The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 6月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
顕微鏡 Präparat #01   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
桑原甲子雄や午腸茂雄の、海外に目を向けるとゲイリー・ウィノグランドやリー・フリードランダー等々のストリート・スナップを見ると、彼らは人間が好きでスナップを撮っているとはとても思えません。一見可愛い子供達を写しているように見える午腸茂雄の『Self and Others』だって、グレー・トーンでプリントされた微細なトーンの変化で遠近感を出す、あのプリントのこだわりは、どう見ても子供を可愛く見せるためにこだわっているプリントではないと思うのです。子供の個性をグレー・トーンの微妙に変化するグラデーションの中で抹消するというのかな、子供の生き生きした姿を表現したいっていうよりも、グレー・トーンのグラデーションに合う素材として子供が選ばれているという感じがします。グレー・トーンの色彩で子供を覆ってしまうことに快感を感じているような気がしますね。
子供の背景にコンクリートや、木の壁なんかがよく選ばれるのも奇妙です。背景がコンクリートの壁で、それをグレー・トーンでプリントすると遠近感がなくなるので、子供と壁の区別がなくなる。子供と背景の壁が同じ物質に見えてくるのですよね。微細なグレー・トーンのプリントが、人物を壁から浮き上がらせるのではなくて、壁の中に埋没させる。彼のグレー・トーンへの奇妙なこだわりは、コンポラの美学からきているとは思えないのです。元々グレー・トーンって汚い色になりやすいわけではないですか。コントロールが難しい色彩ですから。彼のグレー・トーンへのこだわりは、写真をきれいに見せたい、格好良く見せたいとかっていう美意識で選んだトーンだとは思えない。午腸のあのコントラストの低くて、ツルっとしてフラットな深みのない、気持ちが悪くなるようなトーンは、美学というよりももっと彼の病的な何かがそのトーンを選ばせているような気がするのです。
昔、北野たけしがインタビューで、その女性の個性が分かってくると性欲が湧かなくなるので、そういう場合はともかく制服を着せて女性をコスプレ化して、手っ取り早く物質化する。そんなプロセスを経ることで、やっと女性に対して性欲が湧いてくると言っていました。例えは悪いかもしれませんが、午腸の写真は子供の個性を写したいというよりも、北野たけしのように対象を物質化する欲求に駆られているのだと思いますね。彼の写した子供には、個性や生命を感じられないのです。体中の体液や血液がすべて抜かれた、干物みたいな感じの子供みたいに見えるのです。特にこのきれいなグレー・トーンで子供をプリントすると、余計に非人間的な感じがする。明暗の強いトーンでプリントしたら、やっぱり何かウエットで有機的な生命性を感じさせてしまうので、グレー・トーンを選んだのでしょうか。彼のグレー・トーンは生き生きした感じを画面から消去してしまいます。『Self and Others』には、グレー・トーンにこだわることで子供を物質化して、生きているすべての物を、グレー・トーンのグラデーションの海に溺死させたいなんていう写真的な欲望を感じます。
コントラストの高いプリントに比べて、グレー・トーンはめりはりが極端に主張されるわけではないので、なんだか妙にこぎれいで、安物のプラスチック・ケースの表面みたいな感じが受けやすいですね。コントラストを上げて、粒子をざらつかせた写真がフェテッシュな欲望を安易に喚起しやすいのに対して、グレー・トーンのプリントはそんなフェテシズムとは違う欲望を喚起させます。プラスチックの表面のような、何の深みの人間性もない工業製品的なものに対するフェテシズムと言うのかな。
凹凸のある現実の世界が、グレー・トーンのプリントによって真っ平らな、何もないフラットな平面に転化されてしまう。こんなフラットな表面を作ることができるのは、高度な暗室のテクニックがあるからだと思うのですが、そのフラットな画面を彼が選択した根拠は、印画紙という工業製品の性質を隠して、絵画みたいな豊かなイメージを偽装する既成の写真への反発でしょう。その反発が全面的にこの工業製品的な薄っぺらさにつながったと思うのです、このフラットな感じは。手で描いたら絶対にこんなフラットな表面にはならないと思いますよ。工業製品としての写真は、元々フラットな表面でしかないものだったので、コントラストを上げたり、白と黒の色を極端に強調したりすることで、立体的な錯覚を見る人に与えてきましたが、午腸の写真はただただフラットであり、深みというのを感じさせず、被写体の中に何かが隠されているのではないかという、深さや奥を感じさせる遠近法が拒否されています。フラットな表面を視線がただ滑り続ける。シャドーでつぶれている所がなく、画面のすべての細部が出ている彼の写真は、何回見ても何かを見忘れているような気がして、また何度も見てしまう。細部が過剰に主張しているから、午腸の写真には見ることに忙しくてそこから何か未来を想像し、過去の何かを想起したりとかっていうことがないのです。細部から細部にと視線が渡り歩いて、ただ見ることに忙しいのです。そういう意味では彼の写真はバルトが言うように、反プルースト的ですよね。なにしろただ見るだけしかないのだから、その写真が何かに結びつくなんていうことがないのです。彼の撮った写真の細部は、何かに連結も、通底もしようとしない。わたし達が彼の写真を見てできることは、そこから何かを想像することではなくて、ただ見ているだけしかできないのです。
『幼年時代』で午腸茂雄が書いていた時間についてですが、それは直線的に流れる近代的な時間ではなくて、子供がつねに感じている“時間の厚み”という、瞬間、瞬間がただ継起して、その瞬間がどこにも結びつかないで、ただ生まれ続けるみたいな考えのような気がするのです。流れない時間というのですかね。未来の想像にも、過去の想起にも結びつかせずに、ただ写真を見ることだけを強要する彼の写真の細部は、フレームの外に出ることもなく、ただ写真の中に溜まり続ける。それは瞬間だけがあって、その瞬間が直線的に流れることのない無時間的な“時間の厚み”として、時間の中に留まり続けていることと似ているような気がするのです。両者共に何にも連結せずに、ただそこに留まり続けているというのですかね。午腸茂雄はだからプルーストの敵ですよ。彼はマドレーヌを食べ、紅茶を飲んでいきなり過去を想起したりしません。そのかわり食べかけのマドレーヌの断面を見て、何時間でもその断面の小麦粉の粉という細部を見続ける。『幼年時代』というタイトルのわりには、そこに過去なんていう大雑把な括りでは片付けられない細部が写っていると思うのです。『幼年時代』は過去を想起させるのではなくて、ただ表面の細部だけを追い続けることを要求する写真集のような気がするのです。
