The White Report 月刊 ウェブ・マガジン
The White Report 2016年 3月号  毎月20日更新

–目次–
超訳球根栽培法   ・・・・・・・・・ 金村 修
百葉箱 Screen #23   ・・・・・・・・・ 小松 浩子
アナコンダ 第2回   ・・・・・・・・・ 大山 純平
confession
〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
  ・・・・・・・・・ 澤田 育久
超訳球根栽培法
金村 修 (写真家)
情報網の発達と更新と歩調を合わせるように写真は時代の先端に現れた。勃興期の新聞や雑誌というジャーナリズムの分野に写真が重用されたのは、印刷の利便さや速さであり、それは印刷の工業化というテクノロジーの発達と共に進歩してきた。カメラやフィルムの発達は印刷機の発明による情報の加速化と正確さによって要求されたものであり、対象をリアルに再現できるカメラの機能性が、写真をジャーナリズムの先端に登場させた。精密でスピードのある再現性という性格が写真のアイデンティティーであり、それは機械の機能が決定した。写真の根本は機械の機能と同一に語られる。写真のアイデンティティーは、写真についての写真という写真の自意識が決定したのではなく、写真の外部からの要請によって確定され認定される。ジャーナリストにとって絵よりもリアルで仕上がりも早い新しい挿絵と見なされていた写真は、そのような便利な挿絵としての再現的役割を全うする。写真は“何か”の再現であり、その“何か”がなければ写真はどこにも存在しないことを最初から理解していた。
写真は媒体であり、それ自体に何か価値があるわけではない。利用され流通することで初めて写真は、この世界に価値があるものとして表れることができる。写真の主体性はだから媒体として利用されることで形成されるものであり、つねにそれは写した対象によって左右される。写真が写真としての主体性を構築しようとするなら、何かを再現することでその何かの影のように表れる媒体としての役割を否定しなければならないのだ。媒体としての自己を否定することは、何も写っていない写真として表われるしかないだろう。写すことが写真の存在証明なら、その証明を破棄することになる再現性の拒否は、自己の存在をかえって危うくさせるのではないだろうか。主体性の確立を目指すことで写真は、自己の存在を打ち消してしまう。写真は二重の意識に拘束されている。手段でありながら主体でもあり、媒体でありながら自分自身を表現することでもある。そのような分裂した意識を内部に抱え込む。報道写真としての写真が新しい流通形態に乗って展開されていくその隣で、サロン・ピクチャーとしての芸術を志向する写真が誕生する。
自意識の確立が外部の要請と意識の確立によって形成されるものであり、最初から先天的に自己が与えられていたわけではないように、写真の芸術性はジャーナリズムという外部からの要請と十九世紀の芸術意識によって形成された超越的意識の二つの存在の影響で、その芸術としての写真意識に目覚めたのだ。ジャーナリズムという物見高い下世話な外部の要請と芸術という高尚な意識の二つの相反する二つの存在によって形成された写真の芸術意識は、最初から大きな矛盾を抱えていた。 写真が芸術化するには自意識の存在が必備であって、ジャーナリズムと芸術の下世話かつ高尚な芸術観に育まれた写真の自意識は、自らが芸術であることを主張すればジャーナリズムな役目を要請され、ジャーナリズムであることを主張すれば今度は写真の自意識がそれを邪魔する。二重の分裂した性格を抱え込む写真には、ジャーナリズムであるのか芸術であるのかと旗色を鮮明にすることはほとんど不可能に近いだろう。下世話でありながらも高尚であり、ジャーナリズムでありながらも芸術であるという矛盾した二つの性格を持った写真は、“AはAである”という同一律から大きくずれ、主体を支える根拠であるべきその同一性は、つねに複数の自己に脅かされるようになる。
“Aは非Aでもある”。その可能性は写真のアイデンティティーを揺るがすだろう。写真はジャーナリズムでもありながら芸術でもあるというその複数性は、AがAでありBでもあるという複数の可能性をつねに孕んでいるので、アイデンティティーを決定することができない。写真はつねに複数のベクトルを持つものであり、複数の要素によって自己が形成されている。異質なものを先天的にいくつも抱えているメディアに自意識を形成することが可能なのだろうか。
後の「写真についての写真」という写真の自意識は、その自意識を確立することに失敗する。写真はAでありながらBでもあるという同一律が機能しないメディアなのだから、私は私であるという自意識の形成は、私は色んな私でもあるというその複数の私の存在によってつねに挫折を強いられるだろう。絵画が自らの自意識を追求したとき、そこに平面のイメージとしての絵画だけでなく、その平面を支えているキャンバスというイメージとは相反する物質を発見したように、写真の自意識は複数のベクトルに挟まれて、自らのアイデンティティーを構築することに失敗し続ける。
