The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 5月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #14   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
その目的が社会正義のためだろうが何だろうが、写真を撮るということは、根本的に悪いことではないかと思います。写真というのはその存在自体が“悪”というのかな。それも更生可能な“悪”や、劇的な“悪”なんかではなくて、悪意がないのに“悪”になってしまう、つまらない“悪”。平凡で日常のルーティンみたいに無意識に行なわれる“悪”。“悪”一色しかない退屈な“悪”。写真の“悪”は、一般的にイメージされる“悪”と違って、それが何で“悪”なのか分からない、微妙で、けれど凶暴な“悪”が跋扈しているのだと思います。
写真に撮られると、人だったら人格を、物だったら物の意味を、場所だったらその土地の歴史を印画紙の中で抹消してしまいます。水木しげるの妖怪一反木綿みたいに、ぺらぺらな印画紙の中で対象から人格や歴史を抹消して、美しく定着させてしまうのです。インディアンの虐殺された場所を、得意のゾーン・システムで美しくプリントしてしまうアンセル・アダムスの美しさは本当に“悪”でしょう。虐殺の場所を美しく見せてしまうなんて、一般的に考えればとんでもないことですが、そんなアンセル・アダムス的な“悪”が写真の世界では、気軽な感じで、日常茶飯事に行われているのです。
ストリート・スナップですと、“人間が好きだから”なんていうヒューマンな理由で撮り始める人が多いようですが、好きと撮るって違うと思うのです。むしろ両者は両立しないというか。本当に好きだったら、写真になんか撮らないで、肉眼に焼き付くぐらい好きな対象を凝視していれば良いのだと思うのですね。写真に撮りたくなるって、本当はその対象が好きじゃないのではないかって思ってしまいます。写真に撮るのってある意味、所有願望でしょう。これを自分のものにしたいっていう。それもそのまま所有したいのではなくて、写真的に変調させて手に入れたい。好きな人を溺死させて、その溺死屍体を、水槽の中で展示する藤子不二雄の『愛の水中花』のような話に似ています。写真を撮るって本当にその人が好きで、やむをえず撮ってしまった行為なのでしょうか。まして“人間が好きだから”と言われても、一方的に好きになられた被写体は、その人を好きになるのか、どうかも分からない。ほとんど一方通行の愛です。たぶん成就することはないのでしょう。ストリート・スナップというのは路上で一方的に愛を、みんなの迷惑も顧みずに行なう行為です。暴力的な愛の押しつけほど迷惑なものはない。けれど愛というのは、元々そんな暴力的なものだったのではないでしょうか。暴力的で、一方的ではない愛なんて、幻想なのではないでしょうか。好きな人の人格を思いやるなんていう、一般的に思い込まれている愛のイメージよりも、距離80㎝ぐらいまで近寄って無理矢理スナップするストリート・スナップの方が、よっぽど愛に近い行為なのではないでしょうか。
ブルジョア社会において二人の愛が結実したことを証明する制度は、結婚という制度です。ブルジョア社会での結婚制度は、一応男女共、対等で平等な関係を前提にしている制度だと説明されています。そんな相手の人格を思いやった結果としての結婚を、“結婚はブルジョアの淫売制度だ”とレーニンは喝破しました。ブルジョア社会においての愛は、相手を独占的に所有することです。ブルジョアは結婚相手を対等なパートナーだなんて思っていません。ブレッソンの映画『やさしい女』(質屋の男が、一目惚れした貧乏な女性と、お金の力で無理矢理結婚する映画です。そしてそんな人身売買みたいな結婚が、本当の愛の姿だと信じこんでいる脳天気な男の映画です)のように、そこには当然、“所有する/所有される”という関係が成り立っています。愛の形態がブルジョアの社会では私的所有の形態をとるなら、ストリート・スナップの愛は成就することも叶わず、一方的に愛を告白し続けるというロマン派の愛のようです。むしろ成就=独占という制度を拒否しているというのですか、いつまでも結実することを拒否するストリート・スナップは、永遠に世界と平行線のままです。そこには目的もないし、完成もない。彼らは完成=作品という概念を棄却してしまったのでしょうか。
ストリート・スナップはそういう意味では、写真の原理に忠実な撮影行為だと思います。写真は対象と結実することが不可能なメディアでして、どんなに近寄っても距離を廃棄することができません。カメラを媒介にしている写真は必ず距離を必要とします。対象に触ったり、触れたりしたら写らない。触覚や触感を拒否されたメディアです。永遠に触れることもなければ、所有することもできないロマン派的、騎士道的な愛が写真です。愛の不可能性が、彼らをストリート・スナップに走らせるのです。そんな愛の前には、著作権や個人情報なんて知ったことではありません。
写真が対象を勝手に所有したいという欲望を持っているからなのでしようか。他人を勝手に撮るとむっとされるのは、自分の顔や肉体がなんだか他人に無言で奪われたような気がするからだと思います。自分の顔や肉体は自分の所有物だというのが、近代社会の前提ですから、勝手に撮られたら、それは家に泥棒に入られたようなものですから怒ります。自分の顔や容姿というのは自分の所有物でしょ?当たり前ですけれど、けれど自分の所有物であるべき己の肉体が、見知らぬ他人に勝手に物質化されて、加工されて、定着までされてしまうなんて、やっぱり許せないと思うでしょうね。それに撮ってしまったら、その写真は一応永遠に残ってしまいますから。見知らぬ人に勝手に永遠の生命を与えてしまう、ストリート・スナップはまるでキリストのようではないですか。ストリート・スナップは、姿を残さずに黙ってこの世界から消えていく権利を、被写体から剥奪するのです。本人の許諾がないまま、勝手にスポットライトを浴びせてしまうのです。そんな“悪”の行為を気軽に日々実行している写真家はやっぱり“悪”の存在だと思います。
そんな“悪”の自覚があんまりないまま写真を撮っているというのがまた“悪”に近い。人格や意味や歴史を剥ぎ取って、勝手に物質化しているのに、それが意識的ではなく、無意識に行なわれているのです。キャプションでちゃんと説明しているから大丈夫だと思っている人もいるかもしれませんが、いくら言葉で説明しても対象は、科学的なプロセスによって加工され、定着されてしまう。薬品や感材の化学的変化に晒された対象は、いくらキャプションで説明しても元の生き生きとした有機的存在に戻ることはできないのです。