デジカメよりも早く現実のフラット化に成功した午腸は、被写体からアウラという輝きを廃棄します。被写体が生来持ち合わせているはずのアウラを、午腸の写真は工業製品のフラットな平面と交換してしまう。対象に特別な愛着があるわけでもなさそうだし、ちょっと気になったから撮った程度だから、いくらでも対象をフラットな画面と交換します。彼は多分対象をすべてフラットにしたかったのではないでしょうか。たとえそれに対象に愛着があったとしても、このフラットな彼のグレー・トーンが、そんな愛情をすぐに抹消してしまう。フラットな画面を作るには、子供の肉体が一番フラットにプリントしやすいのでしょうね。対象がある程度年をとっていると、それなりに顔や体に個性が滲み出てくるので、まだ自我が確立されていない子供なら、わりあい簡単にその個性を消すことができる、そんな理由で子供が対象として選ばれたのではないでしょうか。『Self and Others』は、決して子供達の輝きを撮ろうなんていう風には見えない写真集です。
人間からその本来持っていた魂を引き抜くことです。他者をグレー・トーンのなだらかなグラデーションに分解することです。午腸茂雄は被写体と対等に向かい合っているわけではない。むしろ被写体からグレー・トーンのために、収奪や搾取をし続けているのです。彼の写真は対象や他者と対峙しているわけではないし、そこら辺の理由が、『幼年時代』に対してプチブル写真とか言われて叩かれた理由でしょうか。確かに午腸は世界と対峙しているわけではないと思いますが、世界や現実ときちんと対峙することが写真には元々可能なことなのでしょうか?写真家はよく世間の人達から対象と正々堂々と正面から向かい合えとか、きちんと対峙しろとか、なんだか昔の本宮ひろ志の漫画によくある正々堂々と、一対一で喧嘩しろ、みたいなイメージで写真家と対象の関係を語りたがりますが、そんな写真家なんて世の中には一人もいないと思います。カメラがわたしと対象の間に介在することで写真は、“見る¬-見られる”という非対称的な上下関係を必然的に発生させてしまうから、その時点ですでにもう対象とは対等の関係ではない。それにこれは写真の構造上の問題だと言ってもいいのですが、カメラを持ったら、強制的に誰もが現実と対峙できなくなってしまうのが写真の構造なのですね。カメラを持つことで、“見る¬-見られる”とる写真家が現実の世界をストレートに見ることができるでしょうか。写真家は世界を歪んだ形でしか、見ることができない。すでにその立ち位置でしか世界を見ることができないという写真の構造的な事実が、世界と正々堂々と渡り合おうとする意志を廃棄してしまっているのです。“見られる”ということが、対象を無防備で不安定な場所に追い込んでいくことなら、“見る”という場所は、精神的には安全地帯な場所です。だってフレーム越しに現実を“覗いている”場所なわけですから、その視線はやはり正々堂々と現実と対峙する的な態度とは真逆な態度になると思いますよ。対象を有無も言わさずに“見られる”という立場に追い込んでしまう写真家の“見る”という立ち位置は、やっぱり無意識に権力的な立場に立っていることだと思うし、それから逃れることができないのですよね。そして立ち位置的には被写体よりも上に位置するのに、何故か覗くように見てしまうこの二律背反を抱えているのが写真家なのです。権力的なのに、対象と何だか堂々と向かい合えない。妙にやましいものを感じる。一言で言うと卑劣な存在ですよね。そんな人間に対峙だとか、正義だとか、正々堂々とかなんて言えるわけがないのです。
構造的にそんな矛盾を抱えながら撮影しなければいけないわけでして、それに写真は、芸術と最近よく言われるわりには本人の芸術的なセンスよりも、科学的なプロセスにかなり寄りかかっています。自分の感性よりも、科学を信用しているのが写真家です。基本的にはだから写真家は、芸術家というわけではないのでしょう。何しろ自分の直感やセンスよりも、フィルムの箱に指示されている現像時間を何の疑いもなく信じているのですから。例えばフィルム現像のときに、自分の直感を信じて、ASA50で、現像温度は10℃、時間は3分なんていう現像をしたらフィルムには何も写りません。自己のセンスや直感よりも、科学的に割り出された時間の方が写真にとっては重要です。感性よりも科学が優先されるのです。絵だったらタッチとか、筆さばきとかで個性を打ち出すことができますが、写真の場合は個性的な現像時間なんていうのがありえないように、個性を打ち出す場所が何処にも存在しないのです。一番個性が打ち出し易そうな撮影のときだって、例えばASA400のフィルムで晴天の日に撮ろうとしたら、シャッタースピードは1/125で、絞りは16という指示を無視して個性を打ち出そうとするとなかなか大変なことになります。わたし達は科学の決まり事から、一歩も逸脱することができません。
ネガ現像やプリントを自分でやっていると、それは芸術をやっているというよりも、工場で働いているような錯覚を起こすことが間々あります。そこにはほとんど芸術に必要だと言われている直感や霊感よりも、現像時間を厳守という流れ作業的な意識しか必要ではありません。むしろ直感や霊感は写真のプロセスの中では、邪魔なだけなのです。直感や霊感で現像時間を決められてしまっては、写真は滅茶苦茶になってしまう。写真はだから魔術ではなく近代的な工場であって、そこに必要なのは19世紀的な秘術ではなく、近代的な技術=テクノロジーです。赤いセーフティーライトで照らされる暗室の雰囲気に、つい写真を錬金術と比べてしまう人もいますが、写真は錬金術なんかではありません。金だとか生命だとか、無から有を作ることなんて写真には不可能です。写真家は、ホムンクルスを作るのではないのです。写真が作れるものはホムンクルスではなくて、屍体であり、それはゾンビのようなものかもしれない。生きたものを印画紙の中に定着させるというその行為は、錬金術と言うよりもブードゥーに近い気がします。屍体を生者ではなくて、屍体のまま蘇らすブードゥーは、印画紙の中に対象を定着させることで屍体のまま永遠にその対象に生命を与える写真とかなり近似的な関係のような気がしますね。
写った対象が写真になるには、何回かの現像の科学的なプロセスを通過します。通過する度に対象がどんどん変化していく。ネガで反転した対象を、引き伸し機で大きく伸ばしたり、印画紙にプリントする段階で焼き込んだり、覆ったりと色々と科学的、物理的な変化を対象に施します。現実を再現するというよりも、何だか現実にヴェールをかけていくような、不透明なものに変質させていくような気がしますね、暗室作業というのは。現実を忠実に再現するのではなくて、もっと見えづらくしているというのかな。特にデジカメのプリントに目が慣れていると、フィルムの粒状性はどちらかというとノイズに見えます。写真はだから現実が再現されたイメージに、工業製品としてのフィルムや印画紙の特性が、ノイズのように混合されていく。フィルムと薬品と印画紙という工業製品が、被写体の表面を地層のように覆います。写真は対象を写しても、最終的にはその対象がストレートに出るのではなく、薬品の科学的変化という凡庸なプロセスから生まれてきたイメージでしかない。作者のインスピレーションよりも、それは科学です。そして科学ほど人間の主観からほど遠いものはないのではないでしょうか。写真は主観ではなくて、他者によって成立させられているメディアです。被写体やカメラという機械に、薬品や印画紙やフィルムという工業製品。どれをとっても自分のものではなくて、他者が考え、他者が作ったもので成立しています。それは科学の発展によって作られたものばかりです。写真を成立させているその下部構造は、作者のインスピレーションや主観なのではなくて、カメラや薬品や感材という工業製品という他者的な存在です。そして現像にプリントという最終的な完成にまでそんな他者の存在によって成り立っている。写真には主観が入り込む余地が少ないのは、アイデンティティーを成立させる根源的な領域にまで他者が入り込んでいるからで、写真はだからわたしの気持ちや考えを、いつも裏切っているような気がするのですね。他者によって成立させられている写真は、“わたし”の存在なんて関係ないのでしょう。“わたし”ではなくて、他者が写真を決定する。そこには“わたしの写真”なんていう言い方が成立しない。写真はわたしのものではない。わたしが写真を所有するという、所有格が写真には成立することができないのだと思います。