「写真についての写真」という意識は、写真の非A的要素を排除することだ。それは写真からノイズ的な要素を除去することであり、除去することで写真とは何かという問いかけを成り立たせようとする写真の自意識は、けれど対象がなければ写らないというカメラのメカニックな限界によって、その成立を挫折させられる。被写体がなければ成り立たない写真にとって被写体は自らが存在するための必須条件であり、自意識がそうであるように、写真は写真以外の外部の要素を断ち切ってしまうと存在することができなくなる。印刷媒体によって成立したジャンルとしての写真の存在を、たんに手段化された写真という風に排除するのではなく、写真はジャーナリストによって利用されていたメディアであったし、アジェの言うデッサンのための資料だったという写真以外の外部の要請によって成り立ったメディアだということを排除や否定するのではなく、一度肯定されなければならないのではないだろうか。
写真は生まれながらにして不純な存在であり、何かの影としてしか己の姿を現せないその日陰者的な存在はまるで父権的家長制度における、いてもいなくてもどうでもいい、つねに排除か無視され続ける次男の存在のようだ。その便利さだけが重宝され、何かに利用されることでしか存在することができない。画面の美しさも絵画の絵の具の美しさに比べれば、工業製品の制約の中で決定された単純なものであり、絵画のタッチの微妙さや絵の具の無限の混じり合いという絵画の個性に比べれば、フィルムや印画紙にカメラという所詮工業製品によって決定された写真の美学は、個性というよりもそれは工業製品としての個性でしかないだろう。五十年代から六十年代のアメリカのモノクロ写真の個性が、コダック社のトライX400のフィルムの粒状感によって決定されたように、大量生産システムによって産出される工業製品を使用する写真は非個性なメディアなのだ。
工業製品が近代社会の要請によって作られたものなら、産業よって作られた製品を前提にしている写真は、それは最初から表現を目的としたものではなく、社会のあるシステムのために必要となり作られたものだ。表現否定のための製品を表現のために用いるという矛盾が写真にはつねにつきまとう。写真は最初から手段であり、何かに利用される以外に存在価値がない。印刷媒体という伝達を目的とする新聞や雑誌を主戦場に活躍していた写真にとって、それは利用される存在でしかなかったわけで、利用されることで写真は自己のジャンルを確立したのだ。写真には利用価値があり、その価値がマーケットで交換価値に転化されることで流通し、初めて自己の価値を表出することができる。
音楽や芸術が祭政や共同体の儀式に使われていたように、あらゆるジャンルはそのジャンルの外側の要請によって成立する。絵画や音楽が一度だってそれ自身だけで自らを成立させることがなかったように、それは外部の要請を必要とするだろう。記録写真が自己のアイデンティティーを写真の内部にではなく外部に求めたように、記録写真の作者的主体性は、なくなってしまう現実を写真で記録しておきたいという写真の領域とは違う要請によって形成されたものだ。それは表現という主体的意識から来たのではなく、消えていく現実を記録するという写真の自意識とは違う世界からやって来た。それはジャーナリズムな要請であり、芸術の美意識とは懸け離れた要請でありながら、けれど写真はそのようなある意味野次馬的で俗っぽいノスタルジアを必要とするだろう。
「写真についての写真」という写真の自意識の側から見れば、現実の記録としての写真の役割は、写真の自立を妨げる要素でしかなく、それは写真とは関係のない要素として最初から排除される。けれど写真はそのような外部の要素を無視したことで一体何が成り立ったのだろう。モンドリアンの晩年がニューヨーク五番街の車で混み合った交通網の具体的な現実を自己の絵画に導入しようとしたように、写真もまた写真の内部だけで自立するのではなく、外部の要素、外部の現実に照らし合わせる外側からの要請が必要であり、記録写真が素晴らしいのはカメラや写真を機能、そして作者自身の存在も手段としてしか見ていないからだ。写真を機能として、手段として見るというのは写真を主体に従属するものとして思われるかもしれないが、記録写真にはそのように従属すべき作家的主体がない。自らもシャッターを押す人というように主体を最初から手段のように扱っているのであり、主体があるとしたらそれはむしろそれは写真の外部、被写体の方にある。
「写真についての写真」は、作者の死を公然と宣言していた。作者が死ぬことで写真は作者の領域から解放され新しくテキストとして自由に読めると。けれどそこには作者の死が、写真に死という新しい意味を付与するだろう。作者から自由になった写真が、作者の死という新しい意味に今度は従属するようになる。作者の死を望んだ写真についての写真は、結局作者の存在を延命させるだろう。作者の死を謳いながら彼らは、作者の内部に自閉し生き延びる。記録写真が記録の中に主体を溶解させてしまったのに対して、作者の死を望む者はまるで巨大な慰霊碑を要求するかのように自我の拡大と増殖を要求する。作者の死は、作者を消滅させ写真を作者から解放することではなく、作者という慰霊碑の元に写真を従属させる結果にしかならないのだ。自意識で膨れ上がった写真についての写真は、記録写真のように記録の中で匿名のまま死ぬことができず、作者の死を訴えながらつねにわたしという作者の署名を要求するだろう。
貨幣が二つ以上の商品が交換されることで初めてその姿を表すように、貨幣は交換という関係の中でその姿を開示するのであり、単独で自身の姿を開示することができない。貨幣も写真も自身だけではなく、外部の何かと関係することで姿を表すことができる。商品ともう一つの商品、現実とそのイメージ、言葉とイメージという二つの関係の中でその存在を表すことができるのであり、自己の領域の外部の存在によって貨幣や写真の存在が形成される。貨幣や写真には、それ自身の中に自己の同一性を発見することができないのだ。
