The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 11月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #19   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
There is a method in our madness.
〜我々の狂気には筋が通っている〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
廃墟を写すのが少し前に流行っていましたが、朽ちていくものを写真に撮るとそれは無条件に美しくなる。廃墟だけでなくても現実を四角いフレームの中に枠付けすると、写したすべてのものは、何故かどうしても美しく見えます。フレームという枠の存在が現実の世界に導入されると、枠付けされた対象は、枠外の現実との連続性が断ち切られてしまう。現実との関係を断たれた枠付けされた対象は、現実の様々な要素を脱色されて抽象化されます。その抽象化の過程が対象を美学化してしまうのでしょうか。美が成立するためには、現実との関係を断ち切ることが必要なのでしょうか。
美しい風景を撮るというのは、決して主体的に撮れるわけではありません。美しい風景というのは、多数の人がそれを美しい風景だと承認するだろうという予想の結果、その風景が美しいとはじめて承認されるのです。風景に固有なものとして美しさが、先天的に存在しているわけではありません。誰もが美しい風景だと承認するだろうという予想の結果、その美しさが基準となり、参照されるべき対象となる。そんな参照すべき美しい風景を模倣することで成り立つのが美しい風景なのですから、その風景はオリジナルでも、唯一の風景でもないのです。それは撮るというよりも、参照された映像に撮らされたという、受動的な行為の結果だと思うのです。それは主体的に選ばれ、撮られたものではない。
美は世界の属性ではなく、人間の主観の領域ですから、現実の世界には美しいものも、汚いものも存在しません。その美しくもなければ、汚くもない、何でもない現実をフレーミングすることで美が生まれるのなら、現実の世界に先天的に美が存在するのではなく、フレーミングという、現実のある特定された場所を囲い込み、現実からその場所を切り離すことで、人間の想像力が発動され、美が生まれてくるのではないでしょうか。
フレーミングが人間の想像力を刺激して、美学を発生させるのです。理解不能な対象に、想像力は生まれません。現実との関わりが断たれたことで、現実が抽象化される。抽象化されたことでそれは生まれてくるのです。人間の想像力は、現実をそのまま受け取ることができず、フレームの中に現実の一部を切り取ることで、始めて現実を受け取り、想像することが可能になるのではないでしょうか。広大無辺に広がる現実をいきなり受け止めることは、人間には不可能なことなのでしょう。とっかかりがない対象には、想像力の手が届きません。切り取って、部分化することでしか現実を把握できないし、部分を見ることでしか想像力は発生しないのです。
フレーミングという言葉は映像の世界では、かなり重要視される言葉でして、広大で無数にフレーミングできる現実を、センスよく切り取り、それを選ぶことが、映像作家の良し悪しを求められるようです。けれど現実を手際よく切り取ったところで、それが何だと言うのでしょうか。わたし達は本当に主体的に現実を切り取れるのでしょうか。現実を切り取り、選ぶという能動性。わたし達は世界に対して、そこまで主導権を握れるのでしょうか。フレーミングされたことで、わたし達は現実の何かを切り捨ててしまうのです。フレーミングとは現実から何かを排除することで美を成り立たせようとする装置なのではないでしょうか。けれどフレーミングされたことで、現実が内と外に分割されたそのとき、広大無辺でフラットな風景にある運動が生まれたとも思うのです。美学を生み出すだけではなくて、風景に亀裂を入れるのがフレーミングなのではないでしょうか。安定した風景に亀裂をいれることで、内と外の交通を促進するのです。リュミエールの『工場の出口』のように、カメラのフレームを出たり入ったりする群衆の存在が映画に動きを与えたようにです。
現実の世界にカメラを向ければ、いろいろな映像が撮れます。それは無限だといってもいいぐらいです。わたし達がその無限に撮れる映像の中から、一つの映像を選ぶときその映像は、撮られた映像の中でベストだからセレクトされたわけではない。セレクトというのは、そんな特権的な一枚を選ぶ作業ではないと思うのです。特権的という意味が、絶対的に選ばれた不動の一つのものという意味ならば、その選ばれた映像には、ボツにした映像や、カメラを向けていないけれど実際には存在する現実の存在を断ち切ったことになる。けれど無限に流産し続けた映像や、映像になる以前の現実との関連なしには、映像は成り立たないのではないでしょうか。選ばれたものと選ばれなかったものを連続的な関係として考えた場合、そんな対比は成立しないのではないでしょうか。一本の完成した映像の背後には、膨大なNGフィルムの存在があります。そんな使用されなかったフィルムと、使用されたフィルムは連続したものとして考えるべきです。それに写真の場合は、選ばれた映像は、その日の体調とかのかなり曖昧な理由で選ばれることが多いのですし、他に選んだ写真との兼ね合いもあります。そこには選ばれたという特権的な映像は存在しません。使用された映像は、針の孔を通ることに成功した駱駝ではないのです。むしろ映像は失敗した映像や、撮られなかった現実を抱え込むことで、成立するのではないでしょうか。実現したことと、実現しなかったことに区別はありません。映像においてそれは同義の言葉なのだと思います。すべてを撮ることができないという撮影の不可能性が、現実を撮影することを可能にしているのです。むしろ撮れなかったこと、失敗したこと、撮らなかったこと。そんな実現できなかったことの集積が撮影を可能にしているのではないでしょうか。表現の不可能性が表現を可能にするように、撮影の不可能性が撮影を促進するのです。
セレクトするということもだから、選ばれた特権的で不動の一枚を選ぶのではなくて、選ばれなかったものとの関係の中で成立するのです。それはセレクトという言葉が意味する、排外的で不動の唯一性を放棄させるでしょう。他の映像を排除することで成り立つのではなく、排除しないことで、撮られなかった現実や、ミスショットとの関係を抱え込み、そのことでセレクトは成り立つのです。選ばれたのも、選ばれなかったものもその契機は、確率の世界です。そこに確かな基準はありません。選ばれたすべての映像には、選ばれる必然性が欠落しているのです。
セレクトとは選ばれた必然的な一枚ではなく、それは偶然であり、つねに取り替え可能な、不確定な基盤の上に立っている。セレクトというのは、ダイスをころがしているようなものなのではないでしょうか。セレクトとは、不確定な行為なのです。そこに必然性や意味などないのです。ダイスをころがしているのと変わらない、偶然性の領域に存在する行為なのだと思います。
風景に対して“カメラを廻せばそれだけで映画になる。世界はすでに映画なのだ”と『初国知所之天皇』で原将人は言いましたが、それは、世界はすでに潜在的に映画であり、わたし達はつねに映画に囲まれていて、映画から逃げることができないという、息苦しさの表明だったのではないでしょうか。撮っても、撮らなくても現実の空間のすべてが映像化されている。世界に向かってカメラを廻すだけで映画になるということは、映画にならないことの方が不可能なことなのです。そして原将人が言うように、世界はすでに映画であり、すべてが映画にされてしまうのなら、セレクトの必然性というのも存在しないでしょう。セレクトしてもしなくても映画が成立するのなら、セレクトするという名の下で、わたし達は一体何を選んでいるのでしょうか。映像作家にとって特権的な才能を表明するセレクト作業は結局のところ、何の意味もなかったのではないでしょうか。
すでにすべてが映像ならば、わたし達は一体何を撮っているのでしょう。世界はすでに映像なら、わたし達が撮っているものは、映像についての映像であり、映像の迷宮の中で映画を撮っている。そんな原将人の意識は、映像に外部はないということなのでしょうか。映像の外は現実ではなく、そこもまた映像なのでしょうか。イマージュに外部はなく、外部というイマージュがあるだけだとベルグソンは言いましたが、映像についての映像というのは、ヌーヴェル・ヴァーグに影響を受けた映画をメタ映画と呼称して、それらの映画が先行世代の映画を引用することを、まるで映画への愛の告白のように希望を持って語るシネフィルのような認識ではなく、原将人の認識は、それは地獄の認識だったのではないでしょうか。
