The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2015年 12月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #20   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
愛の神々を買わないか   ・・・・・・・・・ 大山 純平
confession
〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
写真に写すということは、写した今-現在の対象を過去の領域に送り込むことです。写した現在を過去の領域に送り込むだけではなく、それは写すことで過去化された現在を今-現在に召還させ、印画紙の中で何度も反復させることを可能にします。過ぎ去ってしまったことが、今-現在において生々しく表われる。過ぎ去ってしまった現在が、目の前にあるかのように感じられる。現在の中に過去が表れ、過去の中に現在を見出すのです。
過去と現在が同時に表れるのが写真です。過去と現在の領域が一枚の印画紙の中に一挙に登場するのです。入れ子状態のように現在を過去に、過去が現在にという、そんな渾然とした循環する写真の時間が過去と現在を地続きにさせ、異なった時間の領域を同時に表すことを可能にするのではないでしょうか。
写真は時間と存在を複数に分裂させるのではと思います。“かつてあった”ものが“今はない”という写真の性質が、時間と存在に“かつて”と“今”、“あった”と“ない”という、二重の分裂を起こさせます。写真は内部に分裂した時間と存在を抱えこんでいるのです。過去が今-現在に何度も表われながらも、その存在は実体としてそこには存在しない。存在しないそんな過去を、今すぐに現前させることができるのが写真です。過ぎて行った過去を今ここに呼び起こし、実体があるがごとく表すことができるのです。
“かつて”と“今”、“あった”と“ない”という、相反する要素を抱えた写真は、二重の分裂を被写体にも強要するでしょう。対象が“ある”を“あった”に、“今”を“かつて”というように、写真は被写体を二重の領域に分裂させます。そして“あった”ものを“今はない”という、存在していたものを“今はない”不在の領域に追いやります。けれどそれは“かつてあった”のですから、“あった”存在と“今は存在しない”という不在の二重の領域に被写体を分裂させるのです。時間や存在に対して、写真はそこに複数の亀裂を入れようとしているのだと思います。写真においては、その“あった”存在と“今はない”不在を同居させることができる。それは不在を不在として、今-現在に現前させることを可能にするのではないでしょうか。不在を表すことが写真にはできるのではないでしょうか。“かつてあった”ことを表すことができるカメラの機能によって、不在が写った対象と共に表れるのです。
写真を見るということは“かつて-あった”ものを、今-現在この瞬間に見ることです。過去をリアルタイムに見ることができるのが写真です。過去は痕跡としてフィルムや印画紙の中に物質化させることで、過去を今-現在に現前させ、見ることを可能にする。フィルムによる過去の物質化が、今-現在に過去を現前化させることを可能にするのです。そしてその物質化が“今はない”不在を痕跡化することを可能にするのではないでしょうか。“かつて”と“今”、“あった”と“ない”という、相反するものが印画紙の中に同時に表われることを、イメージを物質化したフィルムが可能にしたのです。
複数化された時間を持つ写真は、何だか廃墟と似ていますね。廃墟もまた“かつて-あった”ものが、今そこに朽ち去ろうとしながら存在している。過去の痕跡と現在が渾然としながら同居しているのが廃墟であり、過去と現在という複数の時間が相反せずに同居しているのです。そんな時間の複数化が、写真と共通しているのではないでしょうか。廃墟は過去の痕跡でありますが、そこで時間が止まっているわけでも、過去の側にだけ存在しているわけでもない。過去の痕跡の中に、今-現在が入り込んでいる。痕跡でありながらその痕跡が、リアルタイムでそこに存在する。それは大森荘蔵が過去は無いと書いたのと似ています。過去は現地点において想起することで表れるのだから、それは過去ではなく今-現在だから過去は無いと言うのです。廃墟における痕跡の存在は、過去の堆積物でありながら、それは今-現在に存在しているという意味でそれは痕跡=堆積物ではなく、今-現在のリアルタイムな物質でもあるのです。痕跡は過去の堆積を表す物でありながら、同時にそれを否定する。何も持たない今-現在の物として表れることもできるのです。
写真も写したものを痕跡として見ることが可能です。過去をリアルタイムな今-現在に見ることができるので、今-現在のものとして見ることもできます。写真において過去がリアルタイムで表れるという事実は、それは現在でありながら、痕跡でもあるという二重の時間の表出を可能にするのではないでしょうか。例えば廃墟の現場で、埃をかぶってボロボロになった椅子を見ます。それは椅子の痕跡として見ることもできますが、今-現在のリアルな椅子として見ることもできる。写真や廃墟は、痕跡でありながらそれを現地点でのリアルな存在として見ることができるのです。それを可能にしているのは、今は存在しない過去を写真は物質化しているからです。過去が痕跡として、物質的に表わすことができる。そういう意味では写真と廃墟は近似的な領域にいるのではないでしょうか。
廃墟を撮る理由としてよく挙げられるものに、経過した時間の堆積を写したいために撮るというのがあります。歴史を写そうというのでしょうか。けれど写真に堆積された時間が撮れるのでしょうか。写真はつねに現在しか写せず、過去を写すことができません。カメラの機能上それは写すことができないのです。写真にはだから堆積された時間という歴史を写すことができないのですね。それ自体しか、今この瞬間しか撮れない。現在しか撮れないメディアなのではないでしょうか。
写真に時間の経過が表われ場合、それは写真の側ではなく、写真の外部に表われる。その写真を見ている人間と、現実の時間の経過の側に時間は発生するのです。写っているものが過去の何かの痕跡だと見出すことができるのは、写真の外部に流れる現実の時間と、それを経過したと判断できる人間です。写真それ自体単独では時間を表出することができません。写真それ自体には現在しか存在しない。現実の時間が経過し、その時間と撮られた写真が比較されることで、初めてその写真が時間を経過した過去の何かであることが分かる。写真は関係性の中に置かれることで、初めて時間を表出することが可能になるのです。
写真の時間は、写真の外である外部の現実との関係で表象することができる。時間の表象だけでなく、写真は単独で存在することができません。写真の外部と共に表われることで自らの存在を表すことが可能になるのです。つねに自分以外の外部を必要とするのが写真なのではないでしょうか。写真を純粋に自立させるというモダニズムの考えは、写真の成立を結局は不可能にするでしょう。写真は純粋になれない芸術であり、外部との関係によってはじめて自分を成立させることができるのです。
写真は単独で時間を表出することができませんが、外部との関係によって表すことができます。現実の時間が経過するのに対して、現実を停止させるのが写真です。停止した写真が時間の堆積を表すには、外部の流れる時間が必要です。現実に流れる時間を表す証拠として写真は機能することができるでしょう。現実の時間が十年、二十年経てば、その時間の分だけ写真が過去化されるわけですから、現実の十年が、写真に十年の時間の堆積を与えるのです。時間を停止させた写真にとって、時間は外部の現実が与えてくれるのです。現実の時間の流れが写真に対して時間の経過や堆積を与えるのですから、写真にある種の郷愁を与えるのもまた、外部の存在である人間や現実の時間の流れなのではないでしょうか。時間の堆積もそれに対する郷愁もそれ自体は、写真の属性ではありません。写真そのものは何も堆積せず、どんな意味も持たない。時間と意味は、写真の外部との関係の網の中から生み出されるものです。
現実の時間の流れと停止した写真の距離と落差が郷愁という感覚を、写真を見ている人間に感じさせるでしょう。写真がその郷愁的な感覚を表出できるのは、停止した時間と現在の時間との落差なのです。その感覚は関係が決定した感覚であり、写真に先天的に存在している感覚ではない。時間の落差によって生まれた感覚ですから、だから現実と写真の関係はつねに非対称的です。その非対称的な関係をあたかも対称的な関係のように捏造するのが、アマチュア・カメラマンの好む、いわゆるセンチメンタルな郷愁性と言うものなのではないでしょうか。彼らは写真に撮られた対象と現実の対象が等号可能な関係だと思っている。写真は現実の忠実な再現であるから、写真は現実とイコールの関係を持てると思っているのです。現実に存在した過去を忠実に再現できるという彼らの考えは、オリジナルな現実の過去が、写真や言語よりも先行しているという考えです。過去はけれど写真や言語よりも先に、先天的に存在しているものでしょうか。過去の現実を忠実に表す手段として写真や言語が存在するのでしょうか。過去を忠実に再現するのが写真だと信じている彼らにとって、写真に写ったものはすべて懐かしいでしょう。写っているものはただひたすら過去ですし、本当の現実の再現なのですから。けれどそのようなセンチメンタルな郷愁は、操作され、作られた感覚なのではないでしょうか。センチメンタルな郷愁を裏付ける実体がそこに存在するのでしょうか。
過去は写真や言語によって作られた領域です。過去があったから過去形という文法が生まれたのではなく、過去形という文法が過去を生み出したように、写真に撮られたことで初めて過去が存在したのです。撮られなければその対象は存在しないし、過去にもなりません。六十年代の東京ミキサー計画だって、写真に残されていなければ、それは人々のあいだにぼんやりとそんなのがあったな程度の記憶で、今頃みんな忘れていたでしょう。東京ミキサー計画が美術史における位置を獲得できたのは、写真にその行為やイヴェントを撮られたからで、過去はだから先天的に存在するものではないのです。言語で書かれるか、写真に撮られたことではじめてそれは過去として存在するのです。“かつてあった”ものを、“今はもうない”ものに変質させる写真の機能によって過去は作られたのです。
