The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 3月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #12   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
傑作というのは無数の失敗によって成り立つことを前提とした、幸運にも選ばれたごく一部の稀な存在であるのなら、すべてが傑作であり、失敗がありえないロバート・フランクの『アメリカ人』のコンタクト・プリントが証明する事実は、写真は基本的に失敗がありえないし、失敗が存在しないメディアなのだから傑作や駄作という区分けもありえない。写真には失敗や成功を区分けする基準が最初から存在しないメディアなのではないだろうか。
失敗や成功を区分けする基準が存在しないのなら、写真には傑作を選択する主体が最初から自己の内部に存在せず、写真における傑作の根拠は、これは傑作だと言うことで傑作が成り立つ同語反復でしかないだろう。傑作だと言ってしまえば何でも傑作になりえる(荒木経惟は自分の撮った写真をすべて傑作だと日頃から言い続けている。“天才アラーキー”という彼が自分で考え出したキャッチコピーは、何十年も言い続けたことによって天才のインフレーション状態を起こし、天才の価値を下落させる。傑作や天才などという選ばれた希少価値に根拠を置く、特権性や才能に対して荒木経惟は徹底的にその価値を踏みにじるだろう。写真における傑作や天才は不必要な存在であり、“写真は選択の芸術”だと世間一般に流通するその神話に、その選択するための価値基準を決定する主体の審美眼を、荒木経惟の天才宣言やロバート・フランクのコンタクト・プリントが不要で不必要なものだと宣言する)。美や傑作を決定/確定できないという写真の主体性が希薄な事実を『アメリカ人』のコンタクト・プリントが露呈する。写真は決定のための絶対的な基準を放棄せざるをえないのではないだろうか。時が経てばすべてのものを傑作にしてしまう写真に(アジェのすべての写真に優劣の差が存在するだろうか)、取捨選択を決定する主体がどこに存在するのだろう。選択の基準が存在しない。何も決められない。垂れ流しで無責任な撮りっぱなしが写真の本質なのではないだろうか。
選択の基準がないにも関わらず、虚構の基準がでっち上げられ、写真はそれでも選択されなければならない。写真の選択基準というのは、絶対的なものではなく、流動的で曖昧で、選択基準を裏付ける根拠など無いに等しい無根拠な基準であり、写真家の絶対的な審美的意識を基準に行使される選択という“写真は選択の芸術”の神話に対して、基準は常に写真家の気分によって移り変わる。荒木経惟のように毎日傑作を生み出しているなら、その傑作を選択する基準はほとんど無いに等しいだろうし、傑作が毎日量産されるならそれは本当に世間一般の言う傑作なのだろうか。傑作は何か根拠があって傑作と言われるのではなく、傑作だと言うから傑作なのだという同語反復の世界に入り込む。
“私現実”や“あらゆる写真は私写真である”と荒木経惟が言う意味は、写真を見ることは各自の固有の体験であり、各自が勝手にばらばらに面白いと感じたり、傑作だと感じたりと個別的評価以上の、万人に共通する普遍的傑作はありえない。“あらゆる写真は私写真”なのだから、傑作は個別的に、孤独に評価されるものであり、その個別的評価が最終的に普遍的評価に辿り着くことはないのだ。普遍的根拠によって裏付けられることが不可能な写真の傑作は、傑作の根拠は傑作だと孤独に言い続けるしかない。傑作はどこにも存在しないだろう。けれど傑作は存在する。その傑作は根拠の無い同語反復の傑作であり、誰にもその傑作の理由を本当に共有することができない。
写真史に残った傑作というのは、これは傑作であるという言説を皆が信用するだろうという憶測と希望で決定され、その根拠が存在せずにシステムだけが動いている構造は、貨幣の無責任な構造と良く似ている。貨幣は未来永劫誰もが使用すると信じられているから使用される訳で、写真史における傑作もそのように恣意的で無根拠なものでしかないだろう。傑作は他者の判断に委ねられる。その他者の他者がまた同じ判断を下すであろう、そしてその他者の、他者の他者が同じ判断をくだすであろう‥という根拠の無い他者への憶測の無限連鎖を信じることで写真史の傑作は成立するのであり、だからその傑作を本当に共有することができないのだ。無根拠な憶測を誰もが共有していると無根拠に信用しているだけであって、誰もが自分の審美眼を信用している訳ではない。荒木経惟やロバート・フランクの写真は傑作を共有することは不可能であり、それは傑作が並列されることで成り立つ写真史という歴史の成り立ちをも不可能にするだろう。個別にこれは傑作だと決めつけ、勝手にそれを享受することしかできない写真の傑作は、見る人の数だけ傑作を乱立させる。わたし達が見ている写真は“私写真”や“私現実”なのだから、傑作は普遍性を持つことができずに無限に増殖するしかないのだ。無限に増え続ける傑作を写真はどうやって歴史化するのだろうか。
時が経ってすべての写真が傑作になってしまったアジェの消極的な傑作のどこに作家的な主体性が関与してるのだろうか。主体の能動的な関与が傑作の価値を生み出すのなら、写真は主体の関与無しに傑作を生み出してしまう。絵描きのための資料として売買を目的に写真を始めたアジェが、傑作を生み出すために何の努力をしたのだろうか。傑作を構成するために必要な表現意識が写真には最初から欠落している。何一つ言いたいことが無いのに傑作を生み出してしまったアジェや、言いたいことが何も無いのに、ただ写真集を作りたいという気持ちだけが先行して写真集を作ってしまった鈴木清の『夢の走り』のように、写真は表現したいものが何もなくても成立してしまうメディアだ。主体性の関与無しに写真が傑作を生み出してしまうのなら、それはカメラという機械が、写したすべてを傑作にしてしまうという魔法の機械なのであり、その機械に対して主体の関与が低ければ低い程、傑作を生み出してしまうだろう。取捨選択を行う主体の中枢意識と取捨選択することができない中枢意識の欠落したカメラの二つの存在が対立する写真の場で、主体の関与をいかにして差し引くか。主体の成立ではなく、主体の放棄が写真家の主体形成に必要なのであり、写真作家としての主体性の確立は主体の放棄にあるという、ダブルバインドを写真家は引き受けなければならないのだ。