映像を撮るというのは。現実に対していくらでも撮影することができる。無限のアプローチです。いくらでも撮ることができる。けれど、いくら撮ってもその現実すべてを撮り切ることができません。“あくまで瞳孔が開いたままの状態でしかない、キャメラの眼は、洪水のように押しよせる無限の空間を無差別に私たちの前にあらわし、その結果私たちの視線のさきに空間があるのではなく、びっしりと間断なく空間に取りまかれた私たちの視線、いわば空間が私たちを見ている、空間によって監視されているといった息苦しさを感じてしまう”(吉田喜重)。その気が遠くなるような撮影行為を思い浮かべると、わたし達は現実を自信たっぷりに切り取っているのではなく、大海の中で一人ぼっちで不安げに浮かんでいるだけなのではないでしょうか。撮影とはほとんど藁の犬のようなものです。“空間によって監視されているといった息苦しさ”の中で撮影しているのです。わたし達には、撮影の根拠なんて存在しません。頼るべきところがないのです。撮ることは、不安の塊です。撮れば撮る程、その不安は増殖するでしょう。そこにどんな言葉を重ねても、その不安は増大するばかりです。コンセプトやテーマという、根拠を設定することで、この息苦しい大海を泳ぎ切ろうと思っても、それは泥舟に乗るようなものではないでしょうか。コンセプトやテーマを設定することで、現実のアクチャリティを獲得できるという思い込みこそ、藁の犬に掴まるようなものです。そのような泥舟に乗って現実を泳ぎきるなんて不可能なことなのだと思います。
テーマを何故設定するのかというのは、普通に撮っていると映像は現実に追いつかない。現実のアクチャリティに映像がいかに追いつくかというそのためにテーマが設定されるのではないでしょうか。例えば3・11以降の現実に対して、映像に何ができるのかとか問われたら、(本当は映像には何もできないのですが)一応社会的なテーマを設定して状況に対して撮影せざるをえないのですが、元々映像には現実と同期できるようなアクチャリティが欠けているのではないでしょうか。映像というのは、現実から遅れたメディアであって、それはアクチャリティを獲得するというポジティブな意識とはほど遠い、遅滞化されたメディアなのでと思います。どんな悲惨な場面を撮っても、その悲惨さを十全に表現できない映像は、現実と同期するよりも、現実とは違う方向に向かわざるをえないのではないでしょうか。むしろテーマからつねに逸脱してしまうのが映像です。現実を表現できない。現実からいつも遅滞してしまうということから、映像の表現が始まるのではないでしょうか。 わたし達は、現実の何かを選んで、それをフレーミングすることで現実を映像化して、大多数の人間にアピールするためにその映像を美のレヴェルにまで転化する。その理由は美しいものが見たいというよりも、むしろ現実を映像という記号に転化することで、現実の息苦しい圧迫から多少なりとも逃避するためなのではないでしょうか。古代の人間が自然の風景を壁に描いたりしていたのも、ストレートに現実の風景を見て、肉眼でまともにそれを咀嚼することができなかったからだと思うのです。自然という現実を、絵という記号に転写することで、無限ともいえる自然の空間をなんとか理解しようとしたのではないでしょうか。肉眼はカメラと違い、その現実をまともに見ることができないのです。洪水のように溢れる現実を、カメラのようにすべてを機械的に、その瞳の中に受け止めることができないのです。フレームの存在もそんな現実に対応するための装置だったのではないでしょうか。フレームとは現実を理解するための装置なのであって、人間は動物のように、肉体一つで自然と対峙することができない。自然を理解するには、自然を一度加工しなければならないという、不自然な行動が要請されるのです。フレームというのは、自然とストレートに同化できない人間のために要請された、すごく不自然で奇妙な装置だと思います。
現実の中にフレームが入り込んでくると、どうしてかそのフレーム化された現実から、現実感がいきなりなくなります。例えば電車の車窓から見える風景なら、普段は適当に見ていると思うのですが、そこにある窓をフレームとして意識して見るだけで、どうでもいい適当に流れていた風景が美しく見え始めます。フレームの存在が風景をいきなり現実から引き離して、その風景を借景化するのでしょうか。現実からリアリティーを消去するのがフレームの役割なのでしょうか。フレームの存在は、人間を現実のリアリティーから遠ざけるための装置なのです。
廃墟写真のどれもがほとんど美しいのは、現実がフレームの中に囲い込まれることで、風景が借景化されるからでしょう。フレームに枠付けされたことでリアリティーを消失した廃墟は、それは汚くもなければ、無秩序で混沌とした対象でもなくなります。リアリティーというノイズを消去された廃墟は、それはたんに美しいフォルムでしかないのです。汚いけれど美しい、混沌としているけれど秩序を感じる、かつて何かあったのだろうけど、今は何もない、そんな廃墟を成立させる、相反した要素が映像化されることで消滅してしまいます。ただきれいな対象でしかなくなった廃墟の映像に、廃墟に特有の時間の集積を感じられません。そこにあるのは、ミケランジェロの彫像のような、何とも関係を持たない無垢な無時間性しかない。廃墟の映像は堆積された時間を排除して、今-現在の時間しか持たない、永遠に若く美しい廃墟に変貌させます。廃墟の映像は、だからいつもつねに若々しい。廃墟写真の美学が、蜘蛛の巣のように張り巡らされた時間を破棄して、単純で美しいフォルムに回収するのです。
けれど廃棄され、時間が止まりそうな、朽ちる直前を生きているのが廃墟の時間です。“世界はがらくたの中に横たわり かつてはとても美しかった”(ブレヒト)まま停止して、いつまでも永遠に美しいわけではない。それは停止した時間ではなく、微妙に動いている。微妙に動いていることで、停止することで成立する美の領域には回収されないのです。死んでいるわけでもないのですが、生きているわけでもない曖昧な領域が廃墟です。ドアーズの『The End』では冒頭からジム・モリソンがいきなり“これで終わりだ”と歌い始めました。“これで終わりだ”と言いながら十一分間も演奏は続くのですが、その十一分は永遠に続くような錯覚をおぼえるぐらいの恍惚とした演奏でした。“終わりだ”と言いながら、終わりが無限に引き延ばされる感覚をおぼえる曲です。そしてその『The End』的な終わりの遅滞化は、廃墟の時間と似ています。廃墟もまた朽ちて終わることを引き延ばす。終わるのではなく、終わることが無限に続くのが廃墟の時間感覚だと思うのです。それは決して止まることがない。廃墟は“終わる”のではなく、“終わり続ける”のであって、“終わる”ことで決して停止しない。写真が対象を美学化してしまう理由の一つには、対象を停止させてしまう機能があるからだと思うのですが、“終わり続ける”廃墟には、美学に回収しきれない過剰な遅滞性を持つのです。
終わったわけではなく、終わると歌うことが無限に続くドアーズの『The End』的廃墟は、生の側にも、死の側にも存在しない。両方を見渡せる場所にいるのでもなく、それはもっと宙づりの場所にいるのではないでしょうか。幽霊の存在と少し似ていますね。彼らもまた完全には死んでいるわけではないのですから。けれどだからといって生きているわけでもない。それは『アメリカン・プレイヤー』でジム・モリソンが朗読した世界のようです。“映画はじきに始まります 愚鈍な声が放送した 席のない方は次のショーまでお待ち下さい ぼくらはぞろぞろ、のろのろと ホールへ入った 劇場はばかでかくて静かだった ぼくらが席について暗くなると 声がつづけた 今夜のプログラムは新しいものではありません みなさんはこのエンタティメントを 一部始終ご覧になったことがあります みなさんはご自分の誕生を ご自分の生と死を ご覧になったことがおありです あとは残らず思い出すのでしょう あなたは死んだとき 良き世界をお持ちでしたか? 映画の台本にできるくらい充分に?”。生の側からでも、死の側からでもない彼の世界は、ほとんど廃墟の時間感覚と同じだと思います。
