The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 9月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #17   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
日本のコンポラ写真がフリードランダーやコンテンポラリー・ランドスケープ系のアメリカの写真家を、構図や配置が知的にコントロールされている写真だと解釈したのに対して、午腸茂雄はフリードランダー達を知性や美意識にコントロールされた写真ではなく、アーバスのようにコントロールすることができない欲望に取り憑かれた写真だと解釈したのではないでしょうか。フレーミングが上手い、構図の整った美しい写真ではない。現実を写真に撮ることでカメラのフレームに切り取られたその現実が、今までの文脈から切り離され、フレームやトリミングなので細分化されて、何か違う現実に変質する。三次元の有機体から平面のフラットな物質へと変化していくそんな写真のプロセスに魅了されたということは、有機的な存在を無機的な印画紙の中に変質させて、永久にそれを保存したいという欲望が喚起されたことだと思うのです。だからそれは端的に言って人間が屍体に変化していくプロセスに取り憑かれたと言ってもいいのではないでしょうか。ある瞬間の対象をカメラで切り取って、それを永久に保存させる写真の機能は、防腐剤を施して永久に屍体のまま保存し続ける毛沢東やレーニンの遺体保存とあまり変わりがありません。そんな欲望に取り憑かれた『Self and Others』は、生き生きした子供達を現前させたいわけではない。それは感材と薬品で永久に保存される屍体としての子供です。そんな人間から物質への科学的な変化に、午腸茂雄は取り憑かれたのではないでしょうか。
午腸茂雄と同時代のコンポラ写真がアメリカ的な美学や知性を背景にしていたなら、欲望、特に不穏な欲望を最初から抱えていた午腸茂雄は、美学や知性とはままるっきり正反対な場所に存在していたのだと思います。彼の写真には、フロイトの言うような“何事かに先立つ不安”を感じさせます。つねに不安が先行していると言うのでしょうか。被写体の子供が笑っていても、決してハッピーな気分を感じさせない。彼の写真の根底には、不安や不穏さが見え隠れしているような気がします。成長期の子供特有の不安定さが、写真に不安や不穏さを感じさせるのではなく、不安や不穏が午腸の写真を成立させている根源的な条件なのではないでしょうか。胸椎カリエスという病気の影響もあるのでしょうが、彼の写す子供にはカタストロフィー的な不穏さを感じさせます。“「私の時間」有限である”(『幼年の「時間」』)と書いた牛腸にとって、“有限”な生きている肉体と防腐剤で処理された遺体保存のような永久とも言える写真の物質的な時間との乖離は、カタストロフィーでしか埋められないのではないでしょうか。“有限”の肉体が写真に連なっていくには、肉体は現像の化学的プロセスを通過しなければいけません。そのプロセスを通過することで、肉体は粒子に解体、転化される。“有限”な肉体が写真に転化されるには、そのような解体というカタストロフィー的な経験が必要なのではないでしょうか。そんな経験が有機物としての肉体と物質としての写真の溝を埋めるのです。“有限かつ固有な「時間」を生きるということは、「いのち」そのものへと連なる”(『幼年の「時間」』)。けれどその有限の時間は、無限の時間を持つ写真の物質性にそのまま連なるでしょうか。有限から無限の世界に跳躍するには、「いのち」を生きるのではなく、積極的なカタストロフィーが必要だと思うのです。有限の「いのち」を根底から破壊する破局的なカタストロフィーこそが、有限と無限の非対称的な不均衡を最終的に均衡にと調整するのです。
彼の最後の写真集は『幼年の「時間」』というタイトルです。幼年時代というのは世間的には幸福な時間のように解釈されますが、その幸福というのは二度と戻って来ない幸福であって、その戻らない幼年時代に対して午腸はメランコリーな気分に浸たり、詠嘆しているのではなく、解体と破壊というカタストロフィーによってもう一度その幸せな時間を取り戻そうとするようなところが『幼年の「時間」』にはあるような気がします。破壊的なノスタルジアとそれは言うのでしょうか。写真を撮るということは、一回性の事件です。シャッターを切ったらそれはもう取り返しも、取り戻しもできないたった一回だけの事件なのです。その取り返しのきかない事件は、カタストロフィーと言ってもいいぐらいの一回の出来事です。カタストロフィーも一度起きてしまえば、何もかもゼロの状態にリセットしてしまう取り返しのつかない一回だけの事件ですが、けれど結局は幸福も不幸も、昨日も現在も、この瞬間を過ぎてしまえばすべて目の前から無くなるのですから、わたし達は日々カタストロフィーを経験し続けていることなのではないでしょうか。明日になったら今日はもうない。時間が経過するとは、カタストロフィーそのものです。時間の経過がわたし達にカタストロフィーを強制的に経験させるのなら、そんな時間の経過を証明する写真は、撮る度にカタストロフィーを証明しているのです。こんなことがあったけれど、今はもうないという証明を写真は日々行っているのです。牛腸の撮った子供達の写真は、だからその根底にカタストロフィーを抱えている。写真に撮られるということは、被写体にとってそれは取り返しのつかない事態に巻き込まれることなのです。今この瞬間に写されたわたしはもういないという、わたしの不在が現前化されるのです。写真は撮られたわたしの不在を証明します。いないということが写真の中に表われる。被写体にとって写真に撮られるということは、消失というカタストロフィーを強制的に経験させられることなのです。
幼年期を懐かしむことで失われた過去を取り戻すのではなく、幼年期を体現している子供を写真に撮ることで幼年期の子供を、それはかってあった幼年期、今はどこにもない幼年期の子供という、幼年期の不在を現前化させた『Self and Others』は、幼年期を破壊したのです。写真に撮られたことで、それはもう二度と戻って来ない過去なのだとわたし達は認識します。それは取り返そうにも取り返せない。過去はすべてそういう性質のものであり、今現在が過去の領域に流れ込まれるということは、取り返しのつかないカタストロフィーが行われたということなのです。“子供は「いのち」そのものだ”(『幼年の「時間」』)と牛腸は書きましたが、彼が写したものは“「いのち」そのもの”ではなく、「いのち」の残骸です。『Self and Others』には、カタストロフィーが起きた後の世界が写されているのです。幼年時代を生きる子供達を撮ることで、これらの幼年時代の子供達が消滅したことを提示したのです。写したことで、それらが消滅したことを知るのです。二度と戻らないカタストロフィー後の世界を、わたし達がいま生きていることを証明したのです。彼はだから子供の「いのち」を写真の中に永久に保存しようとしたのではなく、「いのち」の消滅、残骸を写真に保存しようとしたのではないでしょうか。
