパッチワークのように継ぎはぎだらけなままで映像は、自らの本質を語ろうとする。パッチワーク化された“映像とは〜である”という本質的テーゼを無数に連発する映像は、確定できない曖昧な本質をいつまでも語り続けなければならないだろう。それは継ぎはぎだらけのぼろぼろの衣装でパーティーに行かなければならないNICOの“All Tomorrows Party”の主人公の零落した女王様のようであり、“かつての立派なドレスの絹や麻はどうだい‥木曜日のボロで彼女は何をするつもりだろう”のように、そこでは結局女王としての資質は“木曜日のボロ”でしかないとされる。女王としての資質を持った自分なんて最初からどこにもいなかった。彼女には何もできない。“彼女のためには誰も嘆かない”。嘆くべき資質を喪ったわけではなく、“黒ずんだ経帷子 絹とボロ布の着古したドレス‥衣装 すわって泣く人によく似合う”、ボロボロのドレスもどき以外、何も持っていなかった。“木曜日の子供は日曜日の道化”のように本質的なものが何も存在しない道化のような笑い者。映像はブルジョワという実体のある階級が主催する本当のパーティーの幻影を夢見る貧しい少女のようであり、ブルジョワの階級が独占する本質という普遍的な背景から追放された、寄る辺の無い貧困な自分しかそこにはいない。貧しくていつも笑い者の貧相なうだつの上がらない“彼女はもう一度日曜日の道化師になり ドアの後で泣く”そんな貧しい少女でしかいないのだ。映像は本質を語ろうとすればするほど本質から遠く離れる。それは女王様を気取れば気取る程、より貧相になっていく“All Tomorrows Party”の少女のようだ。貧乏な少女に行くべきパーティーや着ていくべき衣装が無いように、映像には語るべき本質が何も無い。不在=死という絶対的外部に隣接し続ける映像にとって、“All Tomorrows Party”のパーティーや衣装、そしてそれを夢見る自分も幻影でしかないような、ただそこに幻影のようにしか存在できないのだ。映像はあらゆる本質から排除された、ただそこに“ある”という事実的存在としてしか存在できないだろう。けれどそれは本当に確かな実体として“ある”と言えるのだろうか。“明日のパーティーはどこに行くの?”と“All Tomorrows Party”の中で聞かれた少女は結局どこにも行く所が無く、ただ明日を思って泣くだけのように、映像もどこにも行くべき所も無ければ、招待されるべき所も無い。幻影の中の女王様としてしか少女は存在できないように、“かつてあった、けれど今は無い”という不在の幻影の中でしか映像は存在できないだろう。
映像は撮影対象に対して興味を持たずに、無関心な気持ちであっても、それでも撮影は可能であるという、無責任なメディアだ。好きなものや嫌いなもの、意識の外にあったものや、視界のフォーカスから外れたものですら写すことができるカメラの無責任な記録性。その記録性がいつまでも被写体に対して無関係に、没交渉的に関係を持つことができる。関心というわたしの指向性が撮影を決定するのではなく、指向性が皆無でも撮影は成り立つというイニシアチブの曖昧性を、ボタンを押せば写ってしまうというカメラの無責任な記録性が肯定するだろう。例えば走っている犬を撮ろうとするとき、その撮影はわたしが犬を撮るというよりも、犬に撮らされていることになり、わたしが犬という対象に引きずり回されている。撮影のイニシアチブはわたしではなく、犬にあるということをわたしは肯定しなければならず、わたしではなく犬という被写体が撮影一般を決定する。それは撮る–撮られる、主体–対象という同定的な関係を持つことができず、不確で同定化できない。主体や客体の位置が変化し続け、撮られる対象としての被写体が撮影のイニシアチブが決定することもありえるという、主客の関係が曖昧なままでも撮影は可能なのだ。