最近の写真がインスタレーションを重要視するのは、対象を停止させることで発生する美を、どういう風に回避するかというのがあると思うのです。止まることで無自覚に発生してしまった美をもう一度、現実世界の中で覚醒させるのです。例えば壁一杯に写真を四段、貼りっぱなしで展示するインスタレーションは、見る人間の視線を動かし続けることで、写真を止まって鑑賞させないためのインスタレーションです。止まらずに視点が動き続けることで、停止した屍体としての美しさを持つ写真がゾンビのように動き始め、その美しさを棄却するのではないかと思いました。額装しないで貼りっぱなしなのは、額装することで見る人間の視点が額の中に収斂して、止まってしまうので、どうしてもそこに美学が発生しやすいからです。過ぎてしまって、停止したものは、すべて無条件に美しくなる。インスタレーションというのは、だから写真にとってのヴードゥーです。死者をたたき起こし、うろつかせるための儀式です。
ジム・モリソンが『亡霊の歌』で“Wake Up”と叫びました。叫んだ後に、“この夢は止まってしまった?”と疑問を聴衆に訴えかけた後、それを否定するように、“おまえの毛から夢をふり落としてしまえ”と歌い出します。止まってしまった夢をふり捨てて、死者を蘇らす。彼が叫んだのは聴衆という生者ではなく、死者に向かって叫んだのです。音楽は生者のためにあるのではなく、死者のためにある。そして死者に安らかな眠りを与えるレクイエムではなく、音楽は死者が蘇るためにあるのです。
美学化された死に対して、ゾンビとして死者を何度も復活させる。アーバスの写真が美しくないのは、彼女の写した対象が止まっているように感じないからではないかと思うのです。正面を見ている彼女の撮った被写体の目は、ロラン・バルトの“ナポレオンを見ていた目が、わたしを見ている”を彷彿させるように、正面を見ているその目に、自分が見られているような感じがするからでしょうか。アーバスの被写体には、奇妙なざわめきを感じさせます。彼女の撮った被写体は過去の領域に送り込まれた被写体ではありません。見る人間を見返し続けるその目は、今-現在に何度も反復的に回帰する亡霊の目のようです。アーバスの写真に停止を前提として成り立つ美を感じさせないのは、亡霊のようなその目に動きを感じるからでしょうか。
写真は写した対象を何度でも反復して、出現させることができます。そしてそれはかってあった過去の人物が、そのまま同じ人物として同一性を保ちながら反復されるのではなく、何度も反復されることで、その人自身というよりも、その人が違う何かに変化していく。その人の自身の同一性は、写真が反復するたびに崩れていくのです。同一性を持ったまま過去の領域に送り込まれて終わることができないのです。アーバスの写真は、反復されるたびに新しい解釈を施されます。無限に解釈されというのは、同一性が無限に突き崩され続けることです。同一性が崩れ続けていくということは、きちんと終われない証拠なのではないでしょうか。同一性が徐々に崩れていくということは、屍体ではなくそれが廃墟なのだということです。そして廃墟というのは、完結できない。屍体というのは、ある意味肉体として完結している状態のわけですから、それは美しくもありますが、屍体になる直前というのは完結していないので決して美しくありません。終わったのではなく、終わる直前を撮るというのは、完結しようとする生を廃墟化することです。アーバスは完結した美しい屍体というポートレートを撮っていたのではなく、肉体の廃墟を撮っていたのではないでしょうか。
屍体は朽ちていくことで、固有名の同一性が徐々に崩壊していきます。そんな骨という物質の側に変化していくことに抗うように、人間は死を儀式化していきました(儀式化することで、死を人間が物質に回帰するための過程ではなく、彼岸と此岸の通路として設定し直したその儀式には、彼岸と此岸という対立する構造を生み出したことで、静態としての死を動態化したのではないでしょうか。それは終わるわけではない。彼岸と此岸を行き来する運動として死を理解する。そんな風に死を終わりとして捉えないのが、死の儀式化だと思うのです)。廃墟もまた、朽ちていくことで建物の無機的な物質性が露呈されることに対して、それを儀式化し、建物の象徴的意味を維持しようとする人達がいます。アルベルト・シュペーアーの廃墟の建築論とかですね。それは廃墟を無機物と有機物の階級闘争の場から、無機物を追放する運動だと思うのです。人間の意識がイニシアティブを握るのです。建物や家具が徐々に錆つき、風化していく過程を、コンクリートの壁や、柱や、木製の家具に電化製品それ自体が風化されないように無意識に抗う。階級闘争としての廃墟。自然の姿に朽ちていくという有機物側の洪水のような浸食に対して、人工物である無機物が最後の抵抗を行なっている場所が廃墟です。そんな階級闘争の場所が廃墟なのではないでしょうか。ひび割れて蔦が絡まったコンクリートの壁を見ていると、自然の中に朽ちて回帰していくことを無意識下で必死になって引き延ばしている感じがします。
廃墟は、死んでいるわけでも朽ち果てているわけでもないのです。寺山修司的に言えば、“不完全な死体”であって、不完全なだけあってそれは、死んでいるわけではない中間の領域です。巷の廃墟写真がつまらないのは、廃墟を無機質に撮ることで、その物質的な非人間性を強調したり、ハイコントラストでプリントすることで、廃墟にロマンチックで有機的な感覚を与えたりとか、廃墟からその不完全で曖昧などっちつかず性格を棄却しょうとするからではないでしょうか。無機物と有機物の中間地帯。そんな宙づり的な場所が廃墟なのだと思います。 廃墟を残骸ではなく、象徴と美と永遠の生命として捉えたファシズムの廃墟の美学に対して、プロレタリア階級は、廃墟をたんなる物質性の露呈と消滅という無機的な唯物論で応えるべきなのでしょうか。ファシストは、死をロマンチックに捉えます。彼らにとって空襲で何もかも燃え尽きてしまった荒野や、そこに多少なりとも点在するバラックのような建物や崩壊寸前の橋の姿ほど彼らの胸をうつものはないのです。(日本浪漫派は空襲を賛美し、川端康成は戦争中に、朽ちていくぼろぼろの橋が日本の美だと書きました)そしてそのバラック化した建物が、かつての栄光を表象する建物だったら、なおいいでしょう。死んでいくこと、朽ちていくことが演劇化されて、ロマンチックに誇張される。それは死という無機物に対しての、ファシスト側の反撃です。死を演劇化することで、無機物を有機物側の領域に、有限を永遠の側に奪回しようとするのです。けれど廃墟は、そのような有機物側の勝利に肩入れすることはないでしょう。廃墟はゲルマン民族とその神々の側には加担しません。廃墟とは有機物と無機物の中間に存在するものです。それは終わることで永遠を獲得するのではなく、終わりの無限の遅滞を試みるのです。プロレタリア階級にとって廃墟は、美学でもなく、“共産主義者とは鋼鉄の存在”だと言ったスターリン的な唯物論でもない。両者に共通することは、永遠ということですが、廃墟に永遠はありません。それはいつか朽ち果てて消滅してしまう期限付きの存在であり、その期限を無限に引き延ばそうとしているのが廃墟なのです。物質化される直前の生を、死ぬのでも、生きるのでもない廃墟の遅滞化された時間をプロレタリア階級は生きるのです。
百葉箱 Screen #19
小松 浩子 (写真家)
記憶とは過去の経験を頭のなかに残し、時に応じてそれらを思い起したり使用したりする過程、若しくはその機能を包括的に示す。普通は再生される場合に熟知感情ないし既知感を伴う表象、特に心像的なものを指すが、広くは特別な既知感を伴わない習慣的動作や動作的なものを含む知識 (読・書字) や過去の出来事に関しての時間的な位置付け等、過去の経験に依存する全てについて適用される。数ある人間の記憶の分類法の中でスクワイアの記憶分類を基にしたモデルによると記憶は感覚・短期・長期に分類される。感覚記憶とは映像や音などを最大1~2秒程度記憶する事を指す。短期記憶(short-term memory, STM)とは記憶の二重貯蔵モデルに於いて提唱された記憶区分の一つであり情報を短時間保持する貯蔵システムを指し、一般に成人に於ける短期記憶の容量は7±2程度と言われている。長期記憶(long-term memory, LTM)とは前述の二重貯蔵モデルに於いて提唱された記憶区分の一つで大容量の情報を保持する貯蔵システムを指す。自身に課した保護活動としてナミアゲハを羽化させて外に放つ事を数年続けるうち、ナミアゲハの観察日記を付けるようになる。全身を異なる数色の緑で塗り胸部の黒白の眼状紋を書き入れて行く。餌であるミカンの葉も緑色の為、観察日記制作により24色のカランダッシュ製の色鉛筆のうち緑系統のものだけが極端に短くなる。