午腸茂雄の幼年時代に対する態度は過去を詠嘆するのではなく、破局の積極的な推進であり、そのようなカタストロフィーでしか幼年時代の記憶と幸せを回復することができないと思っていたのではないでしょうか。過去と現在の均衡を回復するにはカタストロフィーしかない。午腸は過ぎ去った過去と現在をプルーストのように詠嘆の対象として共存させていくのではなく、現在をつねに過去形化することで、現在を消滅し続けるというカタストロフィーによってでしかその均衡を見出せなかったのではないでしょうか。フォークナーの『死の床に横たわりて』で、黒人の少年ダールが母の死を見届けることで、“ある”から“あった”ものへ変質させてゆく時間の暴力に恐怖の感情を抱きます。ダールにとって時間が流れるということは、カタストロフィーそのものです。“ある”ものと“あった”ものの関係をどうやって元の均衡の状態に戻すのか。“あった”ものとしての母親と“ある”ものとしてのダールの存在。ダールは死んだ魚をそれは母親だと思うことで、母親は違う生物に変身し続ける、“ある”ものとしてこの世界に持続していると考えました。魚に変身した母親が“ある”なら自分も“ある”と考えることで、自分と母親の均衡を回復しようとしますが、母親がいないことの事実が、ダールをまた母親がいなければ自分もすでに存在していないのではないかと恐怖させます。ダールは世界の均衡に心を痛めているのです。均衡が回復されなければ自分の存在はないと思っているのです。母親の不在と均衡な関係を結ぶには、不在には不在を持ち込まなければ、不在との均衡な関係は結べないのではないかと、“おれはいるのかいないのか”一晩中思いあぐねます。ダールが思うように、生と死の関係は非対称的で不均衡な関係です。その不均衡な関係を均衡な関係に回復しようとするなら、それは生者を死者の世界に呼び込むことであり、最終的にはわたし達も死ぬことでしかその均衡の回復はないのではないかと思わせます。生と死を区別するのではなく、それは生と死を通底させ、連続させることでしか、その均衡は完成させることができないでしょう。“ある”ものはつねに“あった”ものになる。むしろわたし達の日々の生活は、“ある”ものはつねに“あった”ことの持続です。不在を瞬間、瞬間生きているのです。存在と不在が通底するわたし達の日々は、ダール少年のように、“おれはいるのかいないのか”と思いあぐね続けなければいけません。
サイコパスの人間が交通事故でお母さんを亡くして泣いている女の子を見ると、死んだお母さんに逢わせてあげたいと思うらしいのです。死んだお母さんに逢わせてあげたいということは、その女の子を殺すということなのですが、生と死の不均衡な状態を詠嘆するその子を元の均衡の状態に戻して上げたいという欲望がサイコパスの人間をそうさせるのでしょう。その子を殺すことで、生と死の関係を連続的な関係としてシリアル・キラーは理解するのです。生と死がつながることで、世界の均衡が取り戻せるのです。均衡というそんな幸せな状態に戻るには、サイコパスのような殺人が必要になる。カタストロフィーが必要なのです。過ぎ去った幼年時代と今現在の時間を均衡な関係に回復しようとするのならそれは、現在をつねに破壊の淵に追い込み続けるというカタストロフィーの持続でしか均衡は回復できないのです。ウィノグランドのように日々過剰なぐらい写真を撮り続けている写真家は、現在を過去にし続けること、要するに現在を殺し続けることで均衡を保とうとしているのではないでしょうか。『Self and Others』の奇妙なぐらいのシンメトリーへのこだわりは世界の完璧な均衡であって、その均衡を完全に表現しようとするなら、写った対象を死の世界に引きずり込み、死んだ人間をゾンビのように今現在の世界に復活させるしかないです。生を支えるものは死で、死を支えるものは生だという完璧なシンメトリーとしての生死。写真の物質性と生きている現実が均衡を保とうとするなら、生きている被写体もまた写真によって物質化され、物質化された人間がまた生きている世界に戻される。生きている者は死者達の屍のうえに自分の生を営んでいるのだとアルトーが書いたように、午腸のように完全な均衡を望む人間にとって、生だけの世界はありえないのです。
フリードランダーの知性に影響を受けたコンポラ写真に顕著に見られるような、知的に構図をコントロールする美学を放棄しているから午腸茂雄は、面白いのではないでしょうか。絶妙なフレーミングと構図の中での被写体の微細な配置を誇り、さりげない美学を感じさせるコンポラ写真に対して、午腸茂雄が選んだ撮影方法は、被写体を真ん中に置くという無造作な配置と、真ん中に置かれた被写体を広角レンズで引いて撮るという凡庸なフレーミングです。そこには構図的な美学はあまり感じられず、どちらかというと美学や作家的個性とは正反対のもっと記録写真的な無造作感を感じさせます。なんでそんな凡庸な撮影を彼は選択したのでしょうか。真ん中に重要なものを写せば、見ている人間の視線の方向も間違いなく真ん中にいきます。ここを見ろという作者の指示がはっきりしているからです。指示のはっきりしたその撮り方は、標本のような撮り方なのですが、標本の写真にとって重要なことは、標本にしたものがはっきりと写っていることですよね。そこに作者の個性や美学なんて必要ではない。ものがきっちり写っていればいいのです。『Self and Others』には、写したものがはっきり写っていればそれだけでいいという、ものの具体性を感じさせますね。具体性が強過ぎて、人間よりもその細部の方に目がいってしまいますが、ともかく自分の美学や個性よりも対象やものが優先される。そしてものが写れば写るほど、個性や美学ではなく無意識下の不穏な何かが表われてくる。特に『Self and Others』のシンメトリー的な構図は不気味です。被写体に対してまるで愛情を感じさせない。生きている人間をシンメトリーの構図に収めたいという欲望は、人間を物質化させたい欲望だと思うのです。生きている人間は絶対にシンメトリーになることはできませんし、シンメトリー的な風景にぴったりとはまることなんてありえません。死んで物体にでもならなければ風景の中でシンメトリー的に配置されることができないのではないでしょうか。均衡が悪いのが生きている人間の肉体の特徴であって、完璧な均衡状態というのは、屍体の状態のことです。彼は屍体を求めていたのでしょうか。細部をよく見せるためには、その対象が生きて動いているよりも、物体のように止まっているほうが望ましい。細部を強調する午腸の写真は、だから対象を屍体にすることなのです。
圧倒的に屍体率の高い午腸茂雄の写真に対して、ジャンルとして成立しているコンポラなんて所詮美学以上のものでしかないのではないでしょうか。彼らの写真には何の不穏さも感じられない。短期間でアメリカの最新の写真を咀嚼する要領の良さというのでしょうか。今見ればコンポラ写真は、頭がよかった写真以上の感想を持つことができないのです。コンポラ写真なんてけっきょくフリードランダーに代表されるアメリカ写真的な美学に憧れているだけではと思います。そんなにアメリカの美学が好きなら、アメリカ人になればいいのではと思います。
自分の欲望に突き動かされて、我を忘れて撮り続ける。午腸茂雄の『見慣れた街の中で』には、そんな衝動を感じさせます。重要なのは我を忘れることでして、我によって欲望をコントロールすることではないのです。欲望の命じるままに行動するのです。そんな午腸茂雄のメンタリティーはほとんどアウトサイダーか、シリアル・キラーの人達と同じメンタリティーだと思います。そして写真はアウトサイダーやシリアル・キラー的の味方だと思うのですね。美学やコンセプトの道具としてカメラを扱うのではなく、快楽のための道具や凶器としてカメラを扱う。『Self and Others』の被写体の子供にとってカメラは、ほとんど凶器です。そんな午腸茂雄を写真は祝福するでしょう。