写真を撮るというのは、だから撮るたびに生物を屍体に、意味や歴史を残骸に変質させているのだと思いますね。写真に“生き生き”なんていう言葉ほど、絶対に似合わない言葉はないのではないでしょうか。写真は“生きる”なんていうものからほど遠い存在なのです。映画だと主人公やその彼女の写真が出てくるシーンの後は、必ず写されたその人が死んでいるし、写真に似合うのは死です。写真が大活躍するのは葬式とか、たいがい不幸な時ですからね。だから小津安二郎は、写真を深く理解していると思いますよ。『麦秋』の家族で集合写真を撮るショットがありましたが、明らかにその後の、家族の離散と孤独な死が待っていることを暗示させていましたように、写真を死の暗喩として扱う小津安二郎は、写真の本質が分かっていたのではないかと思います。 伊丹十三の『お葬式』の喪服の女性に欲情するシーンがありましたが、喪服というのは制服みたいなもので、制服を着た女性に欲情するというのは、要するにその女性の人格には欲情しないということでしょう、制服っていうのは人格や個性の否定であって、人間の物質化ですから。『お葬式』というのは、欲情が発動されるのは人間が人格を廃棄されて物質になることで欲情は発生するということを表しているわけで、写真が発明されてすぐにヌードを撮り始めたのも、裸の写真化という、裸を印画紙に定着させることで物質化された裸が、人を欲情させるということを無意識に知っていたのでしょうね。写真のエロティシズムってだから生がないのですよ。それは物質ですからね。当然、生が欠けている。写真は生が欠けたエロティシズムというのかな。でも生が欠けていたらそれはもうエロスじゃないと思います。
バタイユの熱狂的なエロティシズム、“エロティシズムは、死に対する生の高揚”に対して、もっと無機的な死の感覚が写真には近いと思います。生を高揚させない死というのかな。高揚感の欠けた、無機的な死しか持てない写真に、生=エロスがあるのでしょうか。写真にエロティシズムなんてだから元々関係ないのですよ。先天的に写真には、エロスがかけているのです。荒木経惟はだからあんなにエロス、エロスと連呼するのではないでしょうか。先天的に写真にエロスが備わっているのなら、あんなにエロスとか連呼しないでしょう。“生の高揚”がないのですから、写真にエロスがあるわけがない。
けれどエロスがないのに発情する。『お葬式』のコスプレ的なショットは、有機的存在が無機的存在に変質するときに生まれる欲情でしょう。何の高揚もないまま発情しているのですよね。これって屍体に欲情しているようなものではないでしょうか。もしかしたら屍体でなければ欲情しないのかもしれない。生きてない方が欲情するのかもしれない。写真に欲情を起動させる力があるのは、写真は対象を屍体に変質させるからかもしれません。実際の風景を肉眼で直接見るよりも、写真で見た方がきれいなように、裸だって直接見るよりも、写真に写した裸を見る方がより発情すると思うのです。そしてその写真になった風景や、裸には“生”が欠けている。それは印画紙に定着された風景や、裸の残骸か屍体です。人格を抹消してコスプレ化しなければ発情しない『お葬式』のように、風景や裸を残骸や屍体に変質させる写真は、だからエロスなしで欲情させる力を持つのです。お葬式の写真と、女性の裸や性交シーンを併記している写真集を作った荒木経惟が写真に死と欲情を結びつけているのも、写真は屍体だということを知っての発言なのでしょう。
“悪”に対して自己を全面的に投企することで、“悪”の果てにエロスの極点を見出すという俗流バタイユ的な聖なる“悪”じゃなくて、覚悟や決意もなく“悪”になってしまうルーズな美意識や、無防備な善意が写真の“悪”です。どんな善意も“悪”に変えてしまう写真。悲惨で陰惨な現実も、とりあえず見ることができる程度には、加工してしまう写真。ようするに写真はみんな凡庸な程度に美しくしてしまう。カメラというのはそういう装置なのですね。どんな現実も美しくしてしまうか、奇妙なオブジェに変調させてしまうカメラの存在が、写真を“悪”の領域に追い込んだのだと思います。
写した対象みんなを、凡庸な程度には美しくしてしまう。そんな凡庸な写真には、“悪”という言葉が連想させるような劇的なイメージがあまり感じられませんね。おぞましくないのですよね、写真における“悪”って。“悪”には何だか思わず目を背けてしまうようなおぞましさ、そんなイメージがあるじゃないですか。人間の無意識の闇みたいなのが思わず露呈してしまったおぞましさみたいな、一般的にイメージされる“悪”には、そんな恐さがあると思うのですが、写真にはそのおぞましさがないのです。だって適当に口あたりが良い程度に美しくなってしまうのですから、おぞましいものが表現されるわけではないので、“悪”の美学なんていうのがそこに存在する隙間もない。ぜんぜんおぞましくないのに、“悪”なのです。でもだからこそ、手が付けられないぐらい写真は“悪”な存在なのかもしれません。
おぞましいって何でしょうか。写真の歴史は今まで、けっこうおぞましさを追求してきた歴史のような気がします。現実の悲惨さや、人間の残酷さや、心の闇みたいなものとか、なんとかそのおぞましさがフィルムに定着しないかなと努力してきました。でも写真に写ると結局どれもがみんな、適当に美しいものにしかならない。見るに耐えかねないほどおぞましい写真なんて、結局写真の歴史には存在しないのではないでしょうか。ウィトキンなんて今見たら笑いものです。おぞましいものが写らない。けれどそれが写真の一番の“悪”なところではないでしょうか。
現実界のおぞましさが露呈しないように言葉や、自我という制度が作られたわけでしょう?まともにおぞましさと直面したら、気が狂ってしまいますから。でもそれに人間の場合は現実界のおぞましさに感応して同化していく自分というのが、どこかにあったりするから言葉や自我で防御するわけですよね。おぞましさが、言葉や自我を成立させている重要な要素だと思うのです。
言葉や自我という防御装置が必要だということは、それだけおぞましさの力が無意識下に存在するわけで、その存在は自己を形成している、言葉や自我と同じぐらい自己形成に参与していると思うのです。おぞましさの方が先天的に存在していたから、それに直面させないように、言葉や自我が後天的につくられたわけでしょう。おぞましさの方が人間の本質なのかもしれない。けれど自己を形成する上で重要な要素としての、おぞましさが写真には写らない。おぞましさが欠けている写真には、多分アイデンティティーというのは存在しないのでしょう。なにしろ人間と違って、本質というものが存在しないのですから、自分の同一性なんて決定できません。
俗流フロイト主義だと、おぞましさが人間の本質だ、みたいなことが言われますよね。おぞましさが人間の本質なら、写真はおぞましさも、そこから派生する言葉も自我も持ち合わせていないので、到底本質なんていう存在を持つことができません。ノモンハンの戦場を舞台にした村上春樹の小説で、砂漠にある井戸をイド=エスの暗喩として使用していました。その井戸はおぞましいものの象徴するように使われていて、井戸の近辺で発生した動物園での動物の虐殺というシーンも、そのおぞましさを強調させるためのエピソードだと思います。そして本能エネルギーのつまっているエスを人間の本質として捉える村上春樹の小説は、人間を不気味でよく分からないおぞましい存在として描かれています。けれどそのエスに相当するようなおぞましい本質が写真には存在しないのです。だから写真には悲劇もなければ、村上春樹が描いたような惨劇も存在しない。むしろそんな得体のしれない事件もカメラを通して、適当に美化してしまいます。