貨幣は使用されることで初めてその価値を表すように、二者の領域をまたがることで価値が形成される。使用されるものとしての貨幣は、使用する主体の存在に所属していて、貨幣は主体に使用されるもの、主体に従属している存在でありながら、最終的にはその使用していた主体を凌駕することを貨幣は証明した。写真も記録や芸術に使用されながらもその従属的な立場をある日突然凌駕する。赤瀬川原平達の一連のパフォーマンスを記録した写真は、たんに記録という立場を超えて彼らのパフォーマンスの質自体を決定しているだろうし、モノ派のインスタレーションも写真に記録されたことでそれは記録以上の価値を生み出しているのではないだろうか。実際にその現場を見ていたらきっとつまらないと思われる六十年代のハプニングやインスタレーションが、写真に写されると面白く見えてしまうその事実は、写真がその記録的役割から大きく逸脱し始めたことを証明するだろう。ゼロ次元の街頭パフォーマンスの記録写真は、絶対に現場を見るよりも写真の方が面白いという根拠のない確信すら与えるような力を感じさせる。写真は対象に対して記録以上の意味を付与するだろう。けれどその事実は写真が実体的に存在しているというのではなく、貨幣がそうであるようにこの現場を再現するために写真が利用されたことで生まれた価値であり、写真自らが積極的に生み出した価値ではない。面白くもないパフォーマンス写真を面白く見せてしまう記録写真は、果たして本当に現実を正しく再現し記録しているのだろうか。記録写真は記録することで対象に何か特別な意味を付与してしまうのだろうか。
再現としての写真が再現の不可能性を証明する。記録写真は何かの記録ではなく、そこに意味の剰余を発生させるのだ。媒体としての写真は貨幣と同じように利用、使用されることで何かの価値を発生させる。何かの再現、代理でしかなかった貨幣が、それ以上の魅力を人々に感じさせてしまうように、媒体は再現、代理したものをそれ以上の何かに見せるだろう。透明な存在であるべき媒体はそこではもう媒体ではなく、ある種の霊媒師やシャーマンであり、それは憑依のようなものではないだろうか。記録写真とは現実を正しく記録するのではなく、記録すべき対象に憑依することなのかもしれない。貨幣が現実の対象を抽象化するように、写真もまた対象を平面に転化する。それは現実の代理でありながらも、形態そのものを変化させてしまうわけで、だからそこには再現、代理という等価交換の関係は成り立たない。対象を何らかの形に変形させる媒体としての貨幣や写真は、対象に何かを与えまたは何かを失う。
写真や貨幣は異質なもの同士を交換させることができるし、異質なものを異質な空間に自由に持ち運びができる。アフリカ象の写真が銀座のホワイトキューヴのギャラリーの中に表れることは、写真にとっては簡単なことなのだ。あらゆるものを移動できる貨幣や写真は、その実体が何もない故に何でも呼び出し交換することができるし、異質なもの同士をつなげ、勝手に結合させることもできる。モンタージュ技法が異質なもの同士を組み合わせるための技法のように、写真はその空っぽさ故に異質な何かを表出し、組み合わせ続ける。アフリカ象を銀座に持ち込み、その横にビルの写真を飾り、タイトルを宇宙と言うことも可能なのだ。空っぽだからすべてが許される。写真は自己にとって異質なものである外部を引き受け、表出することでアイデンティティーを成立させるメディアなのだから、異質なもの同士に囲まれることで写真の自我が形成されるだろう。
毛沢東の矛盾論が内部につねに異質なものを持ち込むことを要求するように、写真が形成されるには、写真の外部に位置しているもっとも異質な領域である言葉を持ち込まなければならない。写真は言葉や意味から自由になれないだろうし、言葉や意味と関係を持たない芸術が存在するのだろうか。言葉は補弼的な役割をすることもあれば、意味を百八十度まるで変えてしまう敵対者として表れることもできる。写真は言葉と親和的な関係を持つのではなく、敵対するものとして言葉を導入するだろうし、写真を破壊するものとしての言葉を必要とするだろう。写真は外部の存在に変調されることでしか自己のアイデンティティーを形成することができない。“精神を文明にしようと思うならば、まず身体、気力を野蛮にすることから始めるべきで、身体、気力が野蛮になれば、精神の文明もおのずからこれに従って来るであろう”と毛沢東が言ったように、キャプションやタイトル、ステートメントを付けることで言葉は、写真に対して補弼的にも敵対するものとしても表れることができる。写した対象の意味を変えてしまう野蛮な言葉の存在が必要とされる。

2年間 連載してきた「超訳球根栽培法」は、今回をもって The White Report での連載終を了します。
百葉箱 Screen #23
小松 浩子 (写真家)