夏休みの自由研究として学校に提出したところ賞を頂き、内向して過ごす児童として脚光を浴びる至極稀な機会となる。記憶の過程は後述の1〜4の流れで進行すると言う。1. 記銘(符号化): 情報を憶えこむこと。情報を人間の記憶に取りこめる形式に変えるという情報科学的な視点から符号化と呼ばれることが多い。2. 保持(貯蔵):情報を保存しておくこと。情報科学的な視点から貯蔵と呼ばれることが多い。3. 想起・起憶(検索):情報を思い出すこと。情報科学的な視点から検索と呼ばれることが多い。想起のしかたには以前の経験を再現する再生、以前に経験したことと同じ経験をそれと確認できる再認、以前の経験をその要素を組み合わせて再現する再構成などがある。4. 忘却:記憶されていたことを想起できなくなること。記憶の過程のどの部分に問題があるのかは分からないが生まれてから成人するまでの記憶は断片的で脈絡が無く、思い出そうとしても殆ど思い出す事が出来ない。世の中には記憶力向上の生活習慣・食品等の情報が氾濫しているが、数年と経ず生まれ同じ環境・食事で育った家族の一人は優れた記憶力を自慢としている事から生活習慣・食品はもとより遺伝も記憶力の善し悪しには影響しない可能性がある。成人した後に優れた記憶力を持つ家族とナミアゲハの観察日記とそれに伴う受賞について会話を持った際に記憶違いを指摘される。夏休みの自由研究で受賞したのは優れた記憶力を持つ家族であると言う。他の霧がかかったような断片的な記憶と異なり明快な映像として再現出来る為、優れた記憶力を持つ家族の記憶違いの可能性を示唆すると、クローゼットの奥から恭しく黒い表紙の手帳を取り出し年号と月を調べ始める。ナミアゲハの観察日記とそれに伴う受賞は間違いなく優れた記憶力を持つ家族の経験であると宣言し、黒い手帳を指し示し「ここに記録がある」と断じる。二重貯蔵モデルに於いて提唱された記憶区分における長期記憶とは大容量の情報を保持する貯蔵システムであり、一旦長期記憶に入った情報は失われることはないとされる。内向して過ごす児童にも稀にではあるが長期記憶に貯蔵されるべき誇らしい瞬間があるが、黒い手帳の「記録」により全ては記憶違いであり優れた記憶力を持つ家族の経験である事が明るみに出る事になった。黒い手帳は「個人的」であり閲覧を許される事は無かったが、「今ここにいる私」の存在自体が記憶違いであり、黒い手帳に「記録」がない可能性がある。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)
11/1 宝くじを買ってみましょう。買ってきたら、目につかない所にしまっておくと当選の期待が高まるでしょう。しまっていたビーズなどを見つけ創作意欲に燃えそうです。友達の誕生日プレゼントは手作りにすると喜ばれるでしょう。午後の休憩時間には、温かいものを飲んでくつろいで下さい。今までの努力が実を結び、何をしても成功しそうです。憧れのあの人も今日なら振り向いてくれるかもしれません。幸運な色が鍵となるでしょう。時間が取れた人は、仕事や勉強の息抜きを兼ね、少し遠くまで出かけて下さい。気分転換をすることで今後の出会い運が上昇します。わたしは、階段の上がり口の家具の上にすでに山積みになってずり落ちている冬物コートの上に、自分のコートをのせた。ここでちょっとのあいだ足を止めたいわ、と、わたしの脳裡がちらりと考えた。今はこのコートたちのところでちょっと時間を費やしたい。コートたちのことをよく知りたい。それぞれ異なる特徴を、手ざわりを、においを知り、コートのなくてはならない本質をこの指先で感じとりたい。毛皮やツイードがどんな感じなのか、それを知りたい。でも、それはできない。というより、それをさせてはもらえない。単純なことだ、まともな社会では山積みのコートの感触を探ることで時間を浪費するようなことは許されないのだ。まともな人々にはほかの人々の相手をする以外のことに費やせる時間がないというのは奇妙なことだ。たったひとりでいるとき以外に、人間でないものを知ろうとするのは実質的に不可能なのだ。単純に、そんなことは許されない。もしそういうことを説明しようとすれば、みんなが言うだろう、おまえはちょっとおかしい、と。体力、気力ともに充実し、思う存分好きなことができる日となりそうです。やりたいことがあったら積極的に挑戦してみましょう。 11/2 普段料理などしない人も、本格的な料理に挑戦してみると良いでしょう。時間はかかったとしても、家族はもちろん、友人やパートナーからの評判も良さそうです。観光地や外出先で、もっと親しくなりたいと思う人に出会うかもしれません。あまりにも馴れ馴れしい反応をとられるようであれば気をつけて下さい。飲み屋や道端で知らない異性から声をかけられたら、充分注意して下さい。災いをもたらす存在になるかもしれません。もしかしたら、こんなふうに思う人がいるかもしれない。敵もそろそろ情けをかけてやろうという気になるのではないか。彼自身が追いやった、わたしのこの悲惨な状況を見て、復讐心も満たされ、わたしのもとを去って平安をもたらしてくれるのではないか、と。しかし、そんなことはありえない。わたしには絶対的な確信がある。敵が温情を示すことは決してない。わたしを完全な崩壊に追いやるまで、敵は絶対に満足しない。今は“終わり”の始まりなのだ。敵はわたしに対する偽りの告訴状を当局に提出する手続きを始めている。そのことを示す確実な兆候を、この数週間の間に何度か確認している。わたしが連れていかれる時はもうそんなに遠くはないだろう。彼らがわたしを連行しに来るのはたぶん夜。拳銃はなし。手錠もなし。一切が静かに、整然と遂行される。制服姿の二人か三人の男によって。あるいは白衣を着た者たち―ひとりは皮下注射器を手にしている―によって。そうした事態がわたしの身に起こる。わたしの運命が定まっていることはわかっているし、この運命に抵抗するつもりはない。わたしがこの文章を書いているのはただ、わたしの姿が見えなくなった時、敵が最終的に勝利したのだということをわかってもらえるようにするためだ。 11/3 思わぬトラブルや怪我に注意して下さい。幸運な色のアイテムを忍ばせておくと、被害を最小限に止めることができるでしょう。しばらく中断していた家計簿や日記などがあれば、今夜のうちに書いてみると良さそうです。寝る前にミルクティーを飲むと、落ち着いてぐっすり眠れるはずです。文化の日らしく美術館や博物館などを巡り、教養を深めると良いでしょう。後日、初対面の人との会話に生かすことができるはずです。今日は人のお節介を焼くのは禁物です。自分のことだけに集中して、人のことには口を出さないようにして下さい。すこし離れたところにたたずむわたしは、たまたまそこに居合わせた人間のごとく現在起こっていることには無関係のような顔をしている。わたしはその場にたたずんだまま、今は癖になっている虚ろな表情を浮かべている。それを自分から逃れるための詐術だと思い、彼は腹を立てた。彼女の顔を見ても、何を考えているのかさっぱりわからない。ここには彼女以外誰もいないかのように、白っぽい長い髪を風になびかせながら身じろぎもせずに立ちつくしている。彼女は夢を見ているのかもしれない。 11/4 デートの最中に心ここにあらずで、何度も注意されてしまいそうです。相手も張り合いがなくなって、黙りこんでしまうかもしれません。人ごみを歩きながらの喫煙は、大きなトラブルに発展しかねません。喫茶店に入るか自宅に戻るまでは我慢して下さい。買い物に行くなら、見栄を張って、使いもしないものを買わないように気を付けて下さい。高級品を扱っている店の前は避けて通った方が良いでしょう。疲れがたまって、なにもやる気が起こらないかもしれません。無理をして頑張っても結果は良くありませんので、休めるなら休む方が良さそうです。どんなにセックスしたくても、まっすぐ家に帰って休んだ方が良いかもしれません。無理をすると疲労が残り、後々まで引きずってしまいそうです。「止まって!待って―まだこんなに早い時間なのに―あと少しだけ休ませて!」わたしは叫ぶ。叫んでもまったく無駄なことを知りながら。「もう少しだけ眠らせて―あと一時間―三十分でいいから」感覚のない機会に訴えて何の意味があるというのだろう。歯車が回転し、エンジンがゆっくりと力を蓄えていく。早くも低いハム音が聞き取れる。大がかりで手間のかかる始動時のひとつひとつの振動が、この上なく明確に聞き分けられる。このおぞましいルーティン作業にこれほどまでに精通してしまったこと―これ以上に忌まわしいことはない。とうてい耐えられることではないのに、血液の内側に巣食っている癌のように、それから逃れることはできないのだ。 