シリアル・キラーというのは、純粋に殺人を享受している人達です。コンポラの写真家は写真を純粋に、シリアル・キラーのように享受していたのでしょうか。彼らはフリードランダーを筆頭とするアメリカ写真の美学的な側面を楽しんでいただけではないでしょうか。彼らはただ写真の構図的な美と調和に淫しているだけだと思います。例えば広くてあまりものがない場所を、撮影場所としてコンポラ写真が好むのは、広くて何もない場所はフレーミングが難しいからです。そんな場所をフレームで上手に切り取れれば、誰からもフレーミングの上手い写真家だと思われて、感心される。フレーミングの上手さを見せつけるために、何もないそんな場所が選ばれたのだと思います。その場所に興味があるのではなくて、フレーミングのテクニックを見せるために選ばれた場所なのです。それにそんな何もない場所は、彼らが参考としているアメリカの写真と共通する場所ですしね。アメリカの写真に一歩でも近づきたいというそんな場所選びの動機は、アメリカ人になりたという“他者の欲望”と変わらないのではないのでしょうか。対象への欲望ではなく、フレーミングと構図の美学で写真を撮る。ニューカラーの真似をしている写真家なんかもそうですね。広くて何もない東京の郊外を撮るのは、郊外の場所に興味があるのではなく、参照しているニューカラーの写真に近いものが撮れるからでしょう。広い郊外をフレーミングすることに快感を感じているその根拠は、参照としているニューカラーの“美”とその写真の構図にいかに似せるかという、模倣の快感とその写真的な構図に淫しているだけなのではないでしょうか。そこには欲望の存在を感じさせません。彼らは主体的にその模倣の欲望を選び、その欲望をコントロールしているのであり、アーバスのように欲望に引きずり廻されていない。そんなアウトサイダー的な欲望の有無が、いわゆるコンポラ写真と午腸茂雄の写真を分けている分岐点なのではないかと思うのです。
欲望に引きずられる。それがシリアル・キラーの欲望に対する態度です。彼らは快楽を求めて殺人や拷問を繰り返しているのですが、あの大量な数の犠牲者を見ると、それははたして快楽だけでやっていたのかと思います。サドの『ソドムの百二十日』なんて快楽の追求というよりも、ほとんど苦行そのものです。快楽を追求するという主体的な意志からは遠い場所で、『ソドムの百二十日』の城主達は殺戮を繰り返していたのかもしれない。快楽を超えて、その行為が単調なぐらい退屈になっても彼らは続けます。それは楽しいとか気持ちがいいとかの話ではなくて、ともかく欲望の存在に命令されているかのように殺し続ける。我を忘れて殺しているのです。好きとか楽しいとかという主体の気分がそこには放棄されている。彼らは欲望に引きずられ、我を忘れるぐらいにその欲望に取り憑かれてしまったのです。我を忘れていないコンポラ写真はただ美しいだけですが、我を忘れている人間に“美”というものは基本的に存在しません。結果としては美しくなってしまうかもしれませんが、一義的に“美”を追求しているわけではないので、それは“美”というよりももっと生々しいものではないでしょうか。
暴力や血に酔いしれたりするのではなくて、しらふで酔っぱらう。シリアル・キラーの人達はつねに冷静です。彼らは冷静な頭で、我を忘れているのです。写真家もそうです。アメリカの写真が好きだとか言って、ただ写真に淫しているだけでは、趣味程度の写真しか撮れない。重要なのは欲望という外部の声を聴くことです。それは妄想や幻聴が見えたり、聴こえたりするような感じですね。写真は人智を超えた表現なのです。自分を超える表現なので、妄想や幻聴のような絶対的な存在に引きずられることを肯定する気がなければ、趣味の範疇内でただ美しいだけで終わるでしょう。写真は妄想や幻聴を肯定します。何故なら妄想や幻聴はじぶんで選択して見たり聴こえたりするものではない。つねに外部の存在だからです。自分以外の声に従うのが写真家です。何かに憑かれていない写真家なんて、それは写真家ではない。そして欲望というのは、主体的に自分が選択するものではなく、いきなり何かに取り憑かれることが欲望なのです。写真家はだから何かに取り憑かれるために、口寄せか巫女のように、なるべく自分を空っぽにしておかなければいけません。わたし達は空っぽな器なのです。空っぽだから天啓のような欲望の声が聞こえるのです。写真は人智を超える表現なのです。人智を超えたところに人間の主体性なんてありません。内面や精神だって必要ではない。人間のすべてを抹消することで、人智を超えた何かがやって来るのです。
ウィノグランドが街頭でスナップを撮影している姿がYouTubeで流れています。撮り終わって顔からカメラを降ろした後、突然ニヤニヤし始めるウィノグランドのその姿は、ほとんど通り魔か、シリアル・キラーのような雰囲気です。彼にとってカメラは、銃かナイフのようなものなのでしょうか。その笑顔は、良い表情が撮れたみたいな会心の笑みではなく、なんだか見知らぬ通行人を後から突き飛ばして、思わず快感を感じてしまったような笑顔でした。とても人間を好きで撮っているとは思えない笑顔です。何だかその姿は、猫が小鳥をなぶり殺しにしているような無邪気な殺意すら感じさせます。通り魔殺人の動機が基本的に理解できないように、ウィノグランドの写真にも動機がよく分かりません。動機が分からない、またはまったく欠落しているウィノグランドの写真はほとんど通り魔の心境のようですが、けれど現実の世界でいちいち動機なんて存在するのでしょうか。わたし達は全員トラウマや何かという理解可能な動機を持っていなければならないのでしょうか。原因と結果という因果関係の枠内に回収されてしまうものなのでしょうか。意味もなく殺意が湧いてくるなんて普通にあるのではないでしょうか。原因のない殺意。それって純粋な殺意だと思います。殺意に動機を求めることこそ、殺意をバカにしているし、殺意は動機がなければ自立できないほどひ弱な存在ではありません。殺意は純粋です。殺意はそれだけで充分に美しく、トラウマの有無なんていう無粋な手なんか借りなくても、殺意は殺意だけで充分自立できます。
殺意のための殺意。わたしではなく、殺意が殺せと命じるのです。わたしの快楽のためではなくて、殺意のために殺す。殺意はわたしの内面に存在するものではなく、わたしの外部に存在するものです。わたしという枠内から離脱した誰のものでもない殺意。原因という因果関係から解放された殺意は、すでに純粋な殺意です。わたしの殺意という所有された言い方はもうできないのです。純粋殺意をわたしに所有させることは不可能です。わたしが殺意に所有されているのです。殺意はもはやわたしの内面から湧き出てくるものではありません。それは超越的存在者のように、わたしに命令するものです。快楽としての殺人は、殺すことでわたしが快楽を感じるわけですから、わたしが所有することのできる殺人ですが、けれどそれが何度も繰り返されることで快楽殺人は、やがてわたしの所有から逸脱していくでしょう。繰り返し反復される快楽殺人は、繰り返されることで殺人の快楽を相対化します。最初の絶頂はそれが二度、三度と繰り返されることで最初の絶頂との距離や違和感を感じさせます。当たり前ですが、最初の絶頂を超えることはできない。繰り返される度に感じる絶頂と、最初の絶頂とのあいだには違和感や、差異の感覚が生じるのです。絶頂という快楽にずれが生じるようになる。反復とは同じことの繰り返しではなく、前の出来事との差異やずれをつねに生じさせるのが反復です。同一のものをまったく変わらない同一なものとして反復するなんて、それは反復とは言いません。反復される殺人がやがて最初に感じた快楽とは逸脱した方向に行こうとするでしょう。反復は差異を生じさせるのです。それはわたしの快楽というわたしの領域からの逸脱です。快楽というわたしの領域から離れた殺人は、快楽のためではなく、殺人のための殺人を行なうようになるでしょう。
ベルトコンベアの流れ作業のように殺人が単調に実行されることで、殺人は快楽という人間の精神や内面に還元されるものではなくなるのです。そういう意味では快楽殺人という言い方には、まだ人間的な要素がありますね。意味がまるで分からないと快楽殺人はよくそう言われますが、人間の精神や内面を殺人で満足させるという原因と目的がある。シリアル・キラーはだから快楽殺人ではないのです。それに何故それを快楽と感じるのかというのは、本人にも分からないし、べつに自分でそれに対して快楽を覚えようと努力して、快楽を感じたわけではないでしょう。嗜好や快楽は本人が決定したものではない。快楽の感覚は内面からではなく、わたしの外側から突然意味も分からずやって来たものなのです。快楽殺人は最終的に、人間に還元できない外部の領域に存在する殺人なのです。