写真の選択はその場しのぎでいい加減なものであり、そのときは選ばれずに外された没カットが後に復活することは写真家にとって日常茶飯事のことだろうし、没カットだけの構成によってまたもう一つの傑作を作ることも可能だろう。トリミングという撮った写真のフレーミングを自由に変更することができる暗室テクニックを導入することによって、傑作と刻印された一枚の写真から、またもう一つの傑作を追加することもできる。フレーミング作業は一枚の写真の中から、無限に新しい写真を創出することであり、それは取捨選択した一枚の傑作から無限に傑作を産出することができるという、傑作を無限に切り刻み断片化することを可能にするシステムだ。この一枚という決定された絶対的なオリジナルの一枚を持つことができず、トリミングやプリントの調子で無限に傑作を産出できる写真に、どんな傑作を選択することが可能なのだろうか。オートマチックに傑作を生み続ける写真は、“選択の芸術”というよりも、選択不可能であることを受け入れざるをえないメディアであり、選ぶことを可能にする主体の構築を最初から放棄したメディアなのだ(例えば写真家は展示する会場の広さによって、写真のサイズを変更する。それは写真には絶対的なサイズが存在しないからできることなのであり、けれど作品のサイズを常に場所によって変更するという芸術が、写真や一部のもの派のアーチスト以外のどこに存在するのだろう。作品のサイズは通常作家が決定する訳で、会場の広さという外部的な条件で作品のサイズを決める写真に作家的主体性の成立が本当に可能なのだろうか)。
写真集『アメリカ人』の芝生で寝転ぶ黒人のカップルやビリヤード場の写真は、版が新しく刷られる度にフレーミングが変更され、名作『アメリカ人』の没カットで、また新たな『アメリカ人』を作った最近のロバート・フランクは、傑作を成立させるための重要な概念、決定を放棄してしまったのだろうか。傑作は決定という枠組みに囲い込まれることで成り立つ存在であり、決定無しにはどんな傑作も成立しない。何も決定されないままの宙づりの傑作がありえるだろうか。いつまでもトリミングを変更し続け、没カットで同じタイトルの写真集を作るというのは、価値判断が決定された同定的状態に置かれることで成立する傑作を、もう一度価値判断される以前の分裂的状態に戻そうとしている。傑作を大量に産出することで、傑作を成立させている決定という、プロセスを停止させる概念が宙づりにされる。決定を放棄することは、傑作を制作中の現場に引きずり戻すことであり、無限に続けられる制作プロセスを停止させる決定という概念をロバート・フランクは、『アメリカ人』をリミックスし続けることで無化するだろう。
写真史の名作と言われる『アメリカ人』を、フレーミングの変更や一般的には使えなった写真、駄作というイメージがある没カットでまた新しく構成したりするロバート・フランクは、選ばれたかもしれない写真やトリミングという無数のフレーミングが成立可能な無限の仮定的領域にこそ写真のアイデンティティが置かれるべきだと思っているのではないだろうか。写真集の版を重ねる度に変更されるロバート・フランクの行き当たりばったりの適当なトリミングは、この写真の本当のトリミングはこうなのかもしれないし、こういう可能性もあるのではないかという、傑作を成立させるための決定を破棄し、仮定への無限の欲望を表出する。
仮定という非決定の領域に写真を置くことは、決定という最終形を宙づりにし続けることであり、版を新しく刷る度に行われるロバート・フランクのトリミングは最終的な完成形を想定して行われるトリミングではなく、その時々の気分で流動的に決定された仮の決定であり、価値判断されることを拒否し、常に変更可能な制作プロセスをそのまま提示するためのトリミングなのだ。作品を成立させるための“決定”という概念をロバート・フランクは放棄する。重要なのは選んだことではなく、選び続けることだ。写真はそしていつまでも選び続けることが可能なメディアであり、並べ直し、更にトリミングをすることで完成を無限に先延ばしできる。
リー・フリードランダーが撮った写真をジャンル毎に配置し直して発表したのも、写真はいつまでも無目的に片っ端から撮り続けることができるメディアであり、そのアナーキーな写真の本質をそのまま発表することもできず、見る側に共通なコードを設定するためにジャンル分けしたのだろう。何でも撮ることができる写真は、基本的には終わることができず、区分けをしなくてもいい、誰にも理解されなくても構わない、いつまでも勝手に撮り続けることが肯定されるメディアなのだ。完成や決定という作品を成立させるための決定という終わりの概念は、無限に無目的に生産し続ける壊れた機械のような写真の制作プロセスとは相容れない概念であり、けれど終わることで完成する作品の本質と終わることができない写真の本質というアンビバレンスを写真家は受容しなければならない。終わりや完成は自分が死ぬ以外にできないから、写真が作品化されるために、とりあえずジャンルという区分けのシステムに乗ることで、終わることのできない、撮りっぱなしを本質とする写真に、共通コードとしてのジャンルと完成という終わりを導入する。その終わりはとりあえずの終わりであり、常に仮の終わりなのだ。作品であることも肯定しなければならない写真は、その仮死状態から蘇生するのでも、死ぬわけでもなく、仮死状態のまま生き続ける。撮り続けることというのはだから生の現在進行形でも完成や終わりというゴールを目指すことではなく、仮死状態のまま生き続けることなのだ。