写真は自己を決定付ける本質が存在しないので、例えばキャプションなどで写っているイメージの意味が180度変わるときがあります。中平卓馬も裁判に関わった、読売新聞に載った70年代の沖縄の火炎瓶闘争の写真がそうですよね、キャプションの付け方によっては、火炎瓶で火だるまになった機動隊員を助けているのか、蹴飛ばしているのか分からない。本質がないから言葉の誘導でどうとでも見える。虐殺された動物園のゾウだって“サヨナラ、ゾウさん”とでもキャプションを付けておけば、虐殺事件がたちまち涙で覆われるセンチメンタルで、孫の代まで語り続けられるいい話になります。本質が存在しない写真には、悲劇が喜劇に、笑いが涙に転じることが簡単にできるのです。
おぞましさが写らないなんて、本質が写らないと言っているようなものです。写真は表しか写らない。裏側の存在が、写真に写っていないも当然です。けれど現実は、表があるなら必ず裏がある、裏は表を影から支える重要なファクターであって、それが写真には写らない。裏というのは、表の存在を支える真理と言ってもいいと思います。その支えるファクターの存在が写真においては、写らないからという理由で無関心なものとして無視される。それでは表のアイデンティティーはどこにあるのか。表の存在をある意味成り立たせようとさせない写真のおぞましさという本質の欠落が、写真を“悪”の領域に近づけさせる気がします。
おぞましさが写らない写真の立場は言語的な存在なのでしょうか。現実を説明する(写真の優秀な写実性は、対象を説明するにはもってこいです)という意味では、写真は言語のように説明できますし、そういう意味では写真は言葉の側にいるような気もします。
写真は現実をそっくりになぞれる写実性を持ち合わせていますが、現実をすべてなぞれることができません。言葉も現実のすべてを表現できないのと同じように、けれど言葉なしでは現実を理解することが不可能です。理解できるけれど、すべてが理解できるわけではない。そんな言葉や写真の、理解するにしては中途半端な理解しかできないその理解ぶりは、おぞましさをシャッタアウトし、現実を透明でクリアにするための道具だったのではなくて、不透明で視界を曇らせるベールのような、世界をノイズ化するための存在だったのではないかと思わせます。間違った世界にわたし達を誘導するための道具だったのではないでしょうか。
アンビヴァレンツな存在である言葉と写真は、現実界のおぞましさから主体の身を守るために、現実界にベールを掛けて、説明してくれるという意味では優秀な防御装置なのですが、もしかしたらわたし達は現実を見ているのではなくて、ベールそのものを見て、それが現実だと勘違いしているのではと思うのです。言葉や写真が現実だと思ってしまうように、わたし達はもしかしたら現実ではなく、ベールしか見ていないのかもしれない。生身の現実なんて本当は、人間の肉眼で見ることができないのではないでしょうか。ベールという記号しか見ることができないのかもしれません。
おぞましい言葉やおぞましい写真なんて、基本的には存在しません。おぞましさを表現することはできないのです。おぞましいとお言われている言葉や写真も、それらは言ってしまえば、たんなる記号でしょう。そんな記号におぞましいも何もないでしょう。むしろ記号を使用しなければ、現実が分からないという方が、ある意味おぞましい。ベールという記号に生まれたときから囲まれている人間には、おぞましさと直面することなんてできないと思います。おぞましいものだと大多数が理解する記号的な表現に、おぞましさをおぼえるだけではないでしょうか。よく中上健次の小説には、おぞましさが露呈していると言われますが、どうなのでしょう。むしろおぞましいと理解できる言葉が羅列されているだけであって、おぞましさを最終的には直面できない、記号というベールを媒介にしなければおぞましさが理解できないっていう倒錯性の方を彼の小説に感じるのではないでしょうか。現実よりも、それを表現している記号の方にリアリティーを感じるというのは、さっきの『お葬式』のコスプレ話のように、かなり倒錯的ですよね。
おぞましいっていう言葉は、なんだかマッチョな感じを受ける言葉です。“俺の内側に凶暴で手のつけられないおぞましさがある”みたいな、ある意味おぞましさの度合いって、己のマッチョ度を競い合うために発動される、自慢話という気がします。おぞましさを暴露する、凶暴な無意識が自分の中に存在する話ってなんだか、“切れると何をするか分からない男”みたいな恐さを演出しているような気がして、やっぱりおぞましさやその暴露っていうのは、マッチョな意識以外の何者でもないのだという気がしますね。おぞましさの暴露ってなんだか滑稽です。中上健次の『蛇淫』とか、タイトルを見るだけでなんだか愉快な気分になりませんか。
多分写真にはマッチョ的な表現を成立させることは難しいのではないでしょうか。何しろ見えるものしか写せない、表層しか写せないメディアですから、“俺の凶暴な手のつけられない内面”なんて写しようがない。隠れた内側なんて写らないから、興味もないのです。そういう意味で写真は、男になれない芸術なのではないでしょうか。男というのは、乱暴に言うと、内面を持っている存在のことだと思います。それも重々しくてしっかりした揺るぎようのない内面を持った人間です。“男は黙って‥”とかをよく言われるのは、男という存在が言葉なんかで軽々しく表現できない、重厚な内面を持つ存在でなければならないと思われているからで、表層ではなくて、つねに見えない裏側、内面の重厚さが問題にされている存在だと思います。それに対して写真は内面がない。空っぽだと言い切ってもいいです。表層しかないたんなる記号です。重々しさの欠けた写真が男のような存在になれるなんて不可能だと思います。
ファインダーを覗いたその瞬間に、対等な関係だったわたしとあなたを、“見る/見られる”の関係に固着化するカメラの構造が、写真に“悪”をまたもや強いさせる原因なのではないでしょうか。今まで仲良く話をしていた人と、カメラを向けた瞬間に、その仲の良い関係がいきなり“見る/見られる”という非対称的な関係に変化するなんてけっこう凶暴で、凶悪な事態だと思います。わたしとあなたの同等な関係に、いきなり上下関係が持ち込まれてしまう。それって亀裂や軋轢といったトラブルを、人間関係に無理矢理に持ち込んでしまうのと変わらないのでは?でもそんな凶暴性も、とりあえず相手のにっこり笑っている顔が撮れれば、そんな非対称性や亀裂がなんだか曖昧に隠蔽されてしまう。意識的にではなくて、無意識にその隠蔽してしまうところがけっこう写真的“悪”の卑劣さを感じます。そういう無意識はドキュメンタリー写真なんかによく見受けられますが、だからでしょうか、善意を打ち出せば、打ち出すほど写真家が“悪”に近似してしまうのは。