11/5 今日を乗り越えれば上昇してくるでしょう。体力を温存してこれからに備えておいて下さい。肌荒れが気になる人はビタミン剤を飲んではいかがでしょうか。しばらく手が付けられなかった観葉植物やベランダの手入れをしてはどうですか。着る予定もない豪華な洋服に目を奪われ、ローンで買ってしまいそうです。良く考えてから買いましょう。段取りの悪さからも無駄な出費を強いられそうです。反抗的な言動は厳禁と心得て下さい。つまらないことがきっかけで、相手と喧嘩になってしまいそうです。激化すると、引っ込みがつかなくなります。言葉を発する前に一息つきましょう。「つべこべ言わない!審判の判定は絶対だということはご存知でしょ」「でも、審判は間違ってます―わたしには分ってるんです―間違いです、絶対に!」「もうたくさんです。もうひと言口をきいたら、プレイはできませんよ」「そんなの不公平です、あのポイントはわたしのだったから…」「わたしの言ったことは聞いたでしょ。すぐにコートから出て、教室にお戻りなさい」「そう、じゃいいわ」「卑劣で不公平でいたいんなら、どうぞご自由に―それしか能がないんだから!」「あの子は適応不能なのよ」通りすぎるときに審判がこういうのが聞こえた。この用語は、その学期、職員たちの間ではやっていたものだった。適応不能というのは、いったい何に対してなのだろう?この間の抜けた、いまいましい学校に対してだろうか?それならばむしろ望むところだ。わたしは本当にここが嫌いだ。何もかも嫌で嫌でたまらない―女の子たちも、教師たちも、校則も、ぞっとするような制服も。 11/6 何事も意地を張りすぎるとうまくいきません。相手が間違っていると思っても、軽く聞き流すようにした方が揉めずに済むでしょう。不用品の処分など、普段手をつけられなかったことから始めると、順調に進みそうです。見聞を広める努力をしましょう。これまで興味のなかった分野の本を読んだり、新聞を丁寧に読むだけで燃えるものがあるはずです。気になる記事は何度も読み返してみて下さい。時間の余裕があったら、身の回りの片づけをしましょう。気持の良い環境が、仕事や勉強の能率を上げてくれるはずです。わたしは汚れだけを見て、なぜそれが汚れているのか、には見向きもしない。まして、汚れるのは当たり前だ、という考え方などは許せない。わたしは汚れさえ排除できればそれでいいのだ。しかし、汚れは本当に排除できるものなのだろうか。酒やタバコはやめることもできるし、日々口にする食べ物から生じる汚れがいやなら、食べるのをやめればいい。だけど、それで汚れとは一切オサラバできるか?そもそも人間が生きるという営みには汚れがつきものではないのか。もちろん、これは比喩でもなんでもなく、垢とか髪の毛とか、要するに身体から生じる一切合財の汚れのことだ。いわゆる、ごく当たり前な新陳代謝現象のことだ。人間は汚れものである。そんなことは分かりきっている。しかし、わたしはそれをも拒否する。 11/7 片思いの相手に告白をするなら今日が良いでしょう。同性の友人とに約束は、長時間、待たされることになりそうです。相手に悪意がなく、どうしようもないことだけに、文句も言えません。待ち合わせは、長時間でも飽きのこない本屋や喫茶店にすると良いでしょう。欲しかったものを買うのならなるべく今日中にすると良いでしょう。少々根が張っても、本当に良いもの、欲しいものを選んで下さい。金ができ次第買うつもりでいるすばらしい大きなメルセデス。物心ついてから、快速の車に乗っていろいろな土地をどんどん走っていきたいという願望にわたしは周期的にとらわれた。路上に待ちかまえる危険や死のことを世間の人々が話しているのが、ばかばかしく滑稽に思われた。わたしにとって、大きな車は安全この上ない隠れ場所であり、そして、人生および人間の中に潜んでいる獰猛で残忍な力すべてから逃れる唯一の方法なのだ。その金属製の車体が魔法のよろいのように私を包み、その中でわたしは不死身の体となる。健康を維持するには、何といっても食事が基本です。ファーストフード、スナック菓子、甘いジュースなどは、できるだけ控えましょう。 11/8 将来の話がトントン拍子で決まって生きそうです。細かいことは後で考えるとしても、実質的な新生活のスタートは早く切れるように準備を進めて下さい。周りも協力してくれるでしょう。苦手な仕事や勉強があったら再度挑戦してみましょう。ふとしたことがきっかけで今までになくすんなり進みそうです。自分には向いていないと思い込んで、手を出しかねていたことに挑戦してみましょう。新たな発見があるかもしれません。飲み会があれば、会費の集金役を引き受けましょう。得意ではなくても最後まで責任を持って下さい。良い運が巡ってきそうです。身も心も軽く、活動的な1日となるでしょう。部屋の中に閉じこもらずに、買い物でも散歩でもいいので外出して下さい。わたしは活動的な性格なので、何もしないでいるというのは不可能なのだ。常に何かをしていなくては気がすまない。そこでわたしは、暇つぶしのためにせかせかと、しないでもいいことをあれこれするのだった。彼はわたしのことを何もかも知っているから、わたしが精力に満ちあふれているのは仕方のないことだと承知していたにちがいない。それなのに彼は、ちょうどわたしが彼の怠惰に腹を立てているのと同じように、わたしが活動的であることに腹を立てているらしかった。それを自分への非難と取ったのだ。最低限の努力すらだらだらと拒み続ける彼の態度が神経にさわりはじめてきてはいたけれども、わたしには(少なくとも意識的には)そんなつもりはなかった。彼がいつまでものらくらしていることに、午後も遅いというのにきちんと服も着ない、でれっと怠惰な姿に激怒したこともときどきあった。そして一度、たまりかねて、かみつくように言ったことがある。「踏んづけてころぶ前に、靴の紐ぐらい結んだらどうなの」「もしおれがころんだら、おまえさんは、酔っ払ってころんだってがみがみ言うだろ」彼の返事にわたしは驚いた。前はこのような言い方は決してしなかった。彼の声には敵意があった。まるでわたしがしょっちゅう、何かにつけて彼を非難し、小言を言っているかのようだった。決して、そんなことはないのに。そして彼がわたしを見るその目も、やはりわたしがこれまで知らなかったものだった。わたしが犯した罪にはどんな罰がふさわしいか考えている裁判官のように、冷たくて、よそよそしい目だ。 11/9 出会い頭のトラブルに充分注意しましょう。何をするにしても慎重に行動するよう心がけて下さい。嫌いな食べ物がある人は、今日が克服のチャンスです。理想にこだわりすぎても前進は望めないでしょう。現実との折り合いのつけ方を工夫して下さい。落ち込んでいると、それが相手にも伝わって、気まずい空気になってしまいます。うわべだけでも元気そうにした方が良いでしょう。安らぎを求めてどうでもよい人とセックスしてしまうかもしれません。相手を選べば問題ありませんが、おしゃべり好きの異性には注意しましょう。事は、わたしとは関係がないように思われた。だがわたしは、彼の手を取って、しばらくの間その手を動かすことで関わりを作ろうとした。それは固い、骨ばった手で、甲には黒い針金のような毛が生えている。それから事を彼にまかせると、彼はわたしを強く、だが熟練したテクニックで抱きしめた。思っていたよりも良かった。一瞬、関わっているという感じがしかけた。つぎの瞬間、事態はわたしから離れて行き、ふたたび非現実的なものになった。わたしはまた事の外側に取り残された。彼は息を切らし、あえぎ、昔、海岸の洞窟で聞いたことがあるオットセイの鳴き声にどこか似たこもった声を上げた。彼が終わったとき、わたしは、しわくちゃのベッドカバーの上に大の字に横たわったこの裸の他人をつくづくと眺めた。片方の足を膝から曲げている、この毛深い色白の体は、それぞれ別の角度に柱のように突き出ている頑丈そうな足とは無関係のように見えた。 11/10 自分勝手な態度をとらず、パートナーへ思いやりの心をもって接しましょう。2人の時間を大切にし、有意義な時間を過ごして下さい。レストランなどで食べて気に入った料理は、作り方を聞いておきましょう。あなたの得意メニューになるかもしれません。じっくり時間をかけて新聞を読むと、疑問を解くきっかけがつかめそうです。気力が充実しているので、体力づくりを始めるとうまくいくでしょう。以前から申し込んでいた施設の利用券や宝くじなどが当選するかもしれません。自分一人で利用するのではなく、家族のために使うと良いでしょう。体中から力があふれ出てくるのを感じ、元気いっぱいに過ごせるでしょう。心身ともに好調なので、やりたいことに、どんどん挑戦して下さい。