ネガティブでもないし、ルサンチマンを感じさせるわけでもない、意味もなくポジティブな殺戮としてのシリアル・キラーと、ウィノグランドの撮影はなんだかすごく親和性があるような気がします。ウィノグランドのように表現するべき動機がないのに、それが表現の動機になっているアーチストというのも珍しい存在なのではないでしょうか。彼は要するに空っぽなのです。そして空っぽで何が悪いのか。写真は、主体の内面が空っぽで何もなくても表現することが可能という人間の芸術史上、初めての芸術です。ウィノグランドの写真集『Woman is Beautiful』。こんな無意味なタイトルもないのではないでしょうか。このタイトルで何を表現したいのだと聞かれたら、ウィノグランドはなんと答えるのでしょう。YouTubeでの姿のように、ただにやにやと笑っているだけなのでしょうか。なんとなく自分にとって気になる女性を撮っただけの写真集が、写真の聖典として扱われる写真の世界はやはり異常です。女性讃歌でもなければ、女性嫌悪でも蔑視でもない。そこに面白そうなものがあるから撮ってみた的な、動機の徹底的な欠落。けれど写真家は、ファインダーを覗いたときに動機なんて浮かぶのでしょうか。わたし達は動機の奴隷なんかではない。覗いた途端ファインダーには、看板に車に人の顔や動作が溢れ出します。そんな光景が見えてきたら、自分の内部に振り返る余裕なんてあるでしょうか。それがストリート・スナップだったら、ただただ“Woman is Beautiful”だと呟きながらシャッターを押すだけではないでしょうか。
カメラのファインダーを覗くと何だかみんな面白くなる。それがすごく悲惨な場面でも悲しい場面でも、むしろ悲惨で悲しければ悲しいほど面白く感じて、どんどんファインダーの中に没入してしまう。昔見たガイアナ寺院集団殺人事件のニュースで、ガイアナ寺院に潜入したカメラマンが、信者達に銃で撃ち殺される場面がありました。自分に銃口が向けられているのに、カメラマンはその銃口にピントを合わせようとしていました。自分が殺されるのが分かっているのにピントを合わし続けるぐらいだから、ファインダーから覗くと世界は、どんな現実も面白くなってしまうのです。ましてそれが他人の事件だったら、どんな場面でも面白く感じてしまうのでしょう。それってべつに現実が客観的に見えてくるというのではなくて、むしろ逆に何も分からなくなるというのかな。現実の世界から意味がなくなるのです。この現実はなんだろうみたいに、白昼夢を見るような我を忘れるようなところがあると思うのです。だってファインダーを覗くと、何も起きてない普通の場所でも何だか、突然事件現場みたいに見えてくるときがあるではないですか。現実をファインダーで切り取ることで、ファインダー以外の現実が消去されます。ノイズが消去された現実は、なんだかそれは映画を見ているみたいな気分になって、ファインダーにすごく没入してしまう。現実なのだけれど現実じゃないみたいに見えてくるのがカメラのファインダーです。ファインダーを覗くだけで世界は写真か映画のように見えてくる。 ファインダーを覗いていると自分という存在がだんだん希薄になってしまうのですね。自分が消えるっていうのか。自分よりも対象が濃厚に浮き上がる。淀川長治が映画を見ていると、出てくる俳優全員に自分がなった気がするって言っていました。スクリーンに現れた男優にも女優にも、性別に関係なく、彼はなってしまうそうです。見るっていうのは、だから自分の輪郭が溶け出すような経験ですよね。スクリーンに映っているすべてのものに自分が吸い込まれ、変容していく。そんなときに自分のアイデンティティーについて考えるバカもいないでしょう。むしろアイデンティティーの崩壊を快楽として感じてしまう自分を発見してしまうはずです。
対象に没入してくるから、対象と関係が薄れていくっていうのかな。ファインダーで対象を覗いているときの気分と似ていますね。だって自分はもうすでにその見ている対象なのだから、関係も何もないでしょう。リリアン・ギッシュとそれを見ているわたしという主-客の関係じゃなくて、リリアン・ギッシュはイコールわたし、なのだから主-客の関係なんてそこには成立する余地がない。何しろわたしとあなたが区別なく一緒になってしまうのですから、主-客の関係を形成することができないのです。
関係が成立しないところで、責任なんていう主体の形成が前提とされる意識が成立できるでしょうか。写真家が本質的に無責任な存在なのは、淀川長治のように対象と関係を結べないからなのです。だって没入して我を忘れているのだから、写真家に撮る責任とはなんて言われてもよく分からないでしょう。浅沼委員長刺殺事件や豊田商事の事件では、写真を撮るひまがあるならなんでカメラマンは助けないのだとよく言われていましたが、そんなの助けられるわけがないでしょう。映画のクライマックスにさしかかっている場面で、突然用を思い出したからそこを見ないで席を立つなんてことができるでしょうか。事件の現場をファインダーで見ているときなんて、最高のクライマックス・シーンですから、誰もファインダーから目をそらすなんてできるわけがないのです。それにわたしは我を忘れてファインダーを覗いているのですから、そこにわたしはいないのです。だからいないわたしが現実に対して何かのリアクションを起こすことなんてできないのではないでしょうか。
悲惨な現実を生真面目に再現しようと思えば思うほど、悲惨な現実が写真の中で美学的に秩序化されるでしょう。人間の屍体をフレームぎりぎりに入れることで更に悲惨度を強調し、見ている人間の心を打とうとか無意識に計算してみる。人の心に訴えるってそういう計算なしには成り立ちませんからね。そして悲惨な現実をさらに悲惨に撮ろうという意識は、結局美学的な秩序に向かいます。世間には悲惨な写真が溢れているわけですから、その中からみんなの目につくように、より悲惨さを強調しなければいけない。そんな悲惨さを強調するために迫力のある構図がそこで多用されればされるほど、構図を美しくするための計算が働く。所詮そんな意識は計算意識以外の何ものでもないですから、そこには我を忘れるような高揚感がない。凡庸なドキュメンタリー写真家は、要するに現実を見て、計算しているだけなのですよ。彼らは何も興奮していない。そこに座っているだけなのです。興奮しているとすれば、その場面が写真のフレームの中にきちんと収まるかみたいな美学的な欲望だけです。彼らは現実とちゃんと距離をとって、それに対して没入もしていなければ、我を忘れてもいない。淀川長治みたいに意味もなく闇雲にリリアン・ギッシュになっていないのですよね。リリアン・ギッシュになるというのは、リリアン・ギッシュが自分に対して無防備に襲いかかってくることを肯定することなのです。そこにはリリアン・ギッシュとわたしの距離が存在しない。ドキュメンタリー写真家のように、距離をとってちゃんと対象を見るというのは、現実を希薄化することです。希薄化された現実をそれは美として享受しているだけなのではないでしょうか。現実を希薄化するという意味では、ドキュメンタリー写真家はブルジョワと一緒です。彼らは“美”の領域の中でしか生きていられないのです。
百葉箱 Screen #17
小松 浩子 (写真家)