写真家というのは基本的に善意な心を持った人々だと思います。悲惨な現場を写しながら、ゲラゲラ笑っているカメラマンなんて見たことないでしょう。なかには悲惨な現場を撮って、一発当てようという人もいるのでしょうけれど、とりあえずそういう現場を記録しておこうという心根は、基本的には善意で溢れているのです。けれどその善意にカメラが介入することで、“悪”が無意識下に顔を出す。善意が“悪”を呼び起こすのです。悲惨な現実を写真に撮ることで、世界中の人にその悲惨さを訴えるというヒューマニズムに基づいた考えは、まったく善意から発想されているのですが、現実を写真に撮ることでその現実特有のおぞましさを捨象してしまう。捨象されたことで初めて一般の人々にその写真が流通するのです。要するに現実の加工ですね。とりあえず一般の人々の涙腺を緩ませる程度には加工しなければ、その訴えは誰も取り上げてくれません。だから悲惨な現実が、ある程度美的に加工されるのです。
現実からおぞましさを捨象して、新聞やテレビに取り上げる程度の美に現実を転化させるというのは、結局“善”なのでしょうか。悲惨な現実を“美”に変質させるというのは、“悪”の行いではないでしょうか。アウシュビッツの映像に、モーツアルトの音楽を重ねて、それを美しく見せてしまったら、それは“悪”と言われるのではないでしょうか。レニ・リーフェンシュタールが戦後映画界から追放されたのも、ナチス党大会でのヒットラーを美しく撮ってしまったからでしょ?彼女はアフリカの原住民をその後も懲りずにまた美しく撮ってしまいましたが、無反省に撮られた映像の“美”というのは、無意識に“悪”と通底してしまうのかもしれません。
レニ・リーフェンシュタールも多分善意な人だと思うのです。善意で行なわれたことが、けれど180度真逆の“悪”に変質しました。“善”を行なっているつもりで、まったく無自覚に本人が“悪”に加担してしまうのです。“悪”の根本には善意が存在するのです。写真は“善”と“悪”の垣根を崩してしまう。それは彼女の撮った『意志の勝利』だけではなくて、映像の宿命だと思うのです。こんな風に善意と悪意のレベルが混合して、ごっちゃになってしまうところが、写真が“悪”である証拠なのでしょうか。なにしろキャプションや字幕の内容を変えるだけで、映像は喜劇にも悲劇にもなる。“善”と“悪”が等価の存在として映像は表出してしまうのでしょうか。どちらにしても映像は、人間の“善悪の彼岸”を超えたところで存在しているように思えます。
土門拳なんて徹底して“悪”の人だと思いますよ。なにしろ写真集『ヒロシマ』を撮ったとき、被爆者はみんな喜んでわたしに協力してくれたなんて言い出す人ですから。被爆者全員が喜んで協力を申し出るなんて、現実にあり得るわけがないじゃないですか。それを平然と言ってのけられるのは、カメラの存在がそう言わせているのだと思います。自分一人だけがこの被写体と対峙しているみたいな、被写体の不幸を一人で背負ってしまったような幻想を、ファインダーを覗いていると、土門拳だけでなく誰でもきっと感じてしまうのです。社会正義のために撮っているわたしなら当たり前だと思わせるのですね、カメラのファインダーを覗いていると。何しろファインダーから見える向こうの世界は圧倒的です。その圧倒的な世界を一人で見ているのです。それは色々な声がファインダーの向こうから聞こえてくるでしょう。使命感を誘うような扇動的な声や、この現実の代弁者になれみたいな声が聞こえてきても不思議ではない。わたしは今見ているこの現実を、世界に向けて発信しなければいけないぐらいと傲慢にも思ってしまうのは、仕方がないとことだと思いますよ。だってファインダーから見える世界は、肉眼で見るよりも100倍ぐらい素敵で興奮する世界だから。
戦場カメラマンが最前線でよく死ぬのは、彼らに勇気があるからではなくて、ファインダーから見える世界に誘惑された結果だと思います。ガイアナ寺院集団殺人事件のときに現地取材していたカメラマンは、撃たれる最後まで相手の銃口にピントを合わせようとしていました。それは勇気ではなくて面白いのですよ。その面白さに取り憑かれたといってもいいのですが、現実がなんだか現実じゃなくなる快感というのですか、現実が映画みたい見えるという、現実が記号化される快感に取り憑かれたのだと思います。そして誰だってそんな映画のクライマックスみたいなシーンから目を離せないでしょう。 『お葬式』のコスプレがそうであるように、記号化というのは快楽を伴います。その快楽はエロスとは無縁の快楽です。そこには死の危険も、そこから派生する生の喜びも存在しません。それは“生”の記号化です。『お葬式』のコスプレのように、わたしに快楽を提供させるために、世界を変質させてしまうのです。どんな悲惨で無残な現実も、快楽の道具に変質させてしまうのが写真だと思います。 現実を記号化するには距離必要ですよね。距離なしで現実を見ていたら、それを記号化する余裕なんて生まれません。写真を撮るっていうのは、まず現実から距離を取ることです。安全地帯に身を置くと言ってもいいと思います。よく“安全地帯に身を置かないで写真を撮れ”と言われますが、カメラを構えるというそのこと自体が、安全地帯に身を置くことと同じなのです。むしろそうでないと写真なんか撮れないでしょう。本当に死ぬと思ったら、快楽なんてうまれないでしょう。ガイアナのカメラマンはカメラのファインダーが、その現実を記号化してしまったために、最後までそんな映像が撮れたのだと思います。ファインダーは“死”を記号化するのです。“死”を記号化したことで、“死”を快楽の道具に変質させたのです。
ファインダーを覗くと、見ることのできる距離が生まれるのですが、けれどその距離はファインダーの中に見える現実を、映画のような世界に変質させます。距離の出現はファインダーを覗く人間を、映像の中に溺れさせるために出現したのではないでしょうか。
世界と一体化していた赤ちゃんに言葉をおぼえさせることで無理矢理現実との距離を作らせて、現実を客観視させます。客観視させることで、世界と一体感を感じていた赤ちゃんを、世界から引き離したのですね。距離の出現は一体感を感じていた世界に、亀裂と断絶を入れるのです。言葉は赤ちゃんを強制的に一体感のある世界から孤立させ、一人の主体として生きて行くことを強要します。けれどファインダーを覗いたときに現れる距離は、現実を客観視させ、世界から人間を引き離すのではなく、もう一つの幻想の世界に身を置かせただけで、言葉をおぼえさせられた可哀想な赤ちゃんのように、主体として自立することを強要したわけではないと思います。映像は、人間を主体化させないのではないでしょうか。いつまでもファインダーの中で赤ん坊のように楽しく溺れ続けていることを強要するのではないでしょうか。安全地帯に身を置いたまま、赤ちゃんのように現実を愉快な幻想のように楽しみ続ける。これほど“悪”なメディアが他に存在するでしょうか。そして写真家に憧れるというのは、こういう“悪”の存在に無意識に憧れているのではないかと思います。
百葉箱 Screen #14