過去はだから決して現実の領域に実体として存在するものではない。それは“かつてあった”けれど“今はもうない”ということを表現できる写真や言語の領域に存在するのではないでしょうか。過去は“それはないけれど、あった”という非実体的な存在です。“かつてあった”と“今はもうない”のその間の領域に存在するものです。郷愁をだからセンチメンタルな形で実体化することはできない。センチメンタルな郷愁性は、“かってあった”過去を実体化しょうとしますが、“かってあった”過去というのは、“それが今はもうない”現在の対比によって見出されたものです。それは不在によって過去が定義され直された結果なのです。だから過去がそれ自体単独で実体的に存在することはできません。過去は非対称的な関係が生み出したフィクションの領域です。過去は関係から生み出された結果であり、“かつてあった”過去を実体化し、その領域に過去を固着させ、“今はもうない”現在と比較することで過去が生まれる。その非対称的な関係性として変質させたことで生まれてきたものがセンチメンタルな郷愁性です。けれど写真は“かってあった”過去と“今はもうない”現在をつなげてしまうメディアなのではないでしょうか。
相反した二つの領域を、非対称的な関係に変質させることで郷愁が生まれました。一枚の写真の中で等価の関係であった“かつてあった”過去と“今はもうない”現在に対して、非対称的な落差を導入したのが郷愁です。過去と現在のどちら側にも存在していない写真を、過去の側に固定させ、そこから現在との落差と距離を創出することで、郷愁の感覚をわたし達に喚起させるのです。
停止した無時間的な存在である写真と、日常の時間よりもかなり遅滞化された時間を持つ廃墟。両者を現実や日常の領域から遠ざけたことで、郷愁という価値を付けられたのです。それは現実や日常から切り離されることで生まれた価値です。資本制社会においては価値が、等価の関係からではなく、非対称的な関係の落差から生み出されたように、郷愁や美学を感じる心の動きもまた先天的に存在しているわけではない。それは関係の間から生まれ、作られたものです。現実や日常から、写真と廃墟を切り離し、両者を対峙させ、互いに非対称的な関係に変質させたことで、そこに落差が生まれ、郷愁や美学という価値が発生したのではないでしょうか。
郷愁性や美しさという感覚を写真や廃墟が表出できるのは、現実から写真や廃墟を切り離し、非現実、非日常の領域に追いやり、そこで固定化することで可能になったのではと思います。まして写真は時間を止めるメディアです。写真は対象とその流れる時間をカメラのフレームで切り取り、強制的に停止させます。強制的にフレーム化し、停止させる写真のその暴力性が、この撮られた対象は無数の現実の中から選ばれた対象であるという、特権意識を発生させたのではないでしょうか。フレームされたことで現実から切り離される。選ばれ、フレーム化された対象は、もう普通の現実とは違う特権的な現実として表れます。その特権意識が、フレーム化された対象を、現実の関係から切り離し、非現実の側にその対象を固定することで美学を発生させたのではないでしょうか。
時間に対する落差が郷愁を生み出したように、停止した写真や遅滞化された廃墟を非現実の側に追いやることで、そこに現実と非現実という非対称的な関係に捏造します。それは中心を活性化させるための“中心-周縁”の関係にも似ていますね。中心を活性化させるためにつねに“中心-周縁”は、互いの交換を繰り返す。その非対称的な関係に基づいた交換が中心を活性化するのです。けれど最初から“中心-周縁”の関係が先天的に存在していたわけではなく、その関係はもの同士の交換の過程から偶然に発生して、生まれた図式なのではないでしょうか。その関係は決して普遍的なものでも、理由があったわけでもない。たんなる偶然によって成立した図式です。中心と周縁の位置はつねに流動的だったのです。偶発的に生まれた中心と周縁を、“中心-周縁”として固定化したことで、価値が発生したのです。
“中心-周縁”という非対称的な関係が生み出す落差が、交換を可能にし、その交換から生まれる剰余価値によって美学が生み出されたものではないかと思います。ノスタルジックな美学というのは、だから現実や日常との時間の落差による不等価交換から生み出された剰余価値であり、それはやはりある種の搾取だと思うのですね。写真や廃墟を非現実というファンタジーの世界に追放することで、現実や日常という中心から追い立てることで、それらは周縁化されたのです。周縁化されることで、中心の領域にある現実や日常との落差が生み出され、そこに美学の成立が可能になったのです。美学はだから非対称的な関係の中から発生した剰余価値なのではないでしょうか。
ポール・ニザンの『アデン・アラビア』は、パリでのブルジョア生活を捨てて、アラブ世界の民衆の中に溶け込み、かの地において革命を志す青年の話なのですが、結局その主人公はアラブ世界を、非現実のフィクショナルでエキゾチックな世界としてしか把握できないまま、アラブ世界での革命を諦めて、先進国で革命を起こすためにヨーロッパへ帰国します。彼にとってアラブは非現実の世界であり、本国のフランスの現実とは切り離された存在としてしかアラブ世界を把握できないのです。フランスの現実とアラブの現実を通底させず、それらを切り離すことで、両者の関係を非対称的な関係に変貌させる。その非対称性がニザン的な美学を成立可能にしたのです。二十歳の主人公に対して“それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなと誰にも言わせまい”と書かかれたその小説は、けれどアラブ世界の現実に“インド人、アラビア人、黒人もいたが、彼らのなかにはいりこむことはできなかった。”とアラブ世界での革命ではなく、先進国であるフランスで革命を行なうことで、アラブ民族の解放を訴えます。けれども第三世界の革命と先進国の革命の間に、何故そのようなヒエラルキーが存在し、先進国の革命が優先されるのでしょうか。先進国の解放が第三世界の解放につながるというニザンの認識は、第三世界の現実が、先進国の現実を成立させているという認識を放棄することですし、それは革命のエリート主義に近づくでしょう。先進国があるから第三世界があるのではなく、第三世界があるから先進国が生み出される。それは中心があるから周縁があるのではなく、周縁が中心を生み出すのと同じように、先進国は先天的に存在しているわけではないのです。中心としての先進国こそがフィクションであり、それはアラブ世界という周縁によって作られた存在なのです。
資本主義の中心部をひっくり返すことで、第三世界も変革できるという戦略認識は、まるで革命のトップダウン方式です。その認識は先進国を中心に、第三世界はその中心を支える歯車でしかないという認識なのではないでしょうか。先進国革命の成功が第三世界の革命を成功させるという先進国中心の革命のエリート主義は、先進国と第三世界との関係を非対称的な関係に置き換えるのです。そのようなヒエラルキーに基づいたフランスとアラブ世界の関係を、“中心-周縁”の関係として認識することで、『アデン・アラビア』の美学が成立したのではないでしょうか。
現実と非現実。日常と非日常。その図式は“中心-周縁”の図式とそっくりです。元々現実も非現実も、日常も非日常もそんなに差はなかったのではないでしょうか。中心は存在していなかったのです。世界のすべては最初から中心を欠いた周縁だったのです。世界を体系付ける中心はどこにも存在していなかった。中心を捏造することで、非現実や非日常という周縁的な領域が生まれたのです。そしてそんな領域と境界を捏造することで美学が生まれます。
廃墟を非日常の周縁的領域に固定することで、現実という中心との関係を断ち切られて、美学化される。日常と非日常の落差から価値を生み出そうとする美学は、廃墟を非日常側に追いやることで、日常との距離と落差を強調します。距離と落差が強調されることで、更に価値が生まれる。廃墟の非日常的な美は、捏造された距離が生み出した美学です。価値を表出するためのそれは、故意に捏造された距離なのではないでしょうか。遠くて手に入りづらいものに対して高い価値付けがなされるように、距離とその落差が大きければ大きい程、その価値は高く評価されるのです。剰余価値が交換過程から生まれる理由は、“交換する-される”その両者の距離と落差が価値を生み出すからです。日常から遠く離された廃墟は、エキゾチックな美学が強調されるでしょう。朽ちていくというそれ自体美しくもなければ汚くもない自然現象の過程を、非日常の領域に美学として固定されたとき、廃墟は初めて美しくなったのです。
現実との関係を断たれ、非日常の領域に固定される。日常の時間の中で停止した存在として扱われる廃墟は、日常を活性化させる非日常的なスペクタクルな存在として扱われるでしょう。アミューズメントパークとしての廃墟の誕生です。
現実の廃墟はけれど、そのアミューズメントパーク的な廃墟を拒否します。現実と非現実、日常と非日常の図式こそがフィクションなら、日常の領域にも非日常の領域にも廃墟は存在しないのではないでしょうか。どちらかの領域に固定され存在するものではないのです。むしろ日常と非日常の境界が曖昧になっているものが廃墟であり、そこでは日常と非日常の関係が、地続きのまま存在しているのではないでしょうか。例えば人間の身体というのは死という最終的な崩壊に向けて、日々小さな細胞の死を経験し続けているから、身体の中で生と死は分け隔てることができないのです。それは死という非日常的要素を、身体という日常が、最初から組み込んでいるからです。人間の身体はだから日常と非日常、生と死を対立概念としては捉えていない。そういう意味では日常や身体もまた廃墟に近似していると思うのです。日常用品は毎日使われている物で、それは確かに現在形である物ですが、最終的には使い終わり無くなることで、終わりを迎えます。その終わりの地点から考えてみれば、それら日常品は日常であり、使用中の現在形の物でも、終わりから見ればそれは痕跡でもあるのです。痕跡という過去と、現在進行形の現在が渾然としているのが日常なのではないでしょうか。
日常の中には、つねに非日常的な死が入り込んでいる。日常と非日常を分け隔てることはできないのです。そこには落差が存在しない。そんな非対称的な関係を築くことができない日常の中で、美学を成立させることは可能でしょうか。日常と非日常という非対称的な関係の枠組みの中に閉じ込められたことで廃墟が“美”という価値を発生させるのなら、日常と非日常を地続きの関係に設定し直すことは、美学の発生を無効にすることなのかもしれません。