主客関係の曖昧性は、主体を他者の領域に連れ込むだろう。撮影のキャスティングボードがつねに替わり続けることは、わたしとあなたの位置が同定できないことであり、わたしが撮るという能動性と、わたしは被写体に撮らされているという受動性の間にわたしは揺れ動く。それはわたしという主体の位置が他者に取って代わられることであり、わたしの領域に他者が踏み込んでくることなのだ。そのとき、わたしという主体はどこにあるのだろう。わたしが撮っているという撮影者のわたしを、わたしはわたしの中に同定化することができず、わたしの中で犬とわたしという二つの主体が分裂する。それはわたしがわたしだという自己の同一性の半分を犬に譲渡することであり、犬が主体でわたしが客体に変化することの可能性を肯定することになる。能動性が受動性に転化し、受容性が能動性にまた転化するその関係は、自己の主体性を丸ごと相手に投げ渡してしまう恋愛のような関係に近似するだろう。
現実の風景をカメラでフレーミングするという、現実の世界に枠を導入することによって成立する映像は、枠の外側にあるものを写らない現実として、写ってないけれどそれはあったという不在の現実として枠の外の現実を肯定する。映像の根拠はこの枠の外側の、不在の現実にこそ求められるのではないだろうか。フレームされたものしか写らない、限定の中でしか成立しない映像。フレームの外にも現実があり、そしてその現実は不在という形でしかあらわすことができない。“あるけれど、無い”という映像の二重性を、写っているものだけで、内部のものだけで成立させようとするならば、写された映像の対象は現実との地続きだったという現実が捨象されてしまう。それは映像が本来持っている二重性を棄却してしまうことだ。地続きの現実のある一部を切り取ったというフレームの事実が、カメラは現実の世界を二極化するという事実が、写ったものだけで映像の同一性を内部的に閉じたまま成立させることの不可能性を証明するだろう。映像が映像だけで成立することの不可能性は、映像の同一性は自己の内部ではなく、外部にその根拠を持たざるをえないからだ。映像は写っていない外部の現実なしには成立しないだろうし、フレームという存在も、フレーム外の現実によってそのフレームが支えられているのであり、フレームは地球のように自分の力で浮いているのではなく、写らなかった外部の現実によって浮かび上がらされている。だから映像の同一性は写したものの中にあるのではなく、写らなかったフレーム外の、外部の領域にこそその根拠があるのだ。
写っているものではなく、写っていない外部の現実。それは無いものとしてあらわれる、不在の領域にこそ映像は自らの成立の根拠を求める。けれど不在の領域に自己の同一性を求めるということは、その領域が不在なため、その根拠を実体化することができないのではないだろうか。映像は不在の領域に自己の同一性を形成することができるのだろうか。不在の領域にアイデンティティの根拠を打ち立てるというのは、底なしの泥沼に柱を立てるようなものであり、不在が映像の主体性を立ち上げるための根拠としてあらわれるなら、その場所は空っぽで、そこに何も打ち立てることができない。映像は結局その場しのぎにその根拠をでっち上げるしかないのだ。不在という外部に自己の同一性を求める映像には何の本質も根拠も持つことができない。東松照明や荒木経惟が“写真は〜である”という言い方を無数に連発するのも、映像の根拠が空っぽだからであって、その本質は何も無いから、本質を装おうとする無数の言動が乱発される。空っぽなことが映像の原理であり、その無責任な無根拠性に従うなら、“写真は〜である”的な物言いは無限に連発されるべきだ。確定記述的な言動を連発すればするほど、映像は確定からどんどん遠のいていく。
百葉箱 Screen #11
小松 浩子 (写真家)
剪定は忌み枝と呼ばれる枯れ枝・徒長枝・平行枝・下垂枝・競合枝・交差枝・病気枝等を処理する方法として用いられ大別すると冬期剪定と夏期剪定に分けられる。冬期剪定は樹木の生理的な付負荷や生育への影響が最も少ない休眠中の期間に落葉樹や耐寒性のある常緑針葉樹の樹形の基本的骨格づくりを目的として行われ、夏期剪定は気温の上昇に伴い繁茂し混みすぎた枝の透かしや樹幹の乱れを整える目的として行われる。垣根の隙間を通り夏期剪定の為に庭師が訪れる前に5匹のナミアゲハの幼虫を保護する。ナミアゲハの雌はミカン科の植物を食草とする幼虫の育成の為に正確に植物の種類を識別して産卵する必要がある。