観察とは対象の実態を知るために注意深く見ることを指す。自然科学の分野では何らかの目的の為に対象を詳細に見たことから何かを導き出す行動であり分析や解析などの基礎となり、基本的には対象に対する操作を行わない点で実験とは異なる。分解・解剖・固定・染色等の操作を行う場合もあるが内部・細部等を見ることを目的とし、操作によるその目的部分の変化を求めない点で実験ではないと言える。内向する子どもが休み時間や放課後を持て余すのを見かねた担任教師から「観察」の手ほどきを受ける。学生時代から蜂の研究を継続しているという担任教師は校庭の花壇に集まる昆虫について「観察」を促し、それを機に内向する子どもは図書館に行き『昆虫図鑑』と『ファーブル昆虫記』を借りて帰宅する。『ファーブル昆虫記』によれば蜂は蛾の幼虫の神経に針を刺すことで麻酔を施し穴に収め産卵、孵化した蜂の幼虫は蛹化するまで生きたままの新鮮な餌を得ることが出来るという。ものの仕組みを「観察」から読み取れる可能性があることを知る。他者の行動・発言の仕組みを読み取ることが可能であれば、内向する子どもの生活面の困難も軽減される希望がある。主体と客体とは世界の様態を捉える為に広く用いられる基本的な枠組みのひとつであり、世界を構成する二種類の存在、1.見るもの・知るもの(主体:感覚を受け取るものであり、意識である)、2.見られるもの・知られるもの(客体:感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である)を認める。主体と客体については哲学的な立場において諸説あるが、科学的な研究では通常は物質的な存在・事象の観察と理論化を通じて行われる。直接観察できない事象については言及・仮構を控える行動主義のような立場もあり、こうした認識論的な態度を一般に客観主義と呼び、特徴として物事についての客観的な事実を確定することを研究の目標とし、またそれが可能であると考える立場である。客観とは主観と対義語であり1.観察・認識などの精神活動の対象となるもの。2.主観から独立して存在する外界の事物。3.当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。を指す。他者に対し客観主義の立場をとることは常に外部であり続けることには思いが及ばない内向する子どもは結果として一人きりで『昆虫図鑑』を抱え校庭の花壇で過ごすことになる。昆虫は完全変態するものと不完全変態するものに分類出来る。完全変態するものは幼虫の形状が成虫とは大きく異なっており幼虫の体は摂食し栄養を蓄えるのに向いた形態をとる。幼虫は概ね餌を認識する最低限の感覚器官と消化器官から出来ていると言えるが、成虫になる一回前の脱皮時に成虫の構造を小さくまとめたような姿になり、これを蛹と呼ぶ。蛹は成虫の大まかな外部形態だけが形成された鋳型である。その内部では一部の神経、呼吸器系以外の組織はドロドロに溶解している。客体を「観察」する内向する子どもは隔離された主体であり、感覚を受け取るもの・意識は言語・理論化が為されず蛹の内部のようにドロドロに溶解している。昆虫が蛹から羽化し飛翔能力を含めた高い運動性を備えた成虫になるように、内向する子どもなりに時が来れば飛躍する可能性を信じてはみるが、生活面の困難は軽減される兆しがない。体がドロドロに溶解している状態の蛹は震動等の小さなショックでも容易に死亡する。幼虫から成虫に劇的に姿を変えるメカニズムは、未だに完全には解明されていない。

2年間 連載してきた「百葉箱」は、今回をもって The White Report での連載終を了します。
この後は小松浩子のサイト:komatsu-hiroko.com で継続予定です。
アナコンダ 第2回
大山 純平 (写真家)
エスカレーターで上階に運ばれるスーツ姿で四つん這いの祖父。腕時計で時間を確認する。今日も、朝食の白ご飯に味噌汁をかけたものを中々食べられず母がスプーンで一口ずつ口に運んでいたので遅刻である。白いよだれの跡が口角の下に付いている。「哲平!」「人の名前大声で呼ぶなよ、お前」「だって呼びやすいんだもん」喪服を着た祖母を肩に乗せた無表情の介護職員が祖父の後を追ってエスカレーターを駆け上がる。祖母の脇にいる母が、祖母の腕を取り祖父の腕に巻き付ける。「なに腕組んでんだよ」その腕を勢いよく払いのける祖父。一瞬怒ってしまった自分を恥じているのか笑顔を見せる祖父。食べかすの付いた歯の隙間から「シー」という音が出る。エスカレーターから降りる時に前足が指が吸い込まれそうになるのを回避するため拳を握りゴリラのような態勢になる祖父。手を擦りむきながら上階に投げ出される。上階にいる介護職員が祖父に駆け寄り介護用ベッドに乗せ、リモコン操作で祖父の上半身と膝が浮き上がる。祖父は体が痛いのか苦しい表情を見せるが介護職員は無表情でベッドを押す。「仕事場だろ。大体な、年下なんだからな」「どうして…」ふくれっ面になる祖母。介護職員は祖母を上階に置いてある車椅子に乗せると、母が車椅子を押して祖父に近づけ、祖母の腕を祖父の腕に巻き付かせるが、「こら!」と祖父に大声を上げられて腕を払いのけられる。祖母の腕を払いのける時に介護用ベッドの柵に肘をぶつけてしまう祖父。怒りで興奮しながら柵を見つめる。『日本人形展新作展示会'98』の会場に到着する祖父と祖母。「新作展示会ね」受付の振袖を着た女性に会釈する二人。顔を引きつらせながら口角を上げる祖父。母は祖父を落ち着かせるため、冷めた緑茶をじょうろのような介護用コップで祖父の口に注ぎ込む。口角から緑茶がこぼれ滴り落ちる。母が祖母に会釈させるため、祖母の頭部を掴み目線を受付の女性に合わせてから少し祖母の顎を下げる。会場には大勢の人々がひしめきあっている。「こんなにいたら原さんてどの人か分かんねえじゃん」と言いながら会場に入る祖父。