ロラン・バルトがお母さんの写真を見て、そこにお母さんの破局=死を見てしまうというのはよく分かる話です。「少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と」、「すでに起こってしまっている破局に戦慄する。被写体がすでに死んでいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである(「明るい部屋」ロラン・バルト)。写真に写ったお母さんは、確かに生きているお母さんなんかではない、工業製品によって定着された、たんなるイメージでしかない。そのイメージはとてもフラットで軽く、安価で、交換可能な工業製品に写されたイメージなのです。写真は“生”を羽毛のように軽い存在に変質させてしまいます。印画紙という工業製品の上にプリントされた羽毛のように軽いイメージに変質させられた母は、いくらでも複写可能で、大量生産される缶詰のような物質に変質させられるのです。それは羽毛のように軽くて、フラット過ぎるぐらいフラットな“死”を与えます。こんな風に写真は反復可能で、誰とも区別のつかない“死”をお母さんに施すのでしょうか。写真に写ったお母さんは、工場のベルトコンベアーで作り出される大量生産された缶詰みたいなものと変わらない存在ですから、そこにはお母さんのアウラは当然廃棄されるのです。写真はだからお母さんの廃墟です。
写真は“生”を簡単に廃棄してしまう。写真はお母さんの羽毛化であって、バルトにとって最愛の母親が簡単に羽毛化され、それが何百枚も再現可能なものに転化されたということに彼は恐怖を感じます。かけがえのない母の存在が、大量に複写が可能であるというのは、かけがえのないという唯一の価値を下落させることです。バルトにとってもっともかけがえのないお母さんが、プリントされたことでインフレーションを起こし、その価値がどんどんどんどん下落していく。インフレーションが、貨幣が持っていた価値を破壊して、万能だった貨幣を、たんなる紙屑にしてしまったように、誰にも信用されない紙屑にバルトのお母さんは、写真によって変質させられてしまったのです。貨幣を大量に印刷すればその貨幣の価値が当然暴落するように、写真もネガがある限り、お母さんの死を何百回もリピートし続ける。大量にプリントされたお母さんは、何百回でも複写が可能になり、もう特別な存在ではなくて、相対的な存在に変質させられてしまいます。写真は対象の固有の価値を破壊するのです。現実の世界ではかけがえのない大切だったものが、写真に撮られることでその価値が棄却される。写真は価値の破壊者として、この世界に現れるでしょう。紙屑となり、羽毛のように軽い存在に変質させられたお母さんの“生”は、その固有の一回性を廃棄され、反復可能なまったくのジャンクに変質させられてしまいます。そして写真家とはその現実の残骸のようなジャンクに変質したお母さんに恋をすることだと思います。
写真家というのはバルトと違って生身のお母さんではなく、工業製品や薬品によって徹底的に変質したお母さんに恋をしている人達なのではないでしょうか。“被写体がすでに死んでいなくても、写真はすべてそうした破局を示す”。写真家は、言うなれば最愛の対象が死と、死につつある状況に追い込まれることを望んでいるのであって、最愛の対象が破局する様に写真家は欲情しているのです。有機体が無機物に変質するプロセスが、写真家を興奮させる。印画紙という平べったくてフラットな死に、最愛の対象を閉じ込めたくなる欲望。“『死』の恐ろしさはまさしくその平板さにある”(ロラン・バルト「明るい部屋」)。そして午腸茂雄は、その工業製品によって生み出された、たんなる薄っぺらなイメージにフェテシズムな欲望を抱いたのではないでしょうか。あの生き生きとした有機的な子供達の雰囲気が、根絶やしにされた感じのする『Self and Others』。子供達のアウラが虐殺された、ブッチャーランドとしての『Self and Others』。
20世紀は工業製品にフェテシズムを感じる時代なのです。死や破局の恐怖に欲望や興奮を覚える時代なのです。キャンバスの画布の上にこんもりと盛り上がった油絵の具よりも、ぺらぺらの印画紙に感光された凹凸のないフラットで工業製品的なグレー・トーンに発情する時代なのです。“『死』の恐ろしさはまさしくその平板さにある”、“もっとも愛する人の死について、何も言えないということ、その人の写真について何も言えないということ。写真を見ても決してそれを掘り下げたり、変換したりすることができないということ”(「明るい部屋」ロラン・バルト)。写真は反プルースト的なメディアです。表層しか見ることのできないメディアであり、そこに深さも、奥も存在しません。何も結びつくことのできない写真は、ただ写ったものを見続けるだけで、それを言葉にすることができない。“掘り下げたり、変換したりすることができない”のです。そこに写っているもの以外に何もない。違う意味に変質させることもできません。犬は犬だし、電柱は電柱で、マドレーヌはマドレーヌです。写真を語るということは、写っている対象をおうむ返しに語るだけで、それは同語反復になるだけであって、決してプルーストのように深い過去の領域に写真は誰も連れて行きません。(無理矢理に写真を言語化するとするなら、それは比喩としてしか語ることができないのではないでしょうか。写真の言語化は星座のように恣意的で、写真を勝手に比喩化するしかないと思います。けれどそれは星座のように共通言語として社会に流通するには、きっと無理があるでしょう。あくまでも極私的で、孤独なつぶやきにしかならないと思います。写真について語ることは、シリアル・キラーの犯罪と似ています。彼らもその快感を社会と共有することができない。恣意的に解釈された写真の言語化は、呪言のようであって、コミュニケーションの言葉ではないのです。社会と共有することができないのです。写真の言語化はシリアル・キラーのように、誰にも理解できない孤独なつぶやきを、一人で続けることでしかないのだと思います)。死が言語化不可能なように、写真もまた言語化不可能な存在です。この平坦な死のような写真は、わたし達にフラットで四角いフレーム以外の外に通じることは不可能だと宣告します。想像力は禁止され、そこには残骸としての過去や、未来や、現在しかない。わたし達はそんな死のような言語化不可能な写真に恋をしたというか、フェチな欲望を感じたというか、このどん詰まりのぺらぺらのフラットで薄い工業製品に、何故か不埒な欲望を抱いてしまったのです。
フリードランダーの濁って汚いグレー・トーンや、ウィノグランドの、写っていればそれでいいような無頓着で乱暴なプリントにこそフェテシズムを感じてしまうのです。アンセル・アダムスのような現実の忠実な再現としてのプリントなんてどうでもいいのです。汚くて濁ったグレーや、つぶれている部分を無理矢理に出そうとして、力のない色になったシャドーや、現像ムラでぼやけたしまりのない黒という、失敗したことで剥き出しにされる工業製品特有の階調にこそ欲望を感じる。それは現実の再現としての写真に恋をするのではなく、工業製品としての写真に恋をすることなのだと思います。