1937年に発見されたナミアゲハの前脚で食草の表面を叩く「ドラミング」と呼ばれる行動は、前脚先端の器官は「ふ節」と呼ばれる化学感覚子により植物に含まれる化合物を感じ取り、化合物が結合する受容体と受容体へ化合物を運搬する結合タンパクを中心とする「産卵刺激物質受容システム」の働きにより食草を識別すると言われる。ナミアゲハは孵化から約10日で蛹になるが、保護した全ての幼虫が蛹になるまで近所の家を回り庭木にミカン科の植物があれば分けて頂く交渉をする。1齢から5齢幼虫まで脱皮する毎に体が一回り大きくなり、消費する食草の量も比例して増えて行くにつれ交渉頻度は高くなる。蛹から約10日で羽化する成虫を外に放す事で自身に課した任務は完了となる。翌年以降もナミアゲハ保護の任務は続くが、数年後に任務開始から10日程で緑の幼虫が白くなって全滅する。ナミアゲハに寄生する昆虫も多数いるが幼虫に外傷が無い為何らかの中毒により死亡したと考えられる。オルトランとは主にアブラムシ等の殺虫剤として散布されるが浸透移行性剤で葉を洗い流しても植物の内部に残留する。またIGR剤(Insect Growth Regulatorの略、昆虫成長制御剤)は脱皮阻害剤とも呼ばれ幼虫が脱皮して次のステージに進むことを阻害する働きがあり化学肥料に成分として含まれている場合がある。ナミアゲハの雌1頭が産卵する約200個の卵のうち自然界で成虫になるのは約0.6%の1〜2頭と言われている。それまで保護した一年につき5〜10匹の幼虫は全て羽化しており死亡した幼虫を含めても計算上は自然界より生存率は高いが、垣根の隙間を通って行く家の保護しきれない幼虫は庭師に刺殺され、近所のミカン科植物を分けてくれた家の幼虫は保護された幼虫に食草を奪われ、日常的に大量の殺虫剤が販売されている現実を前に自身の無力と烏滸がましさを知る。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
2015/2/1 恋人の冷たいそぶりに動揺しそうです。ビデオを借りるならアクションものが良いでしょう。せっかくのデートなのにセックスはうまくいきません。原因はあなたの心にあります。今日は買ったばかりの物を身につけて出かけるのはやめましょう。思わぬ出来事のせいで、汚れたり傷ついたりしてしまいそうな予感があります。仕事相手とトラブルが生じそうです。相手にふりまわされて、いい加減にしてほしいと思うでしょうが、耐えるしかありません。ここはろくでもない人殺しの巣窟です。恐ろしい連中です。鼻持ちならない自尊心が見え隠れしており、大変残念ですがジャネは最低の部類に属しています。2/2 今日は自分の意見を主張すると、衝突してしまいそうです。とにかく周りの意見をよく聞くようにしましょう。外出時には、きちんとした印象の服装を心がけましょう。靴も質の良い革製のものが良いでしょう。今日のデートの最中に、何かトラブルが起きそうです。2人の関係に亀裂が入ったりはしませんが、早めに帰宅しましょう。新しい出会いは、あまり期待できそうにありません。「お金がかかるから」という理由で、何もやらないでいるのは損なだけです。 2/3 周囲がどうであろうと、自分のペースを維持することが大事です。今年は薬に加え、サプリメントを併用してみてはどうですか。あなたをデートに誘おうと、さりげなく予定を聞かれたりしそうです。下心があからさまな相手ですから注意しましょう。あまりやりたくないと思っていた仕事があなたにまわってきても、嫌な顔をせずに引き受ければ、あなたの評価は上がります。運命が好転をはじめ、何でもうまくいきそうです。いつもとは違う場所に行ってみたりするなど、セックスにも新しい要素を加えると盛り上がりは最高潮になるでしょう。 2/4 愛するお母様。本当の奇跡というものがこの世には起きるのですね。何が起きたのかというと、そういうつもりは全然なかったのに、彼を催眠状態にしてしまったのです。彼は約束の時間の五分前にドアをノックし、私が「はい」と答えると部屋に入ってきた。私は彼だとは思っていなかったので、当惑して、かなり乱れた髪で、手に櫛を持ったまま、そこに立ちつくしてしまった。「手で目隠しをすると約束すれば、ソファーに座っていいですよ。」彼がうなずいたのはもちろんであるが、それに加えて彼は、わたしはあなたをずっと見つめ続けて幸せな気持ちでありたい、あなたのことを考えて昨晩は眠れなかった、と語った。