“第二、第三のベトナム”を作り出せとゲバラは言いました。それはベトナム戦争を資本主義国の日常に持ち込むことで、ベトナム戦争を日常的に恒常化することです。ベトナム戦争を非日常のスペクタクルな戦争として捉えることではありません。非日常的な対立要素を、資本制下の日常の中に持ち込み、そのことで資本に支配され続けているケとしての日常を、非日常的なハレとしての革命に変貌させる。祝祭革命論というのがありましたが、ゲバラの言う“第二、第三のベトナム”の意味は、無数のベトナムを日常の中に作り出すことで、日常と非日常の境界を溶解するという意味なのではないでしょうか。それはベトナム戦争の日常化です。ベトナム戦争と資本主義的日常を直結させ、地続きの隣接した関係に作り直す。革命は非日常のスペクタクルではないのです。ましては祝祭的な一揆でもない。毛沢東が労働-学習-睡眠の過程に革命を位置づけたように、それはベトナム戦争の日常化であり、労働-睡眠という人間の無限に続く生命の再生産サイクルに革命を隣接させることで、革命を恒常化させることだと思います。
アンドレ・ブルトンが、シュールレアリズムとは街頭でピストルを発射することだと言いましたが、確かに街頭でピストルの発射音がすれば誰もが一瞬驚くでしょう。けれどすぐにそんな音は日常化されるのです。むしろどんな驚くようなことでもすぐに馴れさせ、日常化してしまう。何でも飲み込んでしまうそんな日常の退屈さの方がブルトン的なシュールレアリズムよりも、シュールな不気味さを持っているのではないでしょうか。七十五年の東京の三菱重工爆破事件のとき、あれだけの死者と負傷者を出した現場の通り一本を挟んだ向こう側では、サラリーマンが笑いながら普通に道を歩いていました。オウムの地下鉄サリン事件のときも霞ヶ関の地下鉄の入口の向こう側で、サラリーマンが出勤のために普通に歩いている光景がニュース番組に映されていました。非日常的な爆弾事件やサリン事件でもすぐに日常化されてしまうのです。非日常や非現実という領域は、この世界には存在しないのかもしれない。非日常的なスキャンダルや、スペクタクルな存在は成立不可能なのです。爆弾事件ですら日常にしてしまうのなら、日常の方が、実はもっと非日常的な世界だったのではないでしょうか。
ショーウィンドウのガラスに写り込む光景を写したアジェの写真に、シュールレアリスト達が、自分たちの芸術の可能性を見出しました。意識しないで写ってしまったガラスに反射した街の光景。どこにでもレンズを向ければファインダーの中に映っているすべてのものは撮影者が、意識しょうがしまいが自動的に写真に記録されてしまう。写真は意識していないものを写すことができるのです。その機能にシュールレアリスト達は興味を持ったのでしょう。無意識の存在に興味を持っていたシュールレアリスト達にとって写真は、意識している以外のものを写すことができるというのは驚きだったのではないでしょうか。絵画は目で見て、頭で意識したものしか描けませんが、写真は意識しようがしまいが、それを写すことができるのです。無意識の世界を見出す可能性を自動記述法によって探っていた彼らには、そこに新しい可能性を見つけたのでしょう。
ショーウィンドウの中の実物のマネキンは意識して写していますが、ショーウィンドウのガラスに反射して写っている街のイリュージョンの存在まではアジェも、撮影時にそれほど意識していなかったでしょう。けれど意識していてもいなくてもレンズをある方向に向ければ、向けられた対象をカメラはすべて写すことができます。それは意識と無意識という、互いに相反した領域が一枚の写真の中に同時に表れることなのではないでしょうか。そしてマネキンというリアルな物質と、ガラスに映り込んだ光景というイリュージョン。それらの対立する概念が矛盾なく一枚の写真の中に表れることができる。写真は意識と無意識、リアルとイリュージョンが、矛盾なく同居することをアジェは証明したのです。むしろ意識と無意識、リアルな実物とイリュージョンが、一つの現実として彼の写真の中では地続きにつながっているのです。
アジェの写真のガラスに映った街のイリュージョンにシュールレアリスト達は、そこに都市の無意識を見出したようですが、そこにはシュールレアリズム特有の、イリュージョンの非現実性は感じられません。無意識を重要視するあまり、ガラスに写った街のイリュージョンを特別に称賛しているわけでもない。アジェにとってイリュージョンは非現実の側ではなく、現実の側に存在しているのです。イリュージョンという非現実世界を描くときに表れる特別さがそこには存在しないので、現実とイリュージョンの非対称性が成立していません。アジェの街頭の写真はすべてが現実です。それはあまりにも普通の光景です。イリュージョンのスペクタクル性を強調するある種のシュールレアリスト達が、イリュージの特権的非現実性を肯定するのなら、アジェはイリュージョンの凡庸な現実性を主張するでしょう。そこにはシュールレアリズム特有の美学がありません。イリュージョンも非日常も、それは日常や現実の向こう側に存在する特権的な世界ではない。日常と非日常はアジェにとって入れ子状態に存在しているものです。“第二、第三のベトナム”を呼応するゲバラや、革命の日常化を訴える毛沢東にとって日常と非日常の境界が存在しないように、アジェにとっても日常と非日常というはっきりとした境界は存在しないのです。
アジェの写真のように、現実や日常と、写真や廃墟が地続きの関係なのなら、そこに美学的な価値を表出することは不可能なのではないでしょうか。例えば日常的に空爆で生活空間が廃墟化している場所で、廃墟が一体何の価値を生み出すでしょうか。廃墟はそこではもう普通の日常的な存在でしかない。現実との地続きの存在なのです。むしろあったものを写していた写真の方が、“かつて-あった”ものをフィルムに残していたという意味では、価値を生み出す可能性があります。それは空爆された今-現在の場所と、かつて平和だった過去のこの場所の落差を、写真は記録として表すことができるからです。けれど“かつて-あった”ものを表出するカメラの記録性が、ノスタルジックな美学的価値の産出を保証するでしょうか。その記録性はカメラの冷徹で残酷な記録性を強調するのみで、そこにノスタルジックなヴェールをかけることで過去を美学化するのは、むしろ不可能なことなのではないでしょうか。“かつて-あった”ものを表出するカメラの記録性はあまりにもクリアです。そこにはヴェールをかける隙間が存在しません。
“かつて-あった”ことを記録した写真は、“今はもうない”のであり、写真における記録性は、その対象が今は消滅したことを示唆するでしょう。それは美学が表出しょうとする“永久の美”や、“普遍的な美”の価値とは違う、刹那的な時間なのではないでしょうか。現実はつねに消失し続けると、写真の記録性は言い続ける。そこには美学特有の“永久の美”や“普遍の美”が生まれる余地がありません。カメラの記録性は“かつて-あった”ものを、“美”としていつまでも奉るのではないのです。“永久の美”に対立する、それはすでにもう存在しない、消滅した、取り返しがつかない現実の記録なのだということを強調するのです。美しくもなければ、汚くもない。それは美学ではなく、カメラの記録性が表出する残酷な現実です。“永久の美”や“普遍の美”が不滅の生を謳いあげ、不老不死としての生を表象するのなら、そのような“不滅の生”に対して写真は屍体のような痕跡であり、“永久の美”に対して、“今はもうない”という消滅を対置し、“不老不死”に対して、それは取り返しのつかない過ぎ去った過去に変質しつつある老いである。それは今もうそこには存在しないという、かつて現在であったものの死を写真は表象するでしょう。永久に輝き続ける“生”や“美”に対して、“かつて-あった”写真は、生き返ることのできない屍体として、印画紙の中にいつまでも召喚され続けるのです。
“今はもうない”ことを示唆する写真は、消滅さえも痕跡化するのではないでしょうか。フレームの枠内に収められた対象は、確かに痕跡として写真の中に残っていますが、フレームに写らなかったフレーム外の現実は、跡形も残さずに消滅しています。けれどその何も残さなかった消滅は、フレームの外にも現実があったという事実を示唆し続けるのです。確かにフレームの外側は写りませんが、そこに何かがあったことは分かります。見えないけれども、フレームの外側にも現実の何かがあったのです。フレームの存在は、対象をフレームの内部で完結させる他に、フレームの外は消滅したという、外部の消滅の痕跡を写真に刻印する存在なのではないでしょうか。フレームされたことで、フレーム以外の外の現実もあるということが示唆され、それはつねに予感としてフレームの外部に存在し続ける。フレームが成立するには、何も写っていないフレームの外を必要とするのです。写真はだから消滅を要請するでしょう。消滅したものが写真を支え、共に現れるのです。
写真は対象を記録しますが、それは写した対象が“今はもうない”ということも記録するでしょう。撮影は対象を印画紙の中に記録しますが、その対象が“今はもうない”という、対象が消滅したこともまた表出するのです。消滅と存在が同居するのが写真です。それは細胞の死滅と再生を日々繰り返し、死滅と再生を同居させている人間の身体に似ていますが、写真はむしろ消滅すらも痕跡化して、物質化しているのです。それは身体というよりも屍体に近いのではないでしょうか。
写真はフレームの枠内だけで成立しているわけではありません。フレームの内と外という複数の領域で成り立っているのです。写真はフレーム内部のイメージだけで成り立っているのではなく、フレームの外の、何も写っていない外の存在を要請することで成り立っているのです。“なぜ、同一のことを語るのに、二つの言葉が要るのだろう?”一つのことは、二つの領域によって承認されるとブランショが書いたように、写真はフレームの内と外の二つの領域によって成立する。写っていない外部を抱え込むことによって成り立つ写真は、不在をその内部に抱え込むことで成り立つのです。だから写真は写した現実の痕跡化なら、写らない現実、それはもう消滅してしまったフレームの外の痕跡化でもあると思うのです。すべてをそんな風に痕跡化させるという意味では、写真は廃墟のアレゴリーなのではないでしょうか。フレーム外の現実にまで廃墟が持ち込まれ侵食していく。現実を廃墟化するのが写真の記録性なのかもしれません。