ウイリアム・クラインの『ニューヨーク』の写真のように、完璧なこれ以外は考えられない、誰にもトリミングし直すことができない唯一無比のフレームを構築するためのトリミングではなく、どんなトリミングもありえるのではないかという、フレームの無限の複数化を露呈するためのロバート・フランクのトリミング。決定することのできない、あらゆる仮定の領域に写真を留まり続けさせることがトリミングには可能なのだ。トリミングはだから決定ではなく、決定の無限の遅滞化であり、作品を成立させるための決定そのものを無効にする。トリミングの非決定性が、最終的な決定を前提にする作品の領域から写真を解き放つだろう。トリミングの非決定性がいつまでも写真を仮定の領域に保留し続ける。作品の成立が作者による不動の決定を前提にするのなら、仮定の領域に存在し続ける写真は最終的には自らを作品化することができず、作品としての自己を提示することを拒否するだろう。最終形を想定しないロバート・フランクにとって写真の作品化よりも、それはいつまでも仮定の領域で留保され続けることを選ぶのだ。作品という不動の屍体を選ぶよりも、死の側にも生の側にも何処にも帰属しない仮死状態のゾンビのような動く屍体をロバート・フランクは要求する。
決定を放棄するということは、何処にも帰属しないことの意志表明であり、写真集『ストーリー・ライン』の露光アンダーや、現像失敗の写真、私信の手紙に、ポラロイドに書かれた文字(Sick of Good-by)、16㎜カメラで撮ったローリング・ストーンズのドキュメンタリー『Cock Sucker Blues』 のフィルムの切れ端などがアットランダムに編集されているのも、それはロバート・フランクの写真がどのジャンルにも帰属しない、常に仮定というプロセスの中でしか写真は存在しないという態度の表われなのだろうか。
決定しないということは、曖昧模糊な領域に身を任せることであり、その曖昧な領域の中で写真家は主体を確立することができるのだろうか。いつまでも曖昧で仮定の存在であり続けるということは、主体という同一性を複数化、断片化し続けることであり、決定が常に変更され、宙づりされ続けることを肯定する写真家にとって、最終的に主体の同一性を自己の中に構築することは不可能だろう。写真家は作家的主体をわたしではなく、被写体という外部に求めるのではないだろうか。写真は主体なしで撮り続けることができるメディアだから、主体の位置はわたしではなく対象の領域に存在するのではないだろうか。わたしではなく、撮った対象が勝手に何かを表現してくれる写真の構造の中で、わたしの立ち位置はサブジェクト・レベルではなく、常にオブジェクト・レベルとして表われるだろう。撮った対象がサブジェクト・レベルに転化する。カメラはだから撮られた対象を物にするのではなく、撮った撮影者、わたしをサブジェクトから物に転化する機械なのだ。
ロバート・フランクのトリミングはクラインのように誰にもトリミングできないフレームの決定を志向するのではなく、いくらでもトリミングできる、決定されない無数のフレームを表出する。無限にフレーミングされる写真をロバート・フランクは、最終的に一点の傑作として決定することを放棄するだろう。いつまでも決定されないというそんな無限に制作を続行させるトリミングを、作家がコントロールや決定することができるのだろうか。決定されない、いつまでも仮定でしかない状態を強要するロバート・フランクのトリミングは、自己の作品をコントロールや決定できると思い込んでいる作家的主体性を廃棄させるだろう。写真集という最終形に対して、版を重ねる度に新たなトリミングを行使するのは、仮定という誰にも分からない外部を写真に注釈し続けることであり、最終形として写真集に収められている写真でさえもが次の版刷りのときにトリミングされるかもしれないという、非決定の領域を決定された写真集に付加し続ける。それは写真集という完成形として内部化された写真に外部を導入することであり、ロバート・フランクの写真集には、決して完結できない外部がいつも見えない形で存在する。
最終的な完成形を表象するためにトリミングが行使されるわけではなく、それは好みや気分で行われるトリミングであり、完成形を想定した確固たる基準が存在して行使されているわけではない。好みや気分は変転するものであり、そこに決定は無い。決定という概念は主体の存在が前提になる概念だから、その前提を好みや気分というあやふやな領域に依存しているロバート・フランク的決定に、何が決定できるのだろう。決定の基準は日々更新され続ける。好みや気分に合わせてトリミングするということは、気ままに更新される気まぐれの肯定であり、決定されたことを日々覆すということは、決定するべき主体を放棄することなのだ。好みや気分は主体と対立する。好みや気分の領域に主体の入る余地は無い。