それから私にキスをして、「何?」と大声で言うと、幸福感にひたって顔が紅潮し始めた。しかし一番素敵だったのは、彼が私に新しいヘアスタイルをさせようとしていることだ。バナナ・ヘアーだ。彼は櫛を結び目からはずすと髪の毛を全部おろさせた。彼は喜びで我を忘れていた。エジプトの女のようでした!隣の部屋に隠れて聞いていれば、彼がわたしのこと、わたしの将来を心配しているかが分かるでしょう。それを聞けば、お母様は涙を流すことでしょう。相手の大切さを再認識するでしょう。思っているだけでは伝わらないので、きちんと口で伝えましょう。何をしても楽しい日。 2/5 あなたの考えていたことが次々に実現し、大きな手ごたえを感じそうです。でも、そこには同僚や友人、家族の援助があることを忘れないで下さい。感謝の気持ちは言葉できちんと伝えましょう。偶然見かけた募集広告が収入をもたらすきっかけになりそうです。見た瞬間に、「これ!」というひらめきがあったら、今日中に応募して下さい。髪型や肌のコンディションを整えると、出会い運が上昇します。たまにはプロに手入れをしてもらいましょう。自分に投資することも必要です。 2/6 女性はブーツを主役に服装を考えると良いでしょう。外出先で風邪を引いた人をたくさん見かけそうです。今風邪をうつされると長引いてしまう危険もありますので、寄り道はしないでまっすぐ帰りましょう。普段から節約を心がけていても、今日は意外なところで無駄遣いをしそうです。衝動買いには充分気をつけて下さい。自分では気づかないかもしれませんが、今日は言葉や行動が投げやりになって相手に不快感を与えてしまいそうです。できれば会わないほうが良いでしょう。セックスだけの関係には興味のない人も、今日は身体がうずいてしまうかもしれません。一時の気のゆるみが結果的に自分を傷つけることになりますので、自重しましょう。 2/7 いつもは恥ずかしくてできないことも今日のあなたなら楽しめます。たまには恋人の言いなりになって、秘密の欲望を解放してあげましょう。電車やバスの中では、できるだけ立っているようにしましょう。自分の心の声に従って行動するのが良さそうです。くじを買うなら、周りの評判や噂より、自分の勘を信じましょう。友人や後輩だけでなく、先輩からも頼られそうです。気持ちよく手を貸してあげると、大きなお返しがあるかもしれません。 2/8 今日は何かと人と対立しそうです。自分を主張しすぎないのがトラブルを避ける唯一の方法でしょう。道路や廊下などでの急な飛び出しにも注意して下さい。思いがけない怪我を負うおそれがあります。いつもよりゆっくりめの落ち着いた行動を心がけましょう。みんなが持っているという理由だけで、高価なものを買うのはやめましょう。あとで支払いに困ることになりそうです。感情をうまくコントロールできそうにありません。あまり人と関わらないようにするとともに、栄養のバランスにも気をつけると良いでしょう。体より精神的なつながりを求めるなら、セックスはやめておいたほうがいいかもしれません。表面的には距離がとれていても、空想はとめどもなかった。私の頭の中では、彼がいやいやながら、いろいろなことをしていた。彼は私にとっての模範であり、指導者であり、親代わりであり、彼女を育てた人物であり、愛人であり、そして息子でさえあった。私にとって一番重要なことは、あなたができるだけ完璧であるということ。あなたは、不思議なほどいろいろなものがバランスよく結びついている方なのです。残念なのは、ご自分の周囲の人たちが持っている偏見から強く影響を受けてしまっていること。そのため、あなたの良いところが背後に退いてしまい、偏りのある、もっとアンバランスなものが前面に出てしまっています。 2/9 今日の服装は、落ち着いた感じにしたほうがお洒落です。靴やベルトは少し地味なものを選んで下さい。デザートには季節の果物をとると良いでしょう。誰かと食事に行くなら、インド料理やタイ料理など辛いものにするといいでしょう。一緒に激辛メニューに挑戦すると、絆が深まります。偶然の出会いや意外な人からの誘いが、あなたを待っていそうです。幸運の色の小物やアクセサリー、ネクタイなどを身に着けましょう。自分の世界にこもらないようにしましょう。