写真は、写した瞬間に対象を過去の領域に追いやります。それは対象を印画紙の中に氷結することであり、凍結された対象は、氷河期に閉じ込められたように、凍結された瞬間のまま永遠に印画紙の中に保存されます。廃墟が朽ちていくという現在進行形の時間を持っているのなら、氷河期としての写真には、その流れて行く時間が最初から欠落しています。
写真が時間の経過を表すには、外部の現実が必要です。外部との関係によって写した対象がどのくらいの過去のものかが判断される。写真自体にとって時間は固有の属性ではありませんが、時間を喚起させる何かがそこにあるのではないでしょうか。停止され、痕跡化された写真は、外部の現実に対して時間を喚起させるのです。むしろ停止が動きを呼ぶ。それに対して廃墟は朽ちていくという固有の遅延した時間を持っていますが、遅滞化された時間は、今度は速度を呼ぶでしょう。停止した存在である写真と遅滞化した存在である廃墟は、つねに現実の世界に何かを喚起させるために、声を上げ続けているように見えるのです。それらはつねに応答的な存在なのではないでしょうか。無言でレスポンスを続けているように見えるのです。無言のレスポンスに対してわたし達は、センチメンタルな郷愁で答えるのでしょうか。それともさらなる動きと速度で答えるのでしょうか。停止と遅滞の呼びかけに対して、動きと速度を対峙し、彼らとの距離を拡大することで、これ以上の剰余価値を搾取し続けることが、その呼びかけに対する答えなのでしょうか。
未来派のファシズムは速度を重視しました。速度こそが芸術だと。それに対して毛沢東の人民戦争論は、速度という速戦即決の戦略ではなく、遅滞と後退と持久を速度に対峙させます。原子爆弾や包囲-殲滅の決戦主義に対しては、拡散と分裂で応えました。毛沢東の人民戦争論における持久戦略は、ブルジョアに対してさらなる前進と速度を誘発しますが、それは彼らを自滅させるための誘発であり、自滅へ向けての速度のさらなる加速を呼び起こします。速度を獲得することでブルジョアは、相手に非対称的な関係を強要させ、その落差によって勝利を得ようとする。そのための速度の追求なのですが、それに対して毛沢東は、そのような非対称性を無効にする革命の日常化を提言します。速戦即決主義に代表されるようにブルジョアの速度戦略は、戦争を日常生活のように半永久的に維持し続けることが不可能なことから生まれた戦略です。それに対する毛沢東の戦争の日常化とは、戦争を日常の時間という無限の時間に隣接させます。日常という無限の時間の中で維持される毛沢東の戦争に対して、速度を重視するブルジョアは最終的にその速度を維持できず、日中戦争時の日本のように、無意味にただその場所に拘束され続ける。速度は日常と共存できません。
速度はつねにその速度を更新し続けます。速度はさらなる加速した速度を呼び続けるのです。そして加速し続ける速度には果てがない。果てのない速度は、今の速度を超えるさらなる速度を要請するでしょう。そのような速度のための速度は、最終的には自滅するしかないのです。速度が日常と共存できない理由がそこにあります。
さらなる更新を要請し続けることが資本主義の根幹ですから、更新され続けるその果てのなさは彼らにとって運命なのです。ブルジョワにとって速度は、その速度を超えるためにあり、加速はその加速を超えるためにあります。彼らにとって戦争もまた、その戦争をさらに超える戦争を求めるようになるでしょう。速度がその速度を超え続けるように、ブルジョワの戦争は、戦争のさらなる更新です。それに対して遅滞と持久を根幹とした毛沢東の戦争論には、何かのための戦争や、更新し続けなければいけない戦争は存在しません。日常のための日常や、遅滞のための遅滞、持久のための持久が存在しないように、遅滞と持久は速度のように意味もなくエスカレートしません。それらには超え続けなければいけない対象が存在しない。ただたんたんとこなしていく現実があるだけです。つねに自分を超え続けることを要求するブルジョワの速度は、いずれ自分の身体を超えるために、自滅しなければならなくなりますが、彼らは鏡に映った自分と競争しているだけなのです。そこには現実がありません。
芸術に速度と進歩を求めるということは、資本主義的に言えばそこに剰余価値をさらに産出することを目的とすることであります。現状をつねに打破し続けるのが資本主義ですから、速度と進歩は資本主義を形成するための重要な基幹ではないでしょうか。芸術に速度と進歩を求めるというのは、要するにそれは芸術のブルジョワ化です。この世界に対してこれ以上のさらなる剰余価値の搾取を肯定することでもあります。芸術における速度と進歩の要請は、“中心-周縁”という非対称的なヒエラルキーを要請するでしょう。速度と進歩は搾取の形態です。相手よりもより早い速度を獲得することで、非対称的な関係に持ち込む。そのことで剰余価値を獲得するのが資本主義です、そのような速度と進歩を信仰するブルジョアの芸術に対して、ロシア・アヴァンギャルドの芸術の非特権化、日常化は、そのような剰余価値を産出するあらゆる速度を無効にするでしょう。速度と進歩による芸術の搾取ではなく、毛沢東の人民戦争論のような革命の日常化、芸術の日常化が、あらゆる剰余価値の産出を無効にするのです。
芸術に速度と進歩を必要とすることは、搾取するブルジョアの速度に追随することになります。わたし達に必要なのは毛沢東の持久戦略のように、無限の遅滞と後退と持久を続けることなのではないでしょうか。芸術に進歩も速度も必要ないのです。産業社会と速度を競い合ったスターリンが、共産主義社会をチープで悪趣味なブルジョア社会のイミテーションに変質させたように、わたし達にとって速度はもう必要ではない。写真や廃墟のように、死んだような停止と遅滞が、ブルジョア社会を真似した最悪なイミテーションのような芸術を唾棄するためにも必要なのです。
百葉箱 Screen #20
小松 浩子 (写真家)
パンとは小麦粉やライ麦粉などに水・酵母・塩などを加えて作った生地を発酵させた後に焼く発酵パン、若しくは酵母を添加せずに作られる無発酵パンを指し、多くの国で主食とされている。日本ではJAS法により1. 小麦粉又はこれに穀粉類を加えたものを主原料とし、これにイーストを加えたもの又はこれらに水・食塩・ぶどう等の果実・野菜・卵及びその加工品・砂糖類・食用油脂・乳及び乳製品等を加えたものを練り合わせ発酵させたもの(以下「パン生地」という)を焼いたものであって水分が10%以上のもの。2. 餡・クリーム・ジャム類・食用油脂等をパン生地で包み込み若しくは折り込み、又はパン生地の上部に乗せたものを焼いたものであって焼かれたパン生地の水分が10%以上のもの。3. 1に餡・ケーキ類・ジャム類・チョコレート・ナッツ・砂糖類、フラワーペースト類及びマーガリン類並びに食用油脂等をクリーム状に加工したものを詰め若しくは挾み込み又は塗布したもの。を指し、原材料や製造方法に応じて「食パン(1又は2に規定するもののうちパン生地を食パン型(直方体又は円柱状の焼型)に入れて焼いたもの)」「菓子パン(2に規定するもののうち食パン以外のもの及び3に規定するもの)」「パン(1に規定するものであって食パン以外のもの)」の3つに区分される。体調が崩れ発熱や腹痛の症状が出ると母親に連れられて三丁目公園前の医院に行く。診察は症状に関わらず常に「口腔を見る」「聴診器で胸の音を聞く」「腹を軽く押す・叩く等触診する」事が行われた後、「風呂は控え、食事はパンかうどんかお粥」と宣言されて終了する。待合室から見える小部屋で薬剤師がカルテを見ながら症状に関わらず常に薬瓶から緑色の粉末と白色の粉末を取り乳鉢で混ぜ白色の薬包紙に載せて不規則な五角形の包みを9つ作り「朝昼晩食後30分一包ずつ服用」と宣言し渡してくれる。三丁目の医院から二丁目の自宅までの間にベーカリーがあり診察を終えた帰り道には常にアップルパイを買い与えられる。アップルパイはJAS法では「菓子パン」に区分され確かに「パン」ではあるが「食事はパンかうどんかお粥」という指示の「パン」には不適切であると予想される。西洋の食文化が流入し東洋の食文化否定の時代背景から子供の滋養にアップルパイが最適との判断が母親により為されたと推測出来るが、常に子供の快復には遅れが生じる事となる。刷り込み(imprinting)とは動物の生活史のある時期に特定の物事がごく短時間で覚え込まれそれが長時間持続する学習現象の一種を指すが、数十年を経て母親が深刻な消化器疾病を患い、入院・手術・退院直後に同居の家族にアップルパイを買いに行かせ自身の滋養の為に摂取している事からも長時間持続する刷り込みから西洋の食文化を信仰している事が伺える。
愛の神々を買わないか
大山 純平 (写真家)

12/1 今年も残すところ1ヶ月になりました。最後の月の始まりとしては順調な滑り出しです。トラブルもなく、過ごせそうです。いつもは見ない情報系のテレビ番組を見ておくと探求心を刺激するものに出会えそうです。知人からの食事の誘いは、お見合いかもしれません。幸運な色を差し色にした装いなら好印象を残せます。新しく準備中のお店を見つけたら、開店日を聞いておいてください。宝くじを買っても、当選の可能性はあまりなさそうです。結果は期待せずに買うべきでしょう。それより身近な無駄を省くのが先決です。今日は新しいラブホテルを開拓してみましょう。お気に入りの部屋が見つかりそうです。車を持っている人は、車の中も良いでしょう。外の世界で出会う人間は、みんな同じ軽蔑的で薄情なやり方でわたしを扱い、わたしのすることを信用せず、わたしの存在を認めようとしない。車に乗った男だけは違う。一緒に車に乗るのは初めてというときでさえも、彼がわたしを評価し、理解してくれていることが感じられるのだ。わたしを愛するように仕向けることができるのだとわたしには分かっている。車は、わたしたち二人にちょうどよい大きさの、疾走する小さな代理の世界だ。親近感が生まれ、二人の間に絆が結ばれる。すぐに、わたしは少し彼を愛しはじめる。まず車を愛してしまうということもときおりある。車がわたしを男に引き付けるのだ。一緒に走っているとき、わたしたち三人は一体となる。ひとつに溶け合うのだ。わたしは孤独感と劣等感を忘れ、愉快になる。外の世界では、常に破局が待ちかまえている。知らせはいつも悪いものばかりだ。軌道を外れた狂ったロケットのように、人生が突然襲いかかってくる。逃げられる見込みがあるのは、疾走する車の中だけだ。 12/2 お金の取り扱いは慎重にして下さい。金額を一桁間違えて、大騒ぎになりそうです。憧れの人に会えるチャンスが訪れそうです。嬉しいからと言って騒ぎ立てると、せっかくの話も立ち消えになる可能性があります。昔の恋人からの電話に心が揺らいだら、最悪の場面を思い出して心を静めて下さい。