その言葉を聞いた母は祖母の車椅子を適当な太った男性に近づけ、祖母に話しかけさせようとするが、祖母は雛人形の脇のぼんぼりに視線を合わせたまま黙っているので母が話しかける。「すいません、あの、原さんというのは…」「あ、私です」「あ、そうですか。優しいお顔ですね。西陣ですか?西陣…」雛人形を適当に褒める母。介護職員が祖父のベッドを原さんに近づける。「かわいい人形ですね、目鼻立ちとかも純日本風というか…」「ええ、日本人形だからね」「そうですよね」苦笑いの祖父。「申し遅れました、私ですね、この度、御社の営業を担当させてもらうことになりました、栄光エージェンシーの片桐と申します」「代理店?なんだ…」「あの、昨日お電話…」「あ、そうだそうだ、ちょうどよかった、あの実はね、うちの社長のお嬢さんがバレエやってるの、あの来日中のレニングラードのチケット、よろしく、ね」「すいません、原さん…」立ち去る原さん。それを見て祖母が祖父に話しかける。「あ、終わった?ねえさ、帰りさ、浜松町から遊覧船乗って、ゼックスでご飯食べて行こうよ」「どういうつもりでついてきたんだ、お前、仕事だろ」「営業のね、アシスタントでついていくと誰にも文句言われないからさ」「菱餅食ってろ!すいません、原さん!」介護職員が祖父のベッドを押しながら原さんを追いかける。祖母は幻を見ているのか架空の対象物を掴もうとしている。「哲ちゃん?」水原さなえとばったり遭遇する祖父。「はい」「髪切ったんだ。昔に戻ったみたいだね」「そうだな、今日どうしたの?」「通訳の仕事」「あ、そう。そうそう、あんまりもう時間無いから行くわ俺、がんばってね」「うん」「行くぞ」眠っている祖母の車椅子めがけて介護職員が祖父のベッドをぶつけると、祖母は目を覚まし天井を見たまま口をパクパク動かしている。それにセリフをあてる母。「どっかで見た顔の人…あ、分かった!上杉理子です、こんにちは」「こいつね、会社の2こ下の後輩なの、上杉」「理子です、どうも」「どうも」「早く帰らないと課長に…」「なんで!なん…こんな運命的な出会い方したのにもったいないでしょ。この方はね、哲平の高校時代の彼女、今も大好きで忘れらんない、水原さなえちゃんでしょ?」「ふざけんなよ、てめー」躁状態の祖母に対して祖父が興奮しているのを察知して介護職員が睡眠導入剤を持ってきた。ブタの絵がプリントされたパッケージの、ぶどう味のゼリー状のオブラートに包んでスプーンで口に注ぎ込む。「さなえちゃんて写真で見るよりきれいだね、肌つやつやしてて、誰かに恋でもしてるのかな?」「お前うるせーよいちいち。一生俺に話しかけてくんな」四つん這いでトイレに向かう祖父。それを追いかける消臭スプレーを持った母。
バーで友だちと酒を飲む祖母。「かんぱーい」「ねえ理子ちゃん、哲平どうしたの今日」「知らなーい」「誰かとデートでもしてんじゃない?」斜め上方を見つめたままベッドに固定された祖母の口にペースト状に加工された肉じゃがをスプーンで投入する母。「なんかあいつがひとりの女に落ち着くときってさ、俺たちの青春が終わるときって感じしない?」「男ってなかなか一人の女に決められないからね」うなずく祖母。祖母の白髪を優しく撫でる母。「俺はそんなことないよ」「自分だけまたいい子ぶっちゃってほんと」「男はさあ一人の女に落ち着くときってどんなとき?」「大人になったとき」「だからそれはどういうときよ」「それはたぶんこいつとやりてえって気持ちと」「こいつとやりてえって気持ち…」「こいつと一緒にいたいなあって気持ちが」「こいつと一緒にいたい…」目を見開いたまま復唱する祖母。「区別できたときではないかと」「そうかな?」「哲平の場合さあ、50年先だね」皮肉めいた発言をする祖母に母が肌色のペーストを口に投入する。「そうだね」「一生無理かな」
「哲ちゃーん、はい、これ」四つん這いで自宅へ向かう祖父に弁当を渡しに駆け寄るさなえ。「いいよ、俺めし食っちゃったし」「でも冷蔵庫入れとけば明日まで持つよ、ね」「サンキュー」「俵型のがしゃけで、三角のが」「梅干しだ」四つん這いのまま弁当の匂いを嗅ぐ祖父。「そお、何で分かんの?」「昔からそうだっただろ?夏休みの練習の時とかよく作ってくれたじゃん」「そうだっけ?」「そうだよ。俵型のがしゃけで三角のが梅干しで、で、その横にわさび漬け」「そっか。ありがとね、チケット」「いくらでも言って」「変わってないね」「何が?」「分かってないような顔して気遣ってくれるとこ」「あ、これサンキュー」母が軽自動車で祖父を回収する。祖父が食べられないものは、いつも全部まとめてミキサーでペースト状にされスプーンで2口分だけ祖父の口に投入され、残りは生ごみ用の青いバケツに投入されてしまう。祖父は軽自動車の後部座席に横たわりながら、さなえの方に視線を送り深いため息をつく。