視床下部とは間脳(視床の前下方、第三脳室下側壁)に位置し自律機能の調節を行う総合中枢で、中脳以下の自律機能を司る中枢がそれぞれ呼吸運動や血管運動などの個々の自律機能を調節するのに対し、視床下部は交感神経・副交感神経機能及び内分泌機能を全体として総合的に調節する。視床下部には体温調節中枢・下垂体ホルモンの調節中枢・浸透圧受容器等があり、摂食行動・飲水行動・性行動・睡眠等の本能行動の中枢、及び怒り・不安等の情動行動の中枢でもある。人間は出生時には視床下部が不完全であり成長とともに完成するという説があるが、実際には月齢に関係なく視床下部は機能しており必要なカロリーが哺乳出来た時点で食物があっても摂食を止めると言う。野生動物も同様にカロリーが補給出来た時点で他に食物があっても摂食を止める。子供がある程度の年齢になると教育・躾と称して「一人前」の食事の完食が強要されるようになる。「立ち食いそば」における「一人前」は20年前であれば「掛け蕎」が一般的であったが、現在では「天麩羅蕎+小どんぶり」が一般的のようだ。西の地区では「天麩羅蕎+並どんぶり」を「一人前」とする場面も多々見受けられるように「一人前」増加傾向にあると考えられるが、教育・躾に従い「一人前」は完食しなければならない。視床下部外側野を破壊すると動物は餌を摂らなくなり、刺激するとさらに摂る現象が確認されている。視床下部外側野は摂食行動を促進するので摂食中枢と呼ばれる。一方、視床下部腹内側野を破壊すると動物は餌をさらに摂り、刺激すると摂らなくなる。視床下部腹内側野は摂食行動を抑制するので満腹中枢と呼ばれる。赤ん坊では正常に機能していた視床下部が、教育・躾により必要カロリーを越えて摂食し続ける事で破壊(=刺激)される。日本肥満学会の指針ではBMI25以上、糖尿病・脂質異常症等11の病気のいずれか、内蔵脂肪の面積100平方㎝以上で要治療の「肥満症」となる。投薬や食事・運動指導で改善が見られない場合には胃の大半を切除するスリープ状胃切除術に健康保険が適用される。1935年チンパンジーにおいて前頭葉切断により性格が穏やかになったとの報告を受けると、同年にはヒトにおいて精神的疾病治療としての前頭葉切裁術が始まったと言う。近い将来「肥満症」治療としての視床下部外側野破壊手術が行われる可能性も否定出来ない。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
9/1 最善を求めるよりも、次善でよしとしたほうが良い結果になるでしょう。喧嘩をしている相手には、仲直りの機会を作ってあげて下さい。面白かったことは友達にメールで教えてあげましょう。きれいな歩き方をすると、印象が良くなるでしょう。食べすぎに注意して下さい。理想的な人と出会える可能性があります。ただ、その人が心を開いてくれるにはもう少し時間がかかりそうです。良好な関係を保って下さい。初めて相手とセックスした時のことを思い出せば、新鮮味が感じられなくなったセックスも、新鮮なものに感じられるはずです。時には思い出話をしてみましょう。すぐさまわたしは夢の世界に飛びこんだ。別のつまらない問題で貴重な時間を無駄にすることはできなかった。「はやく終わらせてしまったらどうだ?」男がいうと、わたしはいつもこんな風に答えた。「ええ、近いうちに」いつかはそうするつもりだったのだ。けれど、今日ではない。今日という日はあまりにも大切なものだ―たぶん明日、あるいは明後日には。しばらくして男がそのことを口にしなくなると、わたしはかれも魔法にかかっていると信じているふりをした。時間はどんどん流れていったが、わたしは流れるに任せた。夢が指の間から滑り落ちていくような気がしたけれど、それを止めることはできなかった。目の前にいる男がしだいに気もそぞろになっていくのを見ているしかなかった。 9/2 今日は仕事に早さよりも丁寧さが要求されそうです。確認はしっかりして下さい。確実にこなしてゆけば、うれしい臨時収入がありそうです。慢性の頭痛に悩まされているようなら、肩こりが原因かもしれません。パソコンの位置を変えたり、ゆっくりお風呂に入ってみて下さい。できるだけ外に出るようにしましょう。座っている時間の長い人は、お昼はお弁当にしないで食べに出ましょう。気分転換にもなります。出会いのアンテナは感度良好といった感じでしょう。タイミングさえつかめば恋が成就しそうです。いいなと思う異性がいたら迷わず積極的に話しかけて下さい。セックスそのものよりも話をする時間を大切にしましょう。すべてが終わった後、「わかってくれているはず」と思わずに、ちゃんと気持ちを伝えることです。誰とも話なんかしたくないわ…何も話したくない―死にたいだけよ…。 9/3 心身ともに充実し、何でもできそうな気がします。でも張り切りすぎると、周りは迷惑顔になるでしょう。個人プレーに徹した方がよさそうです。恋人が意地悪なことや、じらすようなことを言うかもしれません。単なる気まぐれなので気にしないことです。「お前が赤ん坊を諦めないのは、これから先一生、おれを捕まえておくためだろう」わたしが名うてのゆすり屋のような言い草だった。そのあと、さすがのわたしもこれ以上自分をだますことができなくなった。ふたりの関係が終わったことを認めないわけにはいかなかった。彼を行かせる言葉を口にしないわけにはいかなかったのだ。もう二度と、歓びのあまり世界がすばらしいものに変わるのを実感することはないだろう。なぜなら、わたしは気軽に人と心を通わせるタイプではなかったからだ。わたしにとって恋をするのは容易なことではなかった。心のどこかで自分の人格が完全さを失うような気がしたのだ。それなのに今、それほどまでに大きな犠牲を払って捧げたものがあっさりと打ち捨てられようとしている。もはや無用の長物なのだ。幻滅感は容赦なく、わたしがあの男と結びつくためにあんなにも苦労してつくりあげたもろい皮膜を切り裂いた。あとに残ったものは深い衝撃と、ずたずたに切り裂かれて血まみれになった外交的な感情だ。もう二度と、とわたしは思った。もう二度と…。普段とは違う飲み物を楽しんで下さい。デパートの地下で行列ができている食べ物を見つけたら、並んででも手に入れましょう。友人や家族にも買って帰るとさらに金運が高まりそうです。 9/4 何もせずにじっとしていると、マイナス思考に陥るかもしれません。家族での日帰り温泉旅行がおすすめです。両親は古くから南部地方に住む貴族で、王族の血を引いているといわれている。それは現存する貴族のなかでもまれな例だ。そのため、娘に女王という名前を与えたのだが、そのほかに与えたものはほとんどなかった。ふたりとも、並はずれて気位が高く超然としていたので、わが子に対して愛情を抱いていたかもしれないが、それを態度で示すことはなかった。たまにはゆっくりお風呂を楽しんでみましょう。秋の気配を実感する出来事もありそうです。今夜の食事は、簡単に済ませても良いでしょう。空いた時間は家族との会話にあてて下さい。恋人のいない人は、今日は飲み会などに参加すると孤独感を味わうことになりそうです。人が大勢集まる場所はなるべく避け、家族と過ごす時間を大切にしましょう。出会い運は下降中です。あれもこれもと手を広げると、結局は中途半端に終わってしまいそうです。腰を据えた付き合い方のできる人を選んで下さい。 9/5 生活必需品の買い置きがなくなって困るかもしれません。トイレットペーパーや洗剤などを確認してみて下さい。スポーツをするなら球技が良いでしょう。ただ、運気は低迷しているので無理は禁物です。後ろ向きな発言が多い人は、周りから少しうとまれているかもしれません。人の悪口や噂話はしないようにしましょう。せっかくの出会いも、あなたの不用意な言葉で台なしになりそうです。見知らぬ人々は不愛想なわたしに苛立った。この年齢の女にはふさわしくない表情や態度に困惑した。よそよそしい態度や、目に見えない“立入禁止”の看板に嫌気がさし、ひと言ふた言言葉を交わすと、それ以上わたしに関心をもつのはやめた。それこそわたしが望んでいたことだ。たとえ人間社会で生きていかなければならないとしても、これからはひとりで生きていくと固く心に誓っていたのだった。その場しのぎの対応はよくありません。気負わない態度を心がけて下さい。あまり気分が乗りません。相手と接触することが苦痛になってしまいそうです。性的なことは忘れて、家で音楽でも聴きましょう。 9/6 出会い運はいまひとつです。飲み会などの場ででしゃばると、うとましく思われる可能性があります。