写真の選択は何によって決定されるのだろう。写真の選択を決定する好みや気分は、わたしの領域に存在しながらも外部の刺激によって変転し続けるあやふやな存在であり、その成立の根拠はわたしではなく、刺激を与え続ける外部に存在する。わたしの内部に内包された好みや気分は、わたしの内部にありながら、外部のあやふやな要因によって決定される。外部の領域に根拠を定めた好みや気分が写真を選択するその基準は、わたしではなく外部=他者であり、その外部=他者も絶対的な外部=他者ではなく、状況や雰囲気で決定される流動的で曖昧模糊な外部=他者が基準の根拠なのだ。決定の基準を好みや気分の領域に依存するということは、状況を無根拠に憶測しながら、状況次第で決定が変化する。わたしという確立された自我を放棄したわたしは、状況によって日々更新され続けるわたしであり、自己を統合する根拠が状況によって日々更新されるということは、わたしを流動する状況に投げ渡し、いつまでたっても同一のわたしを形成することができない。好みや気分という曖昧な外部の領域に自己の形成を投げ渡すことは、わたしがいつまでも統合されず、日々書き換えられることを肯定するわたしであり、そんなわたしとは病理的なわたしでしかないだろう。病理的なわたしが決定する写真に一体何が表現できるというのか。外部の曖昧な領域に身を任せているわたしが何を表現すればいいのか。病理的なわたしとは、主体が存在しないわたしなのだ。表現には表現を成立させるための確立した自我が必要であり、そのような自我を放棄したわたしにできることは、表現ではなくただ目の前のものを撮ることだ。目の前の撮ったものがわたしを表現するから、わたしを成立させるために、わたしは撮り続けなければならない。確立した自我を持つわたしが写真を撮るのではなく、写真を撮ることでわたしが現れる。写真はオブジェクト・レベルとサブジェクト・レベルが完全に逆転して現れるメディアであり、わたしが表現するのではない。撮った対象によって、わたしが表現されるのだ。
トリミングされた写真は、さらにまたトリミングされるだろうという、無限連鎖のトリミングを予想させる。今はまだ現前化されていないけれどいつかトリミングされ、変形されるだろうという未来が、現段階でのトリミングの中に常に内包され続ける。それは決定とその不動を前提とする傑作という概念の否定であり、常にトリミングをし続けるという仮定に執着するロバート・フランクの写真に傑作という称号は本当に必要なのだろうか。傑作などというものを放棄したところから写真は始まるのではないだろうか。ロバート・フランクのように撮ってしまったカットがすべて素晴らしい傑作なら、傑作はどこにでも偏在する石ころのようなものでしかなく、それは傑作という価値のインフレーションを呼び起こすだろう。すべてが傑作なら、傑作という価値は下落する。そこには傑作と傑作でないものの差異が失われているのであり、すべてが傑作であるロバート・フランクの写真は、だからもう傑作ではない。傑作という価値は差異という場が産出するものであり、傑作に対して駄作という、成功と失敗が対置されることで差異が生まれ、そこに傑作が産出されるのなら、“わたしの演奏にミストーンなど無い”と言ったチャーリー・パーカーように、すべて傑作のロバート・フランクは写真から価値という概念を追放するだろう(元々時が経てばすべての写真は傑作になってしまうという構造を抱えた写真に、傑作と駄作という差異を操作することで剰余価値を生み出す資本主義の芸術システムとは相反するだろう。傑作のインフレーション状態を是とする写真は、最終的には資本主義のシステムと敵対する)。
写真は価値を産出しない。価値というのは搾取であり、差異の無い所に差異を人工的に作り上げ、その非対称的な差異性から利潤を生み出そうとする操作の結果が価値なのだ。失敗でもないものを失敗とレッテルを貼ることで成功や傑作が偽装される。それは本来の意味での失敗ではなく、構造的に必要とされた失敗であり、ブルジョワの社会において下層労働者や失業者を構造的に必要とするように、傑作という概念は、写真に失敗を恒常的に要求するだろう。失敗という存在が傑作を生み出す。希少性を前提として成り立つ傑作は、ブルジョワの商業主義が要請した概念であり、同じイメージを何枚も生み出すことのできる近代式工場のような写真に傑作はあり得ない。近代式工場との差異化を図ることで成立する芸術的傑作とは、だから絵画のように手工業的イメージを偽造することによって成り立つ概念であり、手工業の価値ある一点ものを産出するシステムではなく、大量生産を可能にした近代の産業システムから生まれた写真に傑作が成立するのだろうか。
フレーミングを決定して、シャッターを押すという写真家の選択は、現実を美的に切り取るための選択ではなく、無数の可能性の中から任意の一点を選択しただけの、たまたまのことであり、それは必然的な選択や、被写体との運命的な出会いというよりも、選択や出会いの日常的な偏在化だ。選んだことに何の価値もない。それは価値があるから選ばれたのではなく、つねにたまたまでしかありえないその場しのぎの選択なのだ。その選択に根拠は無い。その場しのぎの選択という、写真においての選択行為は、撮られた写真に傑作という希少価値を与えるための選択ではなく、傑作を偏在化することであり、撮ってしまったあらゆるカットを傑作にするために恣意的に選択が行使される。選ぶ基準が日々変化する写真家の選択は、選ぶことで価値を決定するのではなく、どうでもいい気分で選ばれたもので、それは傑作を道端の石ころのように扱うだろう。
百葉箱 Screen #12
小松 浩子 (写真家)
パノプティコン(一望監視施設)と呼ばれる刑務所はイギリスの思想家ジェレミ・ベンサムに最小限の監視費用で犯罪者の更生を実現するための装置として考案され、収容された人間は権力者のまなざしにより常に監視され従順な身体であることを強要される。更に近代が生み出した軍隊・監獄・学校・工場・病院等は規則を内面化した従順な身体を造り出す装置として同一の原理に基づいている。学校に於いて児童は教師のまなざしにより常に監視され規則を内面化した従順な身体を強要されるが、学校の活動時間内に於ける活動を休憩・休息の為に中断する休み時間には教師による児童への監視は緩められ従順な身体の強要により生じるストレスを発散する機会と成り得る。内向する者にとって休憩・休息の為の休み時間は他者のストレス発散を避ける事に全神経を集中する必要があり、学校の活動時間内に於いて最も緊張を強いられる時間となる。遊戯室は広さ約60畳の板張りの広間で雨天等により外で活動出来ない場合の児童の活動の場で用具置き場も兼ねる。