小松 浩子 (写真家)
着せ替え人形玩具のリカちゃん(Licca-chan)は父・フランス人音楽家と母・日本人ファッションデザイナーの間に誕生した11歳の女児として1967年に玩具メーカーにより企画・開発される。小学生を対象としたリカちゃんの衣装デザインの公募があり近所の玩具店で応募用紙を入手した。応募用紙はA4サイズでリカちゃんの顔・手・足が黒インクで体の線が薄い灰色インクで印刷されており、体の線をアタリにして色鉛筆・マーカー等で衣装の絵を直接書き込んで玩具店に提出する事で応募となる。入選するとデザインした衣装が商品として流通し副賞としてリカちゃん人形とリカちゃんハウスが贈られるという。学級の中で特定の人物から「友達」に分類されると放課後に自宅に招かれるが、招待する側は洋風建築の家に居住しているという特徴がある。西洋かぶれとは自身の所属する文化より西洋文化を良しとし、振る舞い・服装・所持品等を西洋文化のそれに近似させる人物を指す蔑称であるが、本来蔑視されるべきリカちゃんハウスを想起させる洋風建築の家はここでは羨望の的へと逆転する。和風建築は高窓・掃出窓等により外部との境界が曖昧である為、日本猫の特徴の一つである極端に短い尾を持つ白地に黒斑の子猫が隙間から入り込んで住着く。住着いてしまった子猫の居住権につての家族間交渉を経て両親の許可が下り正式に我が家に飼猫として迎えられると直ちに動物病院で避妊手術が施される。雌猫の性成熟は生後3~9ヶ月齢と個体により幅があり、国際猫医療協会(ISFM)では生後6ヶ月齢以内に避妊手術である卵巣・子宮の摘出を行うことを推奨しており、様々な研究の結果生後7週齢~生後6ヶ月齢に行われた早期避妊に伴う発育・身体・行動的な問題点は見いだせないとしている。白地に黒斑の猫は術後暫くすると胸部が円形に脱毛した為、獣医に説明を求めると猫のホルモン性脱毛症であり、器官や臓器の働きを調整するホルモン分泌の異常により発症し原因の一つとして性ホルモン異常が挙げられ避妊・去勢手術に伴うホルモンバランスの変化に起因すると言う。発言の矛盾を指摘したところで摘出された卵巣・子宮は戻らないため白地に黒斑の猫は閉経する程度に老齢になるまでホルモン性脱毛症を患う事になる。西洋医学とは欧米において発展した医学を指す日本語の俗称であるがルネッサンスに端を発した後に自然科学と結合し19世紀後半に発展した近代医学・現代医学を指すことが多い。イヴァン・イリイチによると現代医学は病気を取り除く際に健康を取り戻すことをせず結果的に健康を損なっていると指摘している。リカちゃん人形の胸部はABS樹脂、腰部はポリプロピレン、腕・足・頭部はポリ塩化ビニルから構成されており、腕の内部には肌色のビニルでコーティングしたステンレス製の針金2本を中央部で合成ゴムによって接続しU字型に曲げたパーツが組み込まれ、この針金の変形の保持と肩・腰・大腿付け根のジョイント部分の回転により腕・足・首の可動が可能となっている。首・腕・足・胸部・腰部を取り外しそれぞれの素材に見合った維持・管理を施す必要がある。小学生にとって西洋文化を象徴するリカちゃん人形は身体を容易に解体・構築が可能であるが、自身の乳房・子宮の摘出により乳癌・子宮癌のリスクを劇的に削減することに成功したと言うアメリカ人女優は西洋文化の象徴として消化器官・呼吸器官・血液等の癌のリスクの削減にも乗り出すのだろうか。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
5/1 おまえを満足させるものは、普通はそう滅多には見つからない。だが、それはもうあると思う―間違いない。何人かの紳士方が結婚仲介人の女性をママのところによこしてきているからな。お前が学業を終えて名前[博士号]をもらったら、いよいよ結婚相手探しだ。お前にはかなりの結婚資金があるのを忘れるな。ママとお父さんはお前のために三〇万ルーブルを貯金してきたのだ。これは八〇万フランに相当するから、かなりの資金だ。これだけあればいろいろなことを始められるだろう。なあお前。もうすぐママに会うだろう。カールスバートかコルベルクで、まるまる一月ママと一緒に休暇を過ごしてみてはどうだろう。お父さんは、秋になったらお前のところまで行くし、もしかしたら試験期間中ずっとお前のところにいられるかもしれない。お父さんは今おじいちゃんに手紙を書いていて、ママの手紙を同封して送るところだ。ちょうどいい機会だからお前がうまくいっていることを教えておこう。イディッシュ語で書いているんだ。お前が学業を終わらせて、結婚して、そして幸せな生活を送ることになれば、おじいちゃんがどんなに喜ぶか。口のうまい人には注意しましょう。誕生日はもちろんのこと、何かあるたびにあれこれねだられてしまいます。このような関係はすぐに改めて下さい。 5/2 今まで頑張ってきた自分へのご褒美に、以前から欲しかったものを買って下さい。少々値の張るものでも、購入に踏み切っても良いでしょう。恋人のいなかった人にも、理想のタイプに近い相手が現れるかもしれません。長い付き合いができる人ですから、大切にしましょう。仕事先での評判がいいとか、友人や同僚からの評価が上がっているとか、うれしい知らせが聞こえてきそうです。充実感にあふれる日です。今日は良い運気の日です。気になる人が現れたら、ためらわずに声をかけてみましょう。相手もあなたに好印象を持っているはずです。自信を持って臨んで下さい。新しく出会った人と真剣な交際を望むなら、相手とのセックスはためらわないで下さい。このチャンスを活かすのも無駄にするのもあなた次第です。 5/3 変化をつけようと努力しても、結局自分1人が空回りすることになりそうです。無理はせずに、いつも通りのセックスを楽しみましょう。あまり調子に乗らないようにして下さい。調子に乗りすぎると、トラブルや怪我のおそれがありますので注意しましょう。今日はちょっと我儘になってしまいそうです。自分の欲求だけを優先させ、周囲の都合など後回しにしがちです。相手の立場にも配慮が必要です。今日は自分のほうから約束を入れたりしないで、1人の時間を大事にして下さい。そこで得るものも大きいでしょう。人間関係でトラブルが生じるかもしれません。今日はみんなでやることは極力避けて、1人でやれることを見つけるようにしましょう。 5/4 しばらく連絡をとっていなかった昔の恋人から電話が来るかもしれません。昔の喧嘩はすっかり忘れて、話が弾みます。デートに誘われたら快く返事をしましょう。夕食は居酒屋で手ごろに済ませましょう。賭け事に挑戦すると、うれしい結果がついてくるかもしれません。謙虚な気持ちを忘れないように、ほどほどの所でやめておきましょう。何も予定の入っていない人は、ご無沙汰している旧友を食事や買い物に誘ってみましょう。出会いに関する良い情報が得られそうです。いつも相手に任せきりなら、今日はあなたが率先して変化をつけましょう。相手の気持ちを理解できれば、さらに快感が高まります。私は先生の方法に従って病像を完全に近い形で分析いたしました。そして、当初から極めて有益なる成果を得ました。