素直な気持ちで裏方に徹すれば好感をもたれます。時間があると思ってのんびり仕事をしていると、急ぎの仕事が飛び込んできそうです。早めに片付けてしまいましょう。感覚的に物事を処理するとミスをしそうなので、今日は論理的に考えるようにしましょう。感覚で処理をすると後悔しそうです。思いがけない弱点を指摘されるかもしれません。「あなたは自分がどうなろうとあまり気にしないかただとお見受けしました。」裏を返せば長所でもあるはずです。自分の持ち味と納得しましょう。展望台や見晴らしの良い場所から夕日を眺めて気分転換を図りましょう。 9/7 ファッションで自分らしさを演出すると、良いことがありそうです。自分ができること、他の人に貢献できることを意識して使命感を持つと、新たな意欲が湧いてくるでしょう。頑固にこだわっていたことをしててみると、気分が楽になり、人間関係もうまくいきそうです。新しく何かを始めるのに適した時期です。心の総決算をしながら、自分にとって何が大切かもう一度考えて下さい。理想の相手が明確になるでしょう。忙しいことを理由にいい加減な対応をしていると、仕事の能率も落ちてしまうでしょう。身の回りを整理して下さい。朝、出かける時間や食事の時間などは予定通りに実行しましょう。それによって生活にリズムが出てきて調子が良くなります。今日はいつもと違う行為が快感をもたらしてくれそうです。下着を変えたり、ホテルを変えたりして、新鮮さを演出するとより効果的でしょう。パトロンの言葉は続く。 9/8 早い時間はぼんやりしがちですが、だんだん冴えてくるでしょう。午前中は単純作業、午後は思考力を使うもの、と仕事や勉強の内容を分けると効率的です。私的な時間は甘い誘惑が待っているかもしれません。慎重さを忘れないでいれば、明るく陽気な気持ちで楽しめるでしょう。生命保険の再検討をして下さい。高い掛け金に負担を感じているなら、掛け捨てタイプに替えるなど解約も視野に入れて見直しを図りましょう。今日は相手と普段はあまり話さないような話をしてみましょう。2人の気持ちに行き違いがないか確認するためには必要な時間です。今では、彼は私に何も話さないし、だから私も彼に何も話せない。二人きりのときは、彼はほとんど口を開かないし、セックス以外にわたしに用はないらしい。 9/9 今日はお気に入りのスーツで決めてみてはどうでしょう。シャツやブラウスは幸運な色のものを選ぶと、良い印象を残せそうです。人とのコミュニケーションを最優先に考えると、周りからの信頼感も高まるでしょう。パートナーとの関係を見直してみましょう。相手の気持ちを思いやることが大切です。相手とは心が通い合うのを実感できそうです。心に余裕を持つことで、今後の2人の関係もうまくいくでしょう。快眠・快食・快便は健康の証といわれていますが、心身ともに、とても爽快な1日となるでしょう。快感が怒涛のように押し寄せ、止まらなくなってしまうかもしれません。激しさのあまり、お互い体調を崩さないように気を付けましょう。 9/10 疑問に感じたことは納得できるまで調べることが大切です。中途半端な状態はこれまでの努力を台無しにしてしまいます。私の要請は却下された。理由は書かれていない。アドバイザーの変更という、何百人という人たちに認められていることがどうして私には認められないのか、その説明はいっさいない。とはいえ、役所のやることは常に一方的で予測できないものなのだから、こうした役所に説明を期待すること自体間違っているのは言うまでもない。嫌なことがあったら、思いっきり遊びましょう。ボウリングやビリヤードなど、体を使う遊びでストレスが発散できそうです。いかにも効果がありそうな健康食品を紹介されても、やんわり断ってください。値が張るものならなおさら、手を出さない方が賢明です。あなたののらりくらりとした態度に、相手が愛想をつかしてしまう可能性があります。あまりもったいぶるのはやめましょう。旅行や行楽に最適な季節です。計画が決まっていない人は、早めに情報集めをしましょう。自然の多い場所を選ぶと出会いも期待できそうです。 9/11 旅行雑誌を買って興味のあるツアーを探してみて下さい。予算が許すなら、行ったことのない遠方を選びましょう。仏教彫刻や水墨画など、普段なじみのない日本美術に触れるのも良さそうです。新鮮な魚料理を食べると、体の奥からエネルギーが沸き上がってきそうです。不用品の中からか売れたお宝を発見するかもしれません。何でもかんでも捨ててしまわず、処分する前にリサイクルのお店に持ち込んでみて下さい。恋人に別れ話を切り出されたと思ったら、意中の人に告白されたりするような、そんなあわただしい1日になりそうです。才能が認められそうです。転職を進められたり、留学の話が持ち込まれたりするかもしれません。大きな分岐点になるので、よく考えましょう。新しい出会いはありませんが、異性の友人と恋愛関係に発展しそうです。成り行きにまかせる方が良い結果になるでしょう。 9/12 心にゆとりを持って動かないと、無駄なことばかりしてしまいそうです。花や緑を眺めると気持ちが落ち着くでしょう。間違いない、外では本当に太陽が輝いている。雪ではなく露がきらめき、バラの茂みの下に、クロッカスが規則正しく並ぶ対称形の小さな炎を花開かせている。冬は終わったのだ。今は春なのだ。驚きに包まれてわたしは窓辺に駆け寄り、外を見る。いったい何が起こったのだろう?めまいと混乱が押し寄せてくる。春が来て太陽が輝き、花が姿を現す世界―そんな世界にわたしがまだ生きているということがありうるのだろうか。そうしたいっさいから、わたしは遠い昔に追放されたと思っていたのに。だが、そうして窓辺に立ちつくしている間にも、早くも幸せな情景は薄らぎはじめ、幻のように、夢のプラズマの織物のように、透明になっていく。変わって立ち現れてくるのは、怪物のような機械のアウトライン―滑車と歯車とシャフトの群れが、いつもながらの規則正しい無情な動きとともに刻一刻とその姿を鮮明にし、こちらを見ろとわたしに迫ってくる。今日は恋人とはぎくしゃくしそうなので、会わない方が良いかもしれません。俳句や短歌などに触れる機会を作って、できたら1句ひねってみましょう。歩道を走る自転車に注意して下さい。今日はカードの買い物は避けて下さい。つい余計なものまで買ってしまうおそれがあります。支払いは現金で済ませましょう。今日は人と会っていても気分は落ち込むばかりかもしれません。1人で行動して下さい。できれば誰とも会わない方が良いでしょう。職場やクラスの空気が煩わしく感じられそうです。一度気になると何もかも気になってしまうでしょう。気分転換を図って下さい。気分転換を心がけましょう。タバコやコーヒーに頼るのではなく、体操や散歩など体を動かすことで気分を一新するようにして下さい。 9/13 「沈黙は金」という言葉が当てはまる状態に置かれるかもしれません。発言はなるべく自重して下さい。上司などの言うことに納得できずわだかまりが残っていても、相手に分がありそうです。いつまでも意地を張っていると損をします。恋人とは、家で過ごすより外に出かけた方が楽しめそうです。待ち望んでいた嬉しいニュースが届きそうです。転職や資格試験の合格通知、雑誌の読者プレゼントなど、良い結果が期待できるかもしれません。これまで友達だと思っていた異性が、妙に気になったりしそうです。相手も同じ気持ちかもしれないので、大切にしましょう。夏バテで体力が落ちている人は、何よりも食事が大事です。栄養があっても消化吸収の良いものを取りましょう。ビタミン群も大切です。 9/14 「男らしさ」「女らしさ」について考え込むことがありそうです。どちらかのみを肯定するのではなく、それぞれの持ち味を認め合えるようにするとうまくいくはずです。今日起きた揉め事の顛末を、一番冷静に見ているのはあなたのようです。人間関係にひびが入る前に、客観的な助言をしてあげましょう。コンサートや芝居など人の集まるところに、積極的に出かけていきましょう。