遊戯室という閉塞した空間に於ける児童の過密状態により通常にも増して活発なストレス発散行動が発生する為、内向する者は逃げ場を求め周囲を見渡す事で用具置き場に跳び箱を発見する。跳び箱は19世紀初頭に空間での身体支配能力の向上を目的にスウェーデンで考案された箱形の体操用器具を指し、当初は縦横共に150cmの正方形であったが1920年代に北ヨーロッパでの普及に伴い安全性の観点から長方形の木枠を山形に積み重ね最上部に布や革などを張った現在の形状へと改良される。利用方法は重なる木枠の数を変える事で跳び箱の高さを段階的に加減し、手前に踏切板を置いて助走から両足を揃えて踏み込み、跳び箱に両手をついて飛び越える。跳び越え方には様々な種類があり代表的なものとして開脚跳び・閉脚跳び・台上前転・前方倒立回転跳び・側方倒立回転跳び等が挙げられる。日本では1913年に制定された学校体育教授要目により全国の学校に設置される。跳び箱の文部科学省規格品は小・中・大型に分かれるが遊戯室には小学生以下を対象とする長さ80cmの小型の跳び箱が6段積まれ高さが80cmとなっており、6歳児の平均座高65cmであれば膝を抱えて中に収まる事が出来る。跳び箱の最上段をずらし中に収まり各段に有る運搬の際に手を差し入れる穴から外部を見渡す事で安全に休み時間を過ごす事が出来るようになる。跳び箱に保護された状態でストレス発散の奇態を眺める事は舞踏や演劇の鑑賞同様に良質の娯楽であり、他者に気付かれ一段目を閉じられるまで機会ある毎に跳び箱の中で過ごす。他者の悪意により跳び箱の一段目が閉じられると児童の力では中から開く事が出来ず、内向する者は教師に発見されるまで長い時間を跳び箱の中で過ごす事になる。本来は身体支配能力の向上を目的とした箱形の体操用器具が保護から監禁へと目的・用途の変更が可能であると言う事は、全ての事象も本来の目的・用途から変容・逸脱する可能性を持つ事を知る。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
3/1 今日は、ヤーシャと私の結婚式でした。最初に私たちがサーニャとミーロチカを結婚させました。でも、うまくいきませんでした。花嫁が結婚の前も後もおっぱいをほしがり、結婚式の間中笑っていたからです。私たちも同じように結婚したのですが、それはこういうふうにです。まず、幸せな結婚を与えていただけるように神様にお祈りしました。それから、お互いに指輪を相手の指にはめました。そのあと、サーニャが私たちを祝福しました。ヤーシャはサーニャとミーリチクに次のように呼びかけました。「殺虫剤の粉がわれわれを祝福せん!」。ミーリチクはいやがりました。そこでサーニャは私たちにこんな言葉で祝福を与えました。「二人に幸運あれ。悪魔よ、くたばるな、悪魔よ」。それから私たちはキスをしました。こうして私たちは結婚しました。私たちはお祝いをしました。ママもこのお祝いに加わりました。私は一年のうちに子どもがほしいです。女の子です。その一年あとには男の子がほしいです。地道な努力が実を結び、練習中のテクニックが大成功します。今日のセックスでは相手を骨抜きにするつもりで激しく攻めてみましょう。 3/2 揉め事があっても一歩引くことで丸く収まります。心の痛手は優しく愛情深いセックスで回復するでしょう。激しいだけのセックスはいけません。デートをしていても、機嫌の悪さが相手に伝わってしまいそうです。無理してでも、明るく振る舞いましょう。上体部の点検をして下さい。少しでも気になるところがあれば、すぐに専門医の検査を受けましょう。お酒の飲みすぎや食べすぎで胃腸が疲れています。胸焼けや嘔吐感などで不快な1日となるでしょう。とりあえず胃薬を飲んで下さい。 3/3 春物の衣類はアウトレット店で買うと良いかもしれません。お洒落な服を格安で調達でき、家族じゅうで満足できるでしょう。異性からの熱い視線を感じたからといって、飾ろうとしてはいけません。自分らしさを忘れないで下さい。歩きながらの飲食はせっかくの運気を弱めてしまいます。飲みすぎには注意して下さい。 3/4 花粉症の症状が出ている人は、対策を万全にしましょう。とにかく、無理はしないで下さい。他人の言葉を鵜呑みにすると、意外なところで落とし穴に落ちるかもしれません。責任は自分にあると心得て結論を出して下さい。ストレスが溜まりがち。対人関係でトラブルが起こる予感があります。対人関係に難がありそうです。あなたの言動が原因のようなので。パーティーの席などで、場の雰囲気がぎくしゃくしてしまうようなことを口走りがちです。人と過ごすより、1人で取り組める、自分1人の時間を作ったほうが、1人でできる仕事を、1人で空回りしてしまいそうです。今日は早めに帰ったほうが今後のためでしょう。今日は普通のセックスを楽しんで下さい。 3/5 友達や同僚たちと一緒に食事に行くと、つい食べ過ぎてしまうかもしれません。「その一口が肥満のもと」と肝に銘じて下さい。つきあっている相手がいる人にも、二股をかけたくなるような異性が現れる可能性があります。どちらかを選ぶ究極の選択を迫られるかもしれません。異性に多くを期待しすぎてはいけません。お互いに息苦しくならないうちに話し合って下さい。ほしかったものが手に入りそうです。セックスの回数や内容に不満を感じているなら、思い切って自分からリードしてみて下さい。努力した分だけ、大きな快感が得られます。 3/6 知り合った相手にご馳走したり、贈り物をしたりすると、良い発展がありそうです。食事にお金をかけましょう。今日の出費は浪費にはならず、2人の関係に親密さが増すことになるでしょう。募金や寄付など、自分のためではなく、人のためになることにお金を使うと運気が上昇します。麺類を食べると運気の上昇につながるでしょう。 3/7 予定外の収入があった場合は、貯蓄に回すより思い切って使いましょう。