山本糾の何の作品名か忘れてしまいましたが、「ブドウ糖注射液」を撮っている写真が、何年か前に豊田美術館で展示されていました。ヨーゼフ・ボイスだったらその缶そのものを会場に展示するのでしょうが、それをそのまま展示するのではなく、写真に撮ってプリントすることで展示されたこの作品は、ボイスとは違う生々しさがありました。この写真もきれいなグレー・トーンでプリントされていたのですが、缶そのものを持ち込むことで表われる物質の存在感ではなく、物質の存在感をグレー・トーンで消去したことで表われるフラットな印画紙の工業製品的な感じのする写真的な物質性が表われたような気がしました。そしていったいこの現実の缶の残骸とも言うべき、弱々しい写真の物質性は何でしょう。写真にプリントされたことで、缶の持っていた社会性や関係性が消去されて、薄っぺらでフェイクな缶にわたし達はつい興奮してしまう。フェテシズムが断片から全体を想起させることで欲望を喚起させるのに対して、写真は何の全体も想起せずに興奮するものなのでしょうか。このプリントされた缶は、本来持っていた実質も社会性もない、何も想起させない缶です。例えば下着に興奮する通常のフェテシズムは、その下着がそれをつけていた人間との関係性を想起して興奮するのに対して、写真のフェテシズムはその関係性が消去されることで興奮する。何かの断片ではなくて、何かが消えた、何者でもない、回帰すべき全体のない断片に興奮するのです。そしてそれは断片と呼んでいいのでしょうか。それはもう断片ではないと思います。たんなるガラクタです、それは。関係性が消去されたガラクタに写真は欲情するのです。誰かがはいた下着ではなくて、その“誰が”が不在なままの下着に欲情する。関係性が捨象されているので、その下着を巡って想像される、様々な物語を連想することができないのです。写真のフェテシズムは、フェテシズムにとってその欲望を発動させるのに重要な機能である、想像力を捨象して欲望する。全体を想起しないまま、反プルースト的に欲望するのです。対象が何とも関係を持たずに、空っぽなものら、空っぽなものほど興奮する。それは印画紙という工業製品それ自体が、有無も言わせず人を興奮させるのでしょうか。
想像力が削除された空っぽな欲望。それはすごく極私的な欲望だと思います。何故そんな欲望が発動されるのか、本人にだってよく分からない。その下着に欲望するために必要な人間との関係を消去して欲望する写真のフェテシズムは、基本的に人間を必要としないフェテッシュな欲望です。写真に人間は必要でない。例えばストリート・スナップは確かに人を写す写真ですが、それは印画紙に人間がプリントされると、どんな風に見えるのかということに興味があるのであって、その人そのものには何の興味も持っていません。現像のプロセスによって化学変化した人間にしか興味を持てないのです。
写真的なフェテシズムはよく“肌理の細かさ”みたいに、肉体の比喩に例えられることが多くて、それは人間的なエロスとよく比較されます。フィルムの粒子は確かに肌理という肌の感じと共通するところもあるだろうし、森山大道とかの荒れた粒子が剥き出しになってプリントされている写真を見ると、写真はエロスであるという言葉もなるほどと納得できるところもあります。けれど午腸茂雄のグレー・トーンに、そんな人間的なエロスを感じるでしょうか。肌理なんていう人間的なものからほど遠いプリントが、午腸のプリントだと思うのです。まあ、あの微妙に揺れ動くような微細なグレー・トーンのグラデーションは、“呼吸しているようなプリント”のように感じがしないでもないので、なんだか人間的な感じがするのも分かるのですが、彼のプリントは呼吸という、人間が生きているような感じよりも、内蔵という贓物が存在しない、血管には血の代わりに鉛が固まっているような、有機性が感じられない表層だけの屍体みたいな、有機体的に生きているとは真逆の感じをそのプリントから受けるのですね。中身のない、本質の欠けたエロスというのですか、要するに彼の写した被写体には本質というのが消去されている気がするのです。中身が充実していないそれは、エロスとは違うものなのではないでしょうか。彼の写真はエロスではなくて、もっと不気味なほうに寄っているような気がするのです。少なくともエロスなんていう健全な“生”の概念からはほど遠いのではないでしょうか。 最近武田鉄矢が“エロスがないと死に魅了される”と発言していますが、エロスとの遭遇が遅いと、タナトスという死の存在に巻き込まれるという意味のようです。まあ武田鉄矢の言うエロスなんて、エロと殆ど同義語でしょうが、午腸茂雄の写真は少なくても“生の高揚”(バタイユ)としてのエロスとは遭遇していない気がします。あの高揚感のないグレー・トーンには、エロスが欠けている。彼の写真には基本的に“生”がないのではないでしょうか。むしろ屍体のエロスとでも言うのでしょうか、何の高揚感もなく、有機体が徐々に無機物に変質していくことに快感を感じている写真のような気がします。
かつてはあって生きていたのだけれど、今はもういないという、写真は死と死ぬまでの過程を写すというバルト的な世界観との共通性を、午腸の写真には感じますね。彼の写真はもうすでに死んでいるのです。だから何の高揚もない。それは高揚感が欠落したエロスです。エロスと共通する細部が立ち上がってくる繊細さを彼の写真は持っていると思うのですが、その細部の繊細さは、有機体が屍体になったときにまざまざと表われてくる細部の繊細さのような気がします。細部にどこまで気を配るかというのが、写真にとってのエロスの条件なら、最終的に細部が本質を凌駕する屍体的な存在の方がエロスなのではないでしょうか。屍体はその人の個別性を消去してしまいます。屍体になるということは、名前を抹消されることです。名前を与えられ、その名前に統合されることで、細部は死んでしまう。細部と名前は、だから敵対しなければいけない。細部を立ち上げるということは、屍体になることなのです。名前と個別性を消去することで、細部が立ち表われてくるのです。午腸の写真は対象から名前を消去します。彼のエロスはだから死の側にあるエロスだと思うのです。
顕微鏡 Präparat #01
小松 浩子 (写真家)
消費とは人間の欲望を満たすために物財を費やす行為を指し、人間生活の維持・向上のための行為でもある。ボードリヤールによれば大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値・生産に利用された労働の集約度にではなく、商品に付与された記号にあるとされる。記号とは社会習慣的な約束により一定の内容を表すために用いられる文字•符号•標章などの総称であり、言語も記号の一つと考えられる。金村修の作品ではモノクロ銀塩・カラーデジタル写真、ヴィデオ、テクストと形式を問わず常に記号に対する異常な志向が表象し、日常に氾濫する記号が大量に提示されるが、それによって大量消費に対する批判・称賛/嫌悪・愛好などの自身の態度や価値づけが表明されることはない。消費の反意語とされる生産は最終的には消費を目的とする行為とも言えるが、金村の勤勉とも言える制作態度による作品の大量生産は感材・時間・労力の大量消費を目的とする行為との捉え方も出来る。