職場でカバンの中を探ると昨日もらった弁当が入っている。母が入れておいたのだ。それを発見して祖父に絡む祖母。「あーお弁当だ」「お前見んなよ」「肉じゃがとおにぎり?うわあ古典的、誰が作ったのそれ?」「さあ誰でしょうね。あのさあ、俺ぐらいになるとさ、めしを作ってくれる女の子に事欠かないんだよな」肉じゃがとおにぎりをミキサーでペースト状にしたものを母に口に運んでもらう祖父。「水原さなえちゃんだ。肉じゃがのニンジン、嫌いでも残さないでね、哲ちゃんの、哲ちゃんのためにお花の形に切ったんだから、残したら、さなえ悲しい」さなえを演じて祖父をからかう祖母。「そういうしゃべり方しねえよ、水原は」母が祖父の口角から流れるペーストをスプーンですくいながら祖父の口の中が空になるのを待っている。「やっぱり彼女作って…」「お前どうせあれだろ、こういう手料理っていうもの作ったことねえだろ、お前」「私はねえ、料理で男の気を引くような、そんなこと考えるようなステレオタイプの古臭ーい女じゃないんです」「あーわかった、屁理屈はいいからさ、お前大体さ、こういう、見てみ、お前この美しい三角形、こういう三角形を形とれるのか、お前」「私だっておにぎりぐらいできるわよ」「あーそう」祖母のベッドをまさぐり、手を掴み、畑仕事で黒ずんだ爪を見る祖父。「何だこの色、何色っつーんだ、こういうのに握られたら食欲なくなるだろ普通」怒ってペーストの一部を手ですくい職場の壁に向かって放り投げようとする祖母。「ちょっと待ておい!」祖父に怒鳴られて静止する祖母。今度は母がそのペーストの1口分をスプーンに乗せ祖母に与えるふりをして見せる。一連の動作を介護職員に目撃されて引き下がる祖母と母。「返してあげるわよ、そんな大事ならさ」ペーストを両手で丸める動作をしながら祖父の弁当箱に戻す祖母。「いいもん、お昼行くもん、あ、介護職員さんどうですか一緒に…」「え、私、お昼抜きです」「ですよねー、行ってきまーす」母が祖母のベッドを押して職場を出る。「あ、糖尿でしたっけ?」「ええ」介護職員に気を遣い、静かにペーストを体の中に流そうと口をパクパクする祖父。
自宅でエリカと食事する祖母。「よいしょ、いただきまーす」「あれ、ねえ、理子、コップは?」「え、棚の中ない?」「棚?あった」「やっぱおいしいね、いつ食べても、マキシムのカニクリームコロッケ」実際は、キューピーの“介護食(区分3「舌でつぶせる」) やさしい献立 やわらかおかず かにのクリーム煮”である。「ねえねえ、理子ん家のキッチンてさあ」「うん」「いつ見てもきれいなんだけど、たまには自炊とかしないの?」「世の中にさ、こんなに安くておいしいものがあるのに、何で自分で作んなきゃいけないの?だいたいさ、料理は女がするものだって決めつけてる男見ると腹立ってくるんだよね」「かんぱーい」エリカはビール、祖母は冷めた緑茶である。「それ誰のこと?」「片桐哲平」「哲平君?いいじゃない彼」「いい?」「うん」「あれが?」「はい」「絶対ダメ」「何で?」「何かさあ、フリ軽いくせに頭固くて、箸の上げ下ろしにうるさくて、喧嘩吹っ掛けたくなっちゃうんだよね」「ねえ、理子、愛は反発から始まるって知ってる?」「うん?」「だからね、磁石のプラスとマイナスと同じなの、男と女って相性が悪いほどこう引き合っちゃって、あっという間にくっついて、すこーんて押し倒されちゃうもんなのよ」「すこーん…気持ち悪ーい、もう冗談やめて、食べようもう」「はい」エリカが箸で食事するのを見て、祖母は箸を使って介護食を口に運ぼうとするが、ペースト状なので箸からこぼれ落ちてしまい、箸に付着したペーストを口で削ぎ取る。
自宅で母にチャーハンを作ってもらう祖父。友だちの吉本民夫も一緒である。「あいつの顔見るとさ、何か…」「あいつって、理子ちゃん?」「理子ちゃんて呼ぶなよ、来た今何か、ああ気持ち悪い」「俺思うんだけどさ、理子って、利己主義ってあんだろ、あれからたぶん来てるんだと思うんだよね、あいつさ、きっとあれだぜ、雪山で男と遭難しても、あいつだけ食いもん食って生き残るタイプだぜ」チャーハンを食べる吉本民夫。「あ、うまいうまい」「お茶でいい?」冷蔵庫を開けようとする祖父を制止して、母が吉本民夫にお茶の入ったペットボトルを渡す。「でもさ、俺好きだな」「何だよ」「雪山で最後まで生き残るようなたくましい女の子」「お前のタイプ?」チャーハンと一緒に出されたサラダを自分の方に引き寄せる祖父。すぐに母が祖父に歩み寄り、サラダを台所に下げる。「驚きだね、それは、あ、そう、ああゆうのがタイプなんだ、無神経でわがままで繊細さの欠片もねえあの女がタイプ?」しゃべりながらチャーハンに手を付けようとする祖父。母がチャーハンの皿を取り上げると、もう片方の手に持った“やわらかおじや 鶏とたまご”の乗った皿を代わりに祖父に差し出す。「そういうこと言うなよ、食べ物の好みと女の子の好みは人に悪く言われたくないです」「すいません、醤油かけんなよお前」
日曜に職場で仕事をする祖父。そこに祖母のベッドを静かに祖父に近づける母。「びっくりしたー、何やってんのお前」「しゃきん」得意げに布団からハサミを取り出す祖母。母がすぐに取り上げる。「しゃき…、お前ふざけんなよ、今度何切んだよ」「冗談だよ、冗談」「冗談じゃないからこういう頭になってんだろ」「じょおだーん…、はい、差し入れ」祖母の布団から弁当箱が床に滑り落ちる。それを拾い、祖父に差し出す母。「何お前、料理できんの?」「知らないねー、私の実力を、ほら、見て見て見て見て見て―」弁当箱の蓋を開ける母。「おいしそうでしょー」肌色のペースト状のものが詰まっている。「見た目はまあまあだな」「でしょー、どうぞ」「これどっかで見たことねえか?」「そう?お茶今淹れるね、お茶」「分かった、これえあれだろ、なあ、コンビニで売ってる直巻きおむすびだろ」「ばれちゃあしょうがないね」「ばれちゃあしょうがないってそういう姑息な手を使うな、俺さあ、独り暮らし長いからさ、どこのコンビニのおむすびが一番おいしいとかそういうのすっげえ詳しいんだよね」「ちょっと、文句言わずに食べてよ、その間にね、続きやっといてあげるから。何これ?何やってんの?こんなにだらだら数字並べないの。こういうのはね、おじさんでもバカでも分かるようにグラフにしなきゃいけないのよ、パッと見て分かるようにさ、全然、全然ダメじゃん…、どういたしまして」「は?」「今心の中でありがとうって言ったでしょ。ちゃんと聞こえたから返事したの」「何言ってんのお前、バカじゃねえか?」電話が鳴り母が受話器を取り祖父に渡す。「どうかしたの?」「ちょっとね、急に用事ができたんで、あ、ごめん、もういいわこれ、あとでこれ自分でやるからさ」「どっか行くの?」「デートだよ、デート、忙しいからさ」「さなえちゃんとだ」四つん這いで職場を出る祖父。外に出る途中で介護職員に抱えられて車椅子に乗せられて自動リフトで速やかに送迎バスに格納される。口が開いたまま眠る祖母とベッドの脇に立つ母が取り残される。