更なる分析によって彼女の病状は明らかに改善し、最終的に彼女は、極めて知的かつ才能豊かで、感受性の強い人物へと変容いたしました。彼女には、相手に対する思いやりに欠けるところがかなりあるのは明白であり、また、物事を公正に判断できないところがあり、さらに、何が適切なのかということを判断する感覚が欠けており、加えて、他者に対する礼儀正しさもありません。むろんこれらは、むしろロシア人の特性に帰さねばなりませんが。病状はめざましく改善しましたので、彼女は前の夏学期には大学で学ぶことができるようになっています。 5/5 今日は何かと得をすることの多い日です。自分のひらめきを信じて、宝くじを買ってみるのも良いかもしれません。買い物でもお気に入りの物を安く入手することができそうです。家族や恋人、大切な友人などに、ちょっとしたプレゼントを用意すると、思いがけないうれしい知らせが聞けそうです。たまには贅沢なデートをしてみてはいかがでしょう。散財したと思っても、その分後々思いがけない良いことが起こりそうです。スポーツもいいですが、たまには美術館や博物館などを訪れてみましょう。精神的なリフレッシュを図ることも、体調を整えるうえで大切なことです。 5/6 流れに逆らわないことで、張りのある時間が送れそうです。セックスでも、無理に新しいことを取り入れず、心のおもむくままに楽しんで下さい。知り合いの紹介で、異性との付き合いが始まる可能性があります。良い影響を与えてくれる人ですので、真剣に交際しても良いでしょう。ファッション雑誌をじっくり見ましょう。限定品で気に入ったものを見つけたら、今日のうちに買いに行って下さい。似合わないと決めつけて、避けていたものに挑戦してみてみて下さい。自分に自信を持つことができ、家族とも積極的にかかわることができるでしょう。 5/7 今日はファッションセンスが冴えています。さらにオシャレに関心を持つようにして下さい。どうしても欲しいものがある人は、貯金を取り崩してでも購入したいところでしょう。ただし運気が好転するまで、少なくともあと3日は我慢して下さい。今日は周りの人の意見に従って物事を決めましょう。1人で決めると、後で責任をとらされてしまいそうです。自慢話はほどほどにしたほうが良いでしょう。周囲の賛辞はお愛想で内心は別かもしれません。調子に乗っていると、後で反発を受けそうです。つまらないことが原因で、相手と衝突しそうです。すぐに仲直りしたかったら、自分のほうから先に謝りましょう。我が家には、兄弟姉妹が秘かに「爆弾」と呼んでいたポーランド人の子守の女性がいた。五人の子供は元気だったから、家ではいつも何かがあったが、たいていは、おもちゃの取り合いで起きた喧嘩だった。一番年上だったから、私はいつも兄弟喧嘩の責任を負わされた。そのたびに私は、間違ったことが認められ、正しいことが否定された、と感じて深く傷ついた。その上、それまで私はヤーシャに意地悪をしていたが、この頃になると、兄弟の中で最も乱暴者だった二番目の弟サーニャが私をいじめるようになっていた。しかも彼は、突然怒り出すような気まぐれなところがあったから始末が悪かった。ところが、子守の女性はサーニャをえこひいきした。私は、自分の怒りを日記にぶちまけて溜飲を下げるしかなかった。あの人は別にきれいじゃないし、鼻が長くて、とにかく大変悪い人です。やせていて大きくて、とても不潔です。あの人は私たちを憎んでいて、いつも私たちと喧嘩しています。あの人の故郷はワルシャワです。 5/8 個人的な問題が急浮上して一気にストレスが溜まりそうです。だからといって、一時的な慰め欲しさに愛のない関係を結ぶのは避けましょう。「愛していると思ったのは錯覚だった」と思うくらい、突然パートナーが嫌いになる可能性があります。すぐに離れたくなるかもしれませんが、性急な判断はおすすめできません。あなたのどっちつかずの態度が、相手の機嫌を損ねてしまいそうです。急いで取り繕うとすると、相手が怒り出してしまうかもしれないので気をつけましょう。気分が滅入って、仕事をする気にならないかもしれませんが、態度に表すとトラブルになってしまうかもしれません。今日はできるだけ単純作業を選びましょう。 5/9 買い物など、贅沢すぎたり豪勢すぎるものは避けましょう。身の丈に合ったものを選ぶのが肝心です。電車の中では居眠りをしないで下さい。知らないうちに、だらしない格好になっていそうです。友達や後輩から食事代をせがまれそうです。そういう時は先行投資と考えて、ご馳走するのも良いでしょう。ただし、調子に乗りすぎないよう気をつけて下さい。今日は人が大勢集まるところに出かけると、かえって孤独を感じてしまうような日です。外出の予定があるのなら、控えた方が良いかもしれません。人間関係のトラブルに巻き込まれて、心身ともに疲れてしまいそうです。おざなりなセックスをするくらいなら、今日は抱擁程度に控えておきましょう。 5/10 他に考えなければならないことはたくさんあるのに、ついつい恋人のことを考えてしまいそうです。恋人にメールで報告すると、飛んできてくれるかもしれません。恋人のいない人は、あなたの落ち着いた雰囲気に惹かれて甘えてくる異性が現れそうです。断るなら早いほうが良いでしょう。うれしい出会いがありそうです。相手もあなたに好意を抱くかもしれませんが、今はあせらず、良い関係を築くことだけを考えて下さい。 5/11 予想外の臨時収入は、思い切って使ってしまいましょう。家族全員でオシャレをして豪華な夕食に出かけてみてはどうでしょう。仕事ぶりを見込まれて、名指しで依頼を受けるかもしれません。自信を持って引き受けるようにしましょう。」こちらから働きかけなくてもチャンスは必ず訪れますので、焦らずに待ちましょう。体だけでなく、精神的なつながりを大切にするべきです。 5/12 自分では気づかない癖を注意されそうです。素直に聞くことができれば、より魅力的に慣れるかもしれません。普段使っている小物を他社の製品に変えてみて下さい。家電製品を買い換えるなら、価格よりも環境への影響やデザインを重視して選ぶと良いでしょう。自由契約で仕事をしているなら、売り込みをかけるまたとないチャンスです。自分を安売りせず希望を提示すれば、金運をつかめるかもしれません。 5/13 お目当ての人の前で妙に虚栄心が高まってしまいそうです。自分を偽っても良いことはありません。見栄を張らずに自然体で接して下さい。何となく覇気が感じられないのは、疲れているせいでしょう。相手の話を上の空で聞いていると、気分を悪くして怒らせてしまうかもしれません。終わったはずのことで、新たな問題点が見つかりそうです。対処の仕方を間違えると大事になりかねません。いつもなら綿密に計画を立て仕事を進める人も、今日は少し大まかに考えたほうがよいかもしれません。とんでもない思い違いをしていることがありそうです。振り出しに戻り問題点を整理していくと、それが何かを明らかにすることができるでしょう。疲れがたまっているかもしれません。体調管理を心がけて下さい。 5/14 身近な人が手足となって動いてくれそうなので、遠慮なく応援を頼んでみて下さい。