解離とは精神医学・臨床心理学の範囲に限りあえて抽象的に定義すれば「私の体験・人生」として通常は統合される感覚・知覚・記憶・思考・意図という個々の体験の要素が統合されないことを指し、正常の範疇を越えると解離性障害となる。解離性障害とはアメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』における精神疾患の分類のひとつで生理学的障害ではなく心因性の障害であるとされる。不測の事態に目眩を起こし失神することは正常な範囲での「解離」であり、更に大きな精神的苦痛であっても体外離脱体験や記憶喪失という形で切り離し自身の心を守る働きは人間の防衛本能であり日常的ではないが障害ではない。状況が慢性的であるが故にその状態が恒常化し、臨界点を越え自己統制権を失い、別の形の苦痛を生じ社会生活上の支障をきたすと解離性障害となる。防衛本能に起因するか否かは別にして、日常に氾濫する記号から金村は解離しており「私の写真」として感覚・知覚・記憶・思考・意図という個々の要素が統合されて提示されることはない。

ハイパーグラフィア(Hypergraphia)とは、常識の範疇を越えて大量の文章を内的衝動に促されて書くこと指し、当人にとって非常に高い哲学的・宗教的・自伝的意味を持つが社会的意味は問われない。原因として側頭葉の異状・精神疾患・神経伝達物質(ドーパミン)の過剰合成等が考えられる。脳科学の観点からは報酬なしに夜を徹して書き続けるような異常行動は双極性障害の症状であり、書くことで得る至福感も神経伝達物質の作用であると言える。病気に罹患すると言うことは病名を与えられることであり、常に新規の病名(=記号)が創作されるため、金村の記号に対する異常な志向や作品の大量生産に対し、社会から病名(=記号)が与えられても不思議ではない。金村にとって社会における「金村修」自体が記号であるため、金村自身は記号の「金村修」から解離し大量の消費(=生産)活動を継続する。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
6/1 税金や保険料などの支払いを忘れていて、督促状に驚くかもしれません。買おうと思っていたものは、あきらめたほうがよさそうです。運命的な出会いのように思えても、焦らないで下さい。実は求めるものが違っていそうです。今日は何を食べてもおいしく感じるでしょう。いろいろと忙しいせいか、ついイライラしがちです。些細なことで血がのぼり、喧嘩をしてしまうおそれがあります。深呼吸するなどして気分転換を図りましょう。勉強や仕事上のストレスが出てきそうです。何をするのも億劫で、やる気が湧かないかもしれません。高価なものを身につけて外出するのは、避けたほうが良いでしょう。ふとしたはずみに壊したり、汚したりして泣くに泣けない結果になりそうです。いい出会いがあったと思うのは、あなたの思い過ごしかもしれません。気を落とさずあなたの本当の姿を伝える努力をしてみましょう。今日は何もせず家で休んだほうが良さそうです。あなたがはっきり意思表示しないと、相手が愛想をつかしてしまうかもしれません。あいまいな態度は2人の間に混乱を招きます。あなたは私に関心があるふりをしているだけじゃないですか。全部言わないといけないとおっしゃるなら言いますけど、そうしたら、私はとても興奮して、もう手がつけられなくなりますよ。その時は後の祭りですからね。 6/2 対人関係でイライラしそうです。大声を張り上げるような話し方をすると、すべて台無しになるでしょう。庭や道端の草花に心が癒されそうです。散歩するときは、いつもよりゆっくり歩いてみましょう。将来について相手と話をするチャンスを逃してしまいそうです。少し臆病になりすぎていませんか。もっと正直になりましょう。1人ではこなしきれないほどの仕事を前にして、混乱してしまうかもしれません。抱え込まずに周囲に助けを求めましょう。勉強でも行き詰ったら、先生などに相談しましょう。体力が落ちているのか、なかなか疲れが取れないでしょう。体力をつけようと思ってたくさん食べると、消化不良を起こしてしまうかもしれません。本調子とはいえない状態の人も、相手が体を求めてきたら、できるだけ応えてあげるようにして下さい。のちのちの幸せにつながるかもしれません。私が愛することのできる人はどこにいるのだろう。私を妻として、そして母親として幸せにしてくれる人はどこにいるのだろう。相変わらず孤独だ。私は夢を見た。少女が一人(彼女が私の運命の姿なのは明らかだ)、私の手相を見てこう言った。あなたは二七歳で年上の人と結婚するでしょう、と。ウィーンの精神分析家仲間の一人のヴィクトール・タウクス博士も、私の手相を見て、二七歳で運命の転換を経験するだろう、と予言した。「アーリア・セム的な英雄を創造するのがお前の使命だ」と夢の中で告げられた。 6/3 蛍が舞う場所についての情報を集めてみましょう。手の中で光る蛍を一緒に見つめてくれるような、優しい人が現れるかもしれません。タイミングを逃さないようにしましょう。みずみずしい果物を食べると、集中力が高まるかもしれません。恋人がいない人は、今日は人が集まる場所に出かけましょう。生活スタイルを変えれば、運気が上向くかもしれません。時には冒険的な戯れを楽しむのもいいかもしれません。セックスに対する罪悪感があったとしても、それさえも楽しんでしまいましょう。自我の幸福と苦痛に頓着せずに、我々の心理を動かす欲動の諸力が存在する。我々は、不快であることからすぐさま快感を覚え、苦痛であることからすぐさま快感を覚える。 6/4 現状に満足できず、「なんとかしなければ」という気持ちが強まりそうです。でも、がむしゃらに行動すると、周りの人に迷惑をかけるので注意して下さい。トラブルの解決に力を貸してくれた異性との会話が楽しくなり、恋心が芽生えるかもしれません。食事はあっさりした味付けを心がけて下さい。言い寄ってくる異性がいそうです。あなたに会うタイプかどうかは疑問なので、舞い上がらずに相手を慎重に見定めて付き合うようにしましょう。今日出会った人に、恋心が生まれそうです。関係を長引かせたいなら、素直な気持ちを持つことが大事です。相手の要求にこたえようとするあまり、トラブルになってしまう可能性があります。あなたの生真面目な部分が裏目に出る結果になりそうです。柔軟に対応しましょう。 6/5 外出の際、お香を買ってみてはいかがですか。ラベンダーやローズなどの香りを眠る1時間前に試すと、くつろげそうです。夜の長電話は禁物です。義理の付き合いなどで思わぬ出費を強いられそうです。だからといって、へたに口実をつくって断ると、関係がぎこちなくなるおそれがあります。体調も万全なので、あなたらしさを発揮できそうです。相手に対する気遣いもできるので、デートはうまくいくでしょう。順調にいっていると思ったら、急に問題が起こったりしそうな日です。何が起こるか気が抜けませんが、大事には至りません。気まぐれな異性と出会う機会があります。気持ちを広く持てる自信があれば、長く付き合っていける関係になるかもしれません。 6/6 外出する時は、幸運な色の小物を持っていくと良いことがあるでしょう。夕食の献立に迷ったら、中華料理が良さそうです。温野菜をたくさん摂ると、翌日から快調になるでしょう。変わった体位に挑戦すると、体のどこかを痛めてしまう可能性があります。今日は体に負担をかけない体位でのセックスを心がけましょう。昔付き合っていた異性がやけに気になってしまうでしょう。過ぎ去った人を追いかけるより、新しい出会いに期待するほうが良さそうです。今日は、相手に不信感を与えてしまいそうです。