夜まで職場で祖父の仕事を代わりにしていた祖母と母。祖母の口はまだ半開きである。「帰る…」祖父に差し出した弁当を見つめる母。まだ手を付けられていない。スプーンを取り出しペースト状の黄色い部分をすくって祖母の口に一滴垂らすと、パッと目が開き職場の天井を見つめる。「うまいじゃん」
四つん這いで職場に到着した祖父。ポーターの黒いカバンの持ち手を握り、引きずりながら祖母のいる部屋に入る。「まだいたんだ」「ずいぶん遅かったね」「今日はどうもありがとう」「まだ終わってないよ」祖母はほとんど眠っていただけである。「あ、もういいや、お疲れさま、帰っていいよ」「何よその言い方。私はどうせ腰掛けだからさ、会社のためなんて考えたことないけど、今は哲平の頑張りどころだって思ったから、だから頑張って仕事してたのに、なに、帰っていいって何その言い方!おかしいんじゃないの」捨て台詞を吐く祖母。母にベッドを押されて職場を出てトイレに向かう。トイレを済ました後、何となく臭いがするのに気づく母。祖母のリハビリパンツを脱がせて確認するとペースト状の排泄物が付着している。母はリハビリパンツを取り換え、シーツを外し、摘まみ洗いをして洗濯機に放り込み、消臭スプレーをベッド全体に吹きかける。「あたし、お腹が空いたわ、ご飯まだよね」祖母は母に訴えると、母は足早に台所に向かい介護食のパックを湯煎する。祖父が祖母に言う。「水原と兄貴婚約したわ」「うん?」祖母は母から与えられたペーストを口に含んでいる。「水原、さなえちゃん。俺の兄貴と付き合ってるからさ」「でもさ、哲平がまださなえちゃんのこと好きなら奪っちゃえばいいじゃん、恋はさ、仁義なき戦いって言う…」「そんなことできるわけねえだろ!」「帰る…」職場を出る祖母と母。祖父は仕事の続きをしながら祖母にもらった弁当を手ですくい舐める。険しい表情の祖父。
祖母が祖父に電話をかける。母が祖母の鼻を摘まみ声色を変えて遊んでいる。「私は誰でしょう?3秒以内に答えないと自動で電話が爆発します。1…2…」「やってて寂しくならないか?そういうことやるのお前しかいないだろ」「今どこにいんの?」「お前こそどこにいんだよ」「あたし?あたしは吉本君とフーラ。二人で思いっきり盛り上がっちゃって、これからホテルにでも行こうかなって感じ」「ふーん、そりゃよかったじゃん」「哲平は?一人で落ち込んで飲んだくれてるんじゃないでしょうね、さなえちゃんの写真に頬ずりとかしちゃって」「お疲れさまです」「あ、どうもお疲れさまです」「帰るとき声かけて下さい」「はい」「何言ってんの?」「ごめん、今俺仕事中だからさ」「え、まだ会社にいんの?」「うん?」「だってあの仕事もう…」「俺ん中じゃまだ終わってないからさ」「終わってないって…」職場に向かう祖母と母。母がエレベーターに祖母のベッドを押し込む。職場に祖父の姿はない。祖母の机に置かれた弁当箱を発見する母。弁当箱の下には“39!”と書かれたメモ書きが置いてある。警備員が、口が半開きのままベッドに固定されて眠っている祖母を見ている。「あ、すいません、ここにいた、シャッシャッシャッとしたクルッとした目の…」「屋上に行きました」「屋上?」介護職員に抱えられて祖母が屋上に向かうと、スプレー塗料で手がタコのように伸びている女性の絵を描いている祖父がいる。「俺がまだ選出に残ってたら、絶対これ使ってプレゼンするんだけどさ。俺、別にさ、手柄とりたいとか、人から褒められたいとかそんなんじゃなくてさ、なんつうかこう、自分に手ごたえのある仕事がしたかったんだよ。この1か月間さ、ただずーっと人に頭下げて、そしたら時間も砂みたいに流れちゃってさ、まあ仕事なんてこんなもんかなって思うのは簡単なんだけど、でも、まだ諦めたくないから。第一さ、会社に飼われてるなんて思いたくないから。だから、自分にしかできない仕事したかった」「ヘッタだねー。あたしこんなヘタクソな絵初めて見た」祖母の口角を上げて笑ったような表情にして遊ぶ母。「イメージだろ、イメージ。分かんねえかなお前、分かんねえか。本当だったらこれ専門家に頼んで写真とパッチワークで構成してもらうんだけどさ」「なんか哲平みたいなやつって珍しいね。スケベで図々しくて態度でかくて、嫌な奴と思ってたけど」「でも見直しちゃっただろ、あ、すごいなー、根性あるなーって」「てか、めっちゃくちゃ諦めの悪いやつなんだよね」「それを言うんだったら粘り強いって言えよ」「でもさあ、これだけ気合入ってんだから、絶対このままで終わんないよ。叩かれても死なないゴキブリみたいに」「お前それ褒めてんのかよ」「褒めてんだよー。レディースアンドジェントルマン、今年の広告大賞最優秀賞は、ミスター片桐哲平!」祖母の両手を布団から取り出し拍手して遊ぶ母。「ありがとうございます」「はい」「それでは乾杯の方を、もうお手元にグラスの方…それでは…何だよ」「ちょっと待って、待ってて」「ちょ待て、おい。