相手と一緒に気持ちよさを確認していくことでもう1つの絶頂を極めることができるはずです。どんなことにも意欲的に取り組めます。苦手だと思っていたことにも挑戦すると、意外なほど順調にこなせるはずです。新しいことに挑戦したいと思ったら、ためらわずに実行に移すようにしましょう。今日始めるのは何事も正解です。朝起きたときから爽やかな気分で、活力あふれる1日を予感するでしょう。気力もみなぎり、どんなことにも挑戦できそうです。 2/10 心身ともに好調で、好きなことが思う存分できる日となりそうです。やりたいことがあったら尻込みしないで挑戦しましょう。ベッドで信頼関係を築いた相手と別れたくなければ、高級レストランや展望台のある高い建物に行きましょう。運気が向上します。バスやタクシー、レンタカーなどに出会いがありそうです。乗り物の中に限らず、停留所やタクシー乗り場なども出会いの場所になるでしょう。今日のデートはうまくいきそうですが、さらに楽しいものにするにはいつもより大胆なファッションで出かけてみましょう。 2/11 精神的に充実し、今日は何事もなく順調に、目標にしていたことも達成できて、知識の幅が広がり、セックスも充分に楽しめそうです。出会いが期待できそうです。密度の濃い1日になるでしょう。ちょっと期待していましょう。楽しみも増します。一気に深まっていきそうです。一番気持ちの良いものとなります。 2/12 友だちからの相談には、親身になって話を聞いてあげましょう。ただし、結論を出したり、行動を起こすのはあくまでも本人です。そこは割り切って考えることが大切です。外出の際には幸運なアイテムを持っていくと良いでしょう。“大殺界”の魔力から守ってくれるはずです。他人と親しくなっていくと私は不安になる。私の自由が侵されるような不安におそわれる。私が持っているたった一つのものは、私の自由。だから私はどんなことをしてでも、この大切なものを守る。ちょっと攻撃されても耐えられないし、教訓を聞かされたりお説教されてもだめだ。ある人物が私に影響を与えていくと、ますます私はその人に対して憤りを覚える。たとえ優しく教えてくれたとしても、そうなる。彼からされることだけは、すべて耐えることができる。彼が私をしかると私は信じられないくらいつらくなる。彼にお願いするのをやめると泣きたくなる。なぜなら、私は自分自身を抑えていると感じるから。でも、もう一方で私は彼に何一つ逆らえない。こんなどうしようもなくて耐えられない痛みが私を苦しめる。だけど、同時にそのような痛みを感じると、私はうれしくなる。彼が怒ると、私は自分が低い地位におとしめられることにかえって喜びを見いだす。 2/13 恋人やパートナーの力を借りようとすると間違った方向に進みそうです。幸運な色の小物を身につけると明るい気持ちを保てます。あなたがいつまでも優柔不断な態度を取っていると、相手がしびれを切らして、離れていってしまうかもしれません。気持ちの高まりが些細なことで揺れてしまいそうです。展望台で景色を眺めると冷静になれます。セックスは普段通りのやり方にして下さい。 2/14 気になる人を食事に誘うことを考えている人は、明日まで待って下さい。受け入れてもらえる確率が上がるでしょう。何を買ったというわけではないのに、何となくお金が出て行ってしまいがちです。あなたの思いやりに欠けたひと言が、相手を怒らせてしまいそうです。今日は新しい出会いは期待できそうもありません。バレンタインデーなのに恋人と喧嘩してしまいそうです。セックスの前にコンサートや展覧会などで気分を高めておきましょう。 2/15 自分を磨くことにお金を使って下さい。イメージチェンジ、ダイエットなど、プロの手にゆだねると確実に成果が出そうです。もう少し相手の気持ちも考えてあげましょう。あまりにマイペース過ぎては、相手もどう接していいのか困ってしまいます。今日は周囲のことに気を配り、もっと関心を持つようにしましょう。新しいことに挑戦すると、うまくいく日です。 2/16 手に余るような問題が発生しそうです。でも、深刻にならず「何とかなるさ」とゆったり構えていると、自然と解決に向かいます。あなたが結論を出しかねている問題に、職場の同僚や同じクラスの友人が良い助言をしてくれそうです。お互いの絆も深まるでしょう。