見に覚えがないなら、冷静さを失わずに対処するようにしましょう。効果が期待できそうだと思っても、健康補助食品や健康器具などをむやみに買うのはやめましょう。高額な商品ほど大きな落とし穴がありそうです。 6/7 お礼に現金を包むと相手のプライドを傷つけそうです。個人的な思惑はとりあえず置いて、感謝の気持ちは食事に誘う程度にしておきましょう。発想の転換をして下さい。うれしい知らせが飛び込んできそうです。長い付き合いをしている相手がいる人は、将来についての話を切り出されるかもしれません。心の準備をしておきましょう。自分にないものを持つ異性との出会いがありそうです。恋愛に発展する可能性はそう高くありませんが、仲良くなっておいて損はありません。あなたの相手を思う気持ちがセックスにも表れ、幸せな時間が過ごせそうです。もし迷いがあるのなら、その相手を断ち切る勇気も必要です。海外で夏休みを過ごすつもりなら、今日中に情報収集をしておきましょう。行き先にこだわらないなら、旅行代理店に勧められた場所を優先するとお得なチケットが手に入りそうです。私は毎晩火星に旅行しています。火星では、口からではなくて、身体への浸透で栄養をとります。生殖はなくて、子どもは一人ひとりの体の中で知らないうちに成長して、ある日、ちゃんと立つことができるようになるのです。 6/8 弱点をパートナーに指摘されて腹を立てそうです。「自分のことは棚に上げて」と言い返して仕方がないので、じっと我慢して下さい。知らないうちに胃腸や肝臓などを酷使しているかもしれません。暴飲暴食は慎んで下さい。帰宅途中に、デパートに立ち寄るのは避けて下さい。口車に乗せられて、衝動的に高額な買い物をしてしまいそうです。ひとめぼれした人を友人に奪われるなど、衝動的な出来事が起こりそうです。交友関係の再点検をし、今後信頼のおけない人とは距離をとりましょう。気分が盛り上がったかと思うと急に落ち込むといった、感情の起伏の激しい1日となりそうです。精神的に疲労するでしょう。精神状態が不安定なことが原因かもしれません。注意が必要です。心も体も乱れがちです。今日は家でじっと自分のことを考える時間を作って下さい。今晩を乗り切れば、きっと幸せが待っているはずです。 6/9 何が起きても、ひるまず、おびえず、困難に立ち向かって下さい。そうすれば、良い方向に動き出すでしょう。同じ夢を持つ仲間と語り合うなら、生活レベルの違いがあらわになるような話は避けたほうが良いかもしれません。気まずいことになりそうです。名刺の用意は忘れないで下さい。前のデートで気まずい別れ方をした人は、今日が仲直りするチャンスです。さりげなくメールを送ったり、電話をしてみましょう。初対面の人と密室で2人きりになってしまう可能性があります。無理に話題を探さなくても、自然体でいるほうが分かり合えるでしょう。昔の恋人から誘いがあっても、気分が乗らないのであれば断ったほうが良いでしょう。もし未練があるなら、誘いに乗ってみて下さい。 6/10 家計簿や小遣い帳をつけてみましょう。なぜ浪費するのか、それに気がつくかもしれません。多くの人が集まる場所に行くと良い発見があります。付き合っている相手がいるなら、自分がデート代を持ちましょう。今日を機に、2人の仲は親密さを増しそうです。日頃のこだわりが役に立つ日です。出会いの場でうんちくを披露すれば、尊敬の眼差しを集めるでしょう。ただし、調子に乗り過ぎないように空気を呼んで下さい。些細なきっかけから喧嘩になりそうです。言葉で解決しようとせず、できるだけ愛情を持って愛撫してあげましょう。すぐに仲直りできるはずです。 6/11 家に帰って財布を確認して下さい。もし500円玉があれば、空きビンなどに入れて貯めると予想以上の金額になるかもしれません。夜は読書などでゆっくり過ごしてみて下さい。親や友達から借りているお金があるなら、今日のうちに返済をして下さい。できれば利息代わりに、ちょっとした贈り物でも渡してあげましょう。母「私はあなたのことだけを考え続けています。私たちはあなたの健康を祈っていますが、実際にはあなたの状況は年々悪化していますね」。一フランス・フランが今では一万ルーブルもする。「あなたに百万ルーブルあげても、たった百フランにしかならないのですよ!」。 6/12 恋人が急にデートの予定を変更してくるかもしれません。予定が伝えられたら、文句を言わずに素直に受け入れて下さい。貸しを作っておいたほうが良さそうです。1人で散歩でも楽しみましょう。親族から「久しぶりに会いたいね」と言われたら、良い返事をしてあげて下さい。出会い運は低迷気味です。異性からのからかい半分の言葉に落胆するかもしれません。状況に振り回されない毅然とした態度で接して下さい。あまり感じることができず、不安になるかもしれません。もしも集中できないならば、体は重ねずに触れ合うだけにしましょう。それだけでも充分に幸せを感じられそうです。 6/13 自分に気があると思っていた人が、実は遊び人だった…ということがありそうです。お調子者の人とは、距離を置いて付き合って下さい。今日は何をやっても中途半端になってしまいそうです。やればやるほど混乱を招くので、あまり手を広げないほうが良いでしょう。いきなり相手から別れ話を切り出されるかもしれません。気が動転しそうですが、相手の真意を確かめるためにも話を聞きましょう。即断は禁物です。体調が悪くて、内にこもりがちだった人は、少し散歩をしてみて下さい。少しずつでも外に向かって活動すると元気になれます。夕食は思い切って西洋料理に挑戦して下さい。有名な料理長の料理本で研究すれば、趣味の1つになるでしょう。どんなときも感情的にならないように気をつけましょう。今日は、できれば外出しないで家でのんびりして下さい。体を休めると同時に、ストレスを解消するようにしましょう。 6/14 今日は「口は災いのもと」と肝に銘じて下さい。買い物をしたあと、他の店で同じ商品が半額になっているのを目撃するかもしれません。お札の向きをそろえるようにして財布に入れると、出費が少なくて済みそうです。喧嘩の仲直りがしたいと思っても、今日は会わないほうが良いでしょう。やることすべてが裏目に出てしまいそうです。血眼になって出会いを求めていると、異性に警戒心を抱かせてしまうでしょう。物欲しそうな言動は慎むよう心がけて下さい。恋人の突然な裏切りにあってしまうかもしれません。今はじっと我慢して、相手の出方を見て下さい。セックスでつなぎとめるのも1つの方法でしょう。私はくじけない。強い不安に襲われ、眠れなくなり食欲がなくなり、気持ちがかき乱されようとも。私はくじけない。高貴で偉大なものを創造しなければならないのであり、平凡なもののために生まれてきたわけではないのだから。これは、生きるか死ぬかの闘いだ。父なる神がいるのなら、私の声を聞いてもらいたい。私はどんな苦痛にも耐える。どんな犠牲もいとわない。聖なる使命を果たすために。「彼は英雄であるに違いない」。なぜなら、それが私の意志であり、わが父ヴォータンの意志だからだ。恥辱よりは死を。固い灰色の岩に刻み込まれるように、この言葉が私の心に刻み込まれんことを。運命よ、私を助けておくれ。圧倒的な高揚感に包まれているこういった瞬間には、抑うつ感と自分を抹消したいという願望が交互に現れた。 6/15 不安な気持ちでいる人も、愛情という名の快楽が幸せにしてくれそうです。いつもと雰囲気や場所などを変えてみると、新鮮に感じられるかもしれません。好みの人がいたら、それとなく人生観や家庭観を聞いてみましょう。自分と似ているようなら、相性は悪くないかもしれません。