何だあいつ散々人のこと盛り上げといて…」介護職員が持ってきたシャンパンの栓を抜く祖父。「はーい、優秀賞おめでとうございまーす」「ありがとうございます。あ、皆さんもありがとうございました」「いないって。かんぱーい」母が素早くシャンパンの入ったグラスをストロー付きの介護用コップに入った冷めた緑茶に差し替える。「これどうしたんだ?お前」「これね、課長の引き出しの中に隠してあったの、知ってるんだ」「知らねーからな明日」「てかさあ、栓抜いたのそっちだよねー。よろしく」屋上の手すりに祖母の体をもたれ掛けさせる母。祖母の体が手すりから折れ曲がり垂れ下がる。「お前、危ないからやめろよ!」「あー、きれーい、ねえ、ちょっと、おいでよ、ほら」介護職員が祖父の体を抱え手すりにもたれ掛けさせる。「うーわー」「すっごーい」「すっげー、うち見えるかなー?」「どっちどっち?」「たぶんあっちじゃ…あ、あっち?あっち?」
「お前さー、うち来て飲みなおすのはいいけどさー、潰れるまで飲むなよ。面倒見切れねーかんな」「分かってるよー」自宅に帰る祖父。それについてくる介護職員と祖母と母。祖母のベッドからはみ出た手はシャンパンの瓶を握っている。「ほんと分かってんのかよ」「けどサラリーマンてつらいね、OLもつらいけどさ」母が祖母の手からシャンパンの瓶を奪い祖母の頭に乗せる。「すちゃらかOLが偉そうなこと言うな。どうせ生きてるだけで丸儲けだろ」「すちゃらかで悪かったね」祖母の頭のシャンパンの瓶が倒れそうになったのを母が慌てて掴んだ拍子に祖母のベッドが歩道から車道に飛び出る。「危ないからやめろ」「結構です、すちゃらかで。あたしだってね、生きててつらいなー、もうやめちゃおうってときもあれば、生きててよかったラッキーてときもありますよ」「ラッキーて思うときあんの?」「ありますよー」「どうせあれだろ、UFOキャッキャ―でキティーちゃんとれたときだろ」祖母の口から空気が漏れる。「何だお前、気持ち悪い笑い方するなー」「それは、それはー誰も知らないー秘密のー、は…ぞ…」歌っているのか、せん妄状態でうなされているのか分からない祖母のベッドを、母が押しながら片側をガードレールに乗り上げさせる。「あぶねえって、お前!」祖母がベッドから転げ落ち祖父のベッドの上にのしかかる。「あぶねえっつてんだろ」祖父は祖母の後頭部を平手で優しく叩く。祖母はまだ眠っている。介護職員は祖母を抱えベッドに戻す。「やっぱあたし帰る」「何で?」「二日酔いとかつらいし、最近お酒弱くなっちゃって、歳なのかな?」「なんだそれ」「さっきの話の続きなんだけどさ」「うん?」「あたしがラッキーて思うとき、教えてあげる」「ああ、ああ、なに?」「誰かをねー、好きになったとき」「じゃあお前、今好きなやついんのか?なあ」「あ!」急に空を指差す祖母。祖父はその方向を見る。祖母は祖父の顔を見る。乾いた介護食の食べかすが頬に付着している。「バカが見る。じゃあね、おやすみ」ベッドからはみ出た手を振る祖母が送迎バスに格納される。それを見て四つん這いで手を振り返す祖父。

※大山純平HP「擬人化した写真」連載中。毎週月曜更新。
confession 〜非論理が論理に反するのは論理的といえる〜
澤田 育久 (写真家)
私は写真によって自分自身を更新出来ればいいと思うのです。
それはものの見方のことでしょうか。
勿論それもあります。繰り返しになってしまいますが、写真は私でありながら私では無いという状態といいますか、無意識的な自分と世界との分断が可能なように思います。それによる視線の更新というのはあると思います。
しかしその様な観念的な事だけでなく実践的な部分で自分に常に負荷をかけ今まででは無理だと思われた事を自分に課していくのです。それによって半ば強制的に更新が促されるように思うのです。
例えば以前は”自分はこうだからこれは出来るけれどこれは出来ないであろう、だからこのように準備してこう進めよう”と分別めいた言葉を用意して自分を形作っていました。しかしこれはややもすると言い訳のようなもので、自分に対する限界点を都合よく恣意的に設定することによって自分自身を規定することにほかならないのではないでしょうか。そのような流動的であいまいなものに強制的に揺さぶりをかけるのです。
それは物理的に撮影の機会を増やしたり、写真により多くの時間を割くと言ったことなのでしょうか。
そうです。もう少し具体的に言えば展示を数多く行うのもその為です。展示に向かう欲求は表出に対する欲望と好奇心と強迫観念がないまぜになった自分でも理解しきれないものです。しかし動かし続けていないとすぐに廃れてしまうような更新を前提とした現在的なものなのです。向かう先が明瞭ではなく、わかるようなわからないようなものだから写真を展示してみて自分がそれをどう見るのか検証するのです。
私が考えている事、またその実践としての行為は既に何度となく先人たちによって為されてきた何の新味もない当たり前のような事なのです。しかしそれでもやらざるを得ない、そこに何かがあるのではないかと思うのです。そんな事は前にもうやっている、という事に対して、だから何だと返していくのです。バカヴァッドギーターにあるような”あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(二・四七)”という事なのです。

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