クリスマスや年末年始の予定は決まっていますか?お出かけや旅行の行き先が決まってない人は、今日計画を立てると出会い運が高まります。彼女は若くて、縛られるものもなく、自由に使えるお金もあった。だから彼女は考えたのだ、今こそ世界を見てまわると同時に不愉快な人間関係から逃れるいい機会だ、と。現在いる場所からはるか遠くに旅するという簡単な方法で、病んだ手足を切断するように過去を切り捨てることができるという、誤った俗説を彼女は信じたのだ。移動したのは成功だったと彼女は考えたようだ。遠く離れた国では彼女のことを知る者はなく、白紙状態から出発して、まる一年のあいだ、きわめて満足のいく暮らしができた。そう彼女は私に言った。でも私の胸にはいくばくかの疑いがある。彼女の話のこの部分はいつもおぼろげで現実味に乏しく、まるで完全には思い出せない夢みたいだからだ。この期間について私がたずねると、いつも彼女は、奇妙にあいまいな返事をした。ええ、そうよ、もちろん幸せだったわ。彼女は私にそう言う。命の洗濯ができたわ、と。でも、詳細について問いただしたときは、彼女の思考はさまよいはじめるようで、落ち着きなく視線をさまよわせ、両手を意味なく動かしながら、同時にこうくりかえすのだ。そうよ、わたしはとても幸せだったわ。けれども、それはかなり奇妙に漠然とした感じで、ますます疑わしいと私には感じられていた。 12/3 ちょっとした体調不良も、重大な病気のように感じてしまいます。すぐに回復するので、心配するより休養をとりましょう。よかれと思ってしたことがすべて空回りしてしまいます。鳥の群れは子どもたちを目にするやいなや威嚇するかに見え、子どもたちに向かって恐ろしげな声で性急な叫びを浴びせかけた。わたしは警告のようなことを叫び、子どもたちに家の中に駆けこむようせかした。子どもたちはまったく意に介さなかった。興奮と期待でいっぱいの顔をしていたが、驚きの色はまったくなかった。彼らはよく知っている行事の一部になっているように見えた。カツオドリたちは彼らのひとり、いちばん小さな子どもめがけて急降下をはじめていた。ほかのふたりの子どもがその小さな女の子の棒のように細い腕をつかんで引きずっていく。まったく疑いの余地のないことに、そのかわいそうな小さな子どもは生贄なのだった。そしてすでに鳥たちに捧げられていた。持ち上げられた少女の顔にあまりに衝撃的なうつろさをもたらしているのは恐怖のみではなかった。その顔には黒々とふたつの大きな穴があいていた。すでに目をえぐりとられた、血まみれの穴が。わたしはまたもや叫び声をあげ、走り出した。両手を振りまわしてカツオドリたちを追い払おうと考えたのだ。けれどもそのとき、つまづいてどさりと倒れたにちがいない。ぎざぎざの岩の上に倒れて、目をまわしたにちがいなかった。なぜなら起きあがったとき、断崖は静まりかえって誰もいなかったからだ。風は完全にやみ、太陽は、炎のような色で縁どられた陰気な雲のすじの向こうに沈みつつあった。あのようなすさまじい残虐さがどうしてこの世界に入りこんできたのだろう。そうしばしば考える。誰が創りだしたわけでもなく、誰がはじめたわけでもない。そしてどんな聖人も、天才も、独裁者も、大金持ちも、そう、たとえ神の子その人であろうとも、駆逐することはできないのだ。自分から動くのではなく、誰かの指示に従って動く方が良さそうです。新居探しは来年まで待って下さい。今日は無理はいけません。やるべきことだけに集中して、あれこれと、他のことには手を出さないようにしましょう。 12/4 お気に入りの和食のお店に行ってみて下さい。特別サービスを体験できそうです。一番高いものに挑戦してみてはいかがですか。たまには、家族や恋人と外食しに行きましょう。楽しい良い時間が過ごせそうです。雰囲気の良い和食のお店が良いかもしれません。デートをするなら、高層ビルの展望台に行ってみるのも良いでしょう。いつもは緊張気味のあなたも、不思議にのびのびとふるまえます。わたしには友人が、恋人がいた。それとも、恋人がいたのは夢の中のことでしかなかったのだろうか。無数の夢が渦巻いている。わたしにはもう何が本当で何が本当でないのか区別することができない。まばゆい鉱物の洞窟に閉じ込められた光のような夢。熱く重い夢。氷河期の夢。頭の中の機械のような夢。何もない壁と異様に小さなグラスの底に沈殿した苦い薬に挟まれてベッドに横になったまま、わたしは夢を思い出そうとする。 12/5 後輩から相談を持ちかけられそうです。でも、相手は聞き役を求めているだけなので、助言をしてはいけません。気疲れから体力も低下しているので、激しい運動は避けて、お風呂上りに軽い体操で体をほぐす程度にしましょう。気分転換にはカラオケが良さそうです。歌えばすっきりします。今日はクレジットカードの類はあまり持ち歩かないようにしましょう。気持ちのおもむくまま買い物をすると、後で大変なことになりそうです。トラブルが生じて、予定が大幅に狂ってしまいそうです。多少の遠回りは覚悟したほうが良いかもしれません。自分から何かしようとするとうまくいきませんが、相手の言いなりになると意外と楽しめるかもしれません。棺の覆い布のように、左右対称にぴんとまっすぐ引きのばされた白いベッドカバーの下に、若い女性が寝ていた。目を閉じて、まったく動きがない。枕の上に淡い色の金髪が広がっている。青ざめた顔は完全に生気が失せ、空洞のようだ。肌にはつやのない奇妙ななめらかさがあり、眼窩は黒いくまに囲まれている。院長はベッドのわきに立ち、このすでに人間らしさをすっかり失い、早々と死に自らを明け渡しているように見える姿を見下ろした。院長の顔にはひとり悦に入った、いかにも満足げな表情が浮かんでいた。自分の仕事ぶりに満足しきっている男の顔つきだった。「この女性は今は八時間、動かずにいます。それから身体を洗ってもらい、食べさせてもらえる程度に意識をとりもどし、そのあとまた八時間の眠りにはいるんです」 12/6 うまい話に注意して下さい。言葉巧みに誘われても、立ち止まらないことです。行事に参加したり、人に会ったりなど、積極的な行動を心がけて下さい。夢の実現に向けて大きな一歩になります。外出先で好みの異性に遭遇し、久々に心がときめくかもしれません。臨時収入はすぐ全額を預金したほうが良いでしょう。3分の1は、絶対に手の付けられない定期性の高いものに、残り3分の2はすぐに動かせるものへ預けると良いでしょう。来年のカレンダーをまだ買っていない人は、買いに入ったお店で偶然目の合った人に、優しく微笑んでみて下さい。あなたの才能を伸ばしてくれそうな、理解のある先輩、上司や先生が現れそうです。これから頼りにしても大丈夫な人です。「この、君の双子の姉さんのことだけれどね」彼が言った。「これは君のゲームなんだろ?だって、本当は女の兄弟はひとりもいないし、ひとりもいなかったってことは君も承知してるんだからね」「もう少し説明してもらえないかな?君はどこに行ってるの?そこで何をしてるの?夢を見ているみたいなものかな?」「人は、ここに存在しているか、あるいは存在していないか、のどちらかでしょ?もしここに存在していないのならば、どこか別の場所に存在していなければいけないわよね、つまり、いなくならなくちゃいけなかったってことだわ…」「どうして自分はいなくなるんだと思う?自分のいるところが嫌いだから?」「ひとつにはそうね。でも、それは理由の一部にすぎないわ。もっと何かがあるはずよ。もっと強いものがね。自分の居場所が気にいらない人間はたくさんいるわよね。もし、それがいなくなることの理由として十分足りるんなら、もっとたくさんの人がそうしてるはずじゃない、そうでしょ?」まったくくだらないと彼に思われないだろうかとわたしは思った。もうこの話はやめにしてくれないかと思った。わたしはそのとき、自分の考えが全然はっきりしなかったのだ。一瞬のうちに、すべてのことがぼんやりとしたものの中に消えて行きはじめた。残っているのはわたしの声だけで、それが話すのが聞こえた。「人がいなくなるのは、その男の人ないし女の人が誰か他の人のために場所をあけなくてはいけないからだと思うんです。二人の人間がひとつの肉体を共有している場合もありえますよね。例えば、あたしの双子の姉妹が、あたしの体を共有しているかもしれない。そうしたら、あたしは彼女が来るときは必ずいなくならなくちゃいけない、そうでしょう?」こう言ったのは本当は彼女だった。わたしの口を通して話しはじめたのだ。最後の言葉が出たとたんに口がこわばる感じがし、まるでわたしは本当はどこか別の場所にいるかのように、顔全体があの無表情な夢遊病の顔になった。彼女が来てくれてわたしは嬉しかった。これで彼女は彼と話をし、わたしたちのことを説明し、すべてのことをはっきりさせることができる。いつだって彼女のほうがわたしよりも頭がいいのだ。もういなくなることができ、これ以上考えなくても良いので、わたしはほっとした気分だった。 12/7 予期しない収入が期待できます。飲食や衣類ではなく、クラシックのCDや画集など、内面を充実させるものに使ってみてはどうですか。食欲もあり、力がみなぎっているのを感じられます。食べたいものを思いっきり食べ、英気を養って下さい。狙っていた異性と関係を持てそうな日です。百の言葉よりも贈り物が効果的です。ただ、複数の人を狙っている場合は本命を逃さないように気を付けて下さい。趣味と実益を兼ねたような、あなた向きの仕事がまわってきそうです。自信をもって、積極的に引き受けるようにしましょう。一同に指示を出し、行動をコントロールしているのは、灰色の髪の女性―管理側の人間とおぼしいこの女性が、テーブルに四人のグループを座らせてカードを渡し、ひとりが気のない様子でカードを配りはじめる。カードをしている四人は、まわりで起こっているいっさいに関心を向けることなく、無気力にやるように、と命じられたゲームを続け、それぞれの手を時計の針のように機械的に動かしてカードのやりとりを繰り返している。 12/8 借金や保証人を頼まれそうです。優柔不断な態度は了解したととられかねません。忽然とした態度で断ることです。友達との外出は、これまで入ったことのないお店を中心に考えると良いでしょう。雑貨店や喫茶店など、新しいお気に入りができそうです。今日なら、忘年会の会費を集金する役目を引き受けても良いでしょう。でも、明日から3日間は禁物です。些細なことでトラブルに発展する恐れがあります。不得手だと思っていたことにも、積極的に取り組んでいきましょう。あなたを見る周囲の目が、変わってくるはずです。わたしはわかってはいた。本当はほかの患者たちと一緒に行動するべきだということを。