どんな要求も受け入れてもらえ、思い通りのセックスが楽しめそうです。体験したことのない快感を求め、新しいセックスに挑戦してみましょう。 11/11 親しい人の怪我や病気の知らせに、取り乱してしまうかもしれません。心配や不安が抑えきれないときは、親友や家族に話してみましょう。事態は変わらなくても気持ちが落ち着くはずです。気持ちが晴れないようなら、親しい人と食事にでも行ってみて下さい。元気が出るでしょう。今日は人間関係がスムーズにいきません。特に約束がないなら、まっすぐ帰宅するようにしましょう。相手とは電話で話すのが良いでしょう。やることなすこと失敗してしまいそうです。周りに迷惑をかけることになるので、あれこれ手を出さないことです。今日出会った人は、訳ありの境遇だったり、暗い過去を持っていたりする可能性があります。それとなく共通の友人に探りを入れてみて下さい。わたしはどこか羨望の思いを抱いて彼女に視線を返したのを憶えている。その時のわたしには、彼女が、新参者であるわたしに欠けているすべてを―学校という世界で確立された位置、成功、人気―を持っているように思えたのだ。だが、ほどなく、それは当たっていないことが明らかになった。彼女の行動にはことごとく不思議な影が落ちているようで、やがて、わたしはこの影をじっくり観察するようになった。言葉で言い表すのは何とも難しいのだが、その影は何らかの形で彼女の比類ない外面的な輝かしさと補完し合っている―互いに打ち消し合っているように思えてならなかった。彼女を包むこの不思議な“無化”の感覚を、どうすれば伝えることができるだろう?人気がないわけではないのに、彼女には親しい友達はひとりもいなかった。学業もスポーツも抜きんでた能力を持っているのに、いつも何か思いがけないことがどうにも避けようのない形で起こって、彼女がトップを取るのを妨げた。この宿命を、彼女は疑問を抱くことなく受け入れているように見えた。ほとんど気づいてさえいないかのように―傍目には、そう思っても当然だっただろう。あらゆる賞を常に奪い去っていくこの悲運に対して、彼女が不満の言葉を口にするのを、わたしは一度も聞いたことがない。それでも、彼女が、この事態をどうでもいいと考えているのではないこと、まして気づいていないなどということがないのは確かだった。ひとつの出来事がありありと蘇ってくる。わたしがこの学校で過ごすのもそろそろ終わりに近づいた頃―廊下の緑の布張りのボードに、学校からの様々な通知とともに、生徒全員の名前と各自の毎週の成績を記した長い紙が貼り出されていて、彼女がひとり、その前に立っていた。わたしには理解しがたい表情を浮かべてリストを見つめている彼女。怒っているのでも悔しがっているのでもない。わたしの目には、それは、恐れと結びついたあきらめの表情のようにも見えた。彼女の顔を見ているうちに、言いようのない強烈な思いが沸き上がってきた。この状況からはとても説明のつかない、心の奥底から揺さぶられるようなその感情に、自分でも驚いたことに、目に涙があふれてくるのがわかった。 11/12 待ち合わせは連絡の取りやすい場所を選びましょう。待たされることになっても時間を潰せるように、文庫本や雑誌を持っておくと良さそうです。今日の服装は、ブランドを誇示しない方がオシャレに見えそうです。鞄やベルトはロゴのついていないものを選んで下さい。新しく積み立ての口座を作ろうと考えている人は、自宅から1番不便なところにある金融機関を選んで下さい。金額も、心もち多めにしましょう。まじめで誠実な印象をもたれるように心がけましょう。浮ついた言動ばかりしていると、遊び人しか近寄って来なくなります。 11/13 日用品の買い物は、家族全員のものをまとめて買ったおきましょう。無駄な出費を防げるはずです。自分の気持ちに素直になりたいなら、幸運な色を基調にした服装にしてみましょう。友人から楽しい誘いがありそうです。パーティーならできるだけ応じましょう。素敵な人との出会いがありそうです。今日は蓄財に最も適した運気なので、アルバイトや貯蓄などは積極的に取り組んでみましょう。ただし、お金に執着しすぎないように注意しましょう。金運上昇につながりそうな人との出会いが期待できそうです。会社や学校の近くの自動販売機に運があるかもしれません。大切な人が別れを考えていそうです。新しい行為や体位に挑戦して新鮮さを演出し、相手の心と体をつなぎ止めておきましょう。あっというまにわたしは忘れ去られた。わたしがこの世にいなかったかのように。彼の思考の片隅に残っているのは、悲しげな救いがたい生き物の漠然とした記憶だけだ。それに対して何もできないのだから、忘れるのが最善の策だ。自分が求めている“生きる喜び”とは正反対の絶望的な悲しみから逃れてほっとすると、彼の顔には無邪気な笑みがこぼれた。心配事が―不安や怒りが―なくなっただけで、たちまち何歳も若く見え、魅力的で明るい、にこやかな人好きのするハンサムな青年に戻った。 11/14 何をしても楽しく、結果も満足いくものが得られるでしょう。家族や恋人との会話も弾みそうです。恋人を家族に紹介すると、今後の交際がより順調に進むかもしれません。飲み会の誘いがあったら、迷わず出席の返事をして下さい。あなたの将来を左右するような人物との出会いが待っていそうです。書店に行って、経営関係の本が並ぶコーナーへ立ち寄ってみて下さい。題名だけ見て興味が湧いてくるものがあれば、すぐに買い求めると良いでしょう。あなたの未来を広げるヒントが見つかるかもしれません。あなたの趣味が、パートナーとの会話を生むかもしれません。共通の趣味の話になると、会話も弾むでしょう。喫茶店や飲み会に出会いがありそうです。ただし、異性に気に入った人がいても、プライドが邪魔をして話しかけることがなかなかできないかも知れません。格好をつけていると恋のチャンスが逃げてしまうでしょう。2人の間が惰性のようになっているなら、場所を変えるなどの工夫をしてみましょう。新しい相手を求めるよりも、今そばにいる相手を大事にして下さい。 11/15 悪いことばかり考えていると、心も体も冷えてしまいます。たまにはセックス抜きの夜遊びに出かけ、ストレスを解消して下さい。疲れがたまり、体力が落ちていそうです。熱っぽいと感じたら、早めに帰宅してゆっくり休むようにして下さい。友人や同僚と話していても、何となくかみ合わなくなってきそうです。あまり気にせず、聞き役に徹すると良いでしょう。言葉遣いにはくれぐれも気を付けて下さい。財布を落とすことのないように注意しましょう。特に駅の乗り降りや、定期券の出し入れなどをするときに注意が必要です。すりに遭うおそれもあります。今日デートの約束があれば、予定を変更した方が良さそうです。人の多いところに出かけると喧嘩をする恐れがあるので、避けた方が良いでしょう。あなたの不用意なひと言が、周りの人に迷惑をかけてしまうおそれがあります。悪気がなくても、言葉には注意が必要です。 11/16 何をしても誰といてもあまり気乗りがしない日になりそうです。トラブルも起きやすいときなので、あまり出歩かず心身を休めるよう心がけましょう。順調に続いてきたことが、急に続かなくなったりしそうです。時には辛抱することも必要だと割り切って、あまり考えすぎないようにしましょう。判断力も思考力も低下していて、そのせいで行動力もなくなりそうです。いつもの自分ではないと思って、動いた方が良いでしょう。こんな状態にありながら、わたしにはいつもどおりの生活を送ることが求められている。日常の生活環境は今も完全にノーマルであるかのように仕事をし、社会と家族に対する義務を果たすことが求められている。何がつらいと言って、これ以上につらいことはない。当然のように神経はささくれだち、何事にも集中できなくなる。友人たちが少しずつわたしを避けはじめる。仕事は進まず、体調も悪化して、眠れなくなる。会話,本、音楽、芝居、食事、酒、セックス―そういったことに対する意欲はどんどん薄れ、服装や外観に気を配ることさえなくなっていく。そうしてついに、わたしは現実から完全に切り離され、来る日も来る日も、ただ待っている以外、何もなすべきことのない世界に独りきりで取り残される。待つこと、運命の時を待つこと。その運命がどのようなものか、わたしには推測することしかできないが、いずれにせよ、それが、ひたすらその時を待っている今の不確実な状況より耐えやすいということはまずありえないだろう。 11/17 今日は暴飲暴食に注意して下さい。肝臓にも疲れがたまっていて、悲鳴をあげそうです。異性からの誘いに心を惑わされそうですが、大きな代償や犠牲を払うことにもなりかねません。久々に会った目上の人には、失礼のないように言葉遣いに注意して下さい。