そのほうが新たなやる気につながります。遊びすぎると、懐が冷え込みがちになるかもしれません。でも、いざというときには救いの神が現れそうな予感があります。とりあえず家族に助けを求めて下さい。甘いものを食べると能率が上がるでしょう。人間は、ついに、自らを調和させることを目指すようになるだろう。労働や歩行、遊びのさいに、自分の諸器官が最高に美しくなることを目指すようになるだろう。人間は目標を定めるだろう。自らを、より高度な段階にまで高める―より高度な社会的・生物学的タイプにまで高めるという目標を。これは、言い方を変えれば、超人を創造するという目標なのである。 3/8 ほかのことが気になってセックスを楽しめないようです。高い場所にある展望台から夜景を眺めると、精神的な安定が得られます。期待できそうな人と出会うのですが、言葉の端々にとげがあります。はたして味方なのか敵なのか、あなたは不安になりそうです。賭け事で大枚をはたいてしまうおそれがあります。どうしてもやりたいというのなら限度額を決めて下さい。たとえ大当たりしても深追いは厳禁です。育った環境が違いすぎる人との交際は、将来、暗雲が垂れ込めそうです。覚悟を決めたうえで始めて下さい。 3/9 予定していても、実際にまとまった現金が出て行くと懐がさびしくなるものです。広大な自然の風景写真などをながめると、お金にこだわらない前向きな気持ちを取り戻せそうです。車を運転する人は飲酒や、スピードの出しすぎに注意しましょう。いくら頭ではわかっていても、今日は“大殺界”ですから、用心に越したことはありません。何もしたくない気分でも、とりあえず単純作業から手をつけましょう。やる気のない態度をとると、相手の気分を害してしまいそうです。ある程度は明るく振る舞わないと、冷たいと思われてしまいそうです。可もなく不可もなくの人としか出会えそうにありません。積極的に話をしても、心もとない反応しか返ってこないので、過剰な期待はやめましょう。 3/10 人目を気にすると、無用なストレスを抱えることになります。「人は人、自分は自分」と割り切りましょう。昼食は少しくらい贅沢をしたほうが気持ちも晴れてきそうです。心の隙につけ込むような人と、知りあってしまいそうです。自分をしっかり持って、逆に利用するくらいの気持ちで接しましょう。悪魔と手を組んだというのに、炎を怖がってどうする? 3/11 今日はあなたが相手から甘えられそうです。そんな雰囲気をあなたが醸し出しているからですが、良い感じで過ごせるでしょう。将来の報酬にも結びつくはずです。男性の不自然な役割を見ていると、その背景には混乱した状況があるように思えます。これはあなたのことです―女の子の相手であるあなたのこと…でもあなたは、私に対するあらゆる感情を抑制しようとされます。その結果、単なる手練手管と嘘だけがあなたのやっていることの本質だ、ということになってしまうのです。その結果、あなたが半ば無意識のうちに、遠まわしに私にお気持ちをお伝えになる、ということが起きているのです。ピンスヴァンガー教授の研究を私にお渡しになりましたよね。あそこですべてが明々白々なんですから。こんなことを私があなたに全部説明しなければいけないのでしょうか?なんのためでしょう?まずあなたは、多分ほとんどおわかりですし、それに、こんなことを言っても、あなたが全部否定することはまちがいありません。以前は、私と一緒に抽象的なテーマについてだってお話ができたのに。今のあなたは、ご自分の性的コンプレックスに密接に関わっていないことについてであれば全部お話になるのに、精神的に負担をお感じになることについては「講演をする」ようにしかお話になりません。それは、性的コンプレックスがあまりにも強くて、あなたがもはやそれを統制できないためです。こんなことをお話しすると、とても居心地が悪い感じがします。でも、ほかにどうすればいいというのでしょうか?私をおとしめるような言い方で自己弁護をされるのを許すことなど、私にはできません。 3/12 無性に酢の物が食べたくなるかもしれません。体が欲しているサインですから、食べたいものを食べても構いませんが、食べ過ぎには気をつけて下さい。恋人との付き合いが長い人は、2人で純愛物の映画でも見に行って見ましょう。あとでお互いの感想をじっくり話すと、これまで気づかなかった相手の新たな一面を知ることができます。つきあいの長い恋人がいるなら、今日は2人で貯蓄や支出の内訳をチェックしましょう。将来に向けての計画が立てられそうです。バスタイムは入浴剤にこだわって下さい。 3/13 幸運な色は、小物に使うと良いでしょう。ペットを飼いたいなら、友人はもちろん近所の人や職場の仲間にも話しておきましょう。相性ぴったりのペットが見つかりそうです。読書をしながらの半身浴で心身ともにすっきりします。幼なじみや古い友人などを相手として意識する瞬間があるかもしれません。慎重かつ大胆に行動して下さい。ただし、その場限りのセックスはおすすめできません。運気が下がりそうです。 3/14 勝手な判断は避け、すぐに専門医にかかりましょう。また、かかりつけの医者を見つけるチャンスもありそうです。金額の大小にかかわらず、今日はお金を借りてはいけません。親睦会や送別会の幹事役は積極的に引き受けて下さい。肌のたるみが目立つようなら、大至急お手入れをして下さい。出し惜しまずに、たまにはお金を有効に使うことを考えて下さい。抜け毛が気になるかもしれません。洗髪したあと、抜け毛がかなり目立つようなら髪のお手入れをしましょう。食事にも原因があるので見直して下さい。下着には幸運な色のものを着けましょう。 3/15 軽い気持ちで手がけたことが大当たりしそうな予感がします。数字を使ったくじに挑戦するなら、直感で決めた数字を記入してみて下さい。意中の人から声をかけられて、舞い上がってしまうかもしれません。今日を機会に人生が大きく変わりそうです。