患者たちの大半は戸外を歩きまわっている。カーキ色の厚手のコートの下から明るい色の病院着のズボンをはいた脚をのぞかせながら。本当は起きあがって、規則どおりにボタンを全部留めてベッドの横のフックにきちんと掛けられた自分のオーバーコートを着るべきなのだ。それが自分のやるべきことだとわかってはいた。だが、わかってはいても何にも繋がらなかった。わかっているということが、直接わたしを動かすことはないようだった。何か、ガラスのようなものがわたしとのあいだにあり、わたしをそこから遮断していた。わたしは静かに横たわり、窓の外を見ていた。 12/9 噂話を耳にしても、無関心を貫き通すことです。思わぬトラブルや怪我に注意しましょう。幸運な色のアイテムを身につけておくと、被害を最小限に止めることができます。外出先で不愉快な思いをしたら、帰宅前にお気に入りの喫茶店などで気分転換をしましょう。家庭には持ち込まないことが大切です。職場や学校で自分に関する良くない噂が立ち、仕事や勉強どころではなくなりそうです。できることから少しずつ始めましょう。夜の繁華街や寂しい場所に近づかないようにしましょう。怪しい人物に関心を持たれてしまいそうです。やむを得ない場合は、足早に通り過ぎて下さい。わたしが住んでいる場所のそばにある通り、そこはひどく見苦しい。スラム街ではなく、安いがまっとうな住宅街と呼ばれる地域だ。そこに住んでいる人々は本当に貧しい。図書館で働いている難民女性がこの通りに部屋を借りている。彼女はそこに避難してきたのだ。わたしだったら、むしろそこから避難するべきだと思うことだろう。見苦しいのは、そこの黄ばんだ灰色をした小さな家々だけではない。それほど急ではないが上り坂になっている道路、街灯柱、ずんぐりした空襲用シェルター、溝ですらもがすべて、悪意に満ちた卑しい雰囲気をかもしだしているように思えて恐ろしい。通りもまた、臭かった。それはわたしに描写できるかぎりでは、悪意をはらんだすっぱいような臭いだアスファルトの臭い、なかなか空にされることのないゴミ箱の臭い、そして悪意。その通りを歩く人々も悪意に満ちているように見える。通りすがりに憤慨したような目をこちらに向けてくるのだ、まるで傷つけてやりたいとでもいうような目を。こちらを自分の思いどおりにしたいと思っているような目で見つめてくるのだ。 12/10 しばらく保留にしておいた問題が再浮上してきそうです。結論を急がずに、まずは年長者に相談してみましょう。思ってもみないところから解決の糸口が見つかりそうです。恋人と同棲したくなっても来月まで待って下さい。家庭内の不平不満は外で漏らしてはいけません。あっという間に広まりそうです。年末の喧騒の中、何となく気持ちが落ち着かないまま買い物に走ったりしないで下さい。「なぜ、こんな物を」と必ず反省することになりかねません。今日は何をやっても悪い結果につながって、イライラがつのりそうです。周囲を巻き込まないように、注意が必要です。疲れが溜まりイライラして、周りの人に八つ当たりしてしまいそうです。友達を怒らせたり、陰口をたたかれたりしないよう気を付けて下さい。肩から首筋、後頭部にかけて重苦しい感じがあるかもしれません。そんなときは頭がぼんやりとして、仕事も勉強もまったくはかどらないでしょう。運気はまさに最悪です。セックスも楽しめないどころか、病気を移されたりするかもしれません。今日はおとなしく1人で過ごしましょう。 12/11 今日は一歩引いて行動するように心がけましょう。些細なことが原因で、親友と口論になってしまいそうです。あなたから先に謝れば、しこりを残さずに済むでしょう。今日の服装は軽装で動きやすいものにしましょう。靴もスニーカーが良さそうです。買い物に行く時は、あらかじめ上限額を決めて出かけましょう。カードを持っていかなければ、物欲の誘惑にも負けなくて済みそうです。デートの約束が急遽無しになりそうです。腹を立てて相手を責めると、言い争いになって電話を切られてしまいそうです。疲れが溜まっているようです。いつものように仕事や勉強がはかどらないのに無理をすると、体調を崩しかねません。今日知り合った人の中に、将来あなたの足を引っ張ることになりそうな人がいます。しわがれた声の人を警戒して下さい。 12/12 これまで苦手だった人の意外な一面を発見しそうです。それをきっかけに話がはずみ、一気に親密になるかもしれません。クリスマスパーティーの計画などで盛り上がりそうです。楽しい案が続出します。今夜の夕食は洋食がおすすめですが、油は控えめにしましょう。仕事、資格、検定などの勉強のために教室に通うなら、学費はその場で少しでも払い込むと良いでしょう。支払い面でも今日から開始すると好結果が期待できます。好みの相手に出会えても、周囲の雰囲気に流され、不本意な決断をしてしまわないようにして下さい。今日の出会いは、あなたにとって重要なものになりそうです。さて今、この通りでは何かひどく妙なことが起きている。小さな犬が飼い主の女性を追いかけ、角を曲がって駆けてくる。そう、本当に犬だ。なんとほっとすることか。さらにいいのは、それが半分ライオン、半分キヌザルという極めて貴族的で古風な品種の犬であることだ。わたしも、犬とともに暮らす幸せをもう一度知ることができるなら、ほかの品種ではなくその品種から伴侶を選ぶだろう。その赤リスのような色をした小さな犬は、その品種に特有の手放しの喜びようで走ってくる。羽毛状の尻尾をうしろになびかせ、しなやかに跳ねる動きのリズムを舗道に響かせるように。王の伝令のようなこの小さな生き物がはずむように疾駆するのを見るときの感情をどう説明すればいいだろう?走っているときのこういう犬たちは、わたしの目にはいつも、驚くほど恐れを知らず元気いっぱいに見えるし、同時に勇敢かつ楽しんでいる―ちょっとばかげてさえいる―ようにも見える。しかも非常に威勢よく陽気に、ほとんど英雄のように、この途方もなく危険な世界でまったくためらうことなく突進していく姿は小型のドン・キホーテのようだ。そのライオン犬はその血統特有の果敢さと熱情をもって突進し、アスファルト臭と悪意をはらんだすっぱい臭いを放つあの見苦しい通りに駆けこんでいく。それを見るうちに、こういう考えが浮かんでくる。人間はあの犬の基準で暮らそうとするべきではないのか。それこそを目標とするべきではないのか。 12/13 今月中に予定していたことはすべて済んでいますか。残っているなら優先して終わらせて下さい。頭を空っぽにして洗濯や掃除をしていると、しばらく悩んでいた問題の解決方法を思いつきます。ちょっとした生活の乱れから体調を崩してしまうかもしれません。付き合いが良すぎるのも考えものです。自分の時間を持ちましょう。暗がりの中をたったひとりで走っていくのは、何か夢でも見ているようだ。恐ろしい人間世界をあとにして、人間のいない世界へ、高い山の雪と氷へと向かっている夢を見ているのだ。あそこに行けさえしたら…十分遠くまで、十分速く車を走らせることさえできたら…。急がなくては。山まではかなりの距離だ。まだ姿も見えない。わたしはまだ建物に囲まれた地域の中だ。多すぎる車、多すぎる人間。みんなわたしを遅らせ、邪魔をする―撃ち殺してやりたいほどだ。衝動的な告白を友人にすると、意外と効果的かもしれません。 12/14 人から聞いた過激なダイエット法は健康を損なうおそれがあります。劇的な効果を求めるのでなく、着実な方法で取り組むことが大切です。食事の注文すら長々と迷っているようでは、友人からもあきられてしまいます。夜は外出を控え、早めに床に就きましょう。年末年始に海外旅行に出かける友人がいたら、免税の高級品を買ってもらうよう頼んでみてはどうですか。お買い得の品が入手できそうです。友人たちとスポーツ観戦に出かけると、良い出会いがありそうです。野外での応援は体の芯まで冷え切ってしまうので、寒さ対策は万全にして下さい。良くも悪くも、今日の行動は後々になって大きな結果となって現れます。ベッドの中ではいい加減な態度を取らないよう気を付けて下さい。わたしには友人が、恋人がいた。それは夢だった。 12/15 風邪をひいた人に囲まれそうです。いま体調を崩すと長引きます。予防を徹底して下さい。今夜の忘年会は深酒に注意しましょう。翌朝、二日酔いでつらい思いをすることになります。すばらしい考えなのに賛同が得られないのは、具体性に欠けているからです。修正して提示しましょう。風邪かと思ったら、何をさしおいてでも病院に行って下さい。変に我慢すると、年末年始に保険外治療を受け、予定外の出費になりそうです。日頃から健康管理を怠っていると、その影響が出てきそうです。体の弱い部分に集中して現れてきますので、気を付けて下さい。今日は食べ物に注意して下さい。セックスの最中に、トイレに行きたくなって、それがきっかけで相手がしらけてしまうかもしれません。 12/16 親しくなりたいと思っていた人から食事に誘われそうです。浮かれて調子に乗りすぎると、思わぬ失態を演じることになります。復職を望んでいた人に嬉しい知らせがありそうです。復帰に必要な準備を冷静に進めて下さい。靴を新しくするなら、ごく普通のデザインのものがおすすめです。イブの夜の“予行演習”をしておくと良いかもしれません。もちろん1人で足を運んで下さい。どれくらいの金額を使うのかもあらかじめ想定しておきましょう。放っておいたら大きなトラブルになりかねなかったことにあなたが気づいて、難を逃れることになりそうです。大金星です。初対面の人に実力以上に評価され、ほめそやされて良い気分になります。ぼろが出てしまう前に、今日はひとまず余韻を持たせて退散したほうが良いでしょう。気持ちがさわやかなら、とにかく外出しましょう。散歩でも買い物でも、何でも良いですから外の空気に触れて下さい。わたしはまた外にいる。自由だ。それに、もちろん、まだ有罪だ。これからもずっとそうだろう。もっとも、ひとりで外にいるのは妙なものだということ以外、わたしは何も感じない。何歩か歩くと、この妙な気持ちは、かき乱された心理状態と同じだと思えてくる。これは、わたしが知っている世界ではない。わたしはぐるりとあたりを見まわす―群衆、超高層ビル、車の洪水。何もかもが錯乱し、不吉で、狂っているようだ。 12/17 親との同居が条件で2人の話が暗礁に乗り上げているなら、もう一度、基本に戻って考えてみてはどうですか。今夜の飲み会、パーティーは要注意です。昔、手痛くフラれた人がメンバーにいます。気まずい思いを残すだけなので、1次会でさっさと切り上げましょう。物欲が果てしなく広がりそうです。