帽子や小物など、いつもの装いに何かをプラスするオシャレが出会いを運んできます。「ちょっと派手かな?」と思うくらいで良いでしょう。あわてて階段を駆け下りたり、電車に飛び乗ろうとしないことです。刃物の取り扱いにも注意して下さい。愛情が高まり、出会いにも恵まれます。出会ったその日にセックスすることはありませんが、一途な思いが相手の心を動かします。 2/17 小銭入れやハンカチなどの小物に幸運な色を取り入れて下さい。空いた時間にストレッチで体を伸ばすと、集中力がよみがえります。たくさんの人と関わる機会がありそうです。出会いの場所は、海、川、池、ダム、噴水など「水のそば」が良さそうです。恋人とのセックスも、そろそろ次の段階へ進んでみてはいかがですか。思い切った挑戦が2人のセックスを進展させてくれるはずです。 2/18 今日のデートのために立てた計画は、ことごとくうまくいかないかもしれません。相手に八つ当たりしても仕方ありません。自分の仕事が終わったとたん、上司から残業を頼まれたりしそうです。断りたい気持ちを顔に出すと、評価が下がります。些細な喧嘩なら、一歩引くだけで関係は修復できます。仲直りの後のセックスは、いつもより優しい言葉をかけあいましょう。今日は言葉で失敗しそうです。 我慢できるようだったら、薬などは飲まないほうがいいでしょう。 2/19 何人もの先輩をさしおいて、大抜擢を受けるかもしれません。初対面の人にも積極的に話しかけていきましょう。マイペースで取り組みましょう。運もあなたに味方してくれるので、交渉ごとは積極的に進めましょう。髪型を変えて新しい自分を演出してみて下さい。今まで体験できなかったセックスが楽しめるでしょう。 2/20 今日、パーティーや飲み会の予定が入っている人は、取り消したほうが良さそうです。何か失態を演じてしまう可能性があります。人間関係のトラブルから仕事や勉強がつまずきそうな予感があります。物事が思っている方向とは逆方向へ進んでいきそうなので、細心の注意が必要です。果物を絞って作った新鮮なジュースなどを飲むと、気持ちが落ち着くでしょう。何となく落ち着かず、軽はずみな行動で相手に迷惑をかけてしまうかもしれません。心が安定するまでは、セックスもお休みにしておきましょう。 2/21 今日の服装は、きちんとした中にも軽快さを持たせましょう。習い事を始めるなら今日始めると長続きしそうです。途中で挫折した習い事に再挑戦するチャンスです。自分の内面を磨くのにお金を惜しんではいけません。パーティーなど大勢の集まる場、あなたにメールアドレスを聞いてくる異性が何人か現れそうです。中には好感の持てる人もいそうです。目の前にある課題から前向きに取り組んでいけば、やることなすことうまくいきます。かつての恋人との思い出の一夜を再現できそうです。セックスでも冷静さより情熱にまかせて攻めることで、より深い結びつきが得られます。 2/22 頼られることが多くなりそうですが、確実に実行できることだけ引き受けましょう。玄関に花瓶を置いているなら、水は毎朝取り替えるのが好調な運気を維持する秘訣です。異性から声をかけられることも増えそうです。今日は普段より華やいだ雰囲気の服装で出かけてみましょう。周りの注目度も増して、良いことが期待できそうです。長い間待っていた理想の異性に出会えそうな、素晴らしい運気です。家に閉じこもっていないで、颯爽と出かけましょう。 2/23 彼は妻を愛し、そのため彼は、彼女がいないと、彼女の幻覚を見る等々のことがありました。どうして彼が彼の妻のような女性に夢中になったのか、私にはわかりません。はっきり言って、彼の妻は彼を完全に満足させていないし、彼は私というヒステリー患者に夢中になっていて、そして私はある精神科医に夢中なんです。どうしてこんなことになっているのでしょうか?解明しないといけません。私のお父様は私のことを普通の女の子として扱ったことはありません。「己自身を知る」という、お父様が表明されている不健全な願望を最もはっきりと表現しているのが彼です。彼にとっては、学術研究が世界中で何よりも重要です。つまり、バランスが取れていないが活力があり、極めて鋭敏な感性を持っていて、苦しみの中にいたい、そして最大限に共感したい、という欲求を持つのが彼なのです。