アプローチをしてみたらどうでしょう。もっと自分に向いた仕事があるのではないかと日々思っている人も、早まらないで下さい。時間をかけて期が熟すのを待ちましょう。時間があったら、本屋さんの恋愛本コーナーなどをぶらついてみましょう。今の心境にぴったりの本が、見つかるかもしれません。 6/16 好きだったのに、ちょっとしたすれ違いから別れてしまった恋人から連絡があるかもしれません。あきらめていた恋なので、うれしさも倍増でしょう。「面目丸つぶれ」ということが起きる危険性があります。幸運な色をあしらった服を着ると怒りが和らぎます。夏休みに旅行を計画しているなら、早割を利用するとお得なものが見つかりそうです。キャンセル待ちでも待ってみて損はないはずです。精神的に、やや落ち着きを欠くかもしれません。期の悪しそうな異性と知り合えたら、あなたの方から積極的に行動を起こしましょう。あなたに好意を寄せている異性が近づいてそうです。すぐに付き合うかどうかを決めずに、長い目で相手をよく観察するようにしましょう。相手はあなたに夢中のようですが、他に少し気になる相手がいるのかもしれません。あなたのできる限りの技巧で相手の心をひきつけて下さい。「夜の回診の際、患者はまたもや、ソファーの上で、なかば横になりながら、彼女がいつも見せる東洋的で遠慮のない格好をして、官能的で夢見がちな顔つきになっていた。しかも彼女は、質問にきちんと答えず、ただ笑みを浮かべているだけだった」。私は、彼の博士論文から、ヘレーネ・プライスヴェルクが交霊界の際にしばしばイヴェネスという名前の女性になることがあるということを知っていた。この女性は、成熟した大人であるが、ユダヤ人であるとはっきり見分けられる、小柄で黒髪の女性であり、長きにわたる輪廻転生をくり返していた。特に彼女は一三世紀には魔女として火刑に処されており、一八世紀には牧師の妻であり、ゲーテに誘惑されたことがあった。さらに私が彼の論文から知っていたのは、ヘレーネがトランス状態に入った時にはいつも「半ば座り、半ば横たわった」姿勢をソファーの上でとっていた、ということである―この姿勢は、ジャック=ルイ・ダヴィットによる有名な油絵の中でド・レカエミ夫人がとっていたものと同じである。 6/17 相手との距離を感じることになりそうな1日です。決して愛がないわけではないので、安心して下さい。気持ちを込めたキスが距離を縮めてくれるかもしれません。やる気が出会いを引き寄せる日です。あなたの隠れた才能が注目されて一躍時の人になるかもしれません。清潔感を印象付ける装いで出かけましょう。今日は会っている時間が長くなるにつれて、気分が滅入ってきそうです。早めに切り上げるか、長くなりそうなときはたまに1人で行動するなど工夫しましょう。相手になかなか想いが伝わらず、さびしい思いをするかもしれません。まだ使える割引券が出てきて得した気分になるでしょう。 6/18 忘れていたお金が返ってきて得した気分になるかもしれません。うまい儲け話は耳にするものの、実現するパワーに欠ける時です。すぐに飛びつかず、今日は頭の片隅にとどめておくだけにした方が無難でしょう。苦手なタイプと思っている人に対して、性格をよく知りもせず避けていませんか。もっと大事な点を見過ごしていないとも限りません。発想の転換が必要でしょう。少し疲れ気味かもしれません。今日は早めに家に帰り、ゆっくり休んでセックスは控えたほうが良いでしょう。無理は禁物です。 6/19 これまでの地道な努力が認められ、仕事場や学校での評価が上がりそうです。家の中が平穏で安定していても、気を抜きすぎると自堕落になるので注意しましょう。しまったままの服や雑貨があるなら、欲しい人にあげて下さい。あとで思いがけない見返りがあるかもしれません。体を動かすことで運を呼び込める日です。体脂肪が気になる人はスポーツジムに行きましょう。素敵なトレーナーとの出会いが待っているかもしれません。元気があり余っているという感じでしょう。天気が良かったら、散歩でもサイクリングでもして下さい。気分も爽快になります。相手と思いが通じ、あなたのことをすべて理解してくれそうです。セックスも積極的に相手をせめて、めくるめく快感を味わいましょう。 6/20 孤独を感じて落ち込む前に自分から話しかけて下さい。やらなければならないことがあるなら、遊びの誘惑に負けないように注意しましょう。いらだった様子が相手にも伝わって、戸惑わせてしまいそうです。自重しないと、喧嘩になってしまうでしょう。不安定な精神状態が、社内に緊張した空気を漂わせてしまいそうです。八つ当たりするのは、避けて下さい。自分の心に出会いを拒む気持ちが芽生えてきます。人脈作りに疲れた日は、家でゆっくりするのが良いかもしれません。今日は朝食をしっかり食べてから出かけて下さい。空腹だと頭の働きが悪くなり、ついイライラしがちになりますので注意しましょう。何をやってもトラブルが発生しそうです。セックスも、どうしてもしたいというなら仕方ありませんが、避けたほうが良いでしょう。 6/21 最初のデートから焦る必要はありません。じっくり時間をかけ、相手に対する気持ちが高まるのを待ちましょう。自分勝手な行動をすると、周りの人からの信用を失うことになるかもしれません。短気を起こすと損をすることもあるので注意をした方が良いでしょう。買い物をするならブランドの安売り店がおすすめです。素材や仕立ての良いものがお買い得な値段で売られているのを見つけることができそうです。通勤、通学の経路を変えると、うれしい出来事が起こりそうです。その時知りあった人とは、積極的にコミュニケーションを取りましょう。意欲的な姿勢が、思わぬ幸運をもたらしてくれるかもしれません。相手との関係に限界を感じるのなら、セックスを通じてきちんとコミュニケーションを取ってあげましょう。愛がきっと伝わることでしょう。 6/22 素敵な出会いがありそうですが、最初が肝心です。自然体で接して下さい。取り繕ってしまうと、恋に発揮しても長続きしないでしょう。相手の考えていることがつかめなくても、今日は深追いしないほうが良いでしょう。換気扇の油汚れや冷蔵庫の裏側など、普段掃除をしない場所を探しておきましょう。きれいにすると運気もさらに上向くかもしれません。他人の幸せに猛烈な嫉妬を感じたら、ミント系のガムなどで気持ちを落ち着かせて下さい。トラブルも今日は影を潜め、幸せなセックスが楽しめそうです。お互いの情熱を高めあって、心も体も燃え上がるでしょう。 6/23 落ち着いた、都会的な印象の異性と知り合えそうです。しかし、恋愛関係に発展するのは難しいかもしれません。過剰な期待は厳禁です。相手が導くままに行動してみましょう。振り回されているような気分になるかもしれませんが、今日はその方がうまくいきそうです。今日は、何事にも冷静で理論的な対処を心がけて下さい。焦って、周囲に好印象を与えようと無理に頑張っても、逆効果でしょう。空腹で眠れない時には、何か口に入れるのではなく、楽しいことを想像してみましょう。食欲が抑えられて、翌朝の目覚めが爽快になります。 6/24 仕事相手をなめてかかると思わぬ反撃にあいそうですが、逆に丁寧すぎる対応も考えものです。今日は予定を変更して、たまっている用事を片付けましょう。友人の意見には耳を傾けるようにして下さい。別の解決方法があることに気付くかもしれません。誘いを断ると、良くない評判が立ちそうです。デートの最中にアクシデントに見舞われたり、怪我をしたりしないように注意して下さい。せっかくのデートが台無しになってしまいそうです。