目標も難なく達成できるかもしれません。能力も間違いなく上昇しています。恋愛であれ仕事であれ、こんな人とはとてもつきあえないと思うような相手との出会いがありそうです。生活の充実ぶりが招いたもののようです。(人間というものは、しばしば地獄にいることもできますし、そういうときにも天国について語ることができるものです。)こつこつ貯めてきた積立貯金が、かなりまとまった金額になっていませんか。 3/16 このところ穏やかな会話が続いていたパートナーとの関係にひびが入りそうです。気に触る発言があったとしても、さらりと聞き流しましょう。今日は、お札と小銭を分けて持つようにして下さい。不思議と無駄遣いしなくて済みそうです。これを機会に、習慣にしてはどうですか。今日は精神状態が不安定になりがちなので、対人関係でトラブルが起こる可能性があります。今日は無理がききません。何をするのも億劫で、能率が上がりません。そのまま1日が終わってしまうでしょう。こんなふうに話すと相手に嫌がられないか、笑われないか…そんなことばかり考えてしまうかもしれません。出会いは空回りしそうなので、少しお休みしましょう。 3/17 何をしても自分の財産になる日なので、催しに参加したり人に会うなど、積極的に行動して下さい。人の集まる場所には積極的に顔を出しましょう。やってみたいと思っていたことが、ようやくまわってきそうです。自信を持って取り組めば、失敗はないでしょう。心身ともに、これ以上ないくらい充実しています。やりたいことがあったら、何でも良いですから挑戦してみましょう。 3/18 仲間にすばらしい食材を使っておいしい手料理をごちそうするなど、人のために行動すると良い出会いがありそうです。恋愛相手の出現の可能性もあるでしょう。強烈な刺激を与えてくれる人との出会いも期待できます。恋人には食事を振る舞いましょう。精神の充実がセックスにもいい影響を与え、歓びはどこまでも大きくなりそうです。 3/19 旅行など、レジャーが良い出会いを生みそうです。日常から離れて寛ぐことで、積極的になれるでしょう。自然な流れに逆らわず生活することで、運気を呼び込めそうです。自然体でいることが一番大切です。家族とゆっくり語り合っても、楽しい時間を過ごせます。日頃はなかなか口にできないことも、今日なら素直に話せそうです。時には家族全員での旅行を計画してみてはどうでしょう。「彼女の脆弱な神経を考慮すれば、最大限の保護が必要である。これにより、彼女は学業に打ち込むことができるようになるであろう。現在の改善された状態を維持するためには、長期にわたって、お嬢様がご家族のいかなる義務からも、完全に自由であることが必要なのであります。」 3/20 寄付やボランティア活動など、人や社会の役に立つ行動をしてみましょう。それらによって、家族の健康と安全を守ることができると考えて下さい。おいしい話は鵜呑みにせず、話半分に聞いておかないと後で後悔しそうです。大事な決断は、“大殺界”を抜ける後まで先延ばしにしましょう。デートが台無しになったりしても、2人のせいではありません。あなたの連絡不足が原因で、周囲に混乱を招いてしまいそうです。思い切って交際を申し込んだ人からむげに断られたり、別な人から好意をほのめかされたりと混乱気味になるかもしれません。何かと細かいミスに悩まされそうです。公園でウォーキングやジョギングをすると気分が晴れ、セックスにも良い影響を与えてくれます。 3/21 頑固な性格が災いして相手から責められてしまいそうです。今はひたすら耐え忍び、セックスも我慢したほうが良いでしょう。朝からなぜかイライラして、仕事が手につかないかもしれません。失敗を隠すと、更なる失敗を招くおそれがあるので気をつけて下さい。素敵な人に出会ったとしても、何かと失敗が続きそうです。肩から首筋、後頭部にかけて重苦しい感じがしそうです。 3/22 昼食は香辛料のきいた食事がおすすめです。運気が回復し始める午後からは調子が良くなり、予定通りの用事をこなせるでしょう。長期的な視野に立って物事が考えられないようです。目先の損得だけで判断すると、ひどく後悔することになりそうです。小さなことにこだわりすぎると、肝心な話ができなくなってしまいます。寛大な気持ちで接するようにしましょう。周囲への気配りができなくて、他の人から白い目で見られてしまいそうです。指示を受ける前に、動くようにしましょう。特に午前中は集中力に欠けるので、大事なことは午後に回したほうが良さそうです。何かと面倒に感じることが多く、セックスにも気が向きません。いつもと違う場所だと、かなりの満足感が得られるでしょう。 3/23 体調万全でセックスを思う存分楽しめそうです。いつもの定番セックスの技や愛撫に少し変化を加えるだけで、気持ちよさが倍増するでしょう。下半身がだるかったら、膝の下の「足の三里」や足の裏のつぼを刺激してみてはどうですか。職場や学校での快適な環境を作る努力をしましょう。身の回りの整理は当然ですが、同僚や友だちとの共有の場所・設備にも気配りすると良いでしょう。スイス人と外国人の間で、ほとんど暗黙の了解になっていたことがある。スイス人は講義室の第一列に座るのを控え、それに対して、私たちはできるだけ教授のそばに座ろうとする―一つひとつの言葉がわかれば、理解することはもっと簡単になるからだ。この特権的な地位を享受していたがゆえに、時々不愉快な目にもあった。私たちは実験のときに水をかけられたり火花を飛ばされたりした。鼻を突くようなひどいガスが流れてきて咳き込むこともしばしばだった。スイス人はそうやって楽しんでいたわけである。 3/24 知人からの助言は、今後の運命を左右するほどの貴重なものになりそうです。辛口であっても、素直に耳を傾けて下さい。長電話に相手が迷惑顔であることに気づくべきです。ためらいや迷いはチャンスを逃すもとです。テレビ通販でこれと思うものを見つけたら、売り切れになる前に電話をかけて下さい。