彼となら全てが可能です。望んだものは全て、愛情と優しさと一緒に、彼から得ることができるのです。 2/24 今日は、本音をしゃべりすぎないように注意して下さい。特に、身近な人に対する批判や悪口を話題にするのは初対面の相手にも嫌がられます。自重して下さい。今日は少し距離を置くようにして、連絡は電話やメールにしておきましょう。相手とは会わないほうが良さそうです。注意力が散漫になり、セックスも相手とタイミングが合いそうもありません。展望台のある建物から夜景を眺めて気分転換しましょう。 2/25 これからのデートの予定を、大幅に変更しなければいけないような事態が起こって、口論することになるかもしれません。思い通りにことが運ばないで、いら立ってしまいそうです。疲れているという自覚症状があったとしても、ミスの理由にはなりません。貯金をいったん取り崩してしまうと、とめどなく使ってしまうことになりそうです。 2/26 今日は人の意見にふりまわされてしまいそうです。できるだけ情報は遮断したほうが心穏やかに過ごせるでしょう。台所や浴室など水周りの掃除を念入りにしましょう。“大殺界”の影響を弱めることができるでしょう。外出するときは幸運な色の小物を身につけて出かけるのが良さそうです。約束がキャンセルされそうです。理由を確かめずに責めると、相手もケンカ腰になるので、落ち着いて下さい。何かとトラブルが起きやすい日ですが、相手にご馳走すると運気が向上するでしょう。いつもの相手とのセックスでも気を抜かないようにしましょう。 2/27 台所に観葉植物を置くと、運気はさらに上昇します。新しいことを始めるのに最適な日。ウォーキングや水泳などの有酸素運動で基礎体力を鍛えておくと、セックスも思う存分楽しめます。そもそもあの恋愛は私には苦痛しか生まなかった。私が彼の胸に抱かれる時だけ、私は全てを忘れることができた。 2/28 クラシック音楽に、耳を傾けてみて下さい。心がなごみそうです。恋人のことをいつも以上に愛しく思えるでしょう。大切にすることです。自分には混じりけのない良心なんかなくて、あるのは感情だけじゃないのか。自分のやったことに不安を覚えないのだから。友人「私は血まみれの子供たちを見ているというわけね。」

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「私はあなたの記憶の再生なの/1つの“人格”ではないわ/記憶を選択するのもあなた/誤った記憶であっても私はそのまま再生する」
「何かを見れば見るほど現実感が遠のく/本当は何かを感じないといけないのに」“ソラリス”より

我々が写真を目にする時、無意識的に写されたものの中から何かを読み取ろうとします。それは永らく写真は外界の真なるものを映しているという概念に基づいて成立していたからであり、この前提に依拠することによって写真が世界の曖昧さや空虚さを否定し、外界に確固とした世界や記憶されるべき歴史があるという揺るぎない事実を担保してくれているかのように見えたからです。しかし、写真に写っているものは“もの”そのものではなく、あくまで“もの”を映したもの—即ちコピーであり、それは他者が形成したリアリテイをカメラを通して再現させているに過ぎないという言説が形成されるに至って、かつて写真にあったアクチュアリティは要素の中の一部分にまで希釈されてしまったように思います。しかし、実体を伴わない脆弱なメディアである写真に裏付けを与えるものはアクチュアリティであり、それを再獲得するために必要なものはカメラの純粋な記録機能を用いた行為者の執拗な実践であり、実践に更なる速度と過剰な負荷を加えることによりアクチュアリティはより強固なものとして浮上してくるように思います。「今議論しているのはもっと重要なこと/人間の認識の限界のことです/既成概念を以って限界とするなら思考の無限性という信念を傷つけ、進歩を妨げ後退を助長することになる。」我々が既成概念を超え、無限性に向かうために必要なものは行為の結果として滲出してくるであろうアクチュアリティであり、その為に我々は過剰な行為を執拗に繰り返しているのかもしれません。
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