食べ物の誘惑に負けダイエットに挫折しそうになったら、香りの良いお茶を飲みましょう。空腹の辛さを忘れるでしょう。劇的かつ発展的な出会いが待っていそうです。刺激やときめきを求め、積極的に人が集まる場所へと出かけましょう。意中の人から、突然誘われるような予感があります。飛び上がって喜びたい気分でしょうが、冷静さを失わないように、ありのままの自分を見せましょう。 5/15 残高のいかんにかかわらず、銀行の通帳は肌身離さず持ち歩いて下さい。通帳記入を頻繁にすれば、自然と浪費も抑えられるでしょう。今日は誰と一緒にいても、どこに行っても注目を集めそうです。注目される理由が、嬉しいことならいいのですが、ミスなどの悪いことだと辛い状況に陥りそうです。落ち込んでいる友だちには、おいしいものをご馳走してあげましょう。一緒に泣くより、気分転換させてあげたほうが相手のためです。感情の起伏が激しい1日となりそうです。自分でも持て余してしまいがちなので、人と会うのはできるだけ避けたほうが良いでしょう。相手の年収や学歴、容姿にこだわりすぎて、せっかくの出会いをふいにしてしまいそうです。性格や相性の良さを重視して下さい。 5/16 気になる異性に近づくなら今日がチャンスです。柑橘系の香水をつけて、優雅に振る舞いましょう。中断していた積立貯金があれば今日から再開してはいかがでしょうか。友だちからお茶会に誘われたら行ってみて下さい。基本的な作法を覚える良いチャンスになります。経済雑誌を参考にして節約術を勉強しましょう。思いがけない蓄財法の裏技が見つかり、貯蓄を増やすのに一役買ってくれそうです。相手に対して求めることが多くなりそうです。自己主張は波風を立ててしまうので、1歩譲る気持ちになって下さい。 5/17 今日はあなたの好きなファッションに身を包んで相手に会うと、熱くて甘いセックスが味わえるでしょう。思った以上に良い夜になりそうです。人が良すぎるようなタイプの人に注目してみて下さい。想像以上に頼りがいがあって魅力的な人の可能性があります。相性も良さそうです。彼らには独特の礼儀作法があり、その作法を破ることはなかった。例えば彼らはいつも、自分たちが講義室に入る時に、私たちのためにドアを開けておいてくれた。講堂で端の席に座っている学生は、立ち上がって私たちを真ん中の方に行かせてくれた(彼らは優れた体操選手のように机を飛び越えて道を開けてくれた)。でも彼らは私たちが外套を着る時には手伝ってくれなかった。そんなことをしているのは、必ずといっていいほど外国人だった。スイス人に質問をすると大変親切に答えてくれた。しかし、私たちが何かいやな目に会っているのを見ると彼らは笑っていた。私たちは、そういったスイス人の学友の名前を知らなかったので、「長鼻」「だべり屋」「赤ネクタイ」など、様々なあだ名を付けた。その後私たちは、彼らも私たちに様々なあだ名を付けているということを聞いた。しかもそういった名前は、大抵は無礼なものだった。あるブルガリア人女子学生は「美しきガラテア」という名を授かっていた。背の高いやせっぽちの学生は「亡霊」。そして、背が低かったドイツ人で、化学専攻の女子学生は「可愛い女料理人」だった。 5/18 おいしいもの、気持ちの良いこと、楽しい遊びを極めて下さい。そのための出費を惜しんではいけません。恋の相手をとりこにする贈り物を考えましょう。キーワードは「心のこもった手作り」です。電車やバスなどの移動中で目についたものがあれば、ためらわずに購入して下さい。これまで身につけてきた知性や教養が役に立ちそうです。あくまでもさり気なく、が鍵です。気になる人の心をつかめそうです。愛情運が高まり、愛する人とのセックスは充実したものになるでしょう。難しいことは何も考えずに、貪欲に快楽を追い求めてみて下さい。 5/19 思わずかっとなってしまいそうな出来事が起こるかもしれません。我慢するより、はっきりと自己主張しましょう。本当の自分を理解してくれる人が現れそうです。周りの人に翻弄させられて、気持ちがちょっと後ろ向きになりがちです。何か甘い物を食べると元気が出るでしょう。ほしかったものが見つかるかもしれませんが、予算不足に悩みそうです。もう少し節約してお金を貯めましょう。変な夢を見たり、寝汗をかいたりして目覚めが良くないかもしれません。精神的な疲れやストレスがたまっている証拠でしょう。夢の冒頭から、革のベルトにつながれ、荷物のように上の方に引き上げられている力強い栗毛の馬が登場する。夢を見た人物が思いついたのは、私は「他人の助けを必要としない」ということである。助けを必要とする、もしくは他人から助けてもらう、ということを想像するだけでも、それは私にとってストレスだった。気分転換を考えて下さい。どうしようもないことで、すれ違いが生じそうです。自分のせいでも相手のせいでもなく、運気のせいかもしれません。 5/20 相手のやり方に口を出すと、たとえ些細なことだとしても機嫌を損ねてしまいそうです。理解が深まらないうちは、自分の願望は抑えるようにしましょう。仕事も生活も恋も一段上を目指したくなるかもしれません。今日あがいたとしても良い結果は望めないので、我慢が必要です。どうしても現状に満足できないなら、すべてを白紙にする勇気を持って下さい。 5/21 夜更かしや暴飲暴食で生活のリズムが崩れそうです。肌が荒れたり、胃の調子が悪い人は、そのせいかもしれません。何でも悪い方へ考えてしまいがちですが、状況は思ったほど悪くありません。あなたに近づきたいと思っている異性が多くいるようです。明るい笑顔が恋を成就させる力を倍加するでしょう。実りのない交際にお金をつぎ込むのは控えましょう。ただし、欠かすことのできないものへの出費を出し惜しみすると、後悔することになりそうです。今日はあなたに好意を持った人が現れそうです。あなたの「相手のことを知ろうとする努力」が、より好印象を与えるでしょう。 5/22 頻繁に使うものを新たに買い替えたら、自分が使いやすいように手を加えてみて下さい。付き合っている人がいる人は、相手との関係に新鮮味がなくなってきたと感じるかもしれません。ただし、態度には出さないように気をつけて下さい。ボランティア活動に協力してみましょう。周囲からの信頼が厚くなるとともに、出会いのチャンスも大いに増えるでしょう。新しい恋人との初デートにはぴったりの日かもしれません。人で混雑している街中よりも、静かな場所で語り合うと親密度が高まるでしょう。 5/23 幸運な色を中心にした装いでデートに行くと会話が弾むでしょう。セックスもゆったりした気分で楽しめそうです。気になる人と2人だけの秘密を作ると親密度が増しそうです。ただし、しつこい印象をもたれないよう、あくまでも爽やかに接することが大切です。長い付き合いをしている相手がいる人は、2人の今後について考えてみましょう。さらに親しさが増すはずです。恋人の反応が気になるかもしれませんが、自分の都合ばかりを押し付けなければ大丈夫でしょう。 5/24 夏休みは家族や恋人と一緒に旅行に出かけてはどうでしょう。よく調べて計画を立ててから、申し込みをして下さい。