欲しいと思うと、いてもたってもいられなくなるので、物欲を刺激しそうなものは見ないようにしましょう。今日は人間関係でトラブルになりそうです。誰と何があるか分かりませんので、1日気を抜かないで過ごすようにしましょう。友人との付き合いは、ほどほどにしないと悪戯に時間を浪費し精神的にも疲れるばかりです。彼らが道をあけなかったので、わたしは機械的にアクセルから足を離してブレーキを踏もうとした。だがそのとき、“どうして?”という考えが浮かんだ。彼らは現実のものではない。これは何ひとつ現実のことではないのだ。わたしは本当はここにはいないのだし、したがって彼らもここにいるわけがない。本物の生きている人間のように彼らを扱うなんてばかげた話だ。そこで、わたしはまたアクセルに足を戻した。彼らは、わたしが夢の中で見ている不快な仮面の群に過ぎないのだ。わたしは完全に客観的かつ冷静であり、ほんの少しの感情も、いかなる種類の心情も持ち合わせていなかった。朝起きたら水分をたっぷり摂りましょう。ミネラルウォーターをボトル1本くらい飲んで下さい。 12/18 何かと頼りにされる日です。でも、確実に実行できることだけにしましょう。年賀状の準備を急いで下さい。自分だけのものを作るのなら、パソコンで手作りするより専門の業者に頼みましょう。保留になっていたあなたの企画が脚光を浴びそうです。でも、指名されるまで待って下さい。付き合いや接待などでお酒を飲んだり外食をしたりする機会が多い人は、体をいたわってあげて下さい。何もなければ、今日は家で体を休めましょう。低層に広がる街。わたしが住んでいる川の近くでは、冬の間中、霧が絶えない。夜、ベッドに入る頃はとりわけ寒く、枕が頬を凍えさせる。長い間、わたしは寒く孤独で惨めな日々を過ごしてきた。この前、太陽を目にしたのはもう何カ月も前のことだ。ある朝、突然、わたしはこの何もかもに耐えられなくなる。この寒さ、この孤独、この永遠の霧をこれ以上我慢することはできない―これ以上、一時間たりと。わたしは心に決める。パトロンのところに行って助けを求めよう。自棄的な思いに駆られての決意ではあったが、しかし、いったんそう決めてしまうと、心は明るい見通しでいっぱいになる。きっと私は、偽りの希望で意図的に自分をだまそうとしているのだ―そう思いながら、一張羅のドレスを着込み、入念にメークアップをする。今後あなたの人脈を広げるのに一役買ってくれそうな人が現れます。失礼のないよう、くれぐれも発言には気を付けて下さい。 12/19 財産を生かすことを考えましょう。活用していない土地があれば、マンションやアパートの可能性を探って下さい。大掃除は不用品の処分から始めると、調子よく進みます。ただし、封筒や紙袋は厳重に中身を確認してから捨てるよう、気をつけましょう。商店街やデパートなどの歳末くじで良い結果が出るかもしれません。補助券をないがしろにせず、こまめに抽選会に参加しましょう。天気が良かったら、散歩やサイクリングに出かけてみてはどうですか。適度な運動になると同時に、気分転換にもなります。「あら、そんなもので何をしてるの?」わたしは頭のなかで言葉を組み立てようとけんめいに努力した。この草は手でなでてやると柔らかな毛皮の猫になって、身をくねらせるのだと説明したかった。体育の女性教師は、わたしが言おうとしていることに耳を傾けはしなかった。患者たちの言うことに耳を傾けるのは、このクリニックの流儀ではなかった。そんな時間はないのだ。そのかわりに、彼女は手を差しだした。左手で自転車を支えながら、右手を差しだし、わたしの手から草を取って、小径の上に投げ捨てた。いくつかの種がわたしのジャケットにくっついていたが、彼女はきびきびした手つきでそれを払い落した。「そんなものはいらないでしょ」彼女は言った。「草なんて誰も摘まないわ。でもお花なら摘んでいいのよ。あなたがそうしたいならね」身をかがめてフランスギクを何本か摘み、わたしに差しだした。「ほら、きれいじゃない?」彼女は完全に善意でそうしていた。わたしは、しぶしぶ花を受け取った。わたしは手にしたフランスギクを嫌悪の目で見やった。彼らの黄色い目には、下卑たわけ知り顔の表情が浮かんでいた。体育の女性教師が見ていないときに、わたしは花を下に落とし、茶色の靴で踏みにじった。 12/20 今までお世話になった人たちへの挨拶はきちんとしておきましょう。体調も良く、何事にも全体的には満足できるのですが、やや気になることや意外なことも起こりそうです。1日の終わりに、温かい飲み物を飲みながら1人で考える時間を持つと良いでしょう。年末年始に読みたい本を買うなら今日が一番です。小説よりも、ビジネス書、ノンフィクションに的を絞って選んで下さい。今日なら2人の考えが周りの人に理解してもらえそうです。ひょんなことから、あなたの相手に対する愛情が試されるようなことが起こりそうです。自分でも意外な結果が表れるかもしれません。彼は、わたしに手を差しのべ、受け入れてくれるであろう親切な人たちの存在を思い出させようとしていた。彼がこういっていたのを、わたしは覚えている。「心配しないで―ぼくの家族はみんな、君のことが気に入るよ」わたしはしばしば彼らのところに滞在する夢を見るほど愛に飢えており、いつか本当に出かけていくことを考えさえする―いつかそのうち。だが日々がゆっくりと過ぎていくにつれ、そんなことはますます夢のように思えてきて、そういう人たちはどんどん現実味を失っていく。日に日に彼らの存在を信じる気持ちが少しずつ薄れていくのは、もう彼がわたしと話をしにやってきて、彼らは実在すると納得させられないからだ。相手のいない人は、友達を誘って街に繰り出してください。クリスマスを一緒に過ごせるような仲間ができるかもしれません。 12/21 深い意味もなくとっさに発した言葉が、大きな波紋を呼びそうです。今日は聞き役に徹した方がいいでしょう。預貯金の通帳は、必ず決まった場所へしまい、今日は出さないようにしましょう。投資なども控えて下さい。ストレス発散のために、賭け事をしようなどと考えてはいけません。今日はおとなしく帰りましょう。精神的に疲労が溜まっています。ストレスが溜まっているようです。仕事や勉強に集中できない分、ミスも連発しそうなので、細心の注意が必要な1日です。年賀状の準備は終わりましたか?来年の出会い運を上昇させるには知人、友人の紹介や助けが重要なカギになります。必ず出して下さい。 12/22 何をしても落ち着かず、集中力にも欠けそうです。こんな時はお金の取り扱いはしないで下さい。相手のために忠告したつもりでも、自分勝手な意見を述べたと受け取られそうです。しばらくは人の世話を焼くよりも、自分のやるべきことに集中しましょう。八方美人的な態度に、相手が不信感を抱きそうです。誤解なら早く解かないと、こじれてしまいそうです。朝、布団から抜け出すのがつらく感じるでしょう。できれば1日中寝転んでいたいでしょうが、気合を入れて、仕事や勉強に取り組んで下さい。運気は谷間に入っています。楽しそうな誘いにも乗るべきではありません。イブの夜のために今日は休養しておきましょう。忙しいからといって、旧友からのメールや留守番電話への伝言を放っておくのはいけません。誠実さを疑われても仕方ないでしょう。 12/23 忙しい日が続き、生活のリズムが乱れがちです。寝具の何か1つでも幸運な色に変えると気分が一新します。明朝、早起きするとリズムが修正しやすくなります。気まずい雰囲気のままになっている友人には、クリスマスカードを贈ると仲直りできそうです。午前の運気はいまひとつです。出かける場合は、夕方や夜からの方が良いでしょう。デパートやショッピングセンターに幸運がありそうです。気持ちが沈みがちですが、仲間だけの忘年会で豪華に遊ぶと幸運を呼び込めます。ただ、解散後のセックスは控えたほうが無難です。 12/24 突然、デートに誘われるかもしれません。気合の入りすぎも格好悪いものですが、かといって気を抜いた格好で出かけないようにしましょう。家族でクリスマスイブを過ごす人はケーキを豪華にしましょう。部屋の明かりを暗くすると、雰囲気も盛り上がります。火の始末には充分注意をして下さい。2件目のお店に行くなら、あなたがクレジットカードで支払って下さい。その気持ちの余裕が、長い夜の盛り上げに大きく貢献します。素敵なクリスマスイブの夜を過ごせそうです。はたから見ても、2人はお似合いで、幸せそうに見えることでしょう。今日特に予定がなくても、いつどこで誰に会ってもいいように、クリスマスプレゼントの代わりになるものを持ち歩くと良いでしょう。クリスマスイブを共に過ごした相手とは、いずれ将来を共にする可能性があります。「当たり」やすくなっているので、望まないなら避妊に気を遣って下さい。冬の夜、一刻一刻が何とゆっくり過ぎていくのだろう。それなのに、時間そのものの歩みはそんなに遅いわけではないらしく、教会の時計が早くも、再度、時を告げている。寒さに半ば麻痺しているような、ぼんやりとした田舎の時の声。わたしはベッドに横になり、獄中生活の経験をたっぷりと積んだ古参の囚人のように、いつもながらの不眠のパターンに身を委ねる。何から何まで知りつくした流れ、定まった手順。看守はわたしとともにこの部屋にいる。だが、この今は、反抗的だとか問題を起こすとか言って私を咎めることはできない。わたしは看守の注意を引かないよう、できるだけ静かに―ベッドがまるで棺であるかのように―横になっている。このまま一時間動かずにいたら、たぶん看守も私を眠らせてくれるのではないか。 12/25 仕事や勉強で夜更かしが続いていた人は、今日は休養に充てて下さい。芳香剤や入浴剤を使って入浴時間を充実させると、気分爽快です。自分へのご褒美がまだであれば、クリスマスが過ぎてからゆっくり買うのも良いでしょう。すこし高価なものを奮発しても問題ありません。両親や兄弟へのプレゼントを買う予定なら今日買いましょう。良い品物がお買い得価格で入手できそうです。しかも感謝されます。辛抱強く続けることが大切な日です。弱音を吐かずにやっていれば、周囲からも正当な評価を受けることができそうです。不特定多数の人が集まるパーティーなどで、あなたに関心を寄せてくれる人が現れそうです。明るく自己紹介しましょう。予定がないからといって無為に過ごしていると体がだらけてしまいます。散歩でも買い物でも構いませんから、外へ出かけましょう。「自分がどんなに変わっているか、良く知ってるだろ。だからここに閉じこもっているんだ」 12/26 他人のすることに余計な口出しはしないことです。連日、忘年会が続いている人も、今夜の食事は自宅でとりましょう。家族と食卓を囲むだけで、普段気にしていなかったストレスから解放されるのを実感できるはずです。