情報誌や通信販売のカタログなど、物欲を刺激しそうなものは目に触れないようにして下さい。見ると、あとで後悔することになりそうです。根も葉もない噂や情報にも惑わされやすい日です。いちいち信じていたのでは、出会いのチャンスを狭めてしまいそうです。注意しましょう。 6/25 今日は1日、1円も使わないという心づもりでいて下さい。友達の誘惑に負けそうな気がするなら、携帯の電源を切って連絡を拒否するくらいの覚悟でかかりましょう。借金の申し込みをされたら、たとえ小額でも借用書を作りましょう。サインをしない人には、絶対に貸してはいけません。相手の気持ちが離れてしまいそうな予感があります。あなたの態度があいまいなせいですから、誤解は早く解きましょう。何をやっても思い通りにいかない日でしょう。無理をしても空回りするだけなので、周囲の人にも迷惑をかけてしまいそうです。危険な香りのする人に惹かれてしまいそうです。今日は判断力が働きません。どんなに惹かれても、連絡先を聞く程度にとどめましょう。恋の悩みは家族に相談するのが良さそうです。「披露宴には、ほとんどユダヤ人ばかりが招待されたのさ。感じのいいユダヤ人と感じの悪いユダヤ人がね。ユダヤ人はみんなシルヴィアと踊って僕の周りをぐるぐる回ったんだ。パパもすごく荘重な話をした。まあまあよかったんだけど、絶叫調になったところがずいぶんあったのが残念だった。こうして僕は結婚した男になって、金の指輪をはめたというわけだ。こういう伝統というのは、何とも低級で小市民的だ」。 6/26 少し自分勝手になっているかもしれません。自分の利益ではなく、人のための行動を優先しましょう。パートナーがいるのにしばらくセックスしていない人は、自分が平気でも、相手がどう思っているのか確認してみて下さい。今日は意外なところで人脈が広がりそうです。懐があたたかくて気前が良くなっていませんか。友人からの誘いに乗って出かけると、思いがけない出費を強いられそうです。気をつけて下さい。わけありの人と出会ってしまい、運気を奪い取られる可能性があります。深入りせず、会話も短めに切り上げましょう。相手がトラブルを抱えているかもしれません。セックスの時は、うやむやにせずにちゃんと話し合う必要がありそうです。心してかかるようにしましょう。 6/27 髪型を活発な印象を与える感じに変えてみましょう。新鮮な雰囲気にすることで、低迷している運気の流れを変えられるかもしれません。ニキビや吹き出物、肌荒れなどに悩まされるかもしれません。コラーゲンのたっぷり含まれた食事と共に睡眠を充分とるよう心がけて下さい。前日までの低迷状態から抜け出すには小旅行が効果的のようです。予算や予定などを決めずに各駅停車で近隣の町を散策してみるのも、いい気分転換になるかもしれません。疲れやすいのはスタミナ不足かもしれません。バランスの良い食事と適度な運動を心がけて下さい。でも、翌日まで口臭を残さないよう、注意しましょう。今夜は刺激の強い飲み物よりも、温かいものを飲んで心を落ち着かせて下さい。 6/28 夏を先取りした露出度の高い服装が幸運を呼びます。異性の視線を釘付けにできれば、わがままも許されるので大胆な行動も良いでしょう。道路の右端を歩くと、思わぬものを拾うかもしれません。以前から憧れていた人に、会えるきっかけがあるかもしれません。勘違いから友人と対立しそうです。相手の話しは最後まで聞くように心がけて下さい。つまらないミスをしないためには、あたふた走り回らないことが大切です。行為の最中に、音を立てたり声を上げたり、少し奉仕すぎるくらいに動くと、一層盛り上がるはずです。 6/29 罪悪感を感じたとき、その重さに目をつぶらないで下さい。真実がどこにあるのか、あなたが一番良く理解しているはずです。自然体で行動したいのに、目上の人に対して違う自分を演出してしまいそうです。見栄えや外見はかなぐり捨てて本音で勝負して下さい。丁寧な仕事が評価されます。ワーグナーの主人公たちに共通しているのは、ジークフリートとブリュンヒルデと同様、救い主型の愛し方をして、愛に自らを献げて死ぬところにある。「ラインの黄金」この劇の冒頭では、およそ存在しえない、悩みなど一切ない、創造されたばかりの世界が描かれている。しかし、この大変穏やかで調和のとれた世界には、愛が拒絶され、黄金が略奪され、そして黄金が利用されることによって、悪がもたらされることになる。若きジークフリートもまた、森の奥深い場所で生活し、文明と人間社会から隔絶して成長した野生児である。ワーグナーによれば、ジークフリートは、理性によってではなく、本能によって導かれるたった一人の、真に自由な人間である。彼は純真で自分の気持ちに正直であるため、傍若無人であるとともに、あらゆる社会的強制と伝統から解き放たれている。ジークフリートは、ジークリンデと彼女の双子の兄ジークムントとの間にできた私生児である。つまりジークフリートの誕生は―近親相姦と離婚という―神と人間の秩序に反する行為によってもたらされている。しかし、それによってのみ、ジークフリートは並外れた存在であり、英雄なのであり、彼の祖父ヴォータンが言うところの、「世界の救世主」なのである。 6/30 出会い運は好調です。ただし、過度な情熱は逆にうっとうしがられてしまうので、初めて会う相手には気持ちを抑えた対応を心がけましょう。身体の不調を感じたら、すぐにでも病院へ行きましょう。軽く見ると病状が悪化して、医療費が余計に高くつくおそれがあります。大事に至らないうちに対処することが大切です。独断で仕事を進めるのは控えましょう。1人だけ先走っても、連帯感を乱して不協和音を起こしてしまいそうです。痛みがほしいのです。あなたが私に、何かとても悪いことをしてくれるといいなと思います。私がとても嫌がることを、無理やりしてくれればいいなと思います。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「現実みたいに生々しい虚構」 “ファニーゲーム”

写真は現実の正確な描写を目指すメディアとして発展してきましたが、今日デジタル化が進むことにより遂にはフィルムより多くの情報を持ち、記録として写真に求められるものー即ち速写性や再現性などほぼ全てに於いてフィルムを上回ったように思われます。しかしそれと引き換えにかつて写真を写真たらしめていた“何か”が欠落してしまいある種空虚な存在になりつつあるようにも思います。デジタル写真がその生成の過程において全ての対象物を0と1に置き換え我々が感覚として捉えている現実を現実らしく表現する様は、写真の記号性を更に進めて写真を現実より明瞭な現実、つまり生々しさや曖昧ささえも記号化・数値化した観念的な現実らしさの映しとして現前させようとしている試みのようにも思えます。誰が撮っても均質で斉一な写真は、写真による世界の平準化のようであり、我々が写真で目指した没個性、機械による規格化を期せずして獲得したようにも見えますが、完全で平等なデジタルがもたらしたものは写真の完成ではなく、銀塩写真が内包するコードを抽出し美意識を極大化して表出させたグロテスクな虚構であるようにも思います。デジタルが我々の知覚の速度を超えて現実と写真の新たな乖離を生じさせている現代において我々がデジタルを用いて写真に向き合ういうことは、かつて写真を写真たらしめていたものの喪失を埋めて、新たな写真の観念を再構築していく作業なのかもしれません。
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