眠っていたセンスの良さが発揮され、浪費することなく上手に買い物ができるでしょう。好調な時だからこそ、傲慢な物言いにならないように気をつけて下さい。昔ながらの正攻法で誘ってくる人が現れそうです。まず一番に相手の求めるものが「誠実」であるならば、この出会いは今後進展していくでしょう。親しい友人を異性として意識する瞬間があったら、焦らずに少しずつ距離を縮めてください。勢いだけでセックスをしてもうまくいかないでしょう。 5/25 体調を崩しやすいので、激しいだけのセックスは控えましょう。本当に寛げる相手と、精神的にも豊かなセックスを楽しむことです。付き合い始めの相手とは、一歩前進できそうです。緊張せず、自然な態度で接して下さい。あなたの人柄が伝われば、恋はおのずと発展するでしょう。「繊細なる神経の調べにあわせ 吟遊詩人は詩を朗唱する 指が弦の上を滑るのを感じるだろう だが、君に詩人は見えない」(カール・ルートヴィヒ・シュライヒ 1926年) 5/26 ありのままのあなたを愛してくれる人が現れます。生涯の伴侶になる相手かもしれません。思いを寄せている相手がいる人は、今日がチャンスです。思い切って告白してみましょう。うまくいくはずです。2人だけの秘密を作ると親密度がより深まります。今日は少し大胆に、今まで体験したことのないセックスに挑戦しましょう。目上の人からの紹介で異性と出会うチャンスに恵まれそうです。あの父親は、彼の個人主義的で現実主義的な哲学によって私を疲労させる。あの哲学は私の熱狂からあらゆる魔力を奪ってしまうだろう。ロシアになんか帰りたくない。私はこの日記でドイツ語を使ってきた。このことが、私ができるだけロシアから遠くに居続けたいという気持ちを表している。そう、私は自由でありたいのだ。だが、どこに行けばいいのか?何を始めればいいのか? 5/27 今度の恋人は、これまでと違って一筋縄ではいきません。面倒なら別れることも考えておいたほうが良いでしょう。まずは冷静になることが必要です。まだ相手を絞り切れていない人は、そろそろけじめをつけたほうが良さそうです。今日は誰とも会わずに、よく考えて下さい。相手が望んでもいないのに、セックスに冒険や挑戦を持ち込んでもうまくいきません。いつも通りが良いでしょう。[もはや関係を持続する忍耐が性行為によってしか解決をみない事態が明らかになったとき、私は道徳に照らし合わせて自己弁護する余地のない方法で自己防御を試みてしまったのです。すなわち自分の患者の性的策略のいわば犠牲者にすぎなかったのだという妄想にとらわれた私は、かの女の母親宛に手紙を書き、私がその娘の性欲をかなえてやる人間ではなく一介の医師にすぎない事実、当の患者から私を解放する義務が母親たるかの女にある事実を申し送ったのでした。今となっては「ありのままに」あなたと患者に知っていただくことだけが、患者に対する私のせめてもの償いとなるのではないかと思いたいのです。] 5/28 似ているようで似ていない、そんな家族と意見が対立することがあるかもしれません。ここはあなたのほうから折れてあげましょう。パーティーで1人だけ抜け駆けすると、周囲からひんしゅくを買います。でも、その参加者たちと二度と飲まないなら問題はないかもしれません。あなたにとって、理想のタイプの異性が現れるかもしれません。うまくいくかどうかは天に任せて、近づいてみましょう。将来を見据えた付き合いになる可能性もあります。今日は積極的にセックスを楽しめそうです。お互いの体がぴったり触れ合う体位を試してみると、一体感がより一層快感を高めます。 5/29 流行物が大好きな友人に依頼して、パーティーを開いてもらいましょう。断るのに苦労するほど異性から声がかかりそうです。その場を充分楽しんで下さい。恋人への愛情が深まることで、セックスも充実していきます。2人の時間をたっぷり取って、将来のことや夢を話し合いましょう。いつも通りのセックスなのに、思いもよらない快感が訪れそうです。一番大事なことは、お互いの気持ちを1つにすることのようです。私は以前に考えていたよりもはるかに深く、あなたに結び付けられているという事に気付きました。ただ私は、依然としてひどく疑り深く、他人はみんな私を利用し虐げることしか考えていないと思い込んでいます。私は人間の性は本来善であるとよく言いますが、私自身はその信仰をかろうじて維持しているという有様です。でも、あなたについては断じてそうではありません! 5/30 友人との飲み会の席などで誘惑してくる異性がいても、乗らないようにしましょう。そんなときは恋人やパートナーの顔を思い浮かべて下さい。母の日のプレゼントを渡しそびれた人は、今からでも遅くありません。感謝のメッセージを添えて届けましょう。 5/31 何もかもうまくいかず、セックスでも思うように満足感が得られないかもしれません。気持ちのすれ違いが多い日です。好意を持っていた異性とも意思の疎通がうまくいかずにやきもきしそうです。恋人に気を遣いすぎると、一緒にいることが苦痛になりそうです。もっとリラックスして接するようにしてみて下さい。彼がすでに幸せになっているのなら、彼の分身(ドッペルゲンガー)は世界から退場してしかるべきだ―二重の幸福は疑わしい。たぶん私は彼の悲劇的な陰画なのだろう?呪われよ!

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
観察する行為がされるものに影響を与える “room237”

写真そのものは断片であり、そこに映っているものはレンズの前に現実にある状態を恣意的に切り取り機械的に定着した画像です。我々はそこから浮かび上がるものをコントロールすることによって鑑賞者を誘導するよう試みるのです。それは逆説的に我々の提示する写真には常に鑑賞者の視点が同時に介在しており、フレームの中に於いては我々は完全に自由であり、見たいものだけを収集し、不要なものは排斥するなど独善的に文脈を構築しているようでありながら、その置き換える行為自体が既に鑑賞者によって影響され、それによって現れてくるイメージもその支配下から完全に自由になることは出来ないように思われます。また、鑑賞される時代によっても解釈は変化し、長い年月を経て発掘された写真はその時代の文脈で解読されざるを得ず本質的に写真自体は何も変わらないが写真に付帯する意味が変化してしまい、観念上では写真は別のものになってしまう(または意図的にされてしまう)ことも往々に起こり得ます。このように写真は不定形であるが為に、自由でありながら同時に自由であることが出来ないジレンマを本質的に抱えており、作者が写真を写真のみで完全にコントロールすることは不可能なように思われます。しかし我々がその事実を踏まえてそれでもなお撮影を繰り返し写真を積み上げていくのは、膨大な量を以って時代や合理性に依拠したシステムから逸脱し、理解を放棄することによって写真が写真のみで自立するよう試みているからなのかもしれません。
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