心ときめくような劇的な出会いがあるかもしれません。今日は2人のデートに、何か良いことがついてまわりそうです。いつもより身だしなみに気を付けるようにしましょう。高級レストランで食事をするなど、たまには奮発しましょう。相手も満足して、その後のセックスが楽しいものになりそうです。 9/15 気に入っている洋服でも、着こなし方で印象が全く変わりそうです。鏡でよく確認しましょう。夢をかなえるために必要なのは机上の計画より、行動だということを意識しましょう。スケジュール帳のほかに、自由に書き込めるメモ帳を用意すると、仕事の能率が上がりそうです。気になる人から「今度飲みに行きましょう」とお誘いがありそうです。社交辞令かもしれませんが、素直に受け取りましょう。すぐに日取りを決めて下さい。本人にはまるでその気もない行為を求めてしまったことが悔しくてならなかった。彼の友好的な態度に期待しすぎてしまったことが恥ずかしくてならなかった。わたしは一方的な願望のもとに自分を欺き、彼の同情的な態度をわたし個人に向けられた暖かい感情の現れだと勘違いしてしまったのだ。そう思って改めて考えてみると、これまでのわたしたちのかかわりの中で、彼の振る舞いが、同情心と理解力のある知的な人間の“型どおりの”博愛心以上のものを示したことは、ただの一度もなかったと言っていい。生来、極端に内向的で、周囲の人々からすげなく拒絶されることをこの上なく恐れていたわたしにとって、この過ちは格別の痛みをもたらした。付き合い始めたばかりの人は、2人の間に新たな進展がありそうです。自然な流れで盛り上がっていくでしょう。 9/16 集中できないのは体調が悪いせいとしても、「手抜き」と勘違いされそうです。前もって上司に報告しておいた方が良さそうです。どう考えても高嶺の花の相手に一目惚れするかもしれませんが、今日は行動を起こさない方が良いでしょう。趣味に関することにあまりお金をつぎ込むのは慎んだ方が良いでしょう。後から困ることになりそうです。誰かと話したいと思っても、今日は素敵な出会いは期待できません。外出は控え、こまめにメールの確認をしましょう。相手の仕草や態度に不安な要素が出てくるかもしれません。真偽が確認できるまでは感情的な言動は控えて下さい。 9/17 自分は真剣なのに周囲からは茶化されそうです。憤慨しても相手にされず、落ち込んでしまうでしょう。頑張っても真価を発揮できない日もあります。うまくいったと思わせるようなこともありますが、それは錯覚にすぎません。現実をよく見つめることです。この世界のどこかに敵がいる。執念深く容赦のない敵が。もちろん、わたしの知らない人間だということもありうる。だが、それよりも、よく知っている人物―毎日会っている誰かである可能性のほうがはるかに高い。わたしにごく近いところにいる人間でないとしたら、いったいどうしてわたしの行動に関してこれほどまでに詳細な情報を入手できるというのか。夜、友人宅を訪問するといった取るに足らないことでも、敵はわたしの行動を必ず察知し、確実に、それがうまくいかなくなるような手立てを講じてくるのだ。まして、もっと重要な事柄に関して敵が充分な情報を得ているのは疑う余地がない。もう何ひとつ敵に知られずに決めることはできない―わたしにはそんなふうにしか思えなくなっている。今日は1日中、財布があるかどうかを頻繁に確認しましょう。集中力にかけるきらいがあり、どこで忘れたり落としたりするかわかりません。デートをしても相手の話があまり耳に入ってこないかもしれません。心ここにあらずでは相手も怒ってしまうので、気を付けましょう。 9/18 節約をしている人は、けちな人と思われないように注意して下さい。ただし散財をするのではなく、友人との交際費など使うべき時は使うというメリハリをつけることが大切です。大きな買い物は失敗しそうです。本を読み始めるなら明るい時間にしましょう。格闘ものの小説がおすすめです。今日は、カードを持ち歩かない方が良いでしょう。大金を持って出るのも引けましょう。必要なだけのお金を持って出かけると散財を防げそうです。相手が疲れてしまってはいませんか。あなたは幸せでも相手も同じとは限りません。相手のことを1番に考えたセックスを心がけて下さい。 9/19 遠くでも近くでも、広々としたところに出かけましょう。大らかな気持ちになれますし、後々まで話題に上るような印象的な1日になるはずです。記念写真を撮るより、その風景や空気を記憶に焼き付けて下さい。現代的なデザインの家具が気に入ったら、思いきって買っても良いでしょう。あまり意味がないと思えることでも、文句や愚痴をこぼさずに率先してやりましょう。今後の作業に必ず役に立つはずです。友達を誘って、人の集まるところへ足を運んで下さい。気になる異性のグループを見つけたら、勇気を出して声をかけてみましょう。 9/20 公共の乗り物で出かけるときは、乗り継ぎをしっかり確認しておくとよいでしょう。やってみたいことは何でも挑戦してみると良いかもしれません。いろいろと情報を集めてみましょう。今日は買い物に出かけても、気に入ったものはサイズが合わない可能性が高そうです。慎重に確認しましょう。秋らしい落ち着いた色合いの装いが人の目をひきそうです。その効果は予想以上でしょう。思った以上に異性から声がかかる日になるはずです。相手とのセックスでどんなことを試みてもうまくいきそうです。逆にそれが不安になるようなら、立ち止まって2人の関係を見直してみるのも良いでしょう。 9/21 市販の薬を買うときは、薬剤師に相談してから買った方が良さそうです。季節の野菜を使った料理でしっかり栄養補強をしてください。古書店で新たな発見があるかもしれません。買うつもりがなくても、骨董品店を見かけたらのぞいてみて下さい。意外な人と出会ったり、普段耳にできないような貴重な話が聞けるかもしれません。恋人がいる人には、新たな段階への発展がありそうです。恋人がいない人にも、新しい恋が始まりそうな出来事があるでしょう。何度か顔を合わせてはいたけれど、特に異性として意識してなかった人から突然告白されるかもしれません。冷静に対処しましょう。今日は、すべてが思い通りに運びそうです。体力的にも問題はありませんので、とても充実した1日となるでしょう。わたしにとって、時間は小鳥のように飛び過ぎてゆく。寄宿学校から休暇で家の帰ってきた子供さながら、わたしは一度にあらゆるものを見てあらゆることをしたいと思う。湖畔の小さな街はわたしにとってまさに天国だ。立ち並ぶ店に次々と駆け込んでは駆け出し、ペストリーやチョコレートを食べ、ばかげた雑貨を買いあさり、その間もずっと途切れなく彼に話しかけている。その一方で、彼は急速に寛大さの蓄えを使い果たしていく。疲労感と困惑に加え、足も痛みはじめた彼には、もはや私の困った振る舞い以外、何も目に入らなくなる。9/22 体調がすぐれないと感じたら無理をしないで下さい。同僚の対抗意識をうまく利用して、お互いを高めあうようにしてみると良さそうです。ライブやコンサート会場などで出会いがあるかもしれません。トイレやお風呂場、台所などの水回りの掃除は念入りにしておきましょう。相手の仕草がいちいち気になるのは、疲れているせいかもしれません。口に出すと喧嘩になりそうなので、黙っていましょう。いつもの電車に乗り遅れてがっかりしていたら、次の電車で素敵な出会いがあるかもしれません。今日は「災い転じてチャンスあり」という日です。 9/23 周りの人に振り回されやすい日です。何事もマイペースを心がけて下さい。早とちりをしないよう注意が必要です。食費がかさんでいたら、外食はできるだけ控えましょう。早めにお風呂に入ったら、すぐに寝る準備をしましょう。睡眠をたっぷり取るようにして下さい。予定していたよりも早く、仕事が終わりそうです。失敗もなく、迅速にこなせていれば、能力が向上した証拠でしょう。体力的にも精神的にも、文句のつけようがないくらい快調です。