団体行動では後れを取りそうです。早めの行動を心がけて下さい。今日は正確さを第一に心がけましょう。いくら速くてもミスがあっては、台無しです。じっくり時間をかけましょう。忘年会などでは、率先して注文をまとめたりお酌をするようにして下さい。気配りをしながら動くあなたの姿にひかれる人が現れます。 12/27 年内に片づけておきたいことが山積みされているのに、思うようにはかどりません。今日は無理をしないで、少しで良いので確実にこなすことを目指しましょう。選択を入念にすると、運気が上昇します。親戚との付き合いでは、余計なことはしゃべらないで下さい。なんでもないことで、怒りたくなるような日です。運気のせいですが、事情の分からない人に迷惑をかけないようにしましょう。ウェイターが二つのグラスをテーブルに置いた時、わたしは彼の醜さに強い衝撃を受けた。外見で人をとやかく言ったりするものではないということは充分承知しているが、このウェイターの容貌にはどうにも嫌悪感を抱かずにはいられない何かがあった。彼を見ているうちに“穴居人”という言葉が浮かんだ。洞窟に住んでいた人たちが実際にこんな姿だったのかどうかは知らない。それでも、わたしには、穴居人たちは、このどんよりした雰囲気の背が低くてずんぐりした人物にそっくりだったに違いないと思えてならなかった。どこから見ても身体的に異常なところはない。それなのに、その姿は―実際には、単にプロポーションが悪く、やや猫背気味というだけのことなのだろうが―不思議なほどに“出来損ない”という印象を与え、さらに、歳をとっているわけでもないのに、その顔にはとんでもない“古さ”を―原始時代の生き残りとでも言っていいような、ある種の卑猥さすら感じさせる異様なおもむきがあった。特に印象に残ったのが、何とも言えない格好に歪められた分厚い灰色の唇で、それを“ほほ笑み”のような文明化された表情と見なすのはとうてい無理というものだった。年末年始の休みに入っている人は、早めに大掃除に取り掛かり、丹念にホコリを取り払って下さい。来年の出会いの運気が上昇します。 12/28 マンションの管理組合や自治会の役員、学校の係などを頼まれたら、すぐに引き受けて下さい。奉仕的な活動をすることで、全体の運気は上昇するからです。食材の買い物で目が利きそうです。新鮮なものを選んで下さい。幸運な色の小物を身につけると、印象が良くなります。寄り道に運がある日。今日はお決まりのルートではなく、いつもと違う道を通ってみて下さい。意外な掘り出し物に出会えるかもしれません。我を張るのではなく協調性を大切にすれば、大きな問題は起こらないでしょう。普段通りにふるまっていれば、間違いありません。わたしは、これからは誰にも何も言うまい、単刀直入の質問にできるだけ短く答えるようにしよう、と決心した。これはかなり面白いことだったし、他の誰よりも偉いんだという気分になった。一度慣れてしまえば、話をしないでいるのがこんなにもたやすいことかとわたしはびっくりした。わたしと同じ学年の女の子たちは好奇心いっぱいだったが、わたしが何をたくらんでいるのか見当もつかなかった。何か秘密のいたずらをされていると思ったことだろう。わたしがずっと話さないままでいられるとは、彼女たちはひとりも信じていなかった。最初のうちは、わたしに口をきかせ、仲間に入れようとした。わたしのことを心配したからではない。わたしの沈黙に腹が立ってきたので、それを何とか破りたかっただけなのだ。だが何日かがすぎ、自分たちの努力が何の効果も上げないと悟ると、彼女たちはあきらめて私を放っておいた。この頃までには、わたしはすっかり沈黙と孤独に慣れてしまっていた。もちろん、授業中は質問に答えたり、話したりしなければならないので完全な沈黙というわけではなかったし、学校でひとりぼっちでいるというのは不可能なことだ。しかし、わたしはできるだけみんなから離れ、まるでまわりの人間が存在していないかのようにふるまった。このことがどんなにみんなを怒らせたか、彼女たちの態度から分かった。同じ寮の女の子たちは、わたしを仲間はずれにすることで仕返しができると考えたらしいが、これこそわたしが望んでいたこと、わたしにぴったりのことだった。やがて、だいたい学校中がわたしを無視するようになった。わたしはもう、しゃべらせようとする人間にわずらわされなかった。 12/29 家族との会話にとげを感じたり、簡単な作業が思うように進まなかったりするのは“中殺界”の魔力の影響です。反論などせず、さらっと受け流すことです。気分のむらが激しいため、同僚や家族まで巻き込んでしまいそうです。大ひんしゅくを買うことになるので気を付けて下さい。今日は人間関係に難があります。特に大切な約束がなければ、1人で自分の時間を有効に使った方が良さそうです。人の輪の中に入れずに苦労しそうです。できれば1人でできる作業を見つけて下さい。 12/30 勘が冴えていますが、それに頼りすぎるととんでもない失敗をしそうです。賭け事では大きなツキは期待できません。午後、時間をかけてお茶を淹れ、来客用のカップで飲むとやる気が復活します。読みかけの本を読破するなら、今夜がチャンスです。年末年始に旅行に行くのなら、お土産は広く浅くという気持ちで買って下さい。小さなものでも、もらえばうれしいのが人間です。年内に片づけなければいけないことで、やり残していることはないですか。もしあれば、今日中にやってしまいましょう。少しくらい無理をしても疲れることはありません。溜まっている用事などがあったら、今日のうちに片づけてしまいましょう。自分の部屋の大掃除は今日中に済ませて下さい。相手との間で引きずっていることがあれば今日のうちにすべて解決して下さい。 12/31 福引券の残りを見つけたら、くじを引いておきましょう。海外旅行や温泉旅行など大当たりの可能性もあります。今日は日用品以外の買い物はしないで下さい。お正月用のお箸は、必要な数よりも多めに用意しておいて下さい。急な来客にも慌てずに済みそうです。それが起きたのは夜の九時から十時の間、彼のいつもの時間だった。ロビーの内側のドアが、まるで彼が鍵を使って入ってきたかのように突然開いたので、わたしは振り返った。理性ある頭脳が幻を打ち消す前に、すでに歓迎の言葉が口をついて出、筋肉は、いきなり若々しく飛び上がって彼を出迎えようと緊張し、両手は、すぐに彼を部屋に招き入れようと差し出されていた。「来てくれて、本当に嬉しいわ…」振り向く最中にすでに、彼の顔がしわくちゃになり、いつでも耐え難いほど痛ましいものに見えた、あの悩んだ表情を浮かべていることは分かった。だが、悲痛なほどの謙遜をこめて彼がこう言ったとき、わたしにはそれが本物なのかそれとも見せかけなのか判断がつきかねた―本当だろうが嘘だろうが、それがどうだというのだ?…「このところ会いに来なかったからって、腹を立てちゃいけないよ。来たかったんだが―できなかったんだよ…」「もちろん怒ってなんかいなくてよ」わたしはこう答えるだろう。「あなたが今ここにいるってことだけで十分」そして、すべてが完全となり、理解される。何の説明も要らない。非難のほんの小さなかけらも、過去の悲しみも、彼の悩んだ顔とともに消え去り、彼は、これからの幸福を確信し、いつも挨拶するときに見せるあの暖かい、おかしそうなほほ笑みを見せるだろう。しかし、もちろん、今は彼はいない。ドアは開いたけれども、誰も入って来なかった。わたしはドアを閉めようと立ち上がった。めくるめく空想のために真っ黒な意識の途切れがあったのだが、そのときにわたしは、今は自分ひとりではないということを思い出し、客の目が物問いたげに自分を見つめているのに気がついたので、彼に背を向けた。決して見えることのないものを見ようと見開いていたために、目が痛かった。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
confession 〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
澤田 育久 (写真家)
あなたはなぜ写真を撮るのでしょうか。
撮私が写真というメディアを選択したのは私自身の世界に対する記憶力の欠如と理解力の根本的な齟齬からきているように思います。
それはどういうことなのでしょうか。
例えば私は映画が好きなのですが、観ている間は没頭し映像や音楽ストーリーなどしっかり追い、十分に理解して堪能するように務め、またそのような気分でいつも観終わるのです。しかし、どんなに深く感動したつもりでもその殆どは数日のうちに忘れてしまいストーリーに至っては憶えていることは疎か理解すら出来ていなかったりなどということもままあります。勿論製作者の意図の100%を理解しようなどとは思いませんが、それにしてもあまりにかけ離れていたり、全く理解できなかったりしているとなんだか自分が世界から切り離されたような、またはひどく馬鹿者であるようななんとも言えない不安な気持ちにすらなるのです。それは映画に限らず認知できるもの全般、言うなれば目の前にあるものや風景など全てにおいて私は見てはいるのですが覚えておくことは勿論理解することも出来ない明き盲のような存在なのです。
写真を撮ることによってそれは解消されたのでしょうか。
写真は大変役に立ちました。写真は機械が介在されるのでとても平等で客観的です。私が見てカメラが記録してくれていれば記憶力の欠如は補えます。また、私が見たものを印象のままに写真化すると私のそのものに対する理解と実際のそれとの違いが明瞭に見えるのです。その時私ははっきりと”私は物事をおおまかな印象でしか捉えていない”と自覚したのです。この事はある意味で大変私を勇気づけるものでもありました。何故なら写真になれば具体的な差異が明示され、印象と実際の有り様の乖離の度合いがよくわかるからです。勿論根本的な理解力は依然変わりませんが、私は世間一般で通用している理解の範囲とのすき間の存在が理解できさえすればそれに正対することも出来るのです。
あなたは写真によって何がしたいのでしょうか
私は写真によって具体的な何かを伝えたいわけでも物語を語りたいのでもないのです。私の理解力に齟齬があっても私はカメラを使って撮影をしている以上私の理解の有り様をイメージ化することは出来るのです。そのイメージを大量に積み重ねることによって別の理解が明快な形で現れてくるのではないかということを目論んでいるのです。そしてそれが物事の本質の理解の足掛かりになる事を期待しているのです。

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