友人との食事の支払いで出た端数はあなたが支払いましょう。懐の広いところを見せて、少しでも印象を上げておいて下さい。朝から体がだるくて、疲れがたまっている感じです。夕食は、にんにくを使った料理を食べましょう。豚肉と合わせると、なお良いでしょう。落ち込んでいた気持ちも少しずつ明るい方向へ向かうでしょう。ただし油断は禁物です。セックスを楽しむなら夜景がきれいに見える場所にすると良いでしょう。 11/18 今日は周りとの協調を第1に考えましょう。時には持っている力の一部を抑えることも必要です。紅茶やコーヒーの砂糖は半分にしましょう。明日、朝早くから外出の予定があるなら、今夜は就寝前に目覚まし時計の電池を入れ替えておいた方が良さそうです。年末年始に海外旅行に行く人は、なるべく早いうちに行き先を決めて下さい。今回は海よりも高原や湖が幸運につながりそうです。安心を買うつもりでいましょう。普段の生活の中で常に健康に気を遣うことが大切です。自然食品などを中心とした食事をとるように心がけましょう。 11/19 友人からの誘いがきっかけで、生涯を通じて大切な存在になる人と出会えるでしょう。どんな場所でも積極的に出かけて、自分から話しかけるようにしてみて下さい。あなたが今まで努力してきた成果が、ようやく実を結ぼうとしているようです。最後まで力を抜かないようにしましょう。今日のあなたは人間的な魅力が増してきているようです。職場やサークルなどではいろんな人に声をかけてみましょう。人脈が広がりそうです。「ここの絵、ちょっとおもしろいわね」わたしは言った。絵に興味を持ち、それらをよく知りたいと思うことは問題なく、許されていたので、わたしはカンバスの前に移動した。淡い鳥の卵の色の海、砂、ピンク色の家―それはクリストファー・ウッドの作品のように見えた。と、あの羊毛っぽい髪の男も寄ってきて、ちょっとの間見ていたが、ぼそぼそとつぶやいて離れていった。誰かもっと気の合う客と話をしに行ったのだ。いったい、わたしのどこがよくないのだろう?わたしのどういうところが原因で、けっしてみんなに受け入れてもらえないのだろう?わたしはあれこれと考えるが、その答えは完璧にわかっていた。もちろん、それはぼんやりしているせいだ。人間以外のものに心を奪われ、興味を抱くべきではない場所に興味を抱く、そういうところが全く受け入れてもらえないのだ。人々はそういうことを侮辱と受け取る。本能的にそういうことを嫌悪するのだ、たとえ意識では気づいていなくても。そして基本的に、彼らは正しい。彼らから見ると、そういうことは侮辱的なのだ。それにしても、なぜみんなにどう思われるかが気にかかるのだろう?どうせ、できることは何もないのに。ぼんやりすることは私の意志などよりはるかに強いのだ。 11/20 大安売りをしている商品が日用品なら、とりあえず今必要でないものでも、まとめ買いしてしまいましょう。いずれ役立ちそうです。ぽっかり空いた時間は自分のために使ってみましょう。お気に入りの店でくつろいだり、画集や写真集を眺めて過ごすのも良さそうです。今日の決心は長続きしそうです。気になっていたことには解決を試みましょう。サークルなどのグループ活動には積極的に参加して下さい。得るものが多いはずです。「腹立たしいことだ」医師は言った。「結局、この女からは何ひとつ得られないということか」「残念ながら」看護婦は言った。「まったく腹立たしいうえに失望の極みだ」医師は言った。「まあ、そうだな、もうこの女の治療をする意味はないということだ」 11/21 やるべきことが次から次へと出てきますが、休養の時間もしっかり取りましょう。食事も火を通した野菜を中心に、いつもより少なめの量にすると良いでしょう。足元からの冷えにも注意が必要です。外出先からは早めに帰宅し、半身浴でゆっくり温まって下さい。頑固になりすぎると、相手も怒りだしてしまいます。柔軟な姿勢を示して、臨機応変に対処するようにしましょう。愛嬌のない対応をすると、注意を受けそうです。知らないうちにやる気のなさが態度に出てしまうので、注意しましょう。わたしは平然とした態度を変えず、じろじろ見つめる墓堀り人にもどんなものにもまったく注意を払わなかった。灰色の空よりは明るい、光沢を失った銀髪をなびかせながら、一度も振り返らずに錆びた門を通り過ぎた。すこし先にある黒い木立のせいでどんよりとした日が陰鬱で悲しいものに思われる。わたしは墓堀り人が慌ただしくこのわびしい場所に葬り去った死者のことは何も考えていなかった。義父の死はうれしくもないし、悲しくもない。どうでもいいことなのだ。これからもわたしの人生はなにひとつ変わらずに続いていくのだろう。何となく体がだるい、やる気が起こらないといった感じがするかもしれません。食欲がないなら、健康補助食品などでビタミンを補給して下さい。 11/22 外出の予定がなくても、服装はお気に入りのものを着て下さい。自信に溢れたあなたの振る舞いに、周囲の見る目も変わるでしょう。賭け事は何をしても金銭に結びつく可能性があります。そこで得た臨時収入は、全て自分の懐に入れるのではなく、家族や世話になっている人に還元して下さい。時には賭け事に挑戦してみるのも良いかもしれません。幸運な色を念頭に置いておくと、好結果をえられそうです。パートナーから、うれしい告白をされそうです。急なことで戸惑うかもしれませんが、相手もいい加減な気持ちではないはずです。すぐに返事をして下さい。人が集まる場所にどんどん出かけましょう。そして来る者は拒まず、仲良くなっても損はなさそうです。親しい関係まで発展する異性に巡り会えるかもしれません。あまりにたくさんの体にはさまれて、わたしは身動きするどころか、かゆくてたまらないのにかくこともできない。わたしのまわりの話し声は他よりも大きいものに思われ、そのやかましさは耐えきれないほど恐ろしいものだった。人混みと暑さと騒音とむずがゆさとで、気が狂いそうだった。どうにかこうにか腕を交差することができたので、右手で左腕を、左手で右腕をかくことができた。しかし、ほっとしたのもつかの間だった。絶望的な気分になって、わたしはつぎつぎと顔を見まわした。みんな口を大きく開けている。かみかけの食べ物でいっぱいの口もあれば、他の人間の舌でいっぱいの口もある。どの口もどの顔も知らない人間のものばかりだ。この騒然とした群衆の中に、わたしがこれまでの人生で出会ったことのある人間はただのひとりもいないし、誰もわたしに気づきもしない。なぜか、そのためにわたしは恐ろしくさびしい気持ちになった。 11/23 人がたくさんいる場所にいると、気が滅入ってきそうです。デートをするなら繁華街は避けて、静かな公園などにしましょう。あれもこれも引き受けてしまい、首が回らなくなりそうです。だからといって、無責任に人に頼んでいたのでは信用まで失うことになります。安請け合いは厳禁と心得て下さい。足元や指先の怪我に注意しましょう。捻挫や突き指程度と甘く見ていると長引くことになりかねません。深夜の通信販売のテレビ番組に時間を奪われそうです。テレビの前に長くいればいるほど、出費はどんどん増えてしまいます。不要不急のものは買わないで下さい。寝付きが悪かったり、不眠に悩まされるかもしれません。だからといって、アルコールを睡眠薬代わりにしてはいけません。癖になります。 11/24 語学の学習をするなら今日から始めましょう。1人で学習するよりも、仲間と一緒に申し込むと、達成感や楽しさも2倍になるはずです。新しい料理作りに挑戦してみて下さい。名案が次々と湧いてきて、それを実現する技術も身につけることができ、楽しめそうです。早すぎると思うかもしれませんが、愛する相手へのクリスマスプレゼントを買うのは今日が良さそうです。時間を作ってじっくり選別しましょう。運動不足の解消にはサイクリングがおすすめです。時間に余裕があれば、行ったことのない場所まで遠出してみるのも良いでしょう。放置していたトラブルも、良い状態に改善できそうです。喧嘩した相手との仲直りのセックスをするならきれいなホテルがおすすめです。 11/25 お釣りでもらった500円玉は使わずに貯金箱へ入れましょう。1か月間それを続けると、予想以上に貯まる上に無駄遣いを阻止できます。ウインドーショッピングでも美容院でも、気ままに過ごす時間を持って下さい。それだけで新たなやる気が生まれるはずです。帰宅が遅くなってしまったら、歩くのでなくタクシーを使って下さい。安全はお金を出してでも手に入れるものだと心得ましょう。誰にも邪魔されずに、自分のペースで仕事ができそうです。周囲からの評判も上々のようですが、天狗になっていると後で痛い目に遭うでしょう。