思いついたらすぐに実行に移しましょう。待ち合わせにも先方より早く行くなど、今日は何事も先手必勝を心がけると、良い結果を生みそうです。思い通りにいかないセックスも、何回か挑戦すれば必ず成功します。2人で協力しあって、お互いの快感を高めあいましょう。 3/25 活力に満ちた1日になりそうですが、何事もやりすぎはよくありません。購買意欲が高まります。どうせ買うなら、品質の高いもの、一生使えるものにしてみてはどうですか。自分のものばかりでなく、家族のものも一緒に求めて下さい。家計を理由に今まで買い控えていたものがあるなら、ここはローンを組んででも買ってしまいましょう。なんとかなりそうです。相手が浮気をしているかもしれないと疑っていた場合も、今日ですべてすっきりできるでしょう。思い過ごしだったことが判明するはずです。彼は、自分が私に優しすぎた、そのため私は彼に性的関係を求めるようになったが、もちろん自分はそれを望まなかった云々と言うのです。私は左手にナイフをもって立っていました。ナイフで何をするつもりなのか、自分でも知りませんでした。私はその先どうなったか覚えていません。突然、彼の顔が蒼白になり、左のこめかみを手で押さえ、「君はぼくに切りつけた」と言いました。私の左手と腕は血まみれでした。私は彼に平手打ちをくらわせたのです。 3/26 病院での検査や、自治体の実施する健康診断を受けてみてはどうですか。気になることがあれば徹底して調べてもらいましょう。 3/27 画期的なアイデアや斬新な計画が次々と浮かんできそうな日です。そのままにしないで、書きとめておきましょう。「有機化学実験、月~金の八時~九時」という講習で小さな注射器と微量のKCN(シアン化カリウム[青酸カリ])をくすね、大学病院に行く。私に話しかけてきた人に[注射]してやるためです。KCNは効果を上げるためだけのものです。だって、注射器には水しか入っていませんから―この計画については、これ以上は黙っておきたいです。心は晴れやかで、うきうきした気分で過ごせそうです。仕事でも私生活でも、これ以上ないといった喜びを感じるかもしれません。 3/28 とんでもない言いがかりをつけられるかもしれません。でも周囲の人は事実を知っていますから、堂々としていれば大丈夫です。玄関には花を1輪飾っておくと良いでしょう。今日は思いやりに欠けるわがままを言わないように気をつけましょう。つきあっている相手を怒らせないことが大切です。誤解が元で、仲間と険悪な雰囲気になるかもしれません。対人関係に難があるので、先に怒らないようにしましょう。気持ちがとげとげしている感じで、些細なことで誰彼構わず突っかかりそうです。パーティーで複数の素敵な人と出会い、どちらがいいかなどと迷っているうちに、別の人にとられてしまいそうな日です。 3/29 自分自身でも驚くほど、相手の考えが手に取るようにわかってしまう日です。やりたいこと、言いたいことも言い当てられるでしょう。今までのセックス観は捨て、様々なセックスを試してみましょう。天気が良かったら、散歩をしてみましょう。行ったことのない町の路地を歩くと、いろいろ新しい発見がありストレスも解消できるでしょう。心から楽しいと思う瞬間がほとんどない。私たちが帰り道で干草の上に寝そべった時でもそうだ。むしろ私は、干草、それから自分の周りの静けさ、そして働いている農民たちがすごく好きだ。つらい、すごくつらい。何もかも醜悪だから。でも、自然はこんなに美しい。 3/30 恋人の生まれ年に作られたワインなどを見つけたら、思い切って奮発して下さい。あなたがリーダーシップを発揮すると、物事が順調に運びそうです。恋人と海外旅行を計画するなら、今日がいいでしょう。旅行への期待に胸が膨らみ、より深い官能の世界へ導いてくれるでしょう。 3/31 携帯を買い換えるなら、新しい機種のものにしてみて下さい。昨日までと気分が変わって、金運が上向くかもしれません。積極的に行動しなくても、快感は自然に訪れます。無理な挑戦は避け、恋人との幸せなセックスを存分に味わいましょう。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
感覚に知覚された概念は省察して作り上げた観念や記憶に刻印された観念のいずれよりもずっと生彩で際立つので、
その観念が私自身から生まれるはずがないと思えた “たのしい知識”

日常的に撮影を繰り返していると、ある時点で写真が漸進的に変化していく時期があるように思います。撮影の初期には漠然とした観念として捉えていたイメージを写真化する為にルールを設定し、それに則り対象を観念に引き寄せることでまず写真として現前させ、それを踏まえた上で撮影と検討を繰り返し大枠を作っていきます。この段階では写真はルールによって制度化されていることにより撮影時にも理性が優先されているので写されているものが前面に明確に見え、写真は整理された状態で現れてきます。しかし、日常的に撮影を繰り返すことにより無意識的に現実を写真のように認識することが習慣化されていき、それに伴って元々あった観念からこぼれ落ちた写真が出てくるようになり、当初抱いていたイメージに歪みが現れてくるようになります。この段階になると制度は肉体化され自動的に行使されるようになりますが、作家の持つ根本原理のようなものが自身でも理解できないままに横たわり、言語化され得ない欲求や指向性などが理性に回収されない野蛮な視線として写真上に滲出してくるよう思います。撮影の初期に現れていた大枠はあくまで作家の経験や知識から導きだされた観念であり、過剰な日常性や習慣性による理性の介在しない撮影行為が常態となったときに漸く写真群は当初の観念を超えて変容し、作品として自立していくのかもしれません。
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