遊びでもレジャーでも、何でも好きなことに挑戦してみて下さい。なにもかもがわたしの幸福を願っていない人たちによって、あらかじめ決められている。どうして彼らは、そろってわたしに敵対するのだろう?「そのうちここでの暮らしが好きになるわよ」と、よくいっていた女たちのことを思い出す。その声には、わたしが好きになることはないだろうとよくわかっていて、その事実に内心ほくそ笑んでいるのが表れていた。 9/24 何かと勘違いの多い1日でしょう。良かれと思ってしたことが、逆に相手を傷つけてしまったりしそうです。周囲に気を遣いすぎないようにしましょう。懐かしい音楽などを聞いて思い出に浸ると、初心を取り戻せるかもしれません。トラブルに巻き込まれる恐れがあるので、繁華街には近寄らないで下さい。人間関係でトラブルを招いてしまうかもしれません。今日は無理が利かないでしょう。何をするのも億劫に感じてしまいそうです。仕事にも勉強にもやる気が起きないまま1日が終わってしまうかもしれません。何となく体に力が入らない、頑張ろうと思ってもやる気が出てこない、といった感じでしょう。いまやすべての日がわたしにとっては同じで、不快さを別にすればどれもまったくの空っぽだ。暑さは忌まわしい刑罰で、わたしの生気をすべて奪っていく。 9/25 しなければいけないことを午前中のうちに片づけると、1日が有効に使えそうです。恋人と、住まいなど具体的な将来の話をしてみましょう。考え方や価値観の違いがわかるかもしれません。気分転換にはストレッチが最適です。お風呂上りにゆっくり時間をかけてやってみて下さい。カード会社やデパートからのお知らせが届いたら、中身を見ておきましょう。お得な優待割引や特典情報を見逃さないようにして下さい。友人と語らう機会が多いほど、出会い運が上向きになる時です。あらゆる方面に顔を出しましょう。思わぬ人脈から運命の人が現れるかもしれません。恋愛感情はないと思っていた異性から突然告白されて、戸惑ってしまうかもしれません。案外、相性の良い相手かもしれないので、きちんと対応しましょう。 9/26 自分らしいと思える装いで出かけると気分が盛り上がります。お金を貯蓄に回す余裕があったら、株式投資することを検討してみると良いかもしれません。情報を集め、リスクはしっかり把握しておきましょう。恋人の束縛にうんざりしそうです。愛されている証拠だと思ってしばらくは我慢して下さい。人のためにプレゼントを購入するなら今日が一番良い日です。大切な人への贈り物なら、多少値の張るものでも、思いきって奮発して下さい。今日は、下着などに幸運な色のものを選ぶと運気の上昇を招きます。デートの最中に思いがけないことが起こるかもしれません。人生のパートナーに出会えるかもしれません。理想のタイプではないかもしれませんが、相手はかなりできた人のようです。知識豊富な人に注目してみて下さい。 9/27 人がどう感じているか気を回すようにしましょう。共同作業がうまくいくかどうかの分かれ目になります。恋の争奪戦はあなたに有利なようです。告白の好機が巡ってくるはずなので、頑張って下さい。新しい仕事に挑戦するなら危機感を持って取り組みましょう。年長者とうまく折りあえば昇給があるはずです。今日は同僚や後輩が、あなたの周りに集まってきそうです。あなたとコミュニケーションを取りたがっているからでしょう。困難だと思っていたことが、後で幸運な出来事に変わる日。苦手としていた人とも仲良くすると、素敵な人を紹介してくれるかもしれません。季節の変わり目ですから、昼と夜の温度差に気を付けて下さい。邪魔になるかもしれませんが上着は持って出かけると良いでしょう。 9/28 遠回しにわがままを指摘されそうです。早めに気づかないと開き直っていると勘違いされるので気を付けて下さい。わざわざ足を延ばして出かけても、店が閉まっているかもしれません。出かける前に電話で確認をしましょう。両親や友達に贈り物をすると、欲しかったものをお返しにもらえるかもしれません。目先の利益にとらわれた行動や見栄、嘘は慎んだほうが良いでしょう。後で後味の悪い思いをしそうです。気になる異性には誠心誠意を尽くしましょう。今頃になって夏の疲れが出てくるかもしれません。ここのところ体調があまりよくなかった人は、症状の変化に気を付けて下さい。 9/29 交通機関でのトラブルに注意して下さい。早めに出かければ防ぐことができそうです。会話に詰まりやすい相手と会うときは、音楽が流されているお店を選びましょう。恋人とは都合が合わず、すれ違いになりそうです。大げさなくらいの愛情表現をメールで送ると、相手も安心するでしょう。昼食にお金をかけるのは考え物です。コンビニのお弁当でも、1番安いものを買うようにして下さい。急な出費でお金が足りずに恥をかくことがありそうなので、倹約を心がけましょう。今までがむしゃらに進んできたせいか、燃料切れしてしまいそうです。進行中の仕事や課題にも支障が出そうですが、充電のときかもしれません。人の心の隙につけ込むような人と知り合いになりそうです。自分をしっかり持って、逆に利用してやるくらいに気持ちで接しましょう。その声には感情が欠けている―恐怖、愛、敵意、あるいはそれ以外のどのような気持ちも表していない―らしく、たんに聞いているものの神経を逆なでするために発せられているかのようだ。その声の我慢ならないところは、誰にも止められない機械によって生み出され、誰ひとり返事をすることさえない問いを永遠に繰り返すだろうという点だ。 9/30 自慢話をしているつもりはないのに嫌味を言われそうです。誤解を招かないように慎重な表現を心がけて下さい。窓を開けっぱなしにしているのを忘れて、大声で家族や恋人と話をしないようにしましょう。翌日、近所の人の意味ありげな視線に赤面することになりそうです。友人から食事に誘われても、今日は断ったほうが良さそうです。たとえ行ったとしても、愚痴を聞かされるばかりで楽しめそうにありません。ストレスが溜まっているようです。態度に出てしまうほどではありませんが、不機嫌な印象を与えがちなので、注意しましょう。自分にはできないと思って仕事をえり好みしていると、いつまでたっても進歩が見られないでしょう。周囲の視線も冷たくなりそうです。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「あなたは私ではない」 "You are not I"より

写真には一見可逆性があるようであり、対象の存在によって写真は生成され、写真によって対象は指し示され、その指向性は常に同一であるように見えます。しかし写真の持つ可逆性は非対称な可逆性であり、我々は写真によって対象を指し示しますが写真もまた鑑賞者に向かって肉眼で捉えられなかった事物や知覚で捕らえられなかった事象の存在を我々の意図とは無関係に指し示すのです。写真を前にした時の我々の関心は現実そのものではなく写真の持つ相貌あるいは写真の中でのリアリティーであり、その非対称的にあらわれた現実の方にこそ価値があるのだと思います。対象物が撮影者を介して鑑賞者の目に触れるまでの過程に於いて、写真は意味の捨象若しくは介入を経て、もともと存在していたであろう価値とは無関係な実在しない価値を現しますが、それは実在の対象の持つ価値に依拠しない写真の価値であり、対象物と写真または撮影者と鑑賞者の間で執り行われる価値の置換若しくは移譲であるようにも思います。それはある種の写真による妄想の具現化であり、それをそうであると断言することなく対象物でも写真でもない、現実になりすました別の存在を示唆していると言えるとも思います。我々は写真を撮ること、または見ることによって現実の強度から開放され、恣意的に対象または写真と同化/乖離を行うことによって自身の妄想を完成させるのだと思います。
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