ちょっと高級な日本料理店やすし店を訪れてみて下さい。今まであったことのない精力的なタイプの人と出会い、感銘を得られそうです。 11/26 外出は爽やかで上品な装いで出かけましょう。鞄や靴も、あまり高くない、落ち着いた色合いを選んで下さい。将来の夢がある人は、家族の前で宣言してみると協力や援助が期待できそうです。資金に余裕が出たら、夢の達成のためにも、金額の大小に関係なく預貯金に回すことを肝に銘じて下さい。メモを用意して、テレビでお買い得情報、お値打ち情報をチェックしましょう。いくらお得でも、自分に本当に必要な物だけ買えば良いのですから、使わないお金は預貯金に回すようにして下さい。直感が冴えていそうです。今日は、ひらめきを信じて行動すると良いでしょう。これという人に出会ったら、あなたの方から声をかけて下さい。少しきつかった仕事や学業も、今日はひと息つけそうです。空いた時間は、情報を収集する時間に当てると良いでしょう。日の光は六分きっかりで消え、あとにはかすかな紫色の染みが西の空に残るばかりだ。星がひとつまたひとつと輝きはじめる。沼ではカエルが騒がしく鳴きはじめており、その声は着実に大きくなって、ゲロゲロ、ゲコゲコ、ガコガコという切れ目のないコーラスが徐々に高まり、周期的に最高潮に達する。そのとき、はっとするほど低くしわがれた、ほかのどの鳴き声よりも大きな両生類の声が響きわたって句読点を打ち、静粛を命じると、そのあとふたたび新しい周期がはじまる。大騒ぎをするカエルの声は、まっすぐ頭のなかに入りこんだいまいましいチャバラカッコウの鳴き声をかき消しはしない。原因となるものから切り離されたこの長引くいらだちのもとは、ものの見分けがいっさいつかない闇のなかでは、どんなものにでもくっつくことができる。 11/27 周りからのうまい話には応じないで下さい。言葉たくみに操られ、自分のペースを乱されることになりそうです。せっかく手に入りかけたものを、するりと取り逃してしまうおそれもあります。完全に手中に収めるまでは気を抜かず、集中力を途切れさせないようにしましょう。今日は、貴重品の管理にいつも以上に気をつけましょう。油断をしていると、すりに遭ったり落としてしまったりする恐れがあります。気を付けて下さい。劇的な恋に憧れ、危険な香りのする人に魅力を感じてしまうかもしれません。会ったその日に関係を持つようなことは絶対に避けて下さい。 11/28 注意力が散漫でミスが続きそうです。簡単そうに思える仕事こそ、基本に沿って着実にこなしましょう。将来の生活に関して、相手の家族と意見が食い違いそうです。ここで自分たちの考えを主張するのは得策ではありません。しばらく保留にしておいて下さい。出かける前に、財布からクレジットカードを出してしまいましょう。そうでないと、いい気になってどんどん使ってしまいそうです。気が付くと何もできないまま、1日が終わってしまうような日です。知らないうちにミスもしがちなので、気が抜けないでしょう。その朝いちばんにわたしが母親から命じられたのは、この階担当のボーイが怠慢だとホテルの支配人に苦情をいうことだった。けれど、ひどく気分が悪かったし、支配人と会うのもいやで仕方なかったので、夕方になって食事の時間が近づいても、なかなか腰を上げられなかった。今、無事にその役目を終えて支配人室の外に出たというのに、まだ震えが止まらなかった。とはいえ、支配人が不愉快な態度をとったわけではない。このとき、支配人も自分にこういい聞かせていた。あの家族はこのホテルで多額の金を遣ってくれる大切な客だから、失礼なことをしてはならない。それでも、母親が苦情をいいにきてくれたほうがよかった。あるいは、あのような子供ではなく、まともに話のできる者を寄こしてほしかった。あの少女は十五歳というよりも五歳といったほうがいいほど幼く見える。しかも、口ごもりながら訳のわからないことをいい、つねに困ったことが起きるのを警戒しているような、おどおどした目つきで見つめるのだ。 11/29 自分の立場を悪くするようなトラブルが発生しそうです。思い当たらないからといって知らん顔をしていると、信頼を失うことになりかねません。真摯な態度で取り組んで下さい。ふとしたはずみで親友の秘密を明かしてしまいそうです。特に食事会などの場では口を慎みましょう。拾った鞄は、そのまま警察に届けて下さい。お礼は期待できませんが、すがすがしい気分になれるうえ良い運気も呼び込むでしょう。今日は長い時間2人でいると、喧嘩になってしまいそうです。短時間で切り上げるか、気分がまぎれる場所に行ってみてはどうですか。計算ミスに気をつけましょう。数字のミスは大きなトラブルになる元ですから、気を抜かないで時間をかけましょう。 11/30 クリスマスの飾りつけをしましょう。季節感を取り入れることで、心にゆとりを持てるでしょう。今はクリスマス。わたしへのプレゼントは金色のサンダルだ。わたしが持っていたどんなものよりも美しい…その美しさには魔法の力があり、わたしを別人に変えた。サンダルを履いているあいだはおどおどすることもなく、陽気に振る舞い、人にも好かれた…それがわかると、ダンスをしたくなった。舞踏場は不思議な輝きを放っている。この美しい靴を履いていたら、誰もが好きになってくれるだろう。ところが、ほかの若者はみな、舞踏場に行ったのに、彼女は許してもらえなかった…ひとりで自分の部屋にいると、音楽が聞こえてきた…けっして入ることのできない、手の届かない世界の音楽が…明るく華やかな楽しい世界、そこからわたしは永遠に締め出されているのだった…。妙に弱々しかった心臓の鼓動が活発になると、わたしは夢想の世界から飛び出した。長くつらい旅が終わったかのように、廊下でふたたび目を開いた。自分がこんな場所にいること、人目につくような場所で病的な夢想に浸っていたことに気づいた衝撃のせいで、ついに魔力のような倦怠感を打ち破り、立ちあがることができた。しかし、体はまだ麻痺したように重く、足はもう自分のものとも思えない。視線を下げると、はるか下のほうで動いている足が見えたが、まるで果てしなく流れる色鮮やかなモザイク模様の川を進む二艘のボートのようだ。わたしは延々と続く長い廊下をやっとのことで歩いていった―いつか終点にたどり着けるのだろうか?

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
There is a method in our madness. 〜我々の狂気には筋が通っている〜
澤田 育久 (写真家)
「"内在する欠陥"とは海上保険の用語で”避けられない危険”のこと/卵は割れる/チョコレートは溶ける/ガラスは割れる・・・」
〜インヒアレント ヴァイス〜

「物でも場所でも、あるいは時代、状況、もしかすると人間でも、目には見えないかもしれないが、もともとそこに存在する欠陥や不備など、ネガティブな性質のようなものが、何かをきっかけに表に出て不都合や悪い結果をもたらす場合がある。それは、時に最悪の事態を招くことさえあるが、その性質を考えるとどうしても避けられないことであり、その責任を追求することは難しい。」(公式プレスシートより)
我々は写真の前提である再現性や同一性といった機械的性質を期待し、それを利用することによって作品を制作します。それは個性からの開放であり、同一の機材と条件があれば誰が撮っても同じものが出来上がる、つまり個的なものから距離を置いて事物の普遍性やそのもの自体または現象を捉えることが可能だと考えて写真というメディアを選択しているのです。しかし、我々がどんなに個人から離れて匿名的に機械的に撮影しようと作家の生活の基盤やそれに立脚した社会的、思想的な背景が作品の根底に横たわり、作家が抱える嗜好や執着の対象、更にはフェティシズムさえもが画面を構成する面や線などに投射され写真上に露わにされていくように、日常的な思考や行為が総て写真につながっていく以上作家のプライヴェートやパーソナリティといった個人的なものと写真を完全に切り離すことは不可能であるように思います。このように個性の喪失の為に用いた機械に個性を増幅され暴かれるという事実は写真に内在する瑕疵のようなものであり、作家にとって矛盾をもたらす不都合な要素に見えますが、この構造的なジレンマこそが我々には重要であり抑制から取り溢れた個に属する要素を貪欲に取り込み積極的に積み重ねていくことによって写真は作家の抜き差しならない欲望を裏付けとして